子供のころから、妙に好きな絵本がある。
この本は私と一日違いで生まれた、私の双子のきょうだいみたいな本だ。
「わたしってだれ ? ― きおくをなくしたしょうじょ ― 」だ。
折に触れて、気が向いたときに読み返している。
・
私は子供のころ、記憶を失ったことがある。
保育園にいってたとき、5歳のころだと思う。
同じマンションに住んでいて、私の唯一の友人のようなものになってくれた、
同じ保育園に通う幼馴染の彼女が、
よく行く駄菓子屋さんで飼われていた犬に襲われた。
その犬は、いつも吼えまくり、近所の子供に怖がられていた。
5歳の子供が二人しかいないときに、
わざわざその犬に近づくのは自殺行為だった。
・
彼女が、犬にお菓子をやろうとしたのか、
私が彼女をけしかけたのかもしれない。
私は彼女をいじめていたから後者だと思う。
犬に近づいた彼女は、組み敷かれ、牙を立てられた。
その子は泣き叫んで、わたしに助けを求めた。
わたしは立ち尽くした。
恐怖もパニックも、何も感じなかった。
ただ、体の中が、恐ろしく静かに、
空っぽになったように澄んで、がらんとした気持ちになった。
親に叩かれてできた私の中の闇の空洞が大きくなって私を呑み込んでいるのを感じた。
私の中の空洞は、私に降りかかる脅威や痛みから私を連れ去ってくれる。
まるで、現実を見る瞳の真ん中に、ぽっかりと穴が開いて、
空虚が開いた瞳で見つめる現実にも、ぽっかりと穴が開いたように、
思考も、感情も、行動も、必要がない、
生の空虚にすべての意味を投げ捨ててしまえるような、
親兄弟に殺されるとしても関係ない、勝手にすればいいというような、
周りの空間を真空で断ち切るような、
ぐったりとした無感覚に身を委ねればいいだけだ。
けれど、そうして私が私の中の虚の落とし穴に落ちてしまうせいで、
現実の中に踏みとどまることができず、
何の判断も決断もできなくなったらしかった。
・
ただ考えていた。
こういう場合、ものを感じることは役に立たず、意味がないことは知っていた。
するべきことは、どう行動するか、考えることだけだ。
考えても、何もできなかった。
足元の石を拾って投げてみた。
届かない。
誰かに助けを求めるという考えは、一番浮かばなかった。
もし誰か大人に助けを求めたりなどすれば、
大人のネットワークを通じて、母に、
私が、機械にあるまじき行為、取り乱していたことがばれるかもしれない。
・
人間は機械で、何も感じず、何も考えないはずなのだから、
それが、万物を創造した神が造ったこの世界の自然摂理なのだから、
それに背反したと、罪を責められるかもしれない。
助けてくれる人など、世界には誰もいないことをわたしは知っていた。
私と彼女は、この世界に立った二人だけで漂流しているのだから。
いつも漂流ごっこをしていたのだから。
わたしが、彼女を助けにはいるにしても、犬にかなうとも思えない、
それとも単なる怯懦か。
わたしはひたすらもどかしかった。
まるで、水中にいるかのように、思考も体も重く鈍く、ぐったりとしていて、
目の前の光景とわたしの間に果てしない空間が開いていて、
どんなに手を伸ばしても、暴れても、声を上げても、
何もどこにも届かない気がした。
・
中身が虚になった枯木のような気がしながら、
ただ思考ばかりぐるぐるし、
わたしは、表情一つ動かさず、身動きひとつせず、
麻痺したように、目の前の血まみれの凄惨な光景を、何もせず見つめ続けた。
わたしは傍観者として、見ることで、彼女を裏切っていた。
・
なぜ、近所の家に駆け込んで助けを求めなかったのか、
そもそもなぜ、この騒ぎに誰一人気づかなかったのか。
私は、誰かに助けを求めるなんてことは思いもせず、
一人でこの状況を何とかしなければならないものだと。
でも、どうにもなるものではない。
彼女は自力で犬の下から這い出した。
泣き叫びながら、とぼとぼと歩き出した。
私と彼女は、並んで歩き出した。
夏用のタオル地の白いワンピースが、真っ赤に、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
・
私は走り始めた。
彼女から逃げるように。
彼女は、待って、待ってよぉ、
と泣きながら、遠ざかるわたしにむかって血まみれの手を伸ばした。
けれど、知らせるのが先だと思った。
一刻も早く知っている大人にこのことを知らせ、
彼女を治療させなければ。
わたしは彼女がいくら泣こうと、わたしに手を差し伸べようと、走った。
マンションの私の家は一階で、彼女の家は最上階だった。
私の家に行くほうが早い。
マンションはだらだら続くのぼり坂の上にあり、
そこまで走りづめた私は、息を上げて、家の扉に手をかけた。
・
――― ここから先は、違う「わたし」、
外のわたしは、中のわたしとはちがう。
中のわたしは、親にとって、何も感じない、何も考えない、
空っぽの、存在していない子供。
何とも関係性のない、過去とも、未来とも、今とも関係ない、
誰とも関係性を持たない、
それだけで、単独で存在しているだけの、機械の子供。
彼女と関わりのある「わたし」、
彼女のことで動転している「わたし」、
という、
この家の中に、親に通用しない外の「わたし」を、
この扉の向こう、この扉の先から、持ち込んではならない ―――
・
一瞬、そういった思考エネルギーが体中を駆け巡り、
今までの、わたしが私といえるものの経歴、人生、経験、
物語、エピソードというものをごっそり洗い流し、
主体的な経験などしない、主体性などない機械として、
この家のルール、親の見識に沿う存在の仕方をする機械として、
わたしはリセットされた。
・
扉を開き、外と内の境界をまたぎ越え、
外の光を締め出した家の中の闇に足を踏み入れたとき ―――
外と内が扉で切り離され、私の中に、
すとん、と重い緞帳が降りてきた。
わたしの背後で扉が閉まるとともに、
外のわたしと内のわたしが切り離され、
外の「わたし」は、外に置き去りになった。
・
一瞬、わたしは、外の光を締め出した、暗い玄関に立ち尽くした。
名前も顔もないもののように、
記憶も過去も未来もないもののように。
指図だけを待つ機械として、
何も感じず、何も考えない機械として、
そこに立ち呆けた。
なんだっけ、
今まで、何をしていたんだっけ。
わからなかった。
けれど、ここではしなければならないことだけがあるのを知っていた。
機械のわたしに命令する人の指示に従えばいいだけだ。
それで、母の、
なに、帰ったの ?
外から帰ったら手を洗って、ご飯食べなさい、
という指示に、
ただいま、と言って、
手を洗って、テーブルに着き、食事を始めた。
・
・
彼女は、自力で自分の家に辿り着くまで、誰にも保護されなかった。
あんなに泣き叫んでいたのに。
誰にも聞こえなかったのだろうか。
わたしたちは、漂流でもしていたのだろうか。
夜、怪我をした彼女が、母親と、マンションの一件一件を回ってカンパにきた。
彼女の家は7人家族の大所帯で、怪我の費用をまかなえなかったのだ。
頭を白い包帯でぐるぐる巻きにされた友達を見て、
私は、何かあったのだろうか、と思った。
友達は私に怒っているようで、むっつりとして、私と目を合わせなかった。
・
後で、遊んでいる最中に、彼女に、
あなたはあのときわたしを見捨てたのよね、と言うことを言われた。
わたしは彼女が犬に咬まれて大怪我をしたことは知っているけれど、
それが私とどう関係があるのかわからずに、キョトンとした。
彼女はわたしに意地悪を言ったのだ、そう思った。
彼女は片耳を食い千切られかねなかった。
犬は保健所に送られ処分された。
トラックの後ろの檻の向こうで、全世界に牙を向いているようなその犬が、
激しく吠え立てながら遠ざかっていくのを、わたしは見た。
この記憶を思い出したのは、十四才くらいのころだったと思う。
彼女の中では、私は、怪我をした友達を見捨てて逃げ出した、卑怯者なのだ。
彼女は時々、私を侮蔑し、嫌うそぶりを見せた。
私も、なぜかわからないまま、そうされて当然だという後ろめたさがあった。
今まで彼女に、このことを話したことはない。
こんな話、信じてもらえないからだ。
・
このことを思い出したのは、それから10年も経ってから、
14歳の深夜に、レノア・テアの「記憶を消す子供たち」を読んでいて思い出した。
淀んだ水底から引き上げられた死体が次第に輪郭をあらわにするように。
この件は、相互の誤解と共に、時間の彼方へと過ぎ去ったのだ。
彼女の中で、私は、卑怯者の烙印を押されたまま、すべては終わったのだ。
もし、この話を持ち出したら、私が、自分の体面のために彼女に嘘をつき、
騙したと、彼女は二重に傷つくだろう。
彼女の中で私は、二重の卑怯者になる。
これは経験から言えるけど、誰も信じない真実は嘘であり、誰もが信じる嘘は真実なのだ。
真実は、人に信じてもらえなければ、真実になれないのだ。
私はこの話を彼女にしない。
私は黙る。
自分の真実に嘘をつく。
彼女の中の真実を、嘘にしない為に。
私の真実は、彼女にとって、嘘だから。
私が嘘をつくのは、自分に対してだけでいい。
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もちろん、単なる忘却と抑圧は違う。
わたしたちは経験したすべてを覚えてはいられない。
受け取った新しい情報のほとんどは捨てなければならない。
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重要な記憶が意識から抜け落ちることは多い。
とくに恐ろしいことが繰り返される場合はそうだ。
この子供たちは五歳以前にさまざまなトラウマを体験していたが、
繰り返しトラウマを体験した子供たちは、一度だけの子供に比べて、
体験をあまり記憶していないことが判明したのである。
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私は犬、とくに大きな犬が怖かった。
「ドッグと呼んでくれ」と彼はいった。
「友達はみな、ドッグと呼んでいる。」
犯罪小説家は、ここで大きな犬が運転する真似をしてみせた。
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エルロイは友達に「ドッグと呼んでくれ」といった。
受話器をとると、「わん、わん」と答えた。
犬は、彼の第二の自己(アルターエゴ)になった。
「記憶を消す子供たち」レノア・テア
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犬がこんな風に吠えるのを、いつか自分は聞いたことがあったのではいか?
私の思い出は過去にさかのぼった。
そうだ!
子供のころ、遠い遠い昔に―――
いつか、犬がこんな風に吠えるのを、私は聞いた。
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毛を逆立て、頭をそらせ、身を震わせて吠え立てる犬の姿を見た。
深夜の静寂のきわみには、犬も幽霊を信じるというが、
そのために、犬はあの時恐怖に駆られたのだ。
犬は盗人と幽霊の存在を疑わないからである。
そして今、再び犬がそんな風に吠えるのを聞いて、
私はまたしても犬に憐れみを感じた。
ツアラトゥストラ
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ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。
「メメント・モリ」藤原新也