竹の花入
山上宗ニ記に載る名物花入は、古銅などのカネと青磁、侘び道具として備前と唐物籠だけですが、江戸時代になると、もっと他の種類も加わってきます。 中でも、大名物に挙げられる利休作をはじめ、竹の花入は目に付きます。竹花入は、扱いの上では、草の位ですが、初座の掛軸が名品で重い時でも並んで使われますし、一般の茶会でも、古銅よりは、お目にかかることが多い感じです。実際、竹は茶の湯の雰囲気に向いた素材であるというのは、誰でも納得しやすい、自然で簡素な美しさがあって、蓋置同様、花入も席に溶け込みやすいと言えます。これを茶席に用いることを思いついた茶人は偉いものですが、それは誰だったのか。一般的な伝承では、千利休が、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの戦陣に従った折、伊豆韮山の竹林の竹を切り、作ったのが初めとされます。この時、利休が作ったのが、寸切の銘「尺八」、一重切の銘「園城寺」、二重切の銘「夜長」でこれが後々の竹花入の切り方の手本になったという伝承はポピュラーですから、皆様ご存知のことでしょう。ただ、これが最初という伝承が正しいかというと、また種々説があって、古くは江戸時代の学者茶人速水宗達(速水流の開祖)が、その著書で、これは誤りであると断じ、室町時代の相阿弥が、嵯峨野の竹を切り、花筒にして、罌粟の花を入れたのが最初で、その後、武野紹鴎も二つの節のある寸胴の置花筒を作り、子の武野宗瓦が、掛けて用いるようになったのだと説いているそうです。利休より古い時期の茶人、津田宗達の作った竹花入が現存するとか、他にも文献があるとか、学者の世界では、種々論ぜられるようですが、ここは通説のままでも大して問題はないでしょう。なにしろ、名物として、はっきり現存する古い物は、利休の花入なのですから。ちなみに園城寺は東京国立博物館に、夜長は藤田美術館に、尺八は裏千家に秘蔵されています。 竹花入は、茶人が自分で切って拵えるか、寸法を決めて(墨打ちというそうですが)竹芸師に切らせるかで、つまり茶人の自作というのが原則になり、工芸作品はないに等しいといえます。そこに価値が生じるというのが、茶杓と同じ事で、単なる竹っぺらでなく、価格が高騰するわけです。つまり削った茶人がポピュラーに偉ければ偉いほど、竹の素材の良し悪しとは別に、評価が上がるわけです。織部、遠州、石州という大茶人はもとより、各流歴代家元や大数奇者は、皆、竹花入を作っていますが、一般に気安く手が出せる状態ではないというのが現状でしょう。それに、茶杓と同様に銘をつけるのが普通ですから、銘によっては、随分使い勝手が悪い場合もある。現代、茶杓は大徳寺の坊さんあたりが大分削ってくれますから、手に入りやすいものもありますが、花入は、坊さんもあまり作らないようで、この辺が、茶会で思ったよりは、竹花入を見かけない原因の一つかもしれません。竹の素材さへ良ければ、席主自身が作ったものでも、十分に馳走になるような気がしますが、家の茶事ならともあれ、大寄せなどでは、「いい気なもんだ」という批判が出かねない危険性があるのは茶杓と同じ悩みであります。 竹花入は、置き、掛け、釣りの三種に分かれ、通説では掛けが一番古く、利休がきった寸切(一般に尺八ともいう)、一重切、二重切を基本にし、それぞれに多少変化形がり、寸切の変化したものに、神酒筒とか箆筒とか、一重切系に、鶴首とか獅子口、笛とか、二重切系に窓二重、輪なし二重、端の坊など、さまざまな変化形があります。稀に三重切とか、沢山の窓を持つ進化形もあります。釣り花入は、舟形が基本で、利休の孫の宗旦が、大堰川の船から思いつき、嵯峨野の竹で創ったという伝承がありますが、カネの釣り花入の舟形から思いついたということはないのでしょうか。これも後に太鼓舟とか丸太舟とか変形が沢山出ます。置きは、宗旦四天王の一人藤村庸軒の創始と伝えます。稲塚とか、橋杭など変化形もありますが、それほど多くありません。こういうことは、茶の湯をおやりの方は、大方ご存知でしょうから、くどくど書くのも失礼で、この辺で、今日のところは。皆様、連休突入で、のんきなブログを見る暇もないでしょうから、連休明けまで、花入話はお休みします。 萍亭主