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【東京都西荻窪】RESET&THERAPY RESERA / 鴨の心

JR西荻窪駅北口より徒歩3分。新時代の整体TRESを提供する完全予約制のプライベートサロン【RESET&THERAPY RESERA】のオーナーセラピストによる、ためになるのかならないのかよくわからないブログです。気の向くままに更新いたします※気が向かないと放置ともいえます

こんにちは
 
私たちが感じる様々な不調は、人間本来の生き方にそぐわない不自然性を強いられた
結果生じたものであり、それを自ら治癒・調整していく力が自然治癒力である

お話しさせていただきました。
 
今回はそれについて、もう少し詳しく説明させていただきたいと思います


 
自然治癒力が不調に対して働きかけ、治癒を完了させるまでの間
からだの中では様々な出来事が起きています。

同じ不調でも、その不調が発生した要因・過程が人それぞれ異なるように、
治癒に向けての過程も人それぞれで全く異なります。

それは、からだの持つ意志・自立性によって行われており、他者が意のままに
コントロールできるものではないのです。

これを固有のトリートメント・プランと呼びます。

 

問題は、トリートメント・プランのプロセス上に、自力で除去できない
強い緊張が存在する場合です。


特に骨など硬い組織に生じた緊張は、大きな妨げとなります。

ゴムなど弾力に富んだ組織と違い、金属は簡単にはゆがまない代わりに一度ゆがむと
自然には
戻らないように、骨の緊張もそう簡単には戻らない性質があります。

このような強い緊張がプロセス上に存在すると、それが障害となり
次のステップに進めなくなってしまうのです。



このような場合、整体が非常に有効なのです


RESERAでは、人体の構造の根本中の根本となる骨に生じた緊張に対して
静的アプローチ(Static Approach)という高度な技術を駆使して丁寧に解放していきます。

これにより、停滞していたトリートメント・プランが再開され、回復力をを取りもどす
お手伝いが可能となります



慢性的な不調でお悩みの方は、ぜひRESERAまで気軽にお問合せ下さい
整体の世界では必ずと言っていいほど登場するキーワード
 
「自然治癒力」についてお話したいと思います
 

 
みなさんも何度か耳にしたことはあるかと思いますが、この自然治癒力とは一体何でしょう?

 
自然治癒力とは、全ての生物に備わっている、からだに生じた

不調(怪我や病気など)を自ら治していく能力のことです。


さらに細かく説明すると、ひとのからだには新陳代謝というはたらきがあります。

寿命を迎えた細胞や、ケガや病気で傷んだ細胞は、このはたらきのによって

新しい細胞へと置き換えられます。その結果、傷や不調が治っていくのです。

この新陳代謝が活発に機能している状態こそ、自然治癒力が高い状態といえます。


そのためには、全身の隅々まで血流による酸素と栄養が行き渡っていることが重要です。

早い話、スムースな血流が保たれていれば良いのですウインク

 
 
ですが、現代の社会構造は様々なストレスを強いる高密度なものとなっております
 
業務ノルマ、効率化、システム化、高速化、競争、残業・・・
 
さらに通勤ラッシュ、不規則な食生活、家事、人間関係、過去のトラウマ、未来への不安・・・
 

このようなストレスは自律神経の交感神経を活性化させます。

内臓をめぐっていた血流は、ほとんどが筋肉に流れ込み、からだを戦闘モードに切り替えます。

これが慢性化すると、内臓機能は低下し、筋肉や血管に負担がかかり続け、血流の低下を

引き起こし、自然治癒力の弱化を招く要因となりますガーン



交感神経が高ぶっていては、睡眠の質も大きく低下します。

そうなると一日の睡眠で得られる回復量を、疲労の量が上回ってきます。

翌日に疲れを持ち越し続けることとなり、からだは悪化の一途をたどることとなります。


からだの深部には未処理の疲労が化石のように蓄積し、それが重くのしかかり続けます。

このような状態では、自然治癒力が本来の力を発揮することは期待できませんゲッソリ
 

 
疲れが取れにくい、睡眠の質が良くないなどのサインに気づいたら、整体が有効です。

まだ大丈夫!と無理をせず、悪くなる前にご利用いただくことを強くお勧めいたします。

自然治癒力は、あなたのケガや不調を本当の意味で治すことができる、唯一の力です。

スムースな血流を保ち、疲れにくい若々しいからだを手に入れていきましょうウインク

卵の殻に羽毛が付着していた。


この卵を産み落とした鶏の情念のようなものを感じざるを得なかった。

 


 

 

 
食べる事とは他者の命を奪う、業の深い事であることを再認識した。
 
 

 

 

 
私は食べ物を残したり、ましてや食べ物の文句を言うことが大嫌いだ。
 
特に魚や肉などは食卓に上がった分は、たとえ胃がパンクしようと絶対に食べ尽くすよう心掛けている。

 

 

 
その結果、食後一時間程ダウンしたまま動けなくなる事も何度かあった。
 

 

 
そのたびに【馬鹿ではないのか】と嘲笑を受ける事も少なくはない。

 

言われるまでもなく我ながら馬鹿だとは思うのだが、最後まで食べ尽くすのが食材となった命への礼儀と責務であると思う。

 

 

 

 
彼らももっと生きたかったであろうに、人間の都合で理不尽に命を奪われて料理にされた挙句、生ゴミとなって廃棄されたのでは、一体何の為に命を奪われたのか…あまりにも酷い話ではないか。

 

 

 

 

 

ただ、私は生きるために他の命を奪うことに関しては仕方ないと思う。

 

なぜならそれが自然の摂理だから。

 

他者の命を食しているのは人間だけでなく、どの生物も普通に行っているのだから。

 

 

 

草食動物も、植物という命を糧にして生きている。

 

 

 

※追記

 

ドイツの森林管理官ペーター・ヴォールレーベン著【樹木たちの知られざる生活】によれば、植物たちも我が子を思う愛情や捕食される恐怖、そして痛みを感じているとのことである。

 

ただ、彼ら植物の生態は動物とはあまりにも異なりすぎているため、それを想像しにくいのだ。

 

 

 

そう考えると、命を奪わず、傷つけずに生きていくことなど不可能と言わざるを得ない。

 

 

 

であるからこそ、私たちが普段から無自覚で食べたり残したりする食材に対する心構えを今一度見直すべきだと、心から思う。

 

 

 

 


私はベジタリアンではないし、肉や魚なども好物であり、彼らにしたら自分や仲間の命を奪い美味そうに喰らう、憎むべき存在であるのだ。

 

 

 
仮に私が海水浴中にホホジロザメに捕食されても文句を言う資格はない。
 

 

それこそ魚介類からしたら
 

 

 

やったッ!!さすがホホジロサメ!

 

おれたちにできないことを平然とやってのけるッ!!

 

そこにシビれる!あこがれるゥ!

 

 

と、ガッツポーズを取りたくなる事だろう。
 

 
 

 

 
そんな私に出来ることは、食材となった命に感謝を捧げ、それを残さずいただき自らの血肉に変えることだけである。

 

 

 

 

 
そして今日も羽毛付き卵から享受したパワーでこのような駄文に推敲を重ねているのだ。
 

 


まるで命の無駄遣いである。鶏の嘆きと怨嗟の声が聞こえるようだ。
 

 

 

 
 
ちなみに生卵に醤油、いわゆるTKGではなく、生卵にラー油とめんつゆを入れたTRMにするのがマイブームである。

 

語呂は微妙だが本当に美味しいので是非一度お試しあれ。

先日近所の八百屋にて野菜を数点購入したときのお会計が¥777であった。

 

 

 

 

 
誠に残念なことに、ラッキー7を狙って野菜を購入できるほど私の頭の回転はよろしくない。

 

何を隠そう数学は赤点以外取ったことがないのだ。
 

 

 
そしてこれは数学ではなく算数の領域であるとたった今文章を推敲しながら気づいた。
 
この程度の残念な頭脳の持ち主なのである。
 

 


 

 
話がそれたので戻そう。
 

 

 

 


レジスターを打つおばさんが唐突に
 

「おおっ、お会計が¥777です~!」と声高に告げてきた。
 

 

私自身これほど見事なラッキー7は初めてであった。
 

 

縁起物や験担ぎには無頓着な私でも日常の細やかな幸せを感じざるを得ない瞬間であった。

 

 

 
ただ、ここで顔が嬉しそうにニヤけてしまってはならない。
 

ここは接客業にはあるまじき無愛想かつ硬い表情をキープしつつ聞き流そうと決め込んだ。

 

 


この陰気な男は本当にかつてはル○ネの接客セミナーで【LU○INESTの卵賞】を付与された人間なんだろうかと、我ながら疑問に思わざるを得ないほどの仏頂面だったであろう。


 

 

 


ここで説明せねばなるまい。
 

 

 
ル○ネでは、【LU○INEST】という全国のル○ネで働いているスタッフによる接客コンテストが存在するのである。

 

 

 

これからルミネで働くスタッフは、まず最初にこの接客セミナーでお客様に対する心遣い、感謝、作法などを最低限身につける必要があるのだ。

 

 


【LU○INESTの卵賞】はこの接客セミナーで優秀と判断された者のみに与えられる「LU○INESTに一歩近づいたで賞」的な名誉あるものなのだ。

 

 

 
こんな私でもやればできるのだが、なぜか私はここで【気安く愛想を振り撒いたら負け】という訳の分からないプライドに囚われた。

 

 

 


だが目の前のレジのおばさんは強者だった。
 

この無愛想な男をそのまま見逃す気はないようだ。
 

 

 
「すごいですね、ラッキー7ですよ~!いいことあるよ~!」
 

などと隣のレジのおばさんと便乗して無闇に囃し立てるものだから、こちらとしても笑顔にならざるを得なかった。

 

 

 
元ル○ネストの敗北の瞬間である。しかも瞬殺。

 

弱過ぎである。
 

 

 
最終的には私も一緒に


「そうですかー、そうですよねー、いいことありますよねー!」
 

などとはしゃいでいたから嫌になろうというものだ。
 

 


だが悪い気分はしない。きっと何か良い事がおきるのだ。
 

 

 

 
 
そして今日は休みだが、寝坊をした。
 

 

 

 

早朝に起きて自然探索に出かけるという予定が破綻した。
 

 

 

そして悔し紛れにこのような駄文を打っているのだ。
 

 

  
良いことは後日起きると信じたい。

西荻窪の隣町である吉祥寺へ、必要品の買い出しへ行った帰り、地元の西荻窪のラーメン屋で遅い昼食をとった。

 
 
 
 

思えばこれが全ての過ちの始まりであった。

 
 
 
 
 

食事を終え、外に出てみれば壮絶な豪雨となっていた。

 

 

 

 

空から叩きつけられるかのような雨の勢いを前に、ただ茫然と立ち尽くすばかり。

 

 

左手には買い物袋。

 

右手には携帯電話。

 

無論、傘などはない。

 

 

この雨の中を強行突破すれば、全身ずぶ濡れは免れない。

 
 
 
 
現在位置(駅南口・上り方面寄り)から西荻窪駅を中心に、反対側にある我がサロン(駅北口・下り方面寄り)まで帰らねばならない。
 
 
 
とはいえ、ここからサロンまで傘を買うのも馬鹿らしい距離だ。
 
しかもサロンに置き傘は大量にある。

 

ゆえに【傘を買う】という選択肢は最初から存在しない。

 

 
 
では、どうする?
 
 
 
私は多少の被害は覚悟の上で、アーケード等を利用して雨を避けながら帰ることに決めた。
 
 
 
 
今回選択した帰路がこちらである。
 
 
 
※点線部分は屋根があり、雨を確実に回避できる
 
 
 
まずは西荻窪の駅を目指し、そこからガード下にある西友を目指す。

西荻窪の西友は反対側へと通り抜けられる縦長の構造になっている。
 
 
つまり、ここを通れば被害は最小限に抑えられるのだ。
 
 
 
 
 
私は覚悟を決め、豪雨の中へ飛び出した。

 
 
 
 
駅に到着した頃、私は頭からバケツ一杯の水を被ったかの如き惨めな姿へと変貌していた。
 
 
 
 
 
告白すると、最初のこの信号を渡った時点でもう終わっていた。
 
 
 
 
 
多少の被害などという生易しいレベルではなく、水没と大差なかった。
 
 
 
私の計画は第一歩目で無残にも大失敗に終わったのだった。
 
 
 
 
 
駅構内で雨宿りをしている人をかき分けて通る際、彼らの視線が突き刺さる。
 
 
「うわぁ・・・」などと露骨な声も聞こえてきた。
 
 
 
整髪料の溶け込んだ雨水が目に入り、色々な意味で痛い。
 

 

 

 

なんという屈辱感。なんという敗北感。

 

 

 

 

私の心は今まさに暗黒面に囚われようとしていた。

 

 

 

 

 

だがしかし。

 

 

 

何故かこのとき、小学5年生の頃、公園で夕方まで友人たちと水風船をぶつけ合い、全身水浸しのまま自転車で帰宅した記憶が唐突に蘇ってきたのだった。

 

 

 

どちらも惨めなことに変わりはないのだが、当時は水に濡れることなど厭わずに無邪気に笑い、この楽しい時間がいつまでも続いてほしいとい願いつつも、18:00に流れる【夕べの音楽】現実に帰り、充実感と一抹の寂しさを胸に抱きながら帰路についたものだ。


※現在は16:30、17:30に流れるようですが、当時は17:00、18:00に流れていました。

 

 

 

あの頃と今では何が違う?

 

 

 

大人になり色々変わったものはあるが、私の本質は何も変わってはいない。

 

 

 

じゃあ、別に雨に濡れたって構わないんじゃないか?

 

 

 

そう思うと先ほどまでの負の感情は雲散霧消し、どこか懐かしく、楽しい気分になってきた。

 

 
 
 
 
 
もはや雨に濡れていない部位など、どこにもない。
 
いまさら雨を恐れる理由など、どこにあるのだろうか。
 
 
 
 
私は決めた。雨の中を堂々と歩いて帰ることに。
 
 
 
 
 
 
依然西荻窪の駅構内は、雨宿りの人々でごった返している。

 

 

 

その中から私はひとり豪雨の中へ踏み出した。

 

 

 

その悠然たる足取り、まさに威風堂々。決して走ったり、早歩きもしない。

 

 

 

かのSting氏も歌っているが、紳士は決して走らない。そう、雨が降っても。

 

雨の中を歩く私の脳内では名曲【Englishman in New York】が流れる。

 
 
 
 
雨の中の散歩も悪くない、いや、むしろ楽しいではないか。
 
 
なぜにこんなに楽しいのだろう・・・?
 
 
 
【雨に濡れたくない・・・】
 
 
【雨に濡れたらどうしよう・・・】
 
 
これらの心の囚われが今の私には存在しないからだろう。
 
 
 
 
心の囚われがない状態、それはすなわち本当の自由。
 
 
 
 
そうだ、私はいま自由なんだ!!
 
 
 
 
 
 
眼鏡の水滴で視界を遮られていたため、二度ほど車に轢かれかけたが、無事帰宅を果たす。
 
 
 
半地下のエントランスがプールになっていたことに気付かず足を踏み入れてしまったが、既にサンダルは水没状態にあったため、さほどの動揺はない。
 
 
恐れを知らない人間ほど強いものはいない。
 
 
 
さすがに部屋を濡らすわけにはいかないので、玄関で服を脱ぎ捨てる。
 

もはや下着まで水没状態だった。

 

 

洗濯機から脱水せず取り出したような状態のハーフパンツのポケットから中身を出す。

 
 
 
 
現れたのは、財布とスマホだった。
 
 
 
革製の財布は雨水を吸い、中の札と共に惨めな姿になっていた。
 
 
 
私は泣いた。