読み書きを親に教わったのは、2,3歳のころ、保育園に上がる前。


電気の消えた薄暗い台所で、母の個人教授を受けた。


お勉強するよ、といわれたときの、母の薄ら笑いを今でも不気味に覚えている。



母の暇つぶしだったのかもしれない。


母はよく、家から逃げるように一日中どこかに出かけてばかりいて、


時には朝から夜まで帰らないこともあり、留まることを知らなかった。


どう向き合っていいのかわからない子供と二人で家に取り残されて、


何か意味のあることをして、自分の、相手に対しての、


「わからない」という恐怖を、埋めようとしたのかもしれない。





私は母が、というより、家族が嫌いだったけど、いつも、母の尻に抱きついて、


母が嘲笑的に笑って振りほどこうとしても、しがみついて離れなかった。


母が好きだったからではない。


私は冷たい空気に取り巻かれ、死体のようにどんどん体温を奪われて、


冷たく凍りついた世界に、どんどん落ちていくような感じがしたから、


不安と恐怖で、誰かに、誰でもいい、それが、悪魔でもいい、


誰かにしがみつかずにはいられなかったから。



母の個人教授という機会は、母の関心がほしくてたまらなかった私にとって、


母のおこぼれみたいな優しさや、叫んだり叩いたり、キレたりしない、


非常にしかない、普通に接してもらえる僅かな時間の捻出に、一喜一憂していた私にとっては、


嬉しいことのはずだったと思う。


けど、母の含みのある笑いを見た瞬間、母のレッスンの意図がわかった気がした。



母は、私の隣に座り、なぜか熱気を帯びた体を、私を押し倒さんばかりに押し付けて、


わたしに「あいうえお」から教え始めた。


手に鉛筆を握らされる。


こう、こう書くの。


母は紙を突き破らんばかりに爪で指して、指示する。


間違える。


母は、寛大に許し、根気強く私に教育する。


間違え続ける。


母が大音量で耳元で叫ぶ。


声が大きすぎて、何を言っているのかもわからない。


叩く。


私は、このレッスンの意図を理解した。


私にできることは、母にやりたいようにやらせるだけ。



読み方は、母のおかげで身についた。


私ができるようになると、母のテンションは一気に冷め、関心を失くしたたようだった。


だけど、今度は、足し算引き算を教えてくれると、嬉々としていう。


足し算引き算は、読み書きよりも難しかった。


母が、歯を食いしばるような声で、辛抱強く、頭の悪い私に、慈悲深く教育を施す。


私は何度も間違える。


そもそも、何を教えられているのかもわからない。


耳元で母が金切り声を上げる。


叩く。



母の努力を無駄にする。母の努力に応えない。


母と同じくらいの努力することを惜しむ。


だめな子。頭の悪い子。ずぼらな子。いい加減な子。


人の努力を無駄にする子。人の好意を無駄にする子。


こんなにこの子のためにしてやってるのに、


人の期待に応えない、悪い子供。



実際にそう言葉で言われたわけではなく、母はほとんど意味のないことを叫んでいただけだけど、


言葉よりも雄弁に、母の言わんとすることは伝わった。


教えられている時間より、叫ばれ、叩かれている時間のほうが長くなってくる。


間違える。叫ばれる。叩かれる。


いっそ私の醜い頭から脳みそをたたき出したいと考えているような、憎々しげに、嫌悪をこめた手。



母のエネルギーは尽きない。


いつもの無気力で無関心な様子は消え、活き活きとして、溌剌として元気そうだ。


こんなに元気そうな母は見たことがない。


いつも、いつも死にそうなほど無気力で、病気かなにかなのか、


いつ大病するかと不安になるほどだったのに。


私の「お勉強」に対する母の情熱はすさまじく、


ほとんど昼から夜まで、一日何時間でも、毎日、何年も続いた。


叫ばれ、叩かれ、嘲笑され、罵倒されるのが続いた。



私は永遠に、このルーティーンから解放されない絶望に支配される。


誰か助けてと思う。私を解放してと思う。


電話がかかってくる、来客がある、ほっとする。


母はまるで今まで何もないかのように、家に何もないかのように、


家に自分以外の誰もいなかったように、愛想良く応対する。


戻ってくる。憎々しげに私に算数を根気強く教え始める。


私は、今、ここ、とは無関係に回っている世界は、全て虚構だと思う。


世界は、今、ここ、憎悪の漲る母と私の一劇場を残して、全て死んでいると思う。



正解する。「あってるじゃない。そうよ。」


嘲笑気味に唇をゆがめて笑う母は、残念そうだ。


答え合わせのとき、正解していたにもかかわらず、


母は機械的に、正しい答えを出した私を叩いた。


「あ、間違えちゃった。あってた。」





親は子供の幸せを願うもの、子供は親の幸せを願うもの。


親の幸せが子供の幸せ、子供の幸せが親の幸せ。


私は、母を今まで一度も幸せにすることができなかった。


だけど今、私の隣で、初めて、母は楽しそうで、元気に溌剌としていて、


活き活きとして、面白そうだ。


私は、初めて母を幸せにできたのだ。


幸せそのものじゃないけど、少なくとも、幸せの一種を味わわせることが。



それは、わたしが粘土の固まりのようにされるがままにされているということで、


初めて可能になった。


声もなく、言葉もなく、抵抗もなく、涙もなく、


頭が良くて、何でもできて、根気強くて、慈悲深くて、子供思いで、


「すばらしいお母さん」を立てる代わりに、


頭が悪く、努力せず、酷薄で、親不孝な「駄目な子供」という汚濁の一切をかぶることで。



お母さんは、私が悪い、駄目な、できない子供のほうが、


自分が良い気になれて、幸せなんだ。


私が悪い子供になることが、お母さんに存在意義を与え、幸せにするんだ。


お母さんを出し抜いて自分だけ幸せになったりしない、お母さん以上に幸せになったりしない、


お母さんよりも不幸な子供になって、初めてお母さんを幸せにできる。


私の不幸がお母さんの幸せ、お母さんの幸せが私の幸せ、


私の不幸が私の幸せ。


それは幸せではなく、嗜虐心を満たされた、快感でしかないけれど。





いつも、母の手が空くお昼過ぎころになると、「お勉強」の時間。


私は呼ばれ、母は私の体に押し付けるようにして密着し、


私のどんな些細な間違いも見落とさず注視し、罰する。


答えを間違えたり、私の話し方が、


「小さい」「聞こえない」「はきはきしゃべれ」という理由で叫ばれ、叩かれ、


母の質問に「早く答えろ」「何とかいえ」「間違えるな」と叫ばれ、叩かれ、


書き文字を「濃く」「ちゃんと」「正しい答えを」書けと叫ばれ、叩かれ、


私の表情が「暗い」教えてやっている母に対して「嫌そうな顔」をするなと叫ばれ、


叩かれる。



鉛筆を握る力もなく、鉛筆を取り落としそうになるほど生気の失せた私の手を、


母の手が押しつぶす勢いで握り締める。


「鉛筆をちゃんと持て」と叫ばれ、叩かれる。


「読める字を書け」と、握りつぶす勢いで母の手が私の手を握り締め、


母が動かす力で、私の手の中の鉛筆の線を引く。


鉛筆の芯が折れる。





ここにいるのが私じゃなくて、完全に母の欲求と、感情と、要求と一致した、母のコピー人間なら、


すべてが完璧にうまくいっただろう。


たぶん母が見ていた私は、ボタンを押しても録音機能の正常に作動しない、


半壊した機械だったのだろう。



全てを母の行動と一致させることができる、母の分身なら、


母が書かせたいとおりの字を書くことができ、母が見たいとおりの表情を浮かべることができ、


母が望むとおりの答えをいうことができる人間なら、そして、そのどれもできない私ではなく、


ここにいるのが私ではなく、母が望むとおりの話し方ができる人間なら、


私にこのような脅威は降りかからないだろう。


母がこんなに叫び、叩き、


「お前のせいで胃が痛いッ! お前のせいで心臓が痛いッ! 前のせいで頭が痛いッ! 」


と、私のせいで、苦しむこともなかっただろう。



私が私であることが、母と対する個であることが、


母と一致しない母の分身でないこと自体が、母に背反しているのだ。


私が母ではなく、私であること自体が、母に背く罪なのだ、


そしてこうして罰せられているのだ。


私が私であることの罪と痛みを、造反と脅威を、こうしてレッスンされているのだ。





母が私を望んでいないのは明らかだった。


母が、私以上のできのいい人間、母の望みと完璧に一致する人間が、


ここにいることを望んでいるのは、明らかだった。


私ではなくて。


母の望みを邪魔しているのは私で、望みの満たされない母を不幸にしているのは、


ここにいる私であることは、間違いなかった。



母の不幸の一切、母の「望まない」現実の一切への、復讐だった。


母にとって「間違っている」一切への罰だった。


母の望みが満たされることを阻害する、障害物を叩き壊すための儀式だった。


ひとつの儀式、ひとつのコミュニケーションだった。


私から、無知という悪魔を追い払うための、悪魔祓いの儀式だった。





私は、心の奥底で、笑いがこみ上げてくるのを感じた。


というか、私の中に他人がいて、その誰かが私の意思に関係なく、笑っているようだった。


誰かが私の中で笑い始めて、初めて私は、その誰かを見つけた。


自尊心の擁立を、5歳児に依存している母の稚拙さが、可笑しくて、哀しかった。


追い詰められれば追い詰められるほど、私の中で凶暴な何かが育まれていくのを、


母が知らないことに、内心笑った。


暗い部屋で、 独り言みたいな絶叫を上げ、


うんともすんともいわない人形みたいな私を叩きまくっているのが、


想像するとホラーみたいで、可笑しくもあった。



いくら従順を仕込まれても、私なら、いざ目の前に、どこにも逃げ場のない断崖をつきつけられれば、


命を賭す覚悟で、母にあらん限りの被害をみせるために努力を尽くすだろうということがわかった。


母の命を奪うことも含めて。


私は、母を襲わなければならなくなる状況に備えて、


それはつまり、母が、ある限界を越える場合に備えて、


必要とあらば母を殺さなければならない事態のために、心の準備をした。


私の命か、母の命か、私は、母の命のために、私の命を諦めるほど母の命を重大視してないし、


自己犠牲をいとわないような、できた人間でもなかったことがわかった。


私はいざというときのために、頭のなかでシュミレーションした。





武器は、包丁、


隙を突くには、椅子でも振り上げて、窓ガラスに突っ込ませる。


今、握り締めている鉛筆を、ナイフのように握り締めて、


母の腕に突き立ててやるのもいい。


私は目の隙で、薄暗い台所の、さらに暗がりに沈んでいる、


食器置き場に突っ込まれている包丁を、伺った。


母は確かにそこで、一つの教育を行っていた。


反撃されることだけを恐れて、躊躇なく殺意を実行するためのレッスン。





叩かれるのはいつも、虚ろな音を立てる頭を、思い切り平手で、なのだけど、


私は次第に、無感動な手が、壁に釘を打っているかのような、リズミカルな揺れだけを感じた。


痛みは最初だけで、後は感じなかった。


私は釘を打たれている壁で、揺れと音を感じるだけ。


壁の向こう側で叫んでいる声も、壁を叩く手も、この壁の中に、何かがあるなどと知らない、


何もないと思ってるし、何かがあるなどと期待してない。



そして、壁のこちら側にいる私も、壁の向こう側から、そこにいるなどと期待されていない声をかけられ、


リアクションを期待されない、壁を挟んだアクションに晒され、


外側から声をかけられているこの壁の中は、外側から叩かれてるこの壁の中は、


何もない、誰もいないのだと思った。


叩かれて虚ろな音が響く頭の中は、本当に、ただ、虚ろなだけ。


私は脳みその詰まっていない、がらんどうの、頭の中の闇を思い描くことができた。


無感動な手に釘を打たれる無感動な壁。


だから、母がいくら期待しても、無駄なのだ。





何もない、誰もいない。


障害者の自立のために根気強く教育をほどこす親のように、


私が何もない、誰もいないがらんどうだとわかっててなお、母は、私のために、


私の空っぽの頭に、文字通り力ずくで、知識を叩き込もうとしているのだ。


空っぽならばそれなりに、機械的に、正しい答えを覚えられるように。


空っぽが、社会に出て行けるように。



声と手が暴れている外側のこちら側に、誰の声も手も届かない、


台風の目のような、虚を、私は私の中に見つけた。


壁の外側の暴風雨が激しくなればなるほど、壁の内側の静寂は強くなり、よりはっきりと意識した。


誰の声も、「壁」を叩く誰の手も、誰の痛みも入ることのできない、


何もない、誰もいない、大きな、虚の闇がそこにあるのが、私の中にあるのが、わかった。





私は少し混乱した。


母の体が熱いほど密着しているのに、耳元で金切り声で叫んでいるのに、


降り止まない雨のように母の手が矢のように振り下ろされているのに、


私の中には、どんな声も、どんな手も、どんな痛みもない。


耳を劈く声が、私の中の静寂の水位を高め、


私に降り注ぐ手が、私の中の不在の水位を高め、


私に知識を授けようとする意図が、私の中の、虚の水位を高めていく。





他者と自己は、決して一致したりなどせず、もともと壁で隔てられているものだが、


壁は、他者と自己を隔てながらつなぐ、扉であるべきだ。


でなければ、この世には隔絶された他者と他者、他者のいない自己しか存在せず、


自己しかいない世界に、他者が存在する理由がなくなる。


世界の必然として自己と他者が存在している、正当性がなくなる。



今、ここで行われているはずなのは、母から子供への知識の伝授という、


壁でありながら扉、というコミュニケーションであるはず、なのに、


私は、永久に扉を閉した壁に、隔絶されつつある。


接触であると同時に隔絶であるという、異常経験をするレッスンでも受けているようだ。





外側で荒れ狂ってる暴風雨がリアルなのか、私の内側、何もなく、誰もいない、


何も起こらない虚の感触がリアルなのか、わからなくなる。


分断された外と内と、どちらが壁に隔離されたのか、どちらがリアルに追放された虚構なのか、


わからなくなる。


荒れ狂う外界と、外界を無効化している、この壁の内側の静穏と、どちらがリアルなのか、


わからなくなる。


ここで行われているのはコミュニケーションなのか、分断なのか、


接触なのか、隔絶なのか、わからなくなる。



わからないながらも、私の、こみ上げてくる笑いは、その虚の深淵からきている気がした。


わからないながらも、わたしは、自分の中に見つけた、新しい領域、それでいて懐かしい領域に、嬉々とした。


何も感じない闇、それこそ今の私が望んでいること。


何も感じない闇、それこそ今の私が会得したいこと。


何も感じない闇、それこそ今の私のためのレッスン。



もっと痛みを感じなくなる、もっと強くなる、そしたら、何の危険もなくなる、初めて安心できる。


私は私の中の虚の感触を、どんどん強くしていった。


何もない、誰もいない、何も起きていない、誰の声もない、誰の手もない、誰もいない、虚。


エサは、痛みと憎悪。


痛みをねじ伏せ、痛みを嘲笑し、痛みも、感情も、リアルも、存在も、私も、


全てを喰らい、嚥下し、不在化し、無効化する虚穴。



「彼」は私の中に、闇の種子として、予めそこにいて、


当然芽吹くときを待っていた「誰か」だったのだという気がした。


闇の種子は、闇の土壌に根を張り、闇を光合成し、成長していく。


私を痛みから解放するために、私を痛みに強くするために。



痛みと現実に剥き身でさらされている「私」を「彼」が喰らい、


「彼」が「私」の引き換えに、この生きるに値しない現実に顕現することを望んだ。


彼が私を食い荒らし、最後には、私など、一つ残らず、食い尽くすのを望んだ。


私の中の闇で芽吹き、私の闇を糧として育った闇、


リアルにとってはバーチャルでしかなかった闇が、私を食い破り、


リアルの白日の下へ躍り出、存在権を与えられなかった私の内なる闇に、


リアルの偽りの光をも、食い荒らして見せて欲しいと思った。


私の中のバーチャリティ、闇を生んだのは、リアルの光そのもの、


そして自らが生んだ闇を照らすことができない、偽りの光であるリアルなど。



私は私の内なる深淵に耳を澄ませ、目を張り、


リアルからの唯一の避難所である虚の中に、胎児のように蹲った。


そしてその虚穴が、私の存在をも喰らい、呑み込み、


「私」が闇の中に溶けて消えてしまうのを待った。


ただ一つ難点だとわかったのは、そこにそうして「落ち着いて」しまうと、


戦闘意欲も感情も、失くしてしまうということだった。



虚は、痛みと憎悪と闇を糧にするので、


光に引き寄せられる蛾のように、そちらに引き寄せられてしまう。


虚に自分を溶かしてしまい、「私」を感じられるのは、強い痛みと、憎悪と、意図的な攻撃、被攻撃、


でしか、自分の存在を思い出せなくなった。



生き延びるために生まれたはずの虚は、


痛みを呑み込み、リアルを呑み込み、私を呑み込み、


それを無効化し、不在化し、不毛化し、肥大していく。


命の危機に対して回避せず、


命の危機から生じた、痛みや憎悪に対してだけ機能するものでしかない。


私の危機をエサに育っていく、私の中の、敵みたいになってきた。



生物学的には「私」は存在していたけど、情緒的には、私は、そこにいなかった、


いたくなかった。


情緒的には、そこにいたのは、私ではなく、彼だった。


情緒的には、私は、名前もなく、顔もなく、生きて今、ここにいなかった。


いたくなかった。


私はリアルを見限り、彼は、存在するためにリアルの痛みを求め、


私は彼に、人生を明け渡した。


望み通り、リアルの表層に接している「私」の皮一枚を残して、


私の内側は彼に、闇に食われてしまった。


私の不在が、彼を実在にするように。



その虚の中にいれば、罵られながら、その虚の中で、歌うことができた、


叩かれながら、虚の中で、笑うことができた、


憎まれながら、虚の中で、憎み返すことができた。


痛みを喰らい、危機と憎悪を糧とし、リアルを呑み込みバーチャル化し、


深淵を深めていく闇。


私にとっては、そこは、リアルにとって都合の悪いものを捨てるための、


都合のいいゴミ捨て場だった。


感情も、記憶も、思考も、リアルも、私自身も、みんなそこに捨てた。


蛇口をひねれば、戦いに必要な、憎悪と殺意を出すことができた。





母の金切り声に塞がれていた耳に、初めて闇の内からの思考の声が聞こえた。


泥人形のように母の平手打ちに凍り付いていた体が、


初めて自己の居所をつかみ、身動きできた、


母の手の言いなりになっている、母の手の中に埋まっている私の手を見つめ、


初めてそこに、自分の意図を見つけることができた。


私はさらに、内心で笑った。


私は、初めて母より強くなり、優位に立ったのを感じた。



母のレッスンのおかげで。


母を殺せるほどに。


今の母は、なんて無防備なんだろう。


今ならいくらでも、隙をついて母を殺せる。


今の私は、この空白、この虚が私の中にある限り、いくらでも暴風雨の隙を突いて、


静寂そのものの台風の目のように、動くことができる。



いくらでも、簡単にできるから、今はやらない。


やらないでいてあげる。


母が平手を打とうとしたとき、初めて私の手が母の手を阻んだ。


忌々しげに、うっとうしげに、私は母を睨んだ。


あんたなんか、いくらでも、殺せる機会はあるんだからね。





けれど、その時知ったのは、力関係でしかない親子関係において、


親の命より、親の立場より自分が優位に立ったと感じてしまった子供の命は、


その子供の立場は、誰に面倒を見てもらえばいいのだろう。


力関係において、親に勝利した子供は、勝利すると同時に、関係そのものを失う。



母の「勉強会」、絶叫大会、平手打ち大会は、


昼から、延々夜中まで続くこともあった。


仕事から帰ってきた父も参加して、私に「勉強を教えて」くれることになった。


父は自尊心の低さに比例して、罵倒と嘲弄のバリエーションを豊富に持っていて、


「勉強ができない5歳児のIQ」に比例して、


「できる自分のIQ」の優越と嘲笑と愚弄と罵倒を浴びた。


父はこの新たな「遊び」に、喜色満面、喜悦の絶頂という風だった。


それは新たなレッスンだった。



肉体的というより精神的、


屈辱と辱めという痛みを闇に葬り、貶めに強くなるための、新たなレッスンだった。


私は、より自分の体面に執着して、私の気持ちや表情を読み、


自分の尊厳を貶めるようなことを考えているのを察知して攻撃してくる、


母のように直情的ではない、陰湿で、敏感で、


さらに厄介な父のレッスンを覚えなければならなかった。



時には、私から「ねえ、勉強教えて。」


「わからないところがあるんだけど、教えて。」


と、教科書とノートを抱えて、父と母のところにいくこともよくあった。


まるで、これから楽しいゲームでも始めようとするかのように、


私の中の闇が、笑いにのたうつのを感じながら。



私がそこで受けるのは、紙の上になどない、


嘲笑と、罵倒と、平手打ちのレッスン。


痛みを飲み込み、それを嘲笑い、力の糧にする虚を育むレッスン。



この世界がどんなところか悟った、人間がどういうものか悟った私が、


これから、その世界で、その人間と生きていくために慣れなければならないことを、


一番効果的に教えてくれる人から学ぶレッスン。



自身の利益のために他者の命を犠牲にすること、


自分と他者の痛みに、躊躇うことのない、無感動な強さを体得するためのレッスン。


何の痛痒もなく皆殺しできるようになるためのレッスン。



7歳の時、算数ドリルに、ナイフのように握り締めた鉛筆を突き立てた。


そのままぐちゃぐちゃと真っ黒な線を引いた。


芯が折れた鉛筆で線を引き続け、紙を突き破り、頁を真っ黒に塗りつぶした。


鉛筆を投げ捨て、ドリルの頁を一枚一枚破り捨て、ドリルを真っ二つに、


半分に、また半分に、引き裂いた。


残骸を壁に叩きつけ、蹴り飛ばした。


私は次々とドリルを引き破っていった。


私の中の闇は、ドリルを喰らったのだ。





また私は学んだ。


今ここで罰せられているのは、「間違ったこと」に対してではなく、


「知らない」ことに対してなのだ。


私は、間違うことを許されていないのだ、


何もかもを「知って」いなければならないのだ、初めから、神のように。



罰せられているのは、「間違った」ことに大してではなくて、


私が「知らない」ことに対して、「わからない」ことに対してなのだ。


私は、最初から、「わかって」いて、「知って」いなければならなかったのだ。


でなければ、罰せられる。



神の様に全てを知っていなければならなかった私は、


わかっていなければならないほど、自分が知らないことに圧倒され、


認識の指の隙間から、不可知のものが零れ落ち、


白痴の様に、何もわからなくなっていった。



もう何も、私には、リアルも、バーチャルも、父も、母も、兄姉も、


人間も、社会も、命も、世界の成り立ちも、神も、


知るというプロセスも、知らないという状態も、


自分の痛みも、精神状態も、心も、虚に全て放り込み、わからなくなっていたけれど。



時々、叩かれている最中でも、急激に虚が膨張し、


発作的な笑みが膨れ上がってしまうのが、困った。


私の笑いは、私の意志や感情と連動しておらず、自分でもコントロールが効かず、


私をうろたえさせ、怖がらせる。






教育は本来社会的な現象である。


従っていかなる社会がそこに存在するかということは、


いかなる教育がそこに存在しているかということを物語っていることになるのである。


佐々木等