もし親が、倒れて寝たきりになったら、たぶん殺すかもしれない。



親の死が、子供のときから私が一番祈ってきたことだから。

できたら合法的に殺したいんだけどな。


あいつらにとっちゃ「人間は機械」で、「何も感じない」そうだから、



殺されたって痛くも痒くもないだろ。

本屋で何度か立ち読みをした

中村 淳彦さんの「名前のない女たち」。

ずいぶん前から出ているシリーズ本で、今丁度「最終章」という本が出ていて、

8年にもおよぶシリーズ本。

内容は、「AV女優たちへのインタヴュー」。

彼女たちの「素顔」とやらは、中村さんの予想を上回る、

地獄のように深い闇だったことを知る。

立ち読みしたのは、今出ている「最終章」。

まるで、今まで中村さんが出会った女性たち、

延べ500人の人生の「最終章」というような衝撃。

性風俗に身を落とす女性たちは、当然といえば当然ながら、

性や、人間、世界の価値観への、歪んだ先入観を植え付けられている。

子供のころから性虐待を受けている人がほとんどだ。

子供のころから、輪姦だの実の親から大人になってもレイプされている人もいる。


性虐待、虐待、親の離婚、親の価値観の押し付け。

最初から、壊れた家族、壊れた人生から出発し、

闇の底の人生から這い上がろうとして、最後は壊れた世界の瓦礫の中に蹲る女性たち。
世界の闇の底、絶望の果てとは、こういう場所かもしれないと思う。

世界の闇の底、欲望の果てから上がる絶望のうめき声。

わたしの中で、完全に、「それ」を呼びうる名前を、喪失していた。

「不幸」、「可愛そう」、「痛い」、「傷」、「同情」、「憐憫」、・・・・・

そういう言葉を凌駕する。

中村さんが、彼女たちに接して感じたこともこういうことで、

それで「名前のない女たち」かと思った。

実際は、本名を捨てて、AV女優としての源氏名で生きている彼女たちの無名性のこと。

強い感動に接したとき、人は、それを名づける「言葉を喪う」。

これは、ネガティブな意味で、言葉を凌駕するもの、名づけを超えるもの。


彼女たちの存在自体が、「告発」だと思った。

救われない、救いを拒否する、救いの届かない彼女たちの人生自体が、

今の世界への、今の人間への、不完全さへの「告発」だと思った。

他者の欲望のはけ口にされ、欲望に利用され続け、欲望の果てに、

擦り切れたように生を終えていく彼女たち。

救われない彼女たちの存在は、救いのないこの世界への告発だと思った。



国連から「日本の子供たちは社会的ネグレクトに遭っている」と警告を受けたのは

十年以上前だっただろうか。

見守られることもなく、名前を呼ばれることもなく、

触れられることもなく放置された闇は増殖し続け、

世界を侵食し、喰らい尽くす。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


宝島社


http://tkj.jp/book?cd=01698101


9月4日ロードショー映画「名前のない女たち」公式サイト


http://namaenonaionnatachi.com/index.html



空-10-08-01_012.jpg






「イエス・キリスト・神の・御子・救い主」の頭文字を


綴り合わせて生まれた「イクトス」は、ギリシァ語で魚を意味します。


草創期のキリスト教で魚をキリストの象徴とした言い伝え


にならって、私たちはこのサカナをシンボルマークにしています。


二枚目は、田舎の小学校に通っていた一年生のときか、もっと上、祖母の家の庭。

庭に置かれている、岩の上。

岩の上に仁王立ちしているわたしを、下から捕らえるアングル。

仁王立ちになって、体は正面に向け、顔は左横を向き、

「少年よ、大志を抱け」

の銅像のように、やはり、何もない、遥か遠い虚空の一点を、

右手を真っ直ぐに伸ばし、人差し指で指差して、

私の視線も、何もない虚空を指差す指先の向こうを見つめている。

どこまで手を伸ばしても、

わたしの人差し指は、針のない羅針盤のように、

何もつかめない、何もない虚空を、指差し続ける。

わたしの視線と意識を、

今、ここ、から飛び立たせ、

自分で掘った墓穴である、自分で創出した、

架空の、虚空のユートピアに彷徨わせる。


それを撮ったのも父だ。

わたしは珍しく、スカートをはいている。

岩の上にいる私を、下から父が撮ることに私の中で、何かが微かに疼いた。

けど、私は、もう何も気にしていない。

今度は、私は笑っているから。

父よりも笑っているから。

父の笑いを貪り食うように、笑っているから。


上野公園だろうか、やたらに鳩の多い、どこか開けた場所。

おめかしした母と、1、2歳のわたし。

立った母に抱かれている。

父がカメラを構えて、幸せな親子の図を撮る。

密着した母の体温が気持ち悪い。

ここから気持ちが逃げられるものならなんでもいい、わたしは目をさまよわせる。

母の足元に群がる、鳩の一群。

たぶん、生まれて初めて見る鳩だ。

母でなければなんでもいい、

幸せな家族の図を捻出する父でなければなんでもいい、

私は鳩に精神を集中する。

やわらかそうな羽、温かそうな体、繊細な造詣、

私と同じくらい、私よりも小さくて非力そうだから、

強い共感のような感情に見舞われる。

鳩が興味深そうに、片方の目で、私に焦点をあわせている。


鳩と私の視線が交わった瞬間、奇妙な、けれど心地いい感覚が流れ込んでくる。

鳩の目、鳩の思考、

すべてをまたぎ越える羽に、風をはらみ、

地球の磁場を感じて家路を知る鳩の感覚で世界を見ているような、

そしてその鳩は、

今、私の目、私の思考、

鈍重に大地に足を下ろして生きる、私の感覚で世界を見ているような。

一瞬、鳩の魂と、私の魂が、一体になり、チェンジリングし、交わり、交差し ―――

鳩の世界が私の中に流れ込んできたような、

そこには、風と陽の光しかない、柔らかい空に抱かれているような、

光に包まれているような、心地いい、経験したことのない、浮遊感を味わう。


その時の写真には、母の足元に群がる鳩を凝視するわたし、

母の腕に抱かれている私を凝視する鳩、

その写真の一番手前の右端の何もない地面、

ちょうど私が視線を落としている鳩の足元あたりに、

太陽が落ちている。


小学生のとき、授業の一環で「自分史を作ろう」という、

私にとっては、皮肉でしかない授業があった。

冊子状にした画用紙に、自分だけの写真を貼り、解説を書いた、

自分だけのアルバムを作ろうというものだった。

アルバムを漁り、自分の写真を選んで剥がしてしているとき、この写真を見つけた。

これ、なに ?

母に聞くと、

太陽が落ちてきたのよ、

と答えた。

答えをはぐらかした母の、

予想外に詩的な言葉の余韻に酔い、

その後、この写真に写っているもののことを、あまり深く考えなかった。

その後、級友に、不思議な写真の一枚として、見せびらかしながら、

これ、何 ?

と問われるたびに、私も母と同じく、

太陽が落ちてきたんだよ、

と、答えをはぐらかして、答えていた。


母と、私と、鳩が写った、手前の地面の上に、

昼間の太陽くらいの大きさ、明るさの、

眩い光の球が映っている。

それが実際何なのかわからない。

カメラの、光の映りこみみたいなものにしては、

子供でもわかるくらい、破格なくらい大きく、明るい。

なんだかはわからないけれど、ただ、それを見つめると、今でも、あのときの、

まるで太陽と一緒にいるような、熱いのに温かいような、

光と空に抱かれて浮遊しているような、

人間の薄汚い思惑を超えた、大きなものと一緒にいるような、安心感と、心地よさを感じる。


うす曇りの、霧がかった、小雨の振る屋外、

夏だから袖のない薄手の服を着ているけどうす寒い。

公園。

写真の下に、

恐竜公園 0歳

と書かれている。


黄昏の空を見つめて-HI3H02630001.jpg


わたしは乳母車の中でまどろんでいる。

兄も姉もいるのに、この写真を撮っているのは母なのに、

ここは、妙に居心地がいい。

いつもと違って、気を張って、警戒を怠らず、

回りを警戒して、目を見張っていなくてもいいような空気がある。

それで、いつもと違って、気を緩めて、

彼ら、敵の中で、

わたしは、無防備にも、乳母車に身を預けて、まどろんでいる。


あ、と気がつく。

兄と姉が遊んでいるものは、あれは、恐竜だ、

恐竜の実物大のコンクリート像。

アパトサウルスだろうか、首の長い草食恐竜のしっぽに、

兄と姉が、ちっぽけに、無様にしがみついている。

わたしはその光景を見て、ほくそえんだ。

どことなく、いつもと違って、控えめで、おじけてるんじゃないか ?

いつも、わたしに対するときの、かさにかかったようなのと違って。

なんだろう、ここは妙に気持ちがいい。

トリケラトプス、ティラノサウルス、ディプロドクス、

とうに滅び、でもいまだ威容を喪わない、彼ら恐竜のシルエットが、

遥かな時間を越えて、わたしを守るために、

わたしの敵に、わたしを一方的に敵視するやつらに、

睨みをきかし、牙をがちがちと鳴らしてくれているようだ。

なんだか母も、いつもと違って、わたしやきょうだいに、

「幸せそうな」を要求しない、

なんだかいつもと違って、母も、ものわかりがよくなっているようだ。

わたしは、わたしももし、きょうだいのように、

今、立ち上がり、走り回ることができたら、

真っ先に彼ら愛すべき恐竜たちのところに行って、

彼らのように、怖気たりなんかしない (たぶん) 。

彼らの尻尾に抱きつき、首を抱き寄せ、

牙を剥いた歯や、わたしの敵に睨みをきかせる眼を覗き込んで、

にっこりと笑うだろう。

今度こそ、わたしの、本当の気持ちで、本当の、笑い顔で。

人間に、家族に、わたしが奪われた安心感を、

恐竜たちが取り戻してくれた、感謝と、信頼をこめて。

でも残念なことに、わたしは、眠くて眠くて、仕方なかった。

それに、まだハイハイもおぼつかないわたしが、

乳母車から出ようなどという気配を見せたら、

母のヒステリーを買い、わたしが不快な干渉を受けることは、眼に見えていた。

だから、わたしが、一生好きになる相手だと見込んだ者に対して、

わたしは、ぶしつけにも、半分眠りながら、半分夢の中から、

ラブコールを送るに留めただけだった。

その大きな、でも決して、ちっぽけなくせに威圧的になりたがってばかりいる、

人間や家族のようには威圧的ではない、

安心感を与えてくれる、存在感。

黄昏の空を見つめて-HI3H02610001.jpg


わたしは、ようやく信頼するに足る、インプリンティングするに足る対象を初めて認めた雛のように、

うっとりしながら、壁のようにそそりたつ、恐竜たちの大きな尻尾を横目で見ながら、

うとうとしていた。

ここに住みたかった。

彼らの子供になりたかった。


なのに、安心しすぎて、眠りに落ちてしまったのが運のつきだった。

わたしは、親元からさらわれるようにして、

眠っている間に、そこから連れ去られてしまった。

さよならをいう機会さえ与えられなかった。

その後何度も、本当の親として本当の親に感じる安心感とともに、

太古の姿そのままに霧の中にぼんやりと浮かび上がる、彼ら恐竜の姿が思い浮かんだた。

そこからわたしを連れ去った、わたしの家族だと証する彼ら人間への恨みとともに。

この記憶が、今、覚えている中で、思い出した中で、唯一、肯定的な感情を体験した記憶だ。


赤ん坊とは、無垢で純粋で、まっさらだという。

赤ん坊であることが、人間の始まりだからだ。

赤ん坊として生まれてくる前は、無だから、

まっさらな状態で生まれてくるというわけだ。

でも、わたしはそうは思わない。

わたしは、赤ん坊のころから、人間のあらゆる負の感情、

負の感情オンリーを体験した。

憎悪、不信、打算、嘘、虚偽、欺瞞、自己防衛、敵愾心、恐怖、不安、

怒り、警戒、疑い、諦念、絶望、敵意、自暴自棄。

感情というより、感情に膨れ上がる以前にしぼんでしまう感覚のようなもの。

肯定的な感情は、全く経験しなかった。

わたしが特別、性悪な性格の赤ん坊だったのかもしれない。

けど、赤ん坊が、重水無垢でまっさらな状態で生まれてくるとは思わない。

それは、人は無から生まれ、死んだら無に帰る、

という考え方になるからだ。

無から記憶の記録は始まり、死ねば、記録はまた、無に帰す、という。

無からは何も生まれないし存在したものが、無になることは、

物理学的にいっても、そっちのほうが難しいと、普通に思うからだ。

生は、何かから生まれ、始まり、死は、何かに姿を変えて、存在を続ける。

生命を持たない機械でさえ、有から生まれ、

存在は、姿を変えても、存在をやめない、存在し続ける。

分子になって、原子になって・・・・

この、人間の、世界の、膨大な情報量という記憶も、生と死も、

眼に見えないだけというだけで、無から生まれるではなく、何かから始まり、

死んで無になるのではなく、また、何かになるだけなのだ。


意図的に記憶を削除する方法は、5歳のときに覚えた。

それ以来、ビデオテープの重ね取りを繰り返すみたいに、

記憶をリセットするようになった。

だから、不可抗力で記憶を失ったというより、

一度カンバスに描いた絵が気に入らないからと、白の色で塗りつぶし、リセットして、

また新しく書き始められる、まっさらなカンバスだという、

振りをしていたにすぎないので、それはただの、記憶の隠れんぼにすぎなかった。

意図的に削除した記憶というのは、誰にも見つからないように隠した秘密、

嘘のようなものだ。


親に、人間は、何も感じない、何も考えないはずの機械なのだといわれていたし、

そういう目で見られ、そう扱われ、

その部分に抵触し、感情的になったり、自分の考えを表すなどすると、

精神異常者、狂人扱いされ、親から激烈な反応を巻き起こしたので、

わたしは人生をかけて、「人間は機械だ」という論理に適応した。

機械に感情はない、機械に思考はない、機械に記憶はない、

機械に他者と関わりながら自立的に連動する「自己」はない、

機械に過去も未来も今もない、機械に時間は存在しない。

日々呪文のように言い聞かせていた。

感情、思考、記憶、他者との関係、

「自分の物語」といえる一切のものを喪失したもの、

それが機械だった。

わたしはそれになろうとして、それらをリセットし続けた。

それで、17歳のときすべての記憶を喪った。

感情も、思考も、記憶も、喪った。

過去も、未来も、今もなかった。

どこからきたわけでもなく、どこにいけるわけでもなかった、

ここにいるのでもなかった。

機械は「いる」のではなく、「ある」だけだ。

17歳、私は機械として完成した。

人間としては壊れた。

誰か、誰でもいいから、猛烈に殺したかった。

客観的にいって、よく親に指摘されたように、わたしは、

精神異常的な状態にあるのだろうと思い、

とりあえず心理学の本を読んだ。

その中で、再三いわれていたのは、

自分の感情と、思考と、記憶を、自分が主体的に体験した人生の物語として、取り戻すことだという。

読み漁った本の中に、デイビッド・チェンバレンという人の、

「誕生を記憶する子供たち」という本があった。


それを読んでいるうちに、それを読みながら、本の言葉を命綱に、

記憶の水深に潜っていくように、写真を見つめているうちに、こうしたことを思い出した。

詐称した記憶ではないかと、まずは疑った。

けれど、わたしに、想像力豊かな作家のような才能などないことははっきりしていたし、

それでそのような映像が浮かんでくる理由もなかった。

それに本によれば、詐称した記憶は細部があいまいで、

思い出すたびに細部が食い違うということだけど、

わたしは思い出そうとするたびに細部が明確になっていくので、

本当の記憶だということを、慎重に判断を下した。


わたしに乳幼児のころの、意思的な記憶があることの衝撃よりも、

そこに映っている、乳幼児とは思えないような表情をしている、

わたしの写真のほうが、もっと衝撃だった。

衝撃とともに、思い出した。

思い出したという感覚より、何かの拍子で読み飛ばしていた小説のある箇所を、

そこでもう一度発見したような気分だった。

わたしは、かくれんぼをしたまま迷子になっていたわたしの記憶に、

わたしの物語に不意に出会い、面食らったのだ。

今では、胎教など、羊水の中にいる胎児のころから、

すでに意識があるものとして認められ、

負担の少ない自然分娩などが流行したり、乳幼児のころから、

読み書き、計算などの教育をするなど、

赤ん坊の意識の存在は、今では一般的になっているかもしれない。

では、その意識は、形態に宿る前の意識は、どこから来たのか ?

形態に宿る前の意識は、命とは呼べないだろうか ?

形態を終えた後の意識は、どこへ行くだろうか ?

そもそもその存在は、認められているだろうか ?

形態を終えた後の意識は、命とは呼ばないだろうか ?


ただ、記憶を取り戻すことは、自分自身を総体的に知るため、

と心理学なんかでは言うけど、この記憶により、わたしには、

かえっていっそう、わからなくなった。

記憶を知れば知るほど、

迷路の暗闇の奥に迷い込んでいくような気がする。

記憶の限界が、わたしの存在の限界なのだろうか ?

記憶が始まる前は、わたしが存在し始める前なのだろうか ?

わたしは、記憶とともに始まり、記憶とともに終わる存在でしかないのだろうか ?

わたしはあんなにも、最初から、信じることを知らない、

愛することを知らない、疑い、狡知し、逃げ、隠れ、騙し、

人間の負の部分ばかりを積載したような、性悪な人間だったのだろうか。

だとしたら、そんなわたしに、何の希望がある ?

思い出すことで、かえって、自分というものが救いがたく、

混沌としてしてきてしまったような気がする。

こういう混乱のために、記憶を抑圧する必要があったらしい。


私を傷つけている私の記憶とは、誰かが私に何かをしたための記憶ではなく、

弱さと卑怯さ、卑小さから、現実と他者から逃げ隠れ、

その存在の初めから、何処から、

いつから存在し始めたのかもわからない、

おそらく、いまだに存在してさえいない、

偽りの存在として、虚構的な存在として、

「わたし」が始まったということだ。

「わたし」は、嘘から始まった存在なのだ。

「わたし」の自己表現は、嘘から始まったのだ。

わたしは、嘘でできているのだ。

わたしに一番わからないのは、わたしは本当にはどうであるかなのだ。

あの時、もし、笑うのではなかったら、

どんな本当の声で、どんな本当の顔で、どんな本当の、わたしの言葉で、

どんな本当の、わたしの生の表現を、行為したか、ということなのだ。

そして、それを知る機会は、一生、ないのだ。

二度と取り戻せない、本当の自己表現の機会を奪われた、あのときから、

自己表現の機会を放擲した、あのときから、

それを知る機会は、一生、空白のうちに、喪われたのだ。

わたしが、喪われた記憶の中に見つけたのは、

そこにいたのは、最初から存在していないわたしだった。

わたしが喪われている光景だった。


喪われた記憶を思い出すということは、発掘作業に似ている。

断片的な、記憶という骨を繋ぎ合わせて、その意味を慎重に探偵しながら、

もう一度、自分という全体像の、骨格を、取り戻す。

喪われた記憶とは、いくら、世界中の興信所を雇っても、

世界中の、どんな名探偵を幾らで雇っても、

けっして暴くことのできない、魂の物語なのだ。

それは、決して、暴くことのできない、

決して、損害することのできない、

どんな視線も、侵すことのできない、プライバシーなのだ。


迷子になった、家路の喪われた記憶とは、

赤裸々に秘密を暴くような、英雄的なものではなく、

迷路の暗闇を、手探りで、怯えながら、また再び出会うために、

闘いながら、一文字一文字、空白の中に獲得していく、

それは、「わたし」の、魂の物語なのだ。

そこにいるのはほんとうに人間なのだろうか?

何かを感じたり、考えたりしているのだろうか?

したがって、新生児はただ小さく愛らしいだけ、人間以下、人間以前、無能力、

無感覚とまでいわれ、そのように扱われてきた。

脳がないものに、意識も経験も記憶も知性もあろうはずがなく、

事実上人間出ないのと同じというわけだった。

心理学者は新生児を「自閉的」存在と決め付け、

社会的信号に対して感受性なしとしてきた。

ジャン・ピアジェが新生児に用いた言葉は「唯我的」。

驚くべきことに、多くの行動が最初から複雑だったのだ。

彼らは単純な生き物どころか、複雑で年齢を超越した存在だ。

彼らの心に去来するものは、その深さと質とにおいて、

時間的な成長や脳の物理的状態から予測されるものとは、全くかけ離れている。

出生時の記憶には、まるでタイム・カプセルのように、

眼を見張るような赤ちゃんの人間性と思考の証が詰まっている。

人格や正確にも未発達な幼稚な感じは微塵もなく、

年齢を超越して、最初からそのままの形で備わっているかのように見えた。

わたしは、出生時の記憶から、人間の意識が肉体を超え、

年齢に関わりなく連続し、成熟しているのを知った。

すなわち非身体的でありながら意識のある生命に対して、

わたしが与えるもっとも的確な説明は「霊」なのだ。


あなたの赤ちゃんは生まれるずっと前から個人として行動している。

その上、あなたが親になる方法まで教えはじめるのである。

おそらく、赤ちゃんはほかのいろいろなことを知っているのと同じように、

あなたの罪悪感も知っている。

そしてその解決を手伝おうとしている。

赤ちゃんの目を覗き込んで見るなら、あなたはそこに、

一人の人間が厳然として存在するのを感じることだろう。

微笑みが拒絶されたとき人間関係も崩壊したようだ。

赤ちゃんが微笑みを通して、

心から心への大切なメッセージを送っている。

完全な、意図的な、コントロールの利く微笑みは、

生後六週間で現れる。

新生児の人間性の表現として、

微笑みほど魅力的で値打ちのあるものはほかにないだろう。

眼と眼がぴったり合い、

心にしみこむような視線があなたを感動させるだろう。

強い絆を育むものは、

この最初の眼と眼の出会いなのだ。


出生体験の報告は眼を見張るほど事細かで暴露的である。

そこには彼らのもっと拡大された意識の世界さえ垣間見ることができる。

ウィリアム・ジェイムズは、普段働いているわたしたちの意識は、

意識の一タイプに過ぎず、その周囲には、全く違うタイプの意識が潜んでいると延べ、

その例として、睡眠、夢、白昼夢、催眠状態的トランス状態、瞑想、

さらにテレパシーや千里眼や霊媒状態といった超感覚的状態をあげている。

新生児のこころは、こうした可能性のすべてを秘めているのである。

出生時の記憶が取り沙汰されだしたのは一九八〇年代である。

そのときぽつりぽつりとしみ出してきた地下水脈が、

今は世界中いたるところではげしく吹き上げ、奔流となっているかのようだ。

もしあなたが、自分の出生体験をいくらかでも思い出したなら、

あなたは選ばれた、だが急激に数を増しつつあるグループの一員なのだ。

出生時の赤ちゃん自身がすでにアイデンティティをもつことも示している。

これは親が与えたものではなく、彼らが心を働かせて行動し、

自分という芯の周りに経験を積み上げながら育てたものだ。

しかしこのアイデンティティはこわれやすく、つねに危険にさらされている。

拒絶、絶え間ない悪口やあら探し、

肉体的虐待等が彼らのアイデンティティをぐらつかせ、

混乱させ、ときにはこなごなにしてしまう。


永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。

おそらくはその場に居合わせた人が私に話して聞かせた記憶からか、

私の勝手な空想からか、どちらかだった。

が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。

産湯を使わされた盥のふちのところである。

そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているように見えた。

ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかと見えて届かなかった。

しかしそのふちの下の所の水は、反射のためか、

それともそこへ光が入っていたのか、なごやかに照り映えて、

小さな光る波同士が絶えず鉢合わせをしているように見えた・・・


三島由紀夫「仮面の告白」の冒頭です。

「誕生を記憶する子供たち」デイビッド・チェンバレン



おお、私の魂よ、わたしはお前の憂鬱な微笑を理解する。

おお、私の魂よ!

お前の微笑をみて、涙をこぼさないものがあろうか?

天使でさえ、お前の微笑のあまりの善意を見て、涙に咽ぶ!

おまえの善意、溢れる善意は、嘆こうとしない、泣こうとしない。

しかし、お前の微笑は涙にあこがれており、

お前の震える口は、むせび泣きにあこがれている。

「泣くということは、嘆き訴えることではないか。

嘆き訴えるということは、咎めるということではないか。」

そうお前は自分に言う。

それゆえにお前は、お前の悩みをあらわに撒き散らすよりは、

むしろ微笑むことを選ぶのだ。


しかし、お前が泣こうとせず、お前の真紅の憂鬱を泣き尽くそうとしないなら、

お前は歌わずにはいられないだろう。

――― 怒涛のような歌で歌うのだ、ついに海も静まって、

お前の憧れに耳を傾けるようになるまで ―――

「ツァラトゥストラ」ニーチェ



嘘偽りはふつう何か真実を隠すために使われる。

何か恥ずかしいことかもしれない現実のことだ。

彼の嘘は何も隠していない。

偽のドクター・ロマンの下に真のジャン・クロード・ロマンはいない。

一人でいるときは車を運転する機械、歩く機械、読む機械になっていて、

本当に何かを感じたり考えたりしない麻酔をかけられたドクター・ロマンの残骸だったのだろうか。

ドクター・ロマンの皮を脱いだら彼にはもはや誰にも残らない。

このジャン・クロード・ロマンはまさに数学で言う"無解"だった。

内部に巣食った嘘つきに弄ばれているのではないか。


母親は何事につけても気苦労をする質で、少年は早くから、

母に心配をかけないように本心を隠すことを覚え、

決して感情を表さない父を尊敬し、父に似たいと思っていた。

なんでもいつもうまくいっていなければならなかった。

さもないと母の健康にさわる。

子供心の小さな悩みなんかで母をわずらわせるのは恩知らずだった。

また、決して嘘をついてはいけないとも教えられていた。

その一方で、本当であってもいってはならないことがあった。


「当時、わたしは嘘はつきませんでした。

でも、心の底は、誰にも決して打ち明けなかったのです。

私はいつもニコニコしていました。

"何も他に隠すことはありませんでしたが、それだけは隠していたのです。

この不安、この悲しみだけ・・・"

失望させたくないというこの歯車に巻き込まれてしまうと、

ひとつの嘘が次の嘘を生み、それはもう一生なのです。・・・」


「弁護士は彼が取り乱すといいと思っている。

よろいをはずさせたいのですよ。

はらわたから出てくる声がない。

こいつは重病人だ、こいつを裁判にかけるなんて気違い沙汰ですよ。

彼は自分を抑制しています。

すべてを抑制している。

そのおかげで立っていられるんです。

我々の前にいるのは人間だとみんな思っているが、もう人間じゃない。

もうずいぶん前から人間ではなくなっている。

真っ黒な穴みたいなものだ。

見ていて御覧なさい、われわれの喉下に食いついてくるから。

狂気とは何か、分かっていないんだ。

恐ろしいことだ。

この世で狂気ほど恐ろしいものはない 」

彼の内部で開いていった大きな穴。

その穴はだんだん大きくなって、ついには黒い服を着た人間の形骸になってしまい、

そこから冷たい風が流れ込んできてこの老練な画家の首筋をゾクゾクさせているのだった。


あなた自身の中へ入っていくカギがないこと、

あなたの中で < わたし >というものがあるべき場所には空白しかなく、

それがどんどん広がっていく。

私自身の名前で、

あなたの歩いた人生の中で私に訴えてくるもの、

私の人生の中でそれと共鳴するものを語ること、

これしかないと思い至りました。

ところが、それができないのです。

言葉が逃げていき、 <私> が嘘に響きます。


「真実は人間を自由にする」

とキリストは訴えた。

子供というものはいつでも何でも知っている、何も隠せない、という。

僕も本当にその通りだと思う。

もう一度、写真を見る。

分からない。

「嘘をついた男」エマニュエル・カレール

人間とは、記憶でできているものだという。

ロマンチックな言葉だけど、私はそうは思わない。

人間自体は、もっと即物的なものでできていると思う。

人間が、唯一、他の生物と異なり、人間であることを証しているのは、

自分を「自分」としてとらえ、「わたし」を内省することができることにある。

記憶は、「わたし」を総体的に内省するため、

「わたし」にいたるための道標なのだと思う。

「人間」が記憶でできているのではなく、

「わたし」が記憶でできている。

人間は、意識的に覚えられることより、意識から失われていく記憶のほうが多いので、

昨日の夕飯を思い出せないことを、記憶喪失とはいわない。

記憶喪失、喪われた記憶というのは、わたしにとって、

「わたし」に帰る道を喪って迷子になった、私の断片だ。


生後すぐのころの記憶がある。

私が始めて写真を撮られたのは、出産後間もないときのことだと思う。

まだ病院にいるときか、家に帰ってすぐのときだと思う。


ガラスの壁の向こう側に、何人か人影がある。

私を見て、愚かしく笑っている。

楽しくて笑っているのではない笑い。

何の感情とも情緒とも関わらない笑い。

笑う場面だから笑っているだけの、機械的で自動的な笑い。

わたしは恐怖に疼く。

警戒する。

感情と何のかかわりもない笑いを笑えるやつは、

自分の情動から切り離された笑いを笑えるやつは、

自分の感情と関係のない行動ができるやつは、

何も感じないから、相手にも感情を認めないから、

どんなことでもやる、何でもやる。

気をつけろ。

ガラスの壁の向こう側にいる彼らをにらみつける。

わたしを彼らの視線で貫き、私の視線を奪う彼らの視線を、睨み返す。


なぜか白黒写真で、私の顔の前に、うっすらと、

ガラスの壁に反射する彼らの姿が映っている。

わたしはそんなことを考えながら、ふてぶてしいといってもいいような、挑戦的な、

憮然とした顔を写される。

写真のしたには、 0歳 とかかれている。

でも、何を洞察しても、私には何もできないことをわたしは知っている。

これからは彼らのルールで生きていかなければならない。

わたしはもうすでに、人間扱いされていないことを知っている。

もうすでに、人間視されていないことを知っている。

弛緩するような諦めが、じわじわと私を蝕む。

今後、彼らと一緒にいなければならないうえに、

彼らに危険を感じながら生きるのなら、

いっそ彼らと同化して、彼らと同じ仲間になって、

危険を感じずに生きるほうが楽になるだろう。

そのうち、やがて、ガラスの壁の向こう側にいるのが、

彼らなのか、わたしなのか、分からなくなるときがくるだろう。

もうすでに、私の中に、冷たく硬いガラスの壁が、私を分断しつつあるのを感じる、

私を感じることから、分断するのを感じる。

眠るしかないと思う。

諦め、弛緩し、私は目を瞑って、無意識の闇に身をゆだねる。


春うららかな陽光溢れる公園で、家族とピクニックの写真。

草原の上に、シートを広げ、水筒やバスケットのようなもののなかに、

母が私を膝に抱いて座っている。

険しい顔をして、犬を呼ぶように姉を手招きしている。

写真の枠の外から、誤って舞台に顔を出してしまった人ように、

姉の半身が映っている。

知的障害の姉は、いつも、卑屈な半笑いを顔に張り付かせている。

弾けるようなわらいではなく、じくじくと滴るような笑い、

いつまでも止まらない出血のような、滲み続ける笑い。

いつも姉は、親の道具もちの役割だったので、いつものように、卑屈に前かがみで、

大きなバスケットを両手に持って、小走り気味に母の元に急いでいる。

兄はいつものように、家族の外縁を、

不穏な気配を漂わせながらうろついていて、写真の外にいる。

父は平和な家族の団欒のポートレートを作るために、嬉々としてカメラのシャッターを押す。

母の金切声が、母の膝の上にいる私の耳を貫き通す。

早くしなさいっていってんのよ、

早くしろっていってんの、

早く、

早く、

さっきから、早くしろっていってんのが分からないのか、

早くしろっていったら早くしろ、このガキ、

バスケットには、早急に必要な、私のために必要な何かが入っているらしい。

わたしは、自分の状態に、なんら緊急性を感じない。

母のは、私のための焦りというより、

子供の命を尊ぶ母という崇高な職務を果たしているのを、

愚鈍な子供が邪魔をする、というあてつけ的なものらしい。


母の罵倒はいつも、最後には、言葉にもならない金きりな雄たけびになる。

わたしは、自分の意識を、強制的に、鈍感な半睡モードにしている。

母の金きり声の槍に体中突き刺されながら、

一見、母の膝の上で、平和に眠る子供。

姉の、しまりのわるい蛇口から、滴り続けるように笑う目の奥の、

笑っていない、冷たく硬い光に、わたしは軽く戦慄する。

姉はバスケットを運んできて、

母の膝上の私を覗き込み、棒読みに、

「わあ、赤ちゃん、かわいいー」

わたしは、その言葉とは裏腹の、重く、どろどろした粘つくような姉の視線を感じる。

頭が鉛を詰め込まれたように、ずんと重くなる。

母は、

いいから、早くしろ。

母が姉から、膝の上の私に顔を戻した。

顔中いっぱいに、深くくっきりと刻まれたしわが、姉に向けて、

めいっぱい発散されていた母の憎悪を、

私に向けて滴らせ始める。

私の視界一面を覆った、母の憎悪。

うららかな春の陽光を投げかける太陽をさえぎる、母の暗黒の憎悪。

わたしは電流を流されたように、慄き、硬直した。


わたしのなかで暗黒が口を開き、不穏なエネルギーが渦巻き始め、

私の口を破って白日の下に出、この光景に叩き付けられようとしていた。

私の中の暗黒で渦巻き始めたエネルギーが、

「彼ら」の現実を食らい、侵食しようとしている。

泣くか、

泣けるだろうか、

泣きたいだろうか、

泣く勇気があるだろうか。


これは、「私」の現実であって、「彼ら」の現実ではない。

わたしは、わたしの中のものが、彼らにとって、非現実であることを知っている。

ここで泣き叫んだら、平和で何の問題もなく、完璧に調和している、

この幸せな家族に、何の不都合、何の不満があるのだと。

理由もなく泣き喚き、関心を引き、負担をかけ、

自分勝手な都合を押し付けてくる子供だと、

こいつは、自分たちとは違う現実を見ている、

自分たちに不都合な現実の見方をする、

と、今後、警戒され、私の現実認識を、今後、ことごとく、

強制的に矯正されかねない。

私の現実ではなく、「彼ら」の現実に。


ここで、「彼ら」の現実にはむかう事をしたら、

泣き叫ぶという、彼らに、彼らの作る環境に、

異議あり、不快あり、問題あり、改善を要求する、

そんなジェスチュアをすれば ―――、

わたしは「彼ら」の現実から抹殺される。

いや、もうすでに、抹殺されている。

「彼ら」の現実の見解と異なる「わたし」の現実認識への、

なんらかの粛清の予感に怯えて、

私の中の暗黒が、外の光とつながるトンネルの、

出口と入り口をふさがれて、隔絶されていること、

ふさがなければならないことを知って、

自らに抑制をかけているということが、

すでに、私に起きている抹殺。


でも、ここで、宗教戦争のように、

ひとつの異なる現実認識の前に、もうひとつの現実認識を、

ちがうからといって、恐怖の予感によって、提示することさえしないのは、

彼らに、フェアではない、恐怖政治的なやり方を許すことになるだけであり、

今後、お互いを認め合っての統一された現実認識ではなく、

地雷を踏まないよう、お互いの顔色を伺いあうだけの、

力だけがものを言う、不信を基礎にした関係でしかなくなる。

なんでも言いなりになる子供が小さい今ならそれでいいけれど、

それは、今後、まわりまわって、

力関係だけがものをいう、ということを知った子供に、

関係を逆転された時、親は、逆襲されるだろう。

ここで、私が、正直な反応を示せば、万が一にでも、

母親は、自分の態度が、子どもに有機的に関わっていくことを悟り、

自己管理することが、他者との関係を管理することでもあるのだという、

自己閉塞した世界から、他者に開かれた見識を持つ機会にもなるかもしれない。

母親としての態度を自覚する、最初で最後の機会になるかもしれない。


判断と選択の硬直。

一瞬の永遠。

この判断が、一生を左右する、取り返しのつかないものになるかもしれない

ふと私は、そんな予感がした。

この判断が、一生取り返しのつかないものになるかもしれない

ならば、いっそ、取り返しのつかないものになればいいのだ。

こんなにも、取り返しのつかないことになるかもしれない、

穴ぼこだらけの、出来損ないの人生から、

取り返しがつくように、恩恵にあずかろうと、

安全運転で、後生大事にしてやるよりは、

いっそ、取り返しのつかないことになればいいのだ。

私に割り振られたのが、呪われた、こんなに出来損ないの人生なら、

いっそ、ぶち壊しにしてやると、私のほうが、運命を呪い返してやる。

ふいに荒んだ、自暴自棄な声がした。


春うららかな陽光、ほほをなでる誰かの暖かい手のような風、

何の不満も、問題も感じない人間たちの作る、

楽園のように平和で、何の不満も問題もない、

完璧に整合した、幸せな家族。

その中に、私の中に生まれた、

「彼ら」の現実が作っている環境に対する、

絶対的な抗議に満ちた、暗黒のエネルギーを、

わたしは、叩きつけることは、できなかった。

母だけではない、

愚かしくにたにた笑いながら、わたしにどろどろした視線を向ける姉、

獰猛な雰囲気でうろつく兄、

ひたすら嘲笑的に笑いながら写真を撮っている父、

彼ら、四人ともをも敵に回すことは、わたしには、できなかった。

わたしは、力づくの意思で、私の中の闇からくる声を、

外に出さないよう、それが決して光を見ることのないよう、

わたしのなかの牢獄の中に押さえ込み、

二度と出てこないよう、圧殺した。


考えろ、考えろ、考えろ、 ――― 感じないために。

身体感覚的な、感じることを全力で切り離すと、

頭で言語的に思考するほうが、より明晰になった。

そして、私自身、この平和で幸福な家族の、

光に満ちたピクニックの光景の中に、

わたしの抗議や不快が、何を根拠にして、どこに向けてのことなのか、

わたしはすでに、彼らと同じように、

わたしの内在するものに、現実感を欠いていた。


わたしは、考え、妥協案を探ることにした。

今後私が彼らと生きていくために、私は親に幸せにしてもらう必要がある。

そのためにはどうしたらいいか。

私が、親を幸せにする必要がある。

親自身が、水に飢えているようなものなのだ、

水に飢えている人は、自分のことばかりで、他者に与える水を持たない。

私が、親に不足している関心と愛情という水を与えることで、

一定量に満ちた水が、他者に分けられるように、

親はまた、私を愛せるようになるかもしれない。

私が、親を育てる親になる必要がある。

親に関心を与え、愛し、親を幸せにする親に。

親が、わたしに育てられ、幸せになったら、今度はそのときに、

やっと、私が親の子供になって、愛され、幸せにしてもらおう。

わたしは、とても理論的だと思える解決策を見つけ、

また、今までよりもずっと明晰に、言語的思考ができることに、

何か自由を得たような開放感がして、嬉しくなった。


それまで、わたしがお母さんに育てられるのをお預けにしてもいい。

わたしがお母さんを幸せにしなければ、

今度はお母さんが、わたしを幸せにできない。

この人のほかに、わたしを育てる人はいないのだから、

わたしがこの人を幸せにしなければならない、

わたしがこの人に、幸せにしてもらうために。


自己評価の低そうなこの母親に、わたしが、

「この母親の娘として生まれてきて、どれだけ幸せか」

とでもいう演出を、見せてやる必要がある。

「あなたの子供でとても幸せ」

自分のために幸せな子供を見て、子供を幸せにする能力のある自分を知って、

自信と、幸せを得る母親、と。


そこまで考えて、

――― お母さんを幸せにするのには、幸せな振り、程度ではだめだ。

――― 「本当に」 幸せにならなければ。

騙すためには。

本当に幸せにするためには、

わたしが、本当に幸せでいる必要がある。

母親をだますくらい、自分が、幸せでいる必要がある。

そこまで考えて、わたしの中からせりあがってきて、

外の光の中に迸りそうになっていた暗黒が切り離され、

それ自身がそこから浮上してきた深海の底に沈んでいき、

わたしは、体重を失くした、浮遊感のようなものに見舞われ、

生ぬるい尿のような、生あたたかい、

「幸せのようなもの」の感覚がわたしの中に広がった。

生ぬるい感覚が私の中に溢れ、わたしは笑った。

あなたのおかげで、わたしがどれだけ幸せか。

その「幸せのなようなもの」の感覚の中で、

わたしは、本当の幸せの中の、本当の幸せな笑いを笑った。

声も立てずに笑った。

顔に張り付く微笑、滴り続けるような、

じくじくと滲み出る出血のような微笑。

案の定、不意に、あまりにも幸福そうに笑いながら、

自分の顔を見上げてきた娘に、

母は、にっこりと、笑みを返した。

父が、幸せに満ちた、平和な一家団欒のベストショットを撮った。


自分の本心を見破られてはならない、

平和な一家団欒という「彼ら」の現実、

「彼ら」が守りたいイメージ、「彼ら」の唯一の真実、

を壊し、抵触するような顔も、雰囲気も、微塵も、出してはいけない、

疑心暗鬼に真っ黒になりながら、

微笑するわたしと、微笑し返す母、

騙しあう、ふたつの笑顔の写真。

母の膝の上で、わたしはサルのように、

顔をしわくちゃにして笑っている。

弓なりになった目、半月上に吊り上った口、

ピエロの仮面のように、見事なまでに、作り物めいた笑い。


幸せそうな、光溢れる外と、皮一枚隔てて、

わたしの中にだけ響いていた叫びと、わたしの中だけに流れていた涙は、

地下水のように、わたしの中の、暗黒の中に流れ下っていき、

見えざる、バーチャルな内から、可視可能な外へ、

ついに、リアルの光を浴びて、迸ることなく、

リアリティを得ることなく、わたし一人のフィクション、

という暗黒の中に、見喪われた。

最初で最後の、自己表現の機会、本当の意味での、わたしの産声は、

声すら立てない微笑によって、封じ込められた。

あまりに幸せな家族の中で、あまりに幸せな微笑によって、

包囲網を閉ざされたのだ。


それが、私が最初に吐いた嘘だった。

私が最初に吐いた、打算と算段で、計算的な、嘘を吐く、騙す笑いだった。

決して誰にもバレない嘘だった。

誰も信じない、「彼ら」が信じない、

「彼ら」が「本当」だとは決して認めない、「嘘」だった、

だから、誰にも本当のことを見つけられない嘘だから、

私は、その時から、今でもまだ、嘘を吐きつづけている。


そのとき気がついたのは、この嘘と演戯の徒労だった。

いつまで続く嘘なのか。

親が幸せになるのはいつの日なのか。

わたしが、親に幸せにしてもらえるように、育てられるのはいつなのか、

わたしはいつまで、親を育て続け、

親に育てられることをお預けされるのか。

いつまで、自己卑下的に、親への賛美的に、

何もかもが完璧で、幸せだと、すべてあなたのおかげだと、

親をねぎらい、笑いかけてやり続けなければならないのか。

親の自尊心と自信の糧にするために、

いつまで、どこまで、自分のそれを削り与え続けねばならないのか。

いつまで、自分の本当の気持ちに嘘をついて、

無限に忍耐強い親の役割として、親に笑いかけ続けてやればいいのか。

終わりの見えない舞台に上がってしまったような、

取り返しのつかない、絶望と徒労感を悟った。


その後一切、親が、わたしの親になる見込みはなくなった。

わたしが本心を出すと ――― あなたの子供でいるのがつらいと、

わたしは親に幸せにしてもらう子供の側なのだという主張をすると、

恩知らず、自分勝手、そんなお前は要らないと激怒し、

わたしを、親の自信と自尊心を庇う親の役割から、

自立して、わたしを解放することはなかった。

気持ちが腐ることがあれば、適当にわたしを弄ることで気分が晴れるなどして、

わたしは、とても使い心地のいい親だったらしい。

時々、本当に、わたしは、母の夫であり、父の妻であり、兄の、姉の母であり、

妻であり、夫であるような気がした。

彼らの自尊心を守ってやり、自尊心をなくさないように、

傷つかないようにする、過保護な親のように。

どこか、自覚的、確信犯的な匂いさえした。

わたしを本当に親と見立てて、自分は、

親に庇われ続ける子供の立場に甘んじているのではないか、

それも、今度は自分が腕力も権力もある大人として、

子供の地位に成り下がった親を、

好き勝手にもてあそべる子供として、依存することに、

愉悦的に甘んじているのではないか。


だとしたら、それこそわたしの責任だ。

親に、子供のわたしに、子供として、依存させることをさせたのは、わたしだ。

わたしだって、そもそもは、親に甘えられるようになりたい、

親に幸せにしてほしい、という打算から、正直でない反応をして、

嘘と演戯から始まった関係を初めてしまったのは、わたしなのだ。

わたしはようやく気がついた。

嘘の表現からは、本当の幸せなど、生まれない。

私自身、人を幸せにするなどという、大それたことの意味など、寸分も知らなかったのだ。

人を愛するということなど、寸分も知らないで、幸せだと、愛するなどと、

単なる推測と、憶測でしていたのだ。

親に育てられることを知らなかった子供が、親を育てられるわけがない。

誰も、育てられるわけがない。

親との関係で、愛も、幸せも知らない子供が、

愛することも、幸せでいることも、できるわけがない。

それはただの、愛の、幸せの演戯、嘘でしかない。

嘘の土壌に繁茂した、一切は、腐る。

嘘は、勇気のなさと、怠惰から生まれる。


「 一生、取り返しのつかないことになるような気がする 」

わたしはあのとき、彼らとの関係を、嘘と狡知から始めた。

彼らの嘘に取り巻かれ、

わたしの「本当」を出す勇気がなかったから。

それを、また、あのとき、それを望みさえした自暴自棄と、

今、ちがった感じ方をしているとも思えない。

きっと、あのとき、予感したように、あのとき、わたしを呪った運命を、

さらに呪い反してやったように、

嘘の中で、すべてが腐るのだろう。

こんな腐った運命なんぞ、そもそも慰撫する気がない。

いっそ、腐り果てるまで破滅し、塵と無に帰すればいいのだと。


近所の公園に、乳母車に私を乗せて、

兄と姉と母と、写真を撮りに遊びに行く。

滑り台の階段。

一番下の地面に、乳母車の私、

その階段の上に兄、一番上に姉。

平和な、仲睦まじいきょうだい撮影。

母は、にこにこだ。

私の後ろから、陰険な、鋭い忍び笑いがもれる。

「こいつ、むこうにやっちゃおうぜ 」

笑い含みの、兄の尖った声。

「 むこうにやっちゃおうぜ 」

姉の、粘ついた笑い含みの声の呼応。

頭の後ろを、小突かれるのを感じる。

兄と姉が、階段の上から、足を伸ばして、

最上階にいる姉は、目いっぱい足を伸ばして、精一杯がんばって、

わたしを「むこうにやる」ために、

私の後頭部を、足で小突いているのだ。

睦まじい、姉と兄の同士愛。

わたしという敵を共通に持った、彼らの、同士愛。


わたしは、兄と姉の、鋭く攻撃的な嬌声をききながら、

後頭部を足で小突かれながら、写真を撮っている母をちらと見る。

母はニコニコ笑いながら、

平和な光景の写真を撮っている。

笑う場面だから笑っている笑い。

まるで、「平和で幸せな家族のアリバイ」が、

写真を撮ることで、確定するように。


わたしは、うるさいハエを追い払うように、

頭の後ろで手を振りまわしている。

表情は硬く、無表情で、うつむいて地面の一点を見つめて、陰っている。

私の後ろ、正確には、私の頭上に聳え立った兄と姉が、

これからの関係性を暗示するように、

顔を笑いで歪め、滑り台の手すりにつかまって、

触手のように、私に向かって、うねうねと、彼らの足を伸ばしてきている。


すでに諦めている。

声を出すことを、泣くことを、

助けを求めることを、関心を引くことを、

要求することを、

他者というものを、

つながるものとしての他者というものを、

私は、すでに、諦めている。

だから、母の姿に、何の感興もわかない。

だから、わたしは、何もしない、何もいわない。

ただ、疲れる。

これが、

母と父の、何の問題もない、

幸せな笑顔の下で起きるこれ、

兄と姉の、自分さえよければそれでいいという、

乾いた笑いの下で起きるこれ、

これが、

これからも、ずっと、毎日続くのかと、

ただ、疲れる。

私の現実と、隔絶された、

向こう側の現実にいる、

目の前にいながら、永遠に手の届かない母、

親の死角をとって攻撃してくるきょうだい、

いつも、今、ここ、に不在の父に、

わたしはもはや、言うべき、するべき、

何事もないことを、悟る。

諦めて、瞑目する。

暗転する。


撮った年代は違うのに、わたしが、

全く同じポーズをとっている写真が、二枚ある。

年代が若い方は、二歳の時。

マンションの前、水を入れたビニールプール、

プールの中に、水着姿の兄と姉、

その脇のコンクリートの上、

裸の私、夏。


水を跳ね上げて遊ぶ、元気な子供を撮るのは、家庭の団欒を守る父、

日曜日、珍しく家にいる父。

兄と姉と、裸の付き合いができるわけもなく、

刺すような視線を向けてくる、兄と姉のいるプールから、私は身を引いた。

父が来て、笑いながら、さも楽しげに、カメラを構えた。

兄は固い顔を地面に向けた。

知的障害の姉は、プールの脇の、植え込みを仕切る、膝丈の鉄棒に寄りかかり、

自分の指先の皮を剥くことに、夢中になっている。

指先の皮を剥くことに、姉は人生で一番夢中になった。

出血しても、親に殴られても怒鳴られてもやめず、

指先の皮を剥き続け、肉をえぐった。


父は笑って声をかけながら、尖った視線を水面に彷徨わせる兄、

父のことなど念頭にないように、指先の皮を一心不乱に剥く姉、

(この、目の前の現実など目に入らないという姉の集中力を、私は羨んだ)

私を撮る。

姉と兄は、いい被写体ではないと判断したのか、

主に私にカメラを向けるようになった。

私は、不意に、自分が視線をさえぎるものの何もない裸なのを、強く意識する。

兄も姉も水着を着ているのに、なんで私だけ、はだかなの ?

無性に身を隠したくなった。

それの視線から逃げたくなった。

それが、写真を撮り始めた。

わたしは、カメラの一つ目小僧になった、見知らぬ怪物をにらんだ。

にらんでも、そいつは、ふてぶてしく私をにらみ続ける。

その一つ目の下の口は、笑っている。

おかしくて笑っている笑い。


わたしの不快を笑う笑い、

私を不快にさせる力が自分にあることを知って、愉悦を感じる笑い、

私をいくら不快にさせても、取るに足りない子供である私になにをしても、

自分は何の痛痒も感じず、何の責任も感じなくていいことを知っている笑い。

私は父を見つめ返した。

明朗だった父の語調が変化したようだ。

その視線は、クモの糸のように執拗に私を捕まえ、その目は追跡者のように、私を追い続けている。

父の、粘りつき、絡みつくような視線からは、逃れられない。

私は、父に対して、どっとおぞましさを感じて、身の毛がよだった。


「 みないでよーッ !! 」

精一杯の恫喝を込めて、わたしは、父に向かって、

もはや、見知らぬ一つ目の怪物になったそれに向かって、叫んだ。

その瞬間の、体を、心もち斜め横向きにして、視線から隠し、

憎悪に歪んだ顔で絶叫する私の写真。

一枚目。

私は悟る。

あ、無駄なんだった。

ここでわたしがなにをいっても。

なにをしても。

彼らの現実と、私の現実は、違うのだから。

私は脱力し、弛緩した。

この場で眠りこみそうだった。

真夏の太陽は、世界を黄金色に焦がしていて、

私の素足が踏みしめる地面は、ちりちりしていた。

この生気に満ちた光景の中で、

私は、諦め、弛緩し、全てを投げ出し、投げ打って、全てをうっちゃらかし、

この場でどろどろと眠り込みたくなった。


でもまさか、私の裸をとり続ける視線の目の前でだけは、

無防備に眠りこけるわけにはいかない。

私は作戦を変えた。

「 あ、パパー、見て、あれ、

あれ、なに ? ほら、あれ 、 見て !! 」

子供らしい、浅はかな奸計だったと思う。

父の目を、私から、私以外のものへ、私から、

もっともっと遠くへそらせるための演戯。

私は怒りに仁王立ちながら、半身を右後ろにひねって父の視線から体を交わし、

ずっと後方の、何もない空の一点を指差す。

精一杯指先まで、指先が震えるほど力を込めて、人差し指で指差す。


演戯を本当だと相手に信じさせるためには、自分がその演技を本当だと思うこと、

少なくとも、本当だと思い込むこと。

私は命がけで、演技の本質を理解していた。

わたしは、一瞬、父に向けていた注意を、自分が創作した、

何もないはずの、「何か」のある一点を指差した先に奪われた。

そこに、本当に、なんだかとても興味を引く何かがあるように思え、

何だろう ?

あそこにあるものは、何だろう ?

何かとても、面白いものがあるような気がする。

私の意識は、遥か彼方を指差した、指先を伝わって、

どこまでも遠い、空の果てへと伸びていき、

私の意識からは、父も、兄も、姉も、プール端の一家団欒の光景も、消えた。

今、ここ、から、私の意識が飛び立った一瞬、の写真。

二枚目。


わたしは仁王立ちといっていいほど憤然と立ち上がり、

けれど、上体は父のカメラから逃げるように、後ろ右に捻り、

顔は、カメラに映らないほど右後ろにそむけ、

私は右の人差し指で、一心に、右後方の、遥か遠い一点を、熱心に指差している。


黄昏の空を見つめて-HI3H02640001.jpg



父の視線が、私以外ならどこでもいい、私から遠ければ遠いほどいい、

だから、わたしは、父が注意を向けるべき場所、

私以外、ここ以外の、私から最も遠く離れた「あそこ」を、

懸命になって、指差しているのだ。

なのに父は、その私を、カメラに、わたしが最も逃げたかった父の視線に焼き付けた。

策謀で、わたしが父を送り込むはずだった「そこ」に、

自身の策謀に足をとられ、わたしが「そこ」にイッテしまった一枚。


わたしの意識は、一瞬後、「あそこ」から、また、

そこを指差している自分の体のある「ここ」に戻った。

わたしは、今、目が覚めたというように、目をぱちぱちさせた。

今まで、わたしは、どこにいっていたんだろう ?

自分の意識が、ここから飛び去ったという発見に、

少し衝撃を受け、ぼうっとし、密かに喜悦した。

これで、いくらでも、好きなときに、

ここから逃げられる方法を見つけたのだ、秘密の抜け穴のように。

気がつくと、一つ目は、食い入るように、なめるように、まだ私を凝視していた。

私は脱力したように、それを見つめ返した。

今はもう、好きなときに、ここから逃げられるのだから、いくらでも、どこまででも。

自分に言い聞かせた。

でも、それは笑っていた。

わたしのささやかな勝利など、それにとっては何の痛痒もないものだった。

敵である兄と姉のいるビニールプールの水の中に、

わたしは仕方なく身を沈めた。

水の中で、おしりをぺたんとつけて、なるべく体が小さくなるように、

視線をさえぎるように、身をかがめた。

水の中で踊る光の文様に意識を凝らした。


私が、敵国への領土侵犯をしたので、兄と姉がざわめいた。

私は可能な限り、彼らを無視し、意識から締め出した。

わたしは孤立無援の、自分の危うい立場を意識した。

今度は兄に対して、自分が裸なのを意識した。

今度は、別の意味で。

一縷の救いを求めるように、姉を見上げると、

姉は完全に、周囲の状況を自分の意識から締め出して、

自分の指先に、自分の痛みに、自分の血に没頭していた。

愚かしく、恐ろしく、うらやましかった。

未来のデジャヴだった。

絶対的不信の対象である他者を得たことによる、

他者からの逃避としての演戯、他者から逃避するための嘘としての演戯、

策謀としての、嘘の第一歩を記念すべき一枚。