子供のころから、妙に好きな絵本がある。


この本は私と一日違いで生まれた、私の双子のきょうだいみたいな本だ。


「わたしってだれ ? ― きおくをなくしたしょうじょ ― 」だ。


折に触れて、気が向いたときに読み返している。



私は子供のころ、記憶を失ったことがある。


保育園にいってたとき、5歳のころだと思う。


同じマンションに住んでいて、私の唯一の友人のようなものになってくれた、


同じ保育園に通う幼馴染の彼女が、


よく行く駄菓子屋さんで飼われていた犬に襲われた。


その犬は、いつも吼えまくり、近所の子供に怖がられていた。


5歳の子供が二人しかいないときに、


わざわざその犬に近づくのは自殺行為だった。



彼女が、犬にお菓子をやろうとしたのか、


私が彼女をけしかけたのかもしれない。


私は彼女をいじめていたから後者だと思う。


犬に近づいた彼女は、組み敷かれ、牙を立てられた。


その子は泣き叫んで、わたしに助けを求めた。


わたしは立ち尽くした。


恐怖もパニックも、何も感じなかった。


ただ、体の中が、恐ろしく静かに、


空っぽになったように澄んで、がらんとした気持ちになった。




親に叩かれてできた私の中の闇の空洞が大きくなって私を呑み込んでいるのを感じた。


私の中の空洞は、私に降りかかる脅威や痛みから私を連れ去ってくれる。


まるで、現実を見る瞳の真ん中に、ぽっかりと穴が開いて、


空虚が開いた瞳で見つめる現実にも、ぽっかりと穴が開いたように、


思考も、感情も、行動も、必要がない、


生の空虚にすべての意味を投げ捨ててしまえるような、


親兄弟に殺されるとしても関係ない、勝手にすればいいというような、


周りの空間を真空で断ち切るような、


ぐったりとした無感覚に身を委ねればいいだけだ。




けれど、そうして私が私の中の虚の落とし穴に落ちてしまうせいで、


現実の中に踏みとどまることができず、


何の判断も決断もできなくなったらしかった。



ただ考えていた。


こういう場合、ものを感じることは役に立たず、意味がないことは知っていた。


するべきことは、どう行動するか、考えることだけだ。


考えても、何もできなかった。


足元の石を拾って投げてみた。


届かない。


誰かに助けを求めるという考えは、一番浮かばなかった。


もし誰か大人に助けを求めたりなどすれば、


大人のネットワークを通じて、母に、


私が、機械にあるまじき行為、取り乱していたことがばれるかもしれない。



人間は機械で、何も感じず、何も考えないはずなのだから、


それが、万物を創造した神が造ったこの世界の自然摂理なのだから、


それに背反したと、罪を責められるかもしれない。




助けてくれる人など、世界には誰もいないことをわたしは知っていた。


私と彼女は、この世界に立った二人だけで漂流しているのだから。


いつも漂流ごっこをしていたのだから。


わたしが、彼女を助けにはいるにしても、犬にかなうとも思えない、


それとも単なる怯懦か。


わたしはひたすらもどかしかった。


まるで、水中にいるかのように、思考も体も重く鈍く、ぐったりとしていて、


目の前の光景とわたしの間に果てしない空間が開いていて、


どんなに手を伸ばしても、暴れても、声を上げても、


何もどこにも届かない気がした。



中身が虚になった枯木のような気がしながら、


ただ思考ばかりぐるぐるし、


わたしは、表情一つ動かさず、身動きひとつせず、


麻痺したように、目の前の血まみれの凄惨な光景を、何もせず見つめ続けた。


わたしは傍観者として、見ることで、彼女を裏切っていた。





なぜ、近所の家に駆け込んで助けを求めなかったのか、


そもそもなぜ、この騒ぎに誰一人気づかなかったのか。


私は、誰かに助けを求めるなんてことは思いもせず、


一人でこの状況を何とかしなければならないものだと。


でも、どうにもなるものではない。


彼女は自力で犬の下から這い出した。


泣き叫びながら、とぼとぼと歩き出した。


私と彼女は、並んで歩き出した。


夏用のタオル地の白いワンピースが、真っ赤に、ぐっしょりと濡れそぼっていた。



私は走り始めた。


彼女から逃げるように。


彼女は、待って、待ってよぉ、


と泣きながら、遠ざかるわたしにむかって血まみれの手を伸ばした。


けれど、知らせるのが先だと思った。


一刻も早く知っている大人にこのことを知らせ、


彼女を治療させなければ。




わたしは彼女がいくら泣こうと、わたしに手を差し伸べようと、走った。


マンションの私の家は一階で、彼女の家は最上階だった。


私の家に行くほうが早い。


マンションはだらだら続くのぼり坂の上にあり、


そこまで走りづめた私は、息を上げて、家の扉に手をかけた。





――― ここから先は、違う「わたし」、


外のわたしは、中のわたしとはちがう。


中のわたしは、親にとって、何も感じない、何も考えない、


空っぽの、存在していない子供。


何とも関係性のない、過去とも、未来とも、今とも関係ない、


誰とも関係性を持たない、


それだけで、単独で存在しているだけの、機械の子供。




彼女と関わりのある「わたし」、


彼女のことで動転している「わたし」、


という、


この家の中に、親に通用しない外の「わたし」を、


この扉の向こう、この扉の先から、持ち込んではならない ―――





一瞬、そういった思考エネルギーが体中を駆け巡り、


今までの、わたしが私といえるものの経歴、人生、経験、


物語、エピソードというものをごっそり洗い流し、


主体的な経験などしない、主体性などない機械として、


この家のルール、親の見識に沿う存在の仕方をする機械として、


わたしはリセットされた。





扉を開き、外と内の境界をまたぎ越え、


外の光を締め出した家の中の闇に足を踏み入れたとき ―――


外と内が扉で切り離され、私の中に、


すとん、と重い緞帳が降りてきた。


わたしの背後で扉が閉まるとともに、


外のわたしと内のわたしが切り離され、


外の「わたし」は、外に置き去りになった。





一瞬、わたしは、外の光を締め出した、暗い玄関に立ち尽くした。


名前も顔もないもののように、


記憶も過去も未来もないもののように。


指図だけを待つ機械として、


何も感じず、何も考えない機械として、


そこに立ち呆けた。


なんだっけ、


今まで、何をしていたんだっけ。


わからなかった。


けれど、ここではしなければならないことだけがあるのを知っていた。


機械のわたしに命令する人の指示に従えばいいだけだ。




それで、母の、


なに、帰ったの ?


外から帰ったら手を洗って、ご飯食べなさい、


という指示に、


ただいま、と言って、


手を洗って、テーブルに着き、食事を始めた。





彼女は、自力で自分の家に辿り着くまで、誰にも保護されなかった。


あんなに泣き叫んでいたのに。


誰にも聞こえなかったのだろうか。


わたしたちは、漂流でもしていたのだろうか。




夜、怪我をした彼女が、母親と、マンションの一件一件を回ってカンパにきた。


彼女の家は7人家族の大所帯で、怪我の費用をまかなえなかったのだ。


頭を白い包帯でぐるぐる巻きにされた友達を見て、


私は、何かあったのだろうか、と思った。


友達は私に怒っているようで、むっつりとして、私と目を合わせなかった。





後で、遊んでいる最中に、彼女に、


あなたはあのときわたしを見捨てたのよね、と言うことを言われた。


わたしは彼女が犬に咬まれて大怪我をしたことは知っているけれど、


それが私とどう関係があるのかわからずに、キョトンとした。


彼女はわたしに意地悪を言ったのだ、そう思った。




彼女は片耳を食い千切られかねなかった。


犬は保健所に送られ処分された。


トラックの後ろの檻の向こうで、全世界に牙を向いているようなその犬が、


激しく吠え立てながら遠ざかっていくのを、わたしは見た。


この記憶を思い出したのは、十四才くらいのころだったと思う。


彼女の中では、私は、怪我をした友達を見捨てて逃げ出した、卑怯者なのだ。


彼女は時々、私を侮蔑し、嫌うそぶりを見せた。


私も、なぜかわからないまま、そうされて当然だという後ろめたさがあった。


今まで彼女に、このことを話したことはない。


こんな話、信じてもらえないからだ。



このことを思い出したのは、それから10年も経ってから、


14歳の深夜に、レノア・テアの「記憶を消す子供たち」を読んでいて思い出した。


淀んだ水底から引き上げられた死体が次第に輪郭をあらわにするように。


この件は、相互の誤解と共に、時間の彼方へと過ぎ去ったのだ。


彼女の中で、私は、卑怯者の烙印を押されたまま、すべては終わったのだ。


もし、この話を持ち出したら、私が、自分の体面のために彼女に嘘をつき、


騙したと、彼女は二重に傷つくだろう。


彼女の中で私は、二重の卑怯者になる。


これは経験から言えるけど、誰も信じない真実は嘘であり、誰もが信じる嘘は真実なのだ。


真実は、人に信じてもらえなければ、真実になれないのだ。


私はこの話を彼女にしない。


私は黙る。


自分の真実に嘘をつく。




彼女の中の真実を、嘘にしない為に。


私の真実は、彼女にとって、嘘だから。


私が嘘をつくのは、自分に対してだけでいい。






もちろん、単なる忘却と抑圧は違う。


わたしたちは経験したすべてを覚えてはいられない。


受け取った新しい情報のほとんどは捨てなければならない。



重要な記憶が意識から抜け落ちることは多い。


とくに恐ろしいことが繰り返される場合はそうだ。


この子供たちは五歳以前にさまざまなトラウマを体験していたが、


繰り返しトラウマを体験した子供たちは、一度だけの子供に比べて、


体験をあまり記憶していないことが判明したのである。





私は犬、とくに大きな犬が怖かった。


「ドッグと呼んでくれ」と彼はいった。


「友達はみな、ドッグと呼んでいる。」


犯罪小説家は、ここで大きな犬が運転する真似をしてみせた。



エルロイは友達に「ドッグと呼んでくれ」といった。


受話器をとると、「わん、わん」と答えた。


犬は、彼の第二の自己(アルターエゴ)になった。


「記憶を消す子供たち」レノア・テア







犬がこんな風に吠えるのを、いつか自分は聞いたことがあったのではいか?


私の思い出は過去にさかのぼった。


そうだ!


子供のころ、遠い遠い昔に―――


いつか、犬がこんな風に吠えるのを、私は聞いた。





毛を逆立て、頭をそらせ、身を震わせて吠え立てる犬の姿を見た。


深夜の静寂のきわみには、犬も幽霊を信じるというが、


そのために、犬はあの時恐怖に駆られたのだ。


犬は盗人と幽霊の存在を疑わないからである。


そして今、再び犬がそんな風に吠えるのを聞いて、


私はまたしても犬に憐れみを感じた。


ツアラトゥストラ







ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。


「メメント・モリ」藤原新也

私にとって勉強とは、罵詈雑言で鼓膜を劈かれること。


ひたすら叩かれること。


嘲笑されること。


痛みを受けることにも与えることにも、痛みそれ自体に、


何も感じない、機械的な強さを得るためのレッスン。



私にとって「勉強する」とは、


寝静まった家の闇の中で、包丁を握って立ち竦み、


次の一歩を踏み出すための強さを得るため、強さの糧になる痛みを得るための、


肉と血の臭いのするレッスン。



私は学校で、教師がわめきも嘲りも、叩きもしないことが怖かった。


生徒が、誰も石化していないのが怖かった。


教師は機械など相手にしていなかった。


生徒は、機械になるために、そこにいるのではなかった。


私のシステムとは違っていた。


私がいる社会とは違っていた。



私を機能させている社会、私がそこで、機能している社会とは違っていた。


私には理解できなかった。


そこは、私にはわからない、もうひとつの社会だった。


私には理解できないものが怖かった。



私に「わからない」ことばかりをつきつける、このもうひとつの社会を憎んだ。


私が「知らない」ことの罪を暴き、


私を必然的に間違った存在にするシステムを憎んだ。


白紙のテスト用紙は私の無知という罪悪を晒し、


答案用紙の上では、私が何個丸のついた存在で、何個バツのついた存在かを決定する。


私の罪悪である、「知らない」を暴く、このシステムを憎んだ。





生徒と教師たちは、私にはわからない動機で「勉強」していた。


生徒たちは、勉強することで、勉強という道具で、


今の自分からもうひとつの自分へ、今から未来へ、


多岐に広がる自分へと、移行しているようだった。


それは、流動的、有機的、一過性のもの、生命的な行為のように見えた。



教師も生徒も、「わからない」から出発し、「わからない」の中に存在し、


そして「わかった」か、またもうひとつの、「わからない」へと移行していった。


勉強というものは、自分から働きかけることであり、


圧制的なもの、ただ上から降りかかってくる、


打擲の手に耐えていればいいというものではないようだった。


硬直的なものではなく、移行的なもの、


外的にも内的にも、流動的、生命的なもののようだった。



私はそこで、どのように機能すればいいのかわからなかった。


私がいたところは、親と一致しない感情や思考や行動は、


リアルとして存在する権利を認められず、


ただ耐え、自分を不在化して、


個という恐怖と脅威を主張さえしなければ、それでいいところだった。





ウチでは、勉強が「できるか」「できないか」などは、実は問題ではなかった。


現に、大幅に成績が落ちても、親は特に取り乱さなかった。


唯一の問題は、親の、「彼らの社会」の異分子になること。


彼らの意識と一致せず、彼らの(あるいは)無意識から零れ落ちること。


彼らの意識、無意識が、ネットワークのように張り巡らされた、


共同体の異分子たる個になること。



唯一の問題は、親の、無意識的、あるいは暗黙の価値観に不一致を起こすこと、


違和をもたらすこと、共同体を揺るがすこと。


子供が、他者が、彼らの分身、彼らのコピー人間、彼らと一致して不和を起こさない、


彼らにとって、とても安心できる存在になること、が問題なのだ。



だから彼らにとって、あれほど私に適応を迫った社会は、


実は私が考えていたような、もうひとつの社会のことではなかった。


私の中では、家庭内社会と外部的社会との軋轢と葛藤があったけど、


実は彼らがあれほど連呼していた「社会」は、彼らの個人的社会でしかなかった。





彼らの意識的無意識的価値観が社会だから、


彼らに一致しない個は、世界の外、「彼らの社会」の外へ、


彼らの認識の範疇外、リアルの外、バーチャルへ、不在へと零れ落ちることなのだ。


彼らの採点方法では、彼らに不一致なものは、存在していない、0点なのだ。


彼らの影響を受けず、彼らと一致しない、


ソトの社会と他者は、彼らにとって0点なのだ。



親が何を容認しているかは、言葉で説明されない事が多く、


行動で推測するしかなく、


それが「正解」かどうかは、親が激しい反応を示すか、


親に共感的な反応をもらえたか、で判断する。


言葉で何も言わなくても、態度が暴力を肯定しているのなら、


私の暴力を否定するような言葉や態度は、親への敵対なのだ。



だからウチにとって、人殺しは悪いことではなかった。


むしろ殺してもよかった。


だからテレビで、人殺しが法律の裁きを受けたというニュースを聞いて、私は驚いた。


殺されるほうが悪いのに、弱いからやられるのは当然なのに、


強い者は弱い者に何をしてもいいのに、


いつ殺されてもおかしくなく、いつ殺してもおかしくない、


そう自分に言い聞かせて、私は日々、いるのに。


なぜ、人を殺してはいけないと、


ソトの世界では言われているのか、私は悩んだ。



私のいた社会は、外的なものも、内的なものも、機械的に、


世界が静止しているように、硬直していた。


私を今、ここに在らしめているはずの生命は、


私にはもう、宇宙の果てと同じくらい、わからないものになっていた。



私にとって、「生きる」とは、まだ読んだことのない物語のように虚構だった、


命とは、微かなイメージでしかなかった、


私の存在が、今ここにいることは、バーチャルでしかなかった、


私の中のリアルでは、命は石化し、人間は機械で、存在は不在だった。



何が正しく、何が間違っているか、どうあらねばならないか、


痛みという、流動的不安定さのない機械仕掛けの人間であることを求められ、


世界であることを求める、


私にとって勉強とは、私が、世界が機械化していくものでしかなかった。



生徒たちは、成長し、勉強し、学習し、そのための目的を持っていた。


教師は生徒を学ばせ、成長させ、そうするための目的を持っていた。


機械は成長したりしない、


機械は勉強しない、


機械は覚えるだけ、


機械は、目的も動機も持たない。



実は彼らの「勉強」の目的は、成績を上げることではなく、


彼らの共同体に脅威を与えない、個を排した機械的人間になることの教授だったかもしれない。


それはソトの社会では機能しないけど、


「彼らの社会」では成績優秀な人材を育成するレッスンだったのかもしれない。





今の私には、自分が今、ここにいる事実の全て、私を取り巻く全て、


意思も感情も、思考も精神も、痛みも望みも、生も命も、存在も不在も、


家族も人間も、社会も世界も、リアルもバーチャルも、自己も他者も、


どの大学で、誰に教われば答えが見つかるのかと悩むくらい、何もわからなかった。



全く逆の価値を持つ二つの社会に、同時に適応することなど、私にはできなかった。


私のいた社会にとって、相反する価値観だし、


そもそも彼らが生命体であるなら、私は機械だし、


そう教わってきたし、そうなろうと努力してきたことなので、


私には、彼らを理解することなどできなかった、否定するしかなかった。


彼らも、私を理解することなどできるはずもなかっただろう。





私は小中を通して、問題児になった。


私が理解できる形での社会を、私に理解できないその社会の中へ、


現出させようとしたからだ。


でなければ、私の居場所がなかった。


その居場所以外のところでは、私は機能できない。



弱肉強食、やられるほうが悪い、やったもの勝ち、


人間の選別、聖別、痛みによる人間の強化、機械化、


手段としての暴力、統制、


つまり、いじめの構造を。



勉強することは、社会的な行為なのかもしれないが、


そもそも私が、人間は機械だと言われた時点で、


私が、痛みに強い「機械」になろうと頑張り始めた時点で、


「人間」の社会に私の居場所はなくなったのだ。



「お前みたいなやつは世界に一人もいない、


誰もお前を理解しない、お前は世界に一人ぼっちだ」、


と宣言された時点で、私は、社会的に抹殺された存在であることを宣告され、


私の社会性は死刑宣告を受けたのだ。



勉強するとは、私の社会不適格性を糾弾し、


私が、永遠に勉強のできない、


不完全な、非社会的存在であることを裁き続ける、


更生なき矯正だった。



どうすれば正しい存在になれるのか、


どうすれば、私が私であるという罪悪を禊げるのか、


どうすれば、間違った存在でなくなるのか、


どうすれば正解が見つかるのか、


見つからない答えを探し続ける問題の中で、


自分をこぼし続け、見失いながら。







ぶたれると痛くて、泣いてしまう。


転ぶこと、擦り傷、切り傷、労働、寒さ、暑さ、どれもこれも苦痛のもとだ。


ぼくらは体を鍛えることを決意する。


かわるがわるベルトで打ち合う。


打たれるたびに、言う。「痛くないぞ」


ますます強く打つ。


そのたびに言う。「平気だ」





こんな練習をしばらく続けて、ぼくらはほんとうに、何も感じなくなる。


痛みを感じるのは、誰か他人だ。


火傷し、切り傷を負い、苦しむのは、誰か他人だ。


ぼくらはもう泣かない。



おばあちゃんがぼくらをぶち始めると、ぼくらは言う。


「もっと、もっと、おばあちゃん!


ほら見て、聖書に書かれているとおり、ぼくら、もう一方の頬も差し出すよ。


こっちの頬もぶって、おばあちゃん」


おばあちゃんは言い返してくる。


「おまえたちなんか、その聖書だの頬だのといっしょに、悪魔に攫われてしまえ !」





これらの言葉を聞くと、頬が赤くなり、耳鳴りがし、眼がちくちくし、ひざががくがくと震える。


ぼくらはもう、赤くなったり、震えたりしたくない。


罵詈雑言に、思いやりのない言葉に、慣れてしまいたい。


ぼくらは台所で、テーブルを挟んで向かい合わせに席に着き、


真っ向から睨み合って、だんだんと惨さを増す言葉を浴びせ合う。



こうして、言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳に入らなくなるまで続ける。


ぼくらはわざと、人びとに罵られるようなことをする。


そして、とうとうどんな言葉にも動じないでいられるようになったことを確認する。



しかし、以前に聞いて記憶に残っている言葉もある。


「私の愛しい子! 最愛の子! 私の秘蔵っ子! 私の大切な、可愛い赤ちゃん ! 」


これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。


なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、


それらの言葉の思い出は切なすぎて、とうてい胸に秘めてはいけないからだ。



そこでぼくらは言う。


「私の愛しい子 ! 最愛の子 ! 大好きよ・・・けっして離れないわ・・・・


かけがえのない私の子・・・永遠に・・・私の人生のすべて・・・・」


いく度も繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。


「悪童日記」アゴタ・クリストフ







まるで私の半身が他の半身に一杯食わせてやったとでもいうように、


私の中で誰かが笑う。


この悪ふざけは、たぶらかすほうにとっても、


たぶらかされるほうにも、同じように可笑しいのだ。


私自身のふたつの半身がいっしょに笑う。



なんという不在証明(アリバイ)!


私が行くことのできる場所はひとつもないのだ。


私はどこにもいない。


私は空間の法則から逃れているのである。



外からのいかなる予呼びかけも、そこには届かない。


もはや私の生活はどんな人間とも、何者とも対立しないし、結びついてもいない。


死の静寂の中で、己を固く閉ざしてしまったのだ。



このとおり私はすべてから隔絶されているのみならず、


この世界のいかなる地点にも位置していない。


私はアメリカから、クリーヴランドから、私自身から逃れる。


不在証明の平和を。


「アメリカその日その日」シモーヌ・ド・ボーヴォワール







あらゆるヒトの社会は、


子供たちに適切なふるまいを教えるのに莫大な時間とエネルギーを費やす。


なぜなら、子供を育てるということは、


ある意味で、その社会が存在する根本理由だからだ。


「ロスト・ワールド」マイケル・クライトン

読み書きを親に教わったのは、2,3歳のころ、保育園に上がる前。


電気の消えた薄暗い台所で、母の個人教授を受けた。


お勉強するよ、といわれたときの、母の薄ら笑いを今でも不気味に覚えている。



母の暇つぶしだったのかもしれない。


母はよく、家から逃げるように一日中どこかに出かけてばかりいて、


時には朝から夜まで帰らないこともあり、留まることを知らなかった。


どう向き合っていいのかわからない子供と二人で家に取り残されて、


何か意味のあることをして、自分の、相手に対しての、


「わからない」という恐怖を、埋めようとしたのかもしれない。





私は母が、というより、家族が嫌いだったけど、いつも、母の尻に抱きついて、


母が嘲笑的に笑って振りほどこうとしても、しがみついて離れなかった。


母が好きだったからではない。


私は冷たい空気に取り巻かれ、死体のようにどんどん体温を奪われて、


冷たく凍りついた世界に、どんどん落ちていくような感じがしたから、


不安と恐怖で、誰かに、誰でもいい、それが、悪魔でもいい、


誰かにしがみつかずにはいられなかったから。



母の個人教授という機会は、母の関心がほしくてたまらなかった私にとって、


母のおこぼれみたいな優しさや、叫んだり叩いたり、キレたりしない、


非常にしかない、普通に接してもらえる僅かな時間の捻出に、一喜一憂していた私にとっては、


嬉しいことのはずだったと思う。


けど、母の含みのある笑いを見た瞬間、母のレッスンの意図がわかった気がした。



母は、私の隣に座り、なぜか熱気を帯びた体を、私を押し倒さんばかりに押し付けて、


わたしに「あいうえお」から教え始めた。


手に鉛筆を握らされる。


こう、こう書くの。


母は紙を突き破らんばかりに爪で指して、指示する。


間違える。


母は、寛大に許し、根気強く私に教育する。


間違え続ける。


母が大音量で耳元で叫ぶ。


声が大きすぎて、何を言っているのかもわからない。


叩く。


私は、このレッスンの意図を理解した。


私にできることは、母にやりたいようにやらせるだけ。



読み方は、母のおかげで身についた。


私ができるようになると、母のテンションは一気に冷め、関心を失くしたたようだった。


だけど、今度は、足し算引き算を教えてくれると、嬉々としていう。


足し算引き算は、読み書きよりも難しかった。


母が、歯を食いしばるような声で、辛抱強く、頭の悪い私に、慈悲深く教育を施す。


私は何度も間違える。


そもそも、何を教えられているのかもわからない。


耳元で母が金切り声を上げる。


叩く。



母の努力を無駄にする。母の努力に応えない。


母と同じくらいの努力することを惜しむ。


だめな子。頭の悪い子。ずぼらな子。いい加減な子。


人の努力を無駄にする子。人の好意を無駄にする子。


こんなにこの子のためにしてやってるのに、


人の期待に応えない、悪い子供。



実際にそう言葉で言われたわけではなく、母はほとんど意味のないことを叫んでいただけだけど、


言葉よりも雄弁に、母の言わんとすることは伝わった。


教えられている時間より、叫ばれ、叩かれている時間のほうが長くなってくる。


間違える。叫ばれる。叩かれる。


いっそ私の醜い頭から脳みそをたたき出したいと考えているような、憎々しげに、嫌悪をこめた手。



母のエネルギーは尽きない。


いつもの無気力で無関心な様子は消え、活き活きとして、溌剌として元気そうだ。


こんなに元気そうな母は見たことがない。


いつも、いつも死にそうなほど無気力で、病気かなにかなのか、


いつ大病するかと不安になるほどだったのに。


私の「お勉強」に対する母の情熱はすさまじく、


ほとんど昼から夜まで、一日何時間でも、毎日、何年も続いた。


叫ばれ、叩かれ、嘲笑され、罵倒されるのが続いた。



私は永遠に、このルーティーンから解放されない絶望に支配される。


誰か助けてと思う。私を解放してと思う。


電話がかかってくる、来客がある、ほっとする。


母はまるで今まで何もないかのように、家に何もないかのように、


家に自分以外の誰もいなかったように、愛想良く応対する。


戻ってくる。憎々しげに私に算数を根気強く教え始める。


私は、今、ここ、とは無関係に回っている世界は、全て虚構だと思う。


世界は、今、ここ、憎悪の漲る母と私の一劇場を残して、全て死んでいると思う。



正解する。「あってるじゃない。そうよ。」


嘲笑気味に唇をゆがめて笑う母は、残念そうだ。


答え合わせのとき、正解していたにもかかわらず、


母は機械的に、正しい答えを出した私を叩いた。


「あ、間違えちゃった。あってた。」





親は子供の幸せを願うもの、子供は親の幸せを願うもの。


親の幸せが子供の幸せ、子供の幸せが親の幸せ。


私は、母を今まで一度も幸せにすることができなかった。


だけど今、私の隣で、初めて、母は楽しそうで、元気に溌剌としていて、


活き活きとして、面白そうだ。


私は、初めて母を幸せにできたのだ。


幸せそのものじゃないけど、少なくとも、幸せの一種を味わわせることが。



それは、わたしが粘土の固まりのようにされるがままにされているということで、


初めて可能になった。


声もなく、言葉もなく、抵抗もなく、涙もなく、


頭が良くて、何でもできて、根気強くて、慈悲深くて、子供思いで、


「すばらしいお母さん」を立てる代わりに、


頭が悪く、努力せず、酷薄で、親不孝な「駄目な子供」という汚濁の一切をかぶることで。



お母さんは、私が悪い、駄目な、できない子供のほうが、


自分が良い気になれて、幸せなんだ。


私が悪い子供になることが、お母さんに存在意義を与え、幸せにするんだ。


お母さんを出し抜いて自分だけ幸せになったりしない、お母さん以上に幸せになったりしない、


お母さんよりも不幸な子供になって、初めてお母さんを幸せにできる。


私の不幸がお母さんの幸せ、お母さんの幸せが私の幸せ、


私の不幸が私の幸せ。


それは幸せではなく、嗜虐心を満たされた、快感でしかないけれど。





いつも、母の手が空くお昼過ぎころになると、「お勉強」の時間。


私は呼ばれ、母は私の体に押し付けるようにして密着し、


私のどんな些細な間違いも見落とさず注視し、罰する。


答えを間違えたり、私の話し方が、


「小さい」「聞こえない」「はきはきしゃべれ」という理由で叫ばれ、叩かれ、


母の質問に「早く答えろ」「何とかいえ」「間違えるな」と叫ばれ、叩かれ、


書き文字を「濃く」「ちゃんと」「正しい答えを」書けと叫ばれ、叩かれ、


私の表情が「暗い」教えてやっている母に対して「嫌そうな顔」をするなと叫ばれ、


叩かれる。



鉛筆を握る力もなく、鉛筆を取り落としそうになるほど生気の失せた私の手を、


母の手が押しつぶす勢いで握り締める。


「鉛筆をちゃんと持て」と叫ばれ、叩かれる。


「読める字を書け」と、握りつぶす勢いで母の手が私の手を握り締め、


母が動かす力で、私の手の中の鉛筆の線を引く。


鉛筆の芯が折れる。





ここにいるのが私じゃなくて、完全に母の欲求と、感情と、要求と一致した、母のコピー人間なら、


すべてが完璧にうまくいっただろう。


たぶん母が見ていた私は、ボタンを押しても録音機能の正常に作動しない、


半壊した機械だったのだろう。



全てを母の行動と一致させることができる、母の分身なら、


母が書かせたいとおりの字を書くことができ、母が見たいとおりの表情を浮かべることができ、


母が望むとおりの答えをいうことができる人間なら、そして、そのどれもできない私ではなく、


ここにいるのが私ではなく、母が望むとおりの話し方ができる人間なら、


私にこのような脅威は降りかからないだろう。


母がこんなに叫び、叩き、


「お前のせいで胃が痛いッ! お前のせいで心臓が痛いッ! 前のせいで頭が痛いッ! 」


と、私のせいで、苦しむこともなかっただろう。



私が私であることが、母と対する個であることが、


母と一致しない母の分身でないこと自体が、母に背反しているのだ。


私が母ではなく、私であること自体が、母に背く罪なのだ、


そしてこうして罰せられているのだ。


私が私であることの罪と痛みを、造反と脅威を、こうしてレッスンされているのだ。





母が私を望んでいないのは明らかだった。


母が、私以上のできのいい人間、母の望みと完璧に一致する人間が、


ここにいることを望んでいるのは、明らかだった。


私ではなくて。


母の望みを邪魔しているのは私で、望みの満たされない母を不幸にしているのは、


ここにいる私であることは、間違いなかった。



母の不幸の一切、母の「望まない」現実の一切への、復讐だった。


母にとって「間違っている」一切への罰だった。


母の望みが満たされることを阻害する、障害物を叩き壊すための儀式だった。


ひとつの儀式、ひとつのコミュニケーションだった。


私から、無知という悪魔を追い払うための、悪魔祓いの儀式だった。





私は、心の奥底で、笑いがこみ上げてくるのを感じた。


というか、私の中に他人がいて、その誰かが私の意思に関係なく、笑っているようだった。


誰かが私の中で笑い始めて、初めて私は、その誰かを見つけた。


自尊心の擁立を、5歳児に依存している母の稚拙さが、可笑しくて、哀しかった。


追い詰められれば追い詰められるほど、私の中で凶暴な何かが育まれていくのを、


母が知らないことに、内心笑った。


暗い部屋で、 独り言みたいな絶叫を上げ、


うんともすんともいわない人形みたいな私を叩きまくっているのが、


想像するとホラーみたいで、可笑しくもあった。



いくら従順を仕込まれても、私なら、いざ目の前に、どこにも逃げ場のない断崖をつきつけられれば、


命を賭す覚悟で、母にあらん限りの被害をみせるために努力を尽くすだろうということがわかった。


母の命を奪うことも含めて。


私は、母を襲わなければならなくなる状況に備えて、


それはつまり、母が、ある限界を越える場合に備えて、


必要とあらば母を殺さなければならない事態のために、心の準備をした。


私の命か、母の命か、私は、母の命のために、私の命を諦めるほど母の命を重大視してないし、


自己犠牲をいとわないような、できた人間でもなかったことがわかった。


私はいざというときのために、頭のなかでシュミレーションした。





武器は、包丁、


隙を突くには、椅子でも振り上げて、窓ガラスに突っ込ませる。


今、握り締めている鉛筆を、ナイフのように握り締めて、


母の腕に突き立ててやるのもいい。


私は目の隙で、薄暗い台所の、さらに暗がりに沈んでいる、


食器置き場に突っ込まれている包丁を、伺った。


母は確かにそこで、一つの教育を行っていた。


反撃されることだけを恐れて、躊躇なく殺意を実行するためのレッスン。





叩かれるのはいつも、虚ろな音を立てる頭を、思い切り平手で、なのだけど、


私は次第に、無感動な手が、壁に釘を打っているかのような、リズミカルな揺れだけを感じた。


痛みは最初だけで、後は感じなかった。


私は釘を打たれている壁で、揺れと音を感じるだけ。


壁の向こう側で叫んでいる声も、壁を叩く手も、この壁の中に、何かがあるなどと知らない、


何もないと思ってるし、何かがあるなどと期待してない。



そして、壁のこちら側にいる私も、壁の向こう側から、そこにいるなどと期待されていない声をかけられ、


リアクションを期待されない、壁を挟んだアクションに晒され、


外側から声をかけられているこの壁の中は、外側から叩かれてるこの壁の中は、


何もない、誰もいないのだと思った。


叩かれて虚ろな音が響く頭の中は、本当に、ただ、虚ろなだけ。


私は脳みその詰まっていない、がらんどうの、頭の中の闇を思い描くことができた。


無感動な手に釘を打たれる無感動な壁。


だから、母がいくら期待しても、無駄なのだ。





何もない、誰もいない。


障害者の自立のために根気強く教育をほどこす親のように、


私が何もない、誰もいないがらんどうだとわかっててなお、母は、私のために、


私の空っぽの頭に、文字通り力ずくで、知識を叩き込もうとしているのだ。


空っぽならばそれなりに、機械的に、正しい答えを覚えられるように。


空っぽが、社会に出て行けるように。



声と手が暴れている外側のこちら側に、誰の声も手も届かない、


台風の目のような、虚を、私は私の中に見つけた。


壁の外側の暴風雨が激しくなればなるほど、壁の内側の静寂は強くなり、よりはっきりと意識した。


誰の声も、「壁」を叩く誰の手も、誰の痛みも入ることのできない、


何もない、誰もいない、大きな、虚の闇がそこにあるのが、私の中にあるのが、わかった。





私は少し混乱した。


母の体が熱いほど密着しているのに、耳元で金切り声で叫んでいるのに、


降り止まない雨のように母の手が矢のように振り下ろされているのに、


私の中には、どんな声も、どんな手も、どんな痛みもない。


耳を劈く声が、私の中の静寂の水位を高め、


私に降り注ぐ手が、私の中の不在の水位を高め、


私に知識を授けようとする意図が、私の中の、虚の水位を高めていく。





他者と自己は、決して一致したりなどせず、もともと壁で隔てられているものだが、


壁は、他者と自己を隔てながらつなぐ、扉であるべきだ。


でなければ、この世には隔絶された他者と他者、他者のいない自己しか存在せず、


自己しかいない世界に、他者が存在する理由がなくなる。


世界の必然として自己と他者が存在している、正当性がなくなる。



今、ここで行われているはずなのは、母から子供への知識の伝授という、


壁でありながら扉、というコミュニケーションであるはず、なのに、


私は、永久に扉を閉した壁に、隔絶されつつある。


接触であると同時に隔絶であるという、異常経験をするレッスンでも受けているようだ。





外側で荒れ狂ってる暴風雨がリアルなのか、私の内側、何もなく、誰もいない、


何も起こらない虚の感触がリアルなのか、わからなくなる。


分断された外と内と、どちらが壁に隔離されたのか、どちらがリアルに追放された虚構なのか、


わからなくなる。


荒れ狂う外界と、外界を無効化している、この壁の内側の静穏と、どちらがリアルなのか、


わからなくなる。


ここで行われているのはコミュニケーションなのか、分断なのか、


接触なのか、隔絶なのか、わからなくなる。



わからないながらも、私の、こみ上げてくる笑いは、その虚の深淵からきている気がした。


わからないながらも、わたしは、自分の中に見つけた、新しい領域、それでいて懐かしい領域に、嬉々とした。


何も感じない闇、それこそ今の私が望んでいること。


何も感じない闇、それこそ今の私が会得したいこと。


何も感じない闇、それこそ今の私のためのレッスン。



もっと痛みを感じなくなる、もっと強くなる、そしたら、何の危険もなくなる、初めて安心できる。


私は私の中の虚の感触を、どんどん強くしていった。


何もない、誰もいない、何も起きていない、誰の声もない、誰の手もない、誰もいない、虚。


エサは、痛みと憎悪。


痛みをねじ伏せ、痛みを嘲笑し、痛みも、感情も、リアルも、存在も、私も、


全てを喰らい、嚥下し、不在化し、無効化する虚穴。



「彼」は私の中に、闇の種子として、予めそこにいて、


当然芽吹くときを待っていた「誰か」だったのだという気がした。


闇の種子は、闇の土壌に根を張り、闇を光合成し、成長していく。


私を痛みから解放するために、私を痛みに強くするために。



痛みと現実に剥き身でさらされている「私」を「彼」が喰らい、


「彼」が「私」の引き換えに、この生きるに値しない現実に顕現することを望んだ。


彼が私を食い荒らし、最後には、私など、一つ残らず、食い尽くすのを望んだ。


私の中の闇で芽吹き、私の闇を糧として育った闇、


リアルにとってはバーチャルでしかなかった闇が、私を食い破り、


リアルの白日の下へ躍り出、存在権を与えられなかった私の内なる闇に、


リアルの偽りの光をも、食い荒らして見せて欲しいと思った。


私の中のバーチャリティ、闇を生んだのは、リアルの光そのもの、


そして自らが生んだ闇を照らすことができない、偽りの光であるリアルなど。



私は私の内なる深淵に耳を澄ませ、目を張り、


リアルからの唯一の避難所である虚の中に、胎児のように蹲った。


そしてその虚穴が、私の存在をも喰らい、呑み込み、


「私」が闇の中に溶けて消えてしまうのを待った。


ただ一つ難点だとわかったのは、そこにそうして「落ち着いて」しまうと、


戦闘意欲も感情も、失くしてしまうということだった。



虚は、痛みと憎悪と闇を糧にするので、


光に引き寄せられる蛾のように、そちらに引き寄せられてしまう。


虚に自分を溶かしてしまい、「私」を感じられるのは、強い痛みと、憎悪と、意図的な攻撃、被攻撃、


でしか、自分の存在を思い出せなくなった。



生き延びるために生まれたはずの虚は、


痛みを呑み込み、リアルを呑み込み、私を呑み込み、


それを無効化し、不在化し、不毛化し、肥大していく。


命の危機に対して回避せず、


命の危機から生じた、痛みや憎悪に対してだけ機能するものでしかない。


私の危機をエサに育っていく、私の中の、敵みたいになってきた。



生物学的には「私」は存在していたけど、情緒的には、私は、そこにいなかった、


いたくなかった。


情緒的には、そこにいたのは、私ではなく、彼だった。


情緒的には、私は、名前もなく、顔もなく、生きて今、ここにいなかった。


いたくなかった。


私はリアルを見限り、彼は、存在するためにリアルの痛みを求め、


私は彼に、人生を明け渡した。


望み通り、リアルの表層に接している「私」の皮一枚を残して、


私の内側は彼に、闇に食われてしまった。


私の不在が、彼を実在にするように。



その虚の中にいれば、罵られながら、その虚の中で、歌うことができた、


叩かれながら、虚の中で、笑うことができた、


憎まれながら、虚の中で、憎み返すことができた。


痛みを喰らい、危機と憎悪を糧とし、リアルを呑み込みバーチャル化し、


深淵を深めていく闇。


私にとっては、そこは、リアルにとって都合の悪いものを捨てるための、


都合のいいゴミ捨て場だった。


感情も、記憶も、思考も、リアルも、私自身も、みんなそこに捨てた。


蛇口をひねれば、戦いに必要な、憎悪と殺意を出すことができた。





母の金切り声に塞がれていた耳に、初めて闇の内からの思考の声が聞こえた。


泥人形のように母の平手打ちに凍り付いていた体が、


初めて自己の居所をつかみ、身動きできた、


母の手の言いなりになっている、母の手の中に埋まっている私の手を見つめ、


初めてそこに、自分の意図を見つけることができた。


私はさらに、内心で笑った。


私は、初めて母より強くなり、優位に立ったのを感じた。



母のレッスンのおかげで。


母を殺せるほどに。


今の母は、なんて無防備なんだろう。


今ならいくらでも、隙をついて母を殺せる。


今の私は、この空白、この虚が私の中にある限り、いくらでも暴風雨の隙を突いて、


静寂そのものの台風の目のように、動くことができる。



いくらでも、簡単にできるから、今はやらない。


やらないでいてあげる。


母が平手を打とうとしたとき、初めて私の手が母の手を阻んだ。


忌々しげに、うっとうしげに、私は母を睨んだ。


あんたなんか、いくらでも、殺せる機会はあるんだからね。





けれど、その時知ったのは、力関係でしかない親子関係において、


親の命より、親の立場より自分が優位に立ったと感じてしまった子供の命は、


その子供の立場は、誰に面倒を見てもらえばいいのだろう。


力関係において、親に勝利した子供は、勝利すると同時に、関係そのものを失う。



母の「勉強会」、絶叫大会、平手打ち大会は、


昼から、延々夜中まで続くこともあった。


仕事から帰ってきた父も参加して、私に「勉強を教えて」くれることになった。


父は自尊心の低さに比例して、罵倒と嘲弄のバリエーションを豊富に持っていて、


「勉強ができない5歳児のIQ」に比例して、


「できる自分のIQ」の優越と嘲笑と愚弄と罵倒を浴びた。


父はこの新たな「遊び」に、喜色満面、喜悦の絶頂という風だった。


それは新たなレッスンだった。



肉体的というより精神的、


屈辱と辱めという痛みを闇に葬り、貶めに強くなるための、新たなレッスンだった。


私は、より自分の体面に執着して、私の気持ちや表情を読み、


自分の尊厳を貶めるようなことを考えているのを察知して攻撃してくる、


母のように直情的ではない、陰湿で、敏感で、


さらに厄介な父のレッスンを覚えなければならなかった。



時には、私から「ねえ、勉強教えて。」


「わからないところがあるんだけど、教えて。」


と、教科書とノートを抱えて、父と母のところにいくこともよくあった。


まるで、これから楽しいゲームでも始めようとするかのように、


私の中の闇が、笑いにのたうつのを感じながら。



私がそこで受けるのは、紙の上になどない、


嘲笑と、罵倒と、平手打ちのレッスン。


痛みを飲み込み、それを嘲笑い、力の糧にする虚を育むレッスン。



この世界がどんなところか悟った、人間がどういうものか悟った私が、


これから、その世界で、その人間と生きていくために慣れなければならないことを、


一番効果的に教えてくれる人から学ぶレッスン。



自身の利益のために他者の命を犠牲にすること、


自分と他者の痛みに、躊躇うことのない、無感動な強さを体得するためのレッスン。


何の痛痒もなく皆殺しできるようになるためのレッスン。



7歳の時、算数ドリルに、ナイフのように握り締めた鉛筆を突き立てた。


そのままぐちゃぐちゃと真っ黒な線を引いた。


芯が折れた鉛筆で線を引き続け、紙を突き破り、頁を真っ黒に塗りつぶした。


鉛筆を投げ捨て、ドリルの頁を一枚一枚破り捨て、ドリルを真っ二つに、


半分に、また半分に、引き裂いた。


残骸を壁に叩きつけ、蹴り飛ばした。


私は次々とドリルを引き破っていった。


私の中の闇は、ドリルを喰らったのだ。





また私は学んだ。


今ここで罰せられているのは、「間違ったこと」に対してではなく、


「知らない」ことに対してなのだ。


私は、間違うことを許されていないのだ、


何もかもを「知って」いなければならないのだ、初めから、神のように。



罰せられているのは、「間違った」ことに大してではなくて、


私が「知らない」ことに対して、「わからない」ことに対してなのだ。


私は、最初から、「わかって」いて、「知って」いなければならなかったのだ。


でなければ、罰せられる。



神の様に全てを知っていなければならなかった私は、


わかっていなければならないほど、自分が知らないことに圧倒され、


認識の指の隙間から、不可知のものが零れ落ち、


白痴の様に、何もわからなくなっていった。



もう何も、私には、リアルも、バーチャルも、父も、母も、兄姉も、


人間も、社会も、命も、世界の成り立ちも、神も、


知るというプロセスも、知らないという状態も、


自分の痛みも、精神状態も、心も、虚に全て放り込み、わからなくなっていたけれど。



時々、叩かれている最中でも、急激に虚が膨張し、


発作的な笑みが膨れ上がってしまうのが、困った。


私の笑いは、私の意志や感情と連動しておらず、自分でもコントロールが効かず、


私をうろたえさせ、怖がらせる。






教育は本来社会的な現象である。


従っていかなる社会がそこに存在するかということは、


いかなる教育がそこに存在しているかということを物語っていることになるのである。


佐々木等







子供のときずっと飼育されてきたのはメダカ。


なんでか親が欠かさず買ってきた。


動くインテリアなのだろう。


浄水装置もないし、世話は子供まかせなので、濁った水の中で次々とメダカは死ぬ。


その度に在庫を切らさないように買い足してくる。





メダカの卵は透明で、小さな宝石みたいできれいだった。


次々に卵を産んでミニチュアのメダカが孵ったけど、


飼育が杜撰なので、次々死んでいった。


ウチで飼育された動物は、みんな一年弱しか保たない。


小学生の時、初めてここで卵から孵って成長したメダカが一匹だけいた。


初めて、ここで生まれ育ったメダカ。


体格も一番大きくてスマートで、一番威勢がよくて人間を恐れない。





ぼんやりと漫然と、小さな金魚鉢の中を漂っている他のメダカを、


苛々しているように、突き飛ばす勢いで泳ぎ廻っていた。


ここから出て行きたくてたまらないかのように。


余りに威勢がいいのでその夏の日、


ベランダに金盥を出して水を張ってそこに移した。


それは最初戸惑ったようだったけど、


それから縮こまった体を伸ばすように、凄い勢いで泳ぎ始めた。



金盥の壁にそって、ぎりぎり思い切り泳げる範囲で、


尾びれが水流に打ち震えるほど、弾丸のように、


閉じた水の円環の中を、猛スピードでぐるぐる泳ぎ廻り始めた。


まだ狭いようなので、私は盥の縁まで水を入れた。



それはそのうち、飛び始めた。


目を放した隙にふと見ると、盥の中から姿が消えている。


慌てて探すと、盥の外に落ちてあえいでいた。


慌てて水の中に戻した。



見ているとそれは、盥の壁にそって全力で水面下に浮上してきて、


壁の縁まで水が張られているのをいいことに、


勢いを落とさずにそのまま水面を突破して、縁を越え、空へと駆け上る。


大気に躍り出たそれは、束の間、上へ、空へ向かって大気を泳ぎ昇り、


それから放物線を描いて、地に墜落する。





それは、コツを掴んだように何度も何度も跳ねた。


それの意思の激しさに比べればささやかにすぎる、


それが水に墜落するときのポチャンという音が、か弱しげに何度も上がった。


私にはそれがまるで、金盥の中にいるメダカではなくて、果てのない海の中を、


全身全霊で跳躍する鮭や鰹に見えた。



圧倒されて見つめた。


今まで、こんな風に泳ぐメダカはいなかった。


今まで、こんな風に、水面を飛び越えようとするメダカなんて、一匹もいなかった。


それは、意図的に金盥を飛び越えていた。


何度も跳んで縁を越え、何度も地に堕ちた。


メダカとはいえ、水から跳ねることを短時間で覚えられるほど、学習機能はあった。


何度も同じことを繰り返して学習しているはずなのに、何度も跳んで、何度も堕ちた。





魚は人肌でさえ火傷する生き物なのに、


人でさえ熱い真夏の陽に灼けたコンクリートに何度も体を叩きつけた。


その度に私の手で指先ほどもない生き物を掬い上げ、


その度に体も抉れていくはずなのに、


水を出奔し、壁を乗り越えた先には死しかないと、


学習しないそれではなかったはずなのに。



分かっててやっている。


戯れに跳んでいるのではない。


戦慄のようなものが、体を走り抜けた。


向こうへ行きたい、壁を越えて向こうを見たい、羽ばたきたい。


空へ駆け上がりたい。


ここではない、別の場所へ行きたい。





私はこんなに水から上がりたいと意思表示しているものを、


再度金魚鉢に戻すことができず、


気の済むまでやらせようと、縁まで入れた盥の水は減らさなかった。


それが堕ちる度に水に戻した。


じゅうじゅういう音が聞こえそうなほど、


灼けたコンクリートに死なない程度に、それの体を灼かせた。



指に乗せて、空と水の境界に留まらせ、


ここを出た所に、何があるか教えこもうとした。


それの体を焦がす灼けた大地と、


それが溺れるしかない灼けた大気だ。


果たして、彼はもしこの挑戦を諦めても、満身創痍で、


明日、死んでいてもおかしくないと思えた。





終には、片目が抉れて落ちた。


私の指先に、片目が干からびてこびりついていた。


尾びれが変な角度に曲がって、それでも泳いでいた。


この挑戦が失敗に終わるだけだということが彼にも分かっていたら、


果たして、私の手によって生き永らえさせられることを望むだろうか、


という思いが過ぎった。



水の中に戻す度に、


こんなにまでして越えようとしている水の中へ彼を戻すことが疚しくなっていった。


彼自身がそこに戻りたいと望んでいるだろうか。


これは彼の選択なのではないだろうか。


彼は、命を懸けて死を賭して、


ここではないところへ行こうとしているのではないか。


これは彼にとっての、最後のチャンスなのではないか。


私の存在は、彼の生死を、己の心情で左右する神のごとく、


彼の試みに対して、侮辱的なのではないか。



私は、落ちた彼を一度だけ水の中に戻して、


彼がまた性急に泳ぎ廻りだしたのを見て、その場を立ち去った。


次に見たとき、彼は壁の外に落ちて死んでいた。


大気と大地に灼かれて、跳躍している姿のまま、彼の命は蒸発していた。


哀しくはなかった。





私は彼を見ていて、生き物の進化がどうして起こったのか、分かった気がした。


向こう側に行きたい、別の世界に生きたい、向こうを見たい、


という純粋な欲求から起こるのではないかと。


そして、水の中の命は、何度も何度も水面を突破したのかもしれない。





大気に溺れるしかなかった命、大地に堕ちるしかなかった命は、


水面の水平線の向こうが見たい一心で、


飛び越えたい一心で、大気に泳ぐことを知り、


大地に起つことを知っていったのかもしれない。


彼の試みは時間が短すぎて、失敗したかもしれない。


けれど彼の思いは今、間違いなく空に飛翔しているのだとか、思った。





人と魚は同じものだと思う。


水の中はどこでもなく、何処かである場所はない。


人も魚も、意思だけをナビゲーションに、全身を跳躍させ、


止まり木たる安息の大地もなく、どこでもないここで、何処かへ、


何処かに足る場所へ、虚空を泳ぎ行こうとする。



そして、限界を設ける、全ての水面天井を飛び越え、羽ばたいて行こうとする。


無限へ、悠久へと。


空を越えて、宙までも。







「進化の歴史とは、生物が障壁の外へ出ようとする行為のくりかえしにほかならない。


生物は必ずその障壁を打ち破る。


そして、新しいテリトリーへ進出していく。


それはつらい過程だろう。


危険すらともなう過程だろう。


だが、生物は必ず道を見つけだす」


「ジュラシック・パーク」マイケル・クライトン







いろ青き魚はなにを悲しみ


ひねもすそらを仰ぐや。


そらは水の上にかがやき亘りて


魚ののぞみとどかず。


あはれ、そらとみずとは遠くへだたり


魚はかたみに空をうかがふ。


「或る少女の死まで」室生犀星







「えっ、なに?海のメダカって。」


「川にみんなといっしょに住んでれば、


弱いなり小さいなりに平和に楽しく暮らせてるのに、


一ぴきだけ海をめざしてるメダカってことよ。」





それらは、まるでメダカの群れのように群れていて、


佳照は、はるか遠く海を目指して河口近くまでいきながら、


潮があんまりからいのか、波があんまり高いのか、


しょんぼり群れのところへ引き返していた。



阿修羅の六本の手、二本の足は全部もがれ、


背びれ、胸びれ、腹びれ、尻びれ、尾びれだけになっていた。


「海のメダカ」皿海達哉

その日も学校から帰ってきて、真っ先にハムスターのケージに行く。


ケージの上にぞんざいにおいてある、容器の中の子供たちとその日は無性に遊びたくてたまらない。


ランドセルをケージの脇、玄関前に放り出す。



一度こうと決めたらわき目を振らない一心さ、子供らしさというのかわからないが、


酩酊したような夢中さにその日に限って取り憑かれた。


いつもなら、用心深く母の動向を監視し、機械的にいつもの学校帰りの手順を踏んでいた。


ランドセルを廊下に放り出しているのが見つかったら、ただじゃすまない。


母に見つかるとまずい、まずい、という声が他人事のようにぐるぐると頭に響いていた。


ちょうど、ゲームやテレビの一番面白い興奮時と重なって、ものすごい尿意を催し、


それを無視しなければならない、妙な使命感のような、高揚感のような。


とりあえずランドセルはその辺に放置、ではなくて、


廊下の壁にぴったり付けて誰にも邪魔のならないように、


見つけられて母の攻撃の材料にならないように、浅はかな努力をした。


空き容器の中の子供ハムスターと戯れた。


この日はいつにも増して、彼らが可愛く、哀しく思えた。





背後からの、わたしを串刺しにするような視線の気配で振り返った。


母が買い物から帰ってきて、


ハムスターのかごの前にしゃがみこんでいるわたしを見つけた。



「こんなところで何やってるの 。 」


わたしは凍りついた。


いつも、すでに母が自分の中で答えを出している、


誰の返事も期待しない問い。


だからわたしは答えない。


すでに判決は下っているのだ。


わたしはゆっくりと立ち上がって母と対峙した。





「こんなところにランドセル置いて、誰かが踏みつけたらどうするの ?


こんなところにおいて、邪魔でしょ ?


汚いでしょ ?


誰が家の中掃除すると思ってるの ?


誰があんたのランドセルの金払ってると思ってるの ?


誰があんたのせいで金を払うと思ってるの ?


あんたじゃないのよ ?


お母さんとパパなのよ ?」



わたしは廊下の壁にくっつけて置いてあるランドセルを横目で見た。


3戸しかない部屋の前、ハムスターのケージ以上にはでしゃばっていないランドセル、


人通りのないマンション、


誰かが思いついて意図的にここにやってくるのでない限り、


ランドセルが踏み潰される危険はない。


けどそれは問題ではない。



母が何を言おうとも、何をしようとも、母がいいたいことをいい、


母がしたいことをするために、わたしは存在してるのだ。


まちがっても、存在することのないよう、


母の存在を妨げる、わたし自身として存在しないように、存在する。


母の思い通りのものをぶつける、


わたしは空白の壁でしかない。


足元からすかすかした隙間風のような空虚な諦めが立ち上ってくる。


母はわたしを責める告発の金きり声に、自分で舞い上がり激昂してくる。


わたしは母のしたいことが見えてきた、


やりたいようにやらせていた。



母は、金のかかる、世話を要求する、手間を取らせる、母の人生の時間と労力を奪う、


母の頭の中の、機能的な計画通りの行動から外れ、


世界のルールと、


ルールに従っていさえいればいい人間の機能の仕方というものをすでに知っている、


母の仕様から逸脱し、異端するわたしを責め、告発し、糾弾し、非難し、指弾し、絶叫した。



どうして、ちゃんとできないんだ。


どうして、ちゃんとした普通の人間になれないんだ。


どうして、親が知っている、


全世界の、全人類と、一般的な、外れない、過ちを犯さない、


世間と、世界と、普通と、常識と、他の人と、


おまえは、同じでいられないんだ、同じことができないんだ。


なんでおまえは、親を苦しめるんだ。





母が一瞬の早業で、子供ハムスターの入った容器をひっつかんだ。


わたしは先ほどから彼らを注意しながら、


でも決して、わたしが彼らを気にかけていることを、


母には気取られてはならないと思っていた。


でも母にはいつも、私のことが何でもお見通しなのだ。


そして、私を最も痛めつけるためには何が一番効果的なのか、その驚異的な察知力でかぎつける。



「 こんなものと関わってるからだらしないことをやるんでしょ !」


蓋の開いた空き容器の中で、激震に見舞われている2匹の子供の、


パニックに目を見開き、四肢を突っ張らせ、


揺れ動く地面に足を踏ん張っているのがちらと見えた。


いくら彼らが倒れまいと地面に足を踏ん張っても、無駄なのだ。


今激震しているのは、彼らの運命をなぎ倒そうとしている人間の手、


2匹の運命そのものなのだから。





母は容器を持った腕を振り上げた。


わたしは目で追わなかった。


その行く先はわかっていた。



音を立てて内臓が一気にずり落ちるように、


わたしの中から何かがごっそりとこぼれ落ちていった。


わたしの中にうずくまっていた闇が膨張して、


わたしの中身を食らって去っていった。


わたしはわたしのなかに、しんしんとした闇だけを感じていた。



母は容器を持った腕を伸ばし、廊下の柵を越して、


下のコンクリートの地面に思いきり叩きつけた。


わたしの罪を声高に裁きながら、


真っ直ぐ、わたしの目を見つめながら。


わたしも、真っ直ぐ、母の目を見つめたまま。



母が興奮するといつもなる、魚のように真円になるほど見開かれた、薄茶色の瞳。


爬虫類よりも表情のない、まばたきしない透明な視線に、


わたしの何もかもが透明に呑み干され、


わたしは、ただ、透明な一対の目玉になっていた。


魔性の力を秘めた白イタチ、ノロイの視線に魅せられた、ネズミたちみたいだった。





真夏の太陽に反射して、勢いをつけて落下する容器の内側のアルミの銀色が、


ぎらりと光るのが視野の片隅に見えた。


世界が無音になった一瞬後に、アルミの容器が地面にたたきつけられる、


世界が粉々に砕け散る音が響きわたる。


命が砕ける音。


わたしは、形骸だけ残してわたしが内部崩壊し、崩れ去った後の闇を見つめ、


虚空に吹き渡る風のような、わたしのなかの闇の、虚ろな音にただ耳を済ませていた。



気がつくと母がまだ何か言っていた。


わたしを糾弾していた。


わたしを責めていた。


母の苦しみの根源がわたしにあること、


わたしの罪を暴いていた。


母のいわんとすることは、見事なほど、


そのパフォーマンスで、十分わたしにわからせた。



母のルールが作る現実、母がどう思うか、母の存在、


わたしの人生の中で、何よりもそれを優先させる意識を持たず、


一度でも母を度外視し、母のルールを忘れ、


自分本位の欲求を優先させれば、すぐさま母の天罰が下り、


母の手の中で、わたしの命はひねりつぶされるのだ、と。


ハムスターの命は、その見せしめのために、


わたしの身代わりに、ひねりつぶされたのだ。



わたしは、わたしを食らった闇に、一心に意識を凝らす。


闇が与えてくれる怒りと憎しみをかき集め、流れ出したわたしを、もう一度再生する。


闇の力で、崩れ去ったわたしを形作る。


闇を一心に見つめる。


闇の声だけを聞く。


闇は応える。


ゆっくりと、血が巡り始めるように、声が、


崩れ去ったわたしの代わりに、わたしを満たす。





いつでもころせばいいのだ


いつ、ころしてもいいのだ


いまではないだけだ


いま、ころさないでおくだけだ


いま、ころさないでおいてやるだけだ





わたしはようやく、母に縛られ、母に縛り付けていた視線を外し、足元に視線を落とす。


流れ去った自分が、今いる場所を確認する。


崩れ落ちた自分が、今ここに存在していることを目視する。


少しでも身動きすれば、ばらばらになるかもしれない。


今はわたしの手となり足となった闇の力の憎しみと怒りで、


わたしは、足を一歩、踏み出す。



いま、ころさないだけ


一歩。


わたしが、ころさないでいてやるだけ


一歩。


いつでもころせばいいのだから、だいじょうぶだから


一歩。





いまだ叱責を続けている母に冷ややかな流し目をくれ、脇をすり抜けた。


「ちょっと、きいてるの、何を考えてるの、まったく 。」


わたしが背中で置き去りにした母が、


背中でわたしを置き去りにして、家の中に入って、玄関を閉めた。


もしかしたらまた家を追い出され、玄関の鍵をかけられるかもしれないと思ったけど、


それでもよかった。


むしろそうしてほしかった。


二度とここに戻らなくてもよかった。


ここにいてどうせ、命を喪うだけなのなら。


あがいても、あがいても、一方通行の砂時計のように、


指の隙間から命を取りこぼし続け、命を喪い続けるだけなら。



堕ちた2匹のもとにいく。


二匹を探す。


容器が植え込みの中に転がってる。


思い切りふり落とされたから、死体さえ見つけるのが難しいかもしれない、不安に思う。


横倒しになった容器を直してみる。


そこにいた。


正確には一匹だけ、どういうわけか横倒しになった容器の中に残っていた。


妹のメスのほうだった。


倒れるでも伸びるでもなく、ただ座っている格好だった。


ただ、目を瞑り、浅い息を小刻みに繰り返し、じっと動かない。


様子がおかしかったけどもう一匹が不安だったので、


妹をそっと握り締め、あたりを探す。



今、命が世界から出て行こうとしているのに、


命が出て行くための引き裂き傷も破れ目も綻びも、


世界に開いていないことが不思議だった。


今、ひとつの命の時間が終わろうとしているのに、


世界の時間が続いていること、


喪われた命がもう足跡をつけることのない世界に、


わたしが今も足跡を残し時間を刻んでいるのが哀しかった。



少し離れた植え込みの中に、


もう一匹が小石のように転がっているのが見つかる。


薄い黄土色の小さい塊に、真夏の攻撃的にぎらぎらした陽光の中に、


一欠けらの黄昏を見つけたような安堵感をおぼえる。


見つけたところでわたしにできることはない。


わたしにできることは見つけることくらい。


自分の手で殺したハムスターを介助する気など親にないことは明らかだ。


わたしにできることは、命の終わりを看取ることくらい。



そして、ハムスターは、自分を殺した人間などに、見つけられたくはなかっただろう。


一瞬見つけなかったふりをして、このままここに放置しておこうかと考える。


彼らのために。


最後くらい、彼らの命を、人間の手から、彼ら自身に奪い返してやるべきではないか。


でも2匹とも、幸いにして、不幸にして、かろうじて生きていた。


何とかすれば、わたしでも延命できるかもしれない。


欲が出たのだ、


人間の、殺しては生かす、自分本位の欲が。





人間は、どこまでも自然のままにおくことをせず、


どこまでも生と死を所有し、コントロールすることをやめない。


どこまでも、他者の、自然の、動物たちの意思を、


自分の意思の支配下におかずにはいない。


自分の意のままにならない生と死を、罪と悪と呼び、


ただあるがままに、生と死の満ち引きを繰り返すだけの自然を、


自分本位の計算で、足し算したり、引き算したりして、


それぞれがそこにあるがままに所有している、


自主的な生と死の自由を管理下に置き、コントロールし、


自然があるがままに持っている、自主責任性と、自由性を、奪う。



人間の手は、何かを創造する、線を引くため作られているから。


人間の手は、自然を閉じ込め、囲い込み、線引きし、所有し、


中と外、善と悪、自由と不自由の、檻の線を引いて、


創造するようにできているからだ。


あるいは、自身の空虚な手の中に、すでに創造されたものを閉じ込めることで、


初めて何かを得られるようにできているからだ。





兄のハムスターは、目を瞑って、ぐったりと倒れている。


わたしになでられたりさすられたりしていると、息を吹き返し、


眠りすぎたあとのように、ものすごい勢いで、


でも半睡しているように目は瞑りながら毛づくろいをはじめた。


活発な様子にわたしは安心した。


問題は、妹のほうだった。



手をそっと開くと、横倒しになり、苦しそうにえずいていた。


人間が、何もでないまま吐くような、えずく動作を発作的に繰り返す。


目を開かない。


わたしは一瞬、もう思考力のない頭で、次の行動に迷う。


自動的に立ち上がる。


マンションの人が共同で使う水道のところにいく。


蛇口をひねり、水を出す。


手に掴んだハムスターを水にさらす。


ハムスターが濡れる。


溺れたようにぐっしょりになる。



なんのつもりだろう、とぼんやり自分に問いかける。


ショック療法のつもりかもしれない、とぼんやり自分が答える。


ショック療法のつもりかもしれないが、功を奏さず、えずきがますますひどくなる。


ぼんやりあせる。


おなかをさすってみる。


心臓の辺りをこすってみる。


えずきがとまらない。



命の黄昏の中、道を失くした生と死の狭間の中、


わたしは迷子になったハムスターとともに、途方に暮れる。


子供らしく泣こうとしてみる。


泣こうとする感情が見つからずうろたえる。


次の行動に迷い、途方にくれる。


世界に対して反響し、表現すべきなにかを喪失したわたしは、


世界を喪失し、世界に存在している自分を喪失している。





容器の中に、元気を取り戻し始めた兄ハムスターをいれ、ケージの上に置き、


死んでも生きてもいない妹ハムスターを握り締めたまま、わたしは途方にくれる。


このまま意地でも家の外にいて、ハムスターの死とともに、


世界の外に、わたしも身を置き続けようと思う。



でも父が帰ってきたら、家の外にいるわたしを、また家を追い出されたのか、


家を追い出されるような馬鹿をしたのかと、嘲笑されるかもしれない。


わたしが意気消沈していたり悄然としていると、


弱みを握ったように嬉々と嘲笑するように。



「 そうなの、なんとかいってやってよ 」


と、愉しそうに母に経緯を説明され、今度は父に罵倒される。


そうしたら、母によって一度死んだ命が、


今度は、父によって辱められ、二重に殺される。


わたしは父という再びの殺戮を避けるために、やむなく家に入る。


母の直情的な攻撃も怖いが、父の精神・人格攻撃のほうが怖かった。


肉体的な暴力と違って、人格が壊されていくのは、防ぎようがないからだ。





無言で家に入った。


すぐの台所で、母が憤懣を撒き散らしながら夕食を作っている。


わたしは死にかけのハムスターを持って食卓につく。


ハムスターはまだえずいて苦しんでいる。


いつまで続くのだろう、とぼんやり思う。


母の手前もあり、手の出しようのない延長戦に困り、あせる。


気だるくなっている。



「あんたさっきお母さんの言ったこと、ちゃんとわかったの ?


ちゃんと聞いてるの ?



人の話 ?


ちゃんとしなきゃダメなのよ ? 」


母がいっていた。


死にかけのハムスターを持って食卓についたわたしの前に、母の作った夕食が置かれる。





人間が生きるための食事が湯気を立てている。


私の手の中で死につつある命の前で。


私の手の中の命が死んでも、私は、生きるために、


私の魂を握りつぶす母の手が作るその食事を食べるだろう。


私は、私の中の命が死んでも、私が生き延びるための闇を喰らうだろう。


私は喰い続けるだろう。


人間の手に命をくびり殺されながら、人間の手に魂を握りつぶされながら。



人間の命を奪うものは、人間と動物と、二種類いるけど、


動物は、人間の魂をに命を与えることができる。


動物も人間もの、命も魂も殺すことができるのは、人間だけだ。





「 やだ、そんなもの持って、家に入らないでよ 。」


母がいう。


わたしは泣こうとして頑張っても泣けない。


わたしはただ顔を上げて母を見る。


母は目を背け、


「 ご飯食べちゃいなさい 。」


いい放つ。



他の家族が帰ってくる前に、ハムスターのえずきはだんだん弱まっていき、


だんだん静かになっていき、ついに止まる。


わたしはむしろほっとする。


母が機械的に食事を提供するからには、


わたしは機械的にそれを消費しなければならない役割なのだ。



一切の運動を止めたハムスターを見た。


今までここにあった命は、こんなにも忍び足で、どこに逃げ出していったのだろう。


人目を忍んでいくほど、そこはここよりも魅力的なところなのだろうか。


なんだかここに取り残されたわたしのほうが、


負かされ、惨めな世界の取りこぼしのように思えて、哀しかった。


それが、このハムスターの死に初めて感じた、ぼんやりした哀しみだった。



哀悼ではなかった。


ハムスターよりも、自分を哀しんでいた。


わたしは死体を白いティッシュにくるんだ。


親よりも、世界中のどの人間の命よりも重い命を喪失した分、


わたしにとって世界は軽くなったようだ。





家族が帰ってきて、私たちは母の食事を食べた。


いつ母がわたしの行状を父に告げ口するかと伺っていたけど、


母はあえて話題をはぐらかすように、


不自然なテンションの高さで父に接していた。


これは母が父に知られたくないことのひとつなのかもしれないと思った。



その後私はハムスターの死体をゴミ箱に捨てようとして、かろうじて思いとどまった。


人間としてと思った。


あえて意思的にそう思わなければ、やってしまいそうだった。


死を悼む気持ちがなかった。


この世界に無様に置いてきぼりを食らっているのは、わたしのほうなのだ。





このとき生き残った兄ハムスターのほうをあるとき、


親ハムスターのもとにおいておいたほうが、群れの心理で、


守ってもらえて安全かもしれないと思った。


弱い子供、人間の弱い状況にこそ、


まるでつけこむように攻撃してくる私の親に狙われず、安全かもしれないと思った。



久しぶりに親子を対面させてみる。


子供を手に持ち、ケージ越しに親ハムスターに近づけてみる。


親ハムスターはケージの中を忙しく動き回る動きをぴたりと止め、


ケージ越しに突き出した子ハムスターの鼻面を嗅いだ。


不気味なほど長い間、そうしていた。


妙な静寂の空間が流れた。


子供は人懐こく、親ハムスターとじゃれたいそぶりを見せて鼻をくんくんさせる。


不穏な静寂が続く。



唐突に、親が、ケージが激しく揺れるほどの勢いで、


子ハムスターの鼻面に思い切り噛み付いた。


子供が悲鳴を上げ、啼いた。


あわててケージから離すと、子供の鼻の付け根から血がにじんでいる。


鼻そのものがもげそうな勢いだった。


それくらいの処置しかできず、湿らせたティッシュで血をふく。


子供は痛がって啼く。


親を見ると、敵は追い払ったとばかりがさがさしている。


憎くなってケージをぶっ叩いたので、


激震に見舞われたケージの中でパニックを起こしたハムスターが狂ったように走り回る。



人間の親からは、そのまま命を落とした妹とともに、命を手から振り落とされ、


実の親からは敵対行動を示され、


病院に連れて行く社会性も、自力で怪我や病気の処置するスキルも持たず、社会的に孤立し、


自分の命さえ自分の手に負う責任能力もない子供一人の手にゆだねられたこの子供の行く末が、


見えた気がした。


わたしの運命のように。



それから数週間後だと思う、


子供は一定の大きさ以上に育たなくなり、餌を食べなくなる。


あの親ハムスターに鼻を噛み切られかねなかった一件を思い出す。


あのせいかと思う。


妹をなくしたせいかと思う。


たった一匹で世界に取り残されたように生かされているせいかと思う。



もともと活発な子ではなかった。


ときどきじゃれるときかみつくけどかむ力がとても弱い。


歯自体が透けるほど薄く小さく未発達のような気がする。


虚弱児なのか未発達かもしれないと思う。


わたしは私一人の手の中に命を抱えて、誰にも声の届かない海を漂流するように、


わからない、どうしようもない、命の助けを求める人間が誰もいない。



やわらかく炊いたお米粒を一粒、口元に持っていってみる。


ぴちぴち音を立てて、半分くらい食べる。


半分も食べてくれたことに嬉しくなる、


半分しか食べられないことに、哀しくなる。


何かもっと栄養のあるものを食べさせたいけど、何も思い浮かばない。


私一人の力で何もできない。





ティッシュの空き箱に、命が漏出しつつあり、軽くなった体を横たえる。


どうしていいかわからないけど、動物を家に入れないという母のタブーを公然と破り、


体を温める暖を与えるため、電気の暖かさがあるからテレビの上に置いてみる。


テレビの前のソファの上に母が寝転がってテレビを見ている。


テレビの前にいるわたしのことよりも、


テレビの中の世界のことのほうが、母の関心を引き、母はよく知っているのだろう。



ティッシュを敷き詰めた白い空き箱の中。


命が水をほしがるかどうかもわからない子供が、


中に水を浸したティッシュだけを置きざりにして眠る。


白い棺桶のような箱の中の子供は翌日、


独房の壁際を出口を探して虚しく彷徨よったように、


後ろ足だけで這い進んだような引きずった跡を残し、


はいずり歩き通したままついに倒れたような格好で、前のめりに倒れて死んでいる。



最後は、ひとつふたつの、黒く硬い花の種のような糞が残る。


私はなぜか、ハムスターの亡骸よりも、


ハムスターが生の最後に残してくれたものだと思えたのか、


その糞のほうにハムスターの生の痕跡を見出す。


糞をティッシュにくるんで箱にしまう。


その糞はその後何年も宝箱の中にしまわれてた。





それ以来ハムスターを買うことはなくなる。


結局、私の手元で生まれ、生き、死んだ命たちのひとつとして、


わたしは、名前をつけることはなかった。


私自身の名前がないからだ。


私の名前が見つからないからだ。



結局、わたしたちにとって、動物たちは、


不特定多数の、名前のない動物たちであり、


わたしたちは、動物たちにとって、


不特定多数の、名前のない、人間たちだった。


わたしの家族の誰ひとりとして、彼らを名前で呼ぶものはなかった。


彼らの飢餓も、渇きも、痛みも、わたしたちにとって、それは、


名前も顔もない、不特定の、誰か、でしかなかったのだ。





わたしの手に、信頼にも見え、あきらめのようにも見え、


無抵抗に身をゆだねる動物の無力さを見ると、


命をゆだねられる私の手が、


ゆだねられる命の信頼の手を裏切る手でしかない、


命を手放す手でしかない、


生を取り零す手でしかない、


すでに、死の闇に満たされている手だということを思う。


それが、信頼というより、わたしを裏切る身の自由の余地もない動物たちが、


いくつもの命を張ってわたしに教えてくれたことへの、唯一の恩返しだと思う。



私にとって動物たちは、生から死に向かう、


生と死をつなぐ命のただ一本の道を、


常にわたしの前を歩いて、真っ直ぐに軌跡を引いて道を行く、


人間の暗い迷い道を往くわたしの、か細い道標になってくれる存在。





事態を表現して伝える相手は誰もいない。


わたしの表現を許し、反響し、待つ人は誰もいない。


わたしの表現を受け止める手を持つ人は、世界に誰もいない。


だから黙って口をふさいで、生の表現をせき止めたところから、


生の壊死、死の漏出が始まるように、ゆっくりと魂が虫食まれるのをただ見つめる。



生の表現の自由な出口をふさがれたとき、


他の細胞から切り離されて、腐って死んでゆく細胞のように、


生の脈動を沈黙させ、ただ自分の死を見つめている。


声のない動物たちの声に、誰にも届かないわたしの中の声が呼応する。


この世界でもっとも弱い声を代弁してくれる動物たちに、私の中の、声なき声を祈る。



人間たちのやることには、いつもどこか嘘がある。


あるいは嘘を作らずにはいられない。


人間は、リアルの命そのものだけではいられない、


自分たちの存在の嘘臭さから逃れることはできない。



私がこの世界で最も信頼しているひとたちは、動物たちだけだ。


命と、生と、死だけを真っ直ぐに見つめる、


嘘のないリアルの体温だけが物語る、


動物たちの、声なき声だけなのだ。





わたしは信用に足らない人間なのだ。


動物たちにとっても、人間たちにとっても。


その戒めを忘れないこと、


それが、動物たちの死を忘れないこと。


そのわたしの前に、今度はウサギを飼って持ってきたのは、母だった。・







サフィと私の関係を要約すれば、対等な関係ということだろう。


自分と違う種であるにもかかわらず、


サフィを「個性あるもの」とみなしているといいたいのだ。


もし彼らが個性あるものとして私たちとかかわり、


私たちも個性あるものとして彼らと関わるなら、


彼らと私たちとが"個性的な"関係を持つことは可能である。


もし、そのどちらかが他方の社会的な主体性を認めなければ、


そのような関係は阻害されてしまう。



言い換えれば、ある人間が、ヒトではないけれども個性を持った動物を、


一個の主体として水に、単なる無名の対象としてしか関係しないとすれば、


その動物のほうではなく、ほかならぬ人間の側こそが、


「個性的存在性」を喪失しているのである。



トマス・アクイナスやオハーンは、動物と人間とは友だちになれないというが、


彼らは、相互主体性との命ずるところに、


自発的にお互いに身をゆだねるという可能性が、


共通の基盤をなすということを無視している。



相手に(それが人間であろうとなかろうと)身をゆだねるといは、


相手を操作しようとしなくなること、


彼らの私たちへの関係の仕方を操作しようとしなくなることなのだから。


操作できなくなるのは不安だが、


それによって得られるものを考えれば安いものだ。



こうして、私はサフィを「個性あるもの」だとみなし、


サフィも私をそう思ってくれるので、私たちは友人でありうる。


私は友人ならば誰にでも願うこと―――つまり自己表現する最大限の自由と、


最大限の幸福――― をサフィのために願っている。





「他の存在の立場になって考えて見られる範囲に限界はありません。


共感的想像力に限界はないのです」


「言い換えれば、彼らは心を閉ざしたのです。


心とは、時々他の存在を共有できるようにしてくれる、


"共感"という能力が宿るな所です。」


ところが、たいていの人間は動物に関して想像力の翼を広げることはしない・・・。


詩や小説は、哲学よりも、この想像力に強く訴えかけるものなのである。



哲学者とは違って、詩人は動物の経験に「共感すること」から始まる。


それによって詩人は、


この世で生きている感覚を経験しうる動物ならどれでも殺すことは罪であるとわかるようになるのだ。


だから「動物のいのち」はガーバーが主張するように、


動物のいのちを問題にしているのと同様に、文学の価値をも問題にしているのである。



クッツェーが私たちに残した問いの中で中心となるのは、


こうした倫理的衝突の解決、言い換えれば対立する感受性同士の和解が―――


哲学的にせよ詩的にせよ心理学的にせよ―――


いったいありうるのかどうか、という問いなのだ。


見方によれば、「共感的想像力に限界はない」という動物をめぐるコステロの主張は、


人間同士におけるいわば「隣人」との関係において試されているともいえるからである。


動物の生のあり方を問う本書は、そのまま人間の生のあり方を問う。





動物は機械のように生きている、とデカルトはいいました。


動物とは、それを成り立たせているメカニズムにすぎないというのです。


もし動物に魂があるとすれば、それは機械にバッテリーがあるのと同じように、


動かす活気を与えるためだ。


思考、思索に対して、私は充足感、肉体が与えられているということ、


存在しているという感覚を対峙させます。


この存在の感覚とは、


自分はものを考える一種の幽霊のような思考機械だという意識ではなく、


それとは逆に、自分は空間に広げられる手足を持った肉体であり、


この世に生きている存在だという感覚であり、


激しい感動的な感覚なのです。





「動物にとって、いのちが私たちにとってほど問題ではないと言う人はみんな、


生きようと闘っている動物を自分の手で抱えたことのない人たちです。


動物の全存在が、その闘いにありったけ籠められているのです。」


「動物たちは私たちに立ち向かうのに、沈黙しか持っていません。


何世代にも渡って、勇敢にも、私たちの捕虜は私たちと話すのを拒否しています。」



実際には戦争と狩猟は同じものだわ。


哀れみの情を育むことができるようになったのは、必ず勝てるようになってからですよ。


でも、私たちの哀れみは実に薄っぺら。


捕虜は自分たちと同じ部族には属していない。


どうにでも好きなように扱ってかまわない、


私たちは彼らを、お前の言うとおり、軽蔑の念を持って見るのです。」





この世で何の(宗教的な)理由もなしに動物を殺して犠牲にしたものは、


その動物の体に生えている毛の数と同じだけ、


死後に生まれ変わっても生まれ変わっても非業の死をとげるのである。


草、いけにえの動物、木、(いけにえ以外の)動物、


そしていけにえとして殺された鳥は、高い身分に生まれ変わる。


これがマヌの述べたことである。


「マヌ法典」





「それでも、いまだに私たちを憎む動物がいます。


たとえばネズミ。


ネズミは降伏しなかった。


彼らは下水溝の中で地下組織の部隊を結成しているの。


勝利を収めてはいないけれど、敗北もしていない。


まだ私たちを打ち負かす可能性はありますよ。


もちろん私たちが滅びたあとも生き延びているわ。」


「動物のいのち」J・M・クッツエー







月は、イタチたちを皓々と照らしています。


六十七ひきのイタチの真ん中に、一ぴきだけ月の光を浴びて、


白く体を光らせているイタチ、ノロイが見えます。



ノロイはそういいながら、ガンバの目をじっと見つめました。


ノロイの目は月の光を反射するというより、のみこんでいるみたいに、


深い青に近い茶色に見え、その目の色に、ガンバは思わずひきずりこまれそうになります。


ガンバも、けんめいにノロイの目を見返しました。


ガンバの方は、黒く、キラリと光る目です。





もはや戦いではありませんでした。


しかし、それにもかかわらず、ネズミたちは決して悲鳴一つ、泣き声一つあげずに、


" 生きぬこう " としていました。


ネズミたちの抵抗はおどろくべきものでした。


どのネズミも、体力の最後のときまで、いや、体力を使い果たしても、


なおかつ、意志だけで戦い続けていたのです。





「どうやら、ノロイ、勝ちはお前だ。


わたしたちは敗れた。」


ガクシャは顔半分を海につけていいました。


そして、


「もう言葉はない。」



「いいやガクシャ、まだある。


ぼくたちはまだ闘う。


まだぼくたちは生きているんだからな。」


「冒険者たち」斉藤惇夫







食わずには生きてゆけない。


メシを


野菜を


肉を


空気を


光を


水を


親を


きょうだいを


師を


金もこころも


食わずには生きてこれなかった。


ふくれた腹をかかえ


口をぬぐえば


台所に散らばっている


にんじんのしっぽ


鳥の骨


父のはらわた


四十の日暮れ


私の目にはじめてあふれる獣の涙。


石垣りん 「くらし」