そばの粉挽、完了。 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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そばの粉挽、完了。
810グラムでした。^^

帰宅。jazz sax 練習。夕飯準備。
寅次郎ご飯完了。
散歩スタートします。

北海道は、うどんよりも圧倒的に、蕎麦屋が多いですが。
ちょいと、調べてみました。^^

資料。

ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実らしいです。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していますが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られません。(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介しています)。さらに鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記しています。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言え流でしょう。

この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する程度の雑穀だったと考えられています。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しています。

古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食しました。

蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれました。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在します。