私にとって勉強とは、罵詈雑言で鼓膜を劈かれること。


ひたすら叩かれること。


嘲笑されること。


痛みを受けることにも与えることにも、痛みそれ自体に、


何も感じない、機械的な強さを得るためのレッスン。



私にとって「勉強する」とは、


寝静まった家の闇の中で、包丁を握って立ち竦み、


次の一歩を踏み出すための強さを得るため、強さの糧になる痛みを得るための、


肉と血の臭いのするレッスン。



私は学校で、教師がわめきも嘲りも、叩きもしないことが怖かった。


生徒が、誰も石化していないのが怖かった。


教師は機械など相手にしていなかった。


生徒は、機械になるために、そこにいるのではなかった。


私のシステムとは違っていた。


私がいる社会とは違っていた。



私を機能させている社会、私がそこで、機能している社会とは違っていた。


私には理解できなかった。


そこは、私にはわからない、もうひとつの社会だった。


私には理解できないものが怖かった。



私に「わからない」ことばかりをつきつける、このもうひとつの社会を憎んだ。


私が「知らない」ことの罪を暴き、


私を必然的に間違った存在にするシステムを憎んだ。


白紙のテスト用紙は私の無知という罪悪を晒し、


答案用紙の上では、私が何個丸のついた存在で、何個バツのついた存在かを決定する。


私の罪悪である、「知らない」を暴く、このシステムを憎んだ。





生徒と教師たちは、私にはわからない動機で「勉強」していた。


生徒たちは、勉強することで、勉強という道具で、


今の自分からもうひとつの自分へ、今から未来へ、


多岐に広がる自分へと、移行しているようだった。


それは、流動的、有機的、一過性のもの、生命的な行為のように見えた。



教師も生徒も、「わからない」から出発し、「わからない」の中に存在し、


そして「わかった」か、またもうひとつの、「わからない」へと移行していった。


勉強というものは、自分から働きかけることであり、


圧制的なもの、ただ上から降りかかってくる、


打擲の手に耐えていればいいというものではないようだった。


硬直的なものではなく、移行的なもの、


外的にも内的にも、流動的、生命的なもののようだった。



私はそこで、どのように機能すればいいのかわからなかった。


私がいたところは、親と一致しない感情や思考や行動は、


リアルとして存在する権利を認められず、


ただ耐え、自分を不在化して、


個という恐怖と脅威を主張さえしなければ、それでいいところだった。





ウチでは、勉強が「できるか」「できないか」などは、実は問題ではなかった。


現に、大幅に成績が落ちても、親は特に取り乱さなかった。


唯一の問題は、親の、「彼らの社会」の異分子になること。


彼らの意識と一致せず、彼らの(あるいは)無意識から零れ落ちること。


彼らの意識、無意識が、ネットワークのように張り巡らされた、


共同体の異分子たる個になること。



唯一の問題は、親の、無意識的、あるいは暗黙の価値観に不一致を起こすこと、


違和をもたらすこと、共同体を揺るがすこと。


子供が、他者が、彼らの分身、彼らのコピー人間、彼らと一致して不和を起こさない、


彼らにとって、とても安心できる存在になること、が問題なのだ。



だから彼らにとって、あれほど私に適応を迫った社会は、


実は私が考えていたような、もうひとつの社会のことではなかった。


私の中では、家庭内社会と外部的社会との軋轢と葛藤があったけど、


実は彼らがあれほど連呼していた「社会」は、彼らの個人的社会でしかなかった。





彼らの意識的無意識的価値観が社会だから、


彼らに一致しない個は、世界の外、「彼らの社会」の外へ、


彼らの認識の範疇外、リアルの外、バーチャルへ、不在へと零れ落ちることなのだ。


彼らの採点方法では、彼らに不一致なものは、存在していない、0点なのだ。


彼らの影響を受けず、彼らと一致しない、


ソトの社会と他者は、彼らにとって0点なのだ。



親が何を容認しているかは、言葉で説明されない事が多く、


行動で推測するしかなく、


それが「正解」かどうかは、親が激しい反応を示すか、


親に共感的な反応をもらえたか、で判断する。


言葉で何も言わなくても、態度が暴力を肯定しているのなら、


私の暴力を否定するような言葉や態度は、親への敵対なのだ。



だからウチにとって、人殺しは悪いことではなかった。


むしろ殺してもよかった。


だからテレビで、人殺しが法律の裁きを受けたというニュースを聞いて、私は驚いた。


殺されるほうが悪いのに、弱いからやられるのは当然なのに、


強い者は弱い者に何をしてもいいのに、


いつ殺されてもおかしくなく、いつ殺してもおかしくない、


そう自分に言い聞かせて、私は日々、いるのに。


なぜ、人を殺してはいけないと、


ソトの世界では言われているのか、私は悩んだ。



私のいた社会は、外的なものも、内的なものも、機械的に、


世界が静止しているように、硬直していた。


私を今、ここに在らしめているはずの生命は、


私にはもう、宇宙の果てと同じくらい、わからないものになっていた。



私にとって、「生きる」とは、まだ読んだことのない物語のように虚構だった、


命とは、微かなイメージでしかなかった、


私の存在が、今ここにいることは、バーチャルでしかなかった、


私の中のリアルでは、命は石化し、人間は機械で、存在は不在だった。



何が正しく、何が間違っているか、どうあらねばならないか、


痛みという、流動的不安定さのない機械仕掛けの人間であることを求められ、


世界であることを求める、


私にとって勉強とは、私が、世界が機械化していくものでしかなかった。



生徒たちは、成長し、勉強し、学習し、そのための目的を持っていた。


教師は生徒を学ばせ、成長させ、そうするための目的を持っていた。


機械は成長したりしない、


機械は勉強しない、


機械は覚えるだけ、


機械は、目的も動機も持たない。



実は彼らの「勉強」の目的は、成績を上げることではなく、


彼らの共同体に脅威を与えない、個を排した機械的人間になることの教授だったかもしれない。


それはソトの社会では機能しないけど、


「彼らの社会」では成績優秀な人材を育成するレッスンだったのかもしれない。





今の私には、自分が今、ここにいる事実の全て、私を取り巻く全て、


意思も感情も、思考も精神も、痛みも望みも、生も命も、存在も不在も、


家族も人間も、社会も世界も、リアルもバーチャルも、自己も他者も、


どの大学で、誰に教われば答えが見つかるのかと悩むくらい、何もわからなかった。



全く逆の価値を持つ二つの社会に、同時に適応することなど、私にはできなかった。


私のいた社会にとって、相反する価値観だし、


そもそも彼らが生命体であるなら、私は機械だし、


そう教わってきたし、そうなろうと努力してきたことなので、


私には、彼らを理解することなどできなかった、否定するしかなかった。


彼らも、私を理解することなどできるはずもなかっただろう。





私は小中を通して、問題児になった。


私が理解できる形での社会を、私に理解できないその社会の中へ、


現出させようとしたからだ。


でなければ、私の居場所がなかった。


その居場所以外のところでは、私は機能できない。



弱肉強食、やられるほうが悪い、やったもの勝ち、


人間の選別、聖別、痛みによる人間の強化、機械化、


手段としての暴力、統制、


つまり、いじめの構造を。



勉強することは、社会的な行為なのかもしれないが、


そもそも私が、人間は機械だと言われた時点で、


私が、痛みに強い「機械」になろうと頑張り始めた時点で、


「人間」の社会に私の居場所はなくなったのだ。



「お前みたいなやつは世界に一人もいない、


誰もお前を理解しない、お前は世界に一人ぼっちだ」、


と宣言された時点で、私は、社会的に抹殺された存在であることを宣告され、


私の社会性は死刑宣告を受けたのだ。



勉強するとは、私の社会不適格性を糾弾し、


私が、永遠に勉強のできない、


不完全な、非社会的存在であることを裁き続ける、


更生なき矯正だった。



どうすれば正しい存在になれるのか、


どうすれば、私が私であるという罪悪を禊げるのか、


どうすれば、間違った存在でなくなるのか、


どうすれば正解が見つかるのか、


見つからない答えを探し続ける問題の中で、


自分をこぼし続け、見失いながら。







ぶたれると痛くて、泣いてしまう。


転ぶこと、擦り傷、切り傷、労働、寒さ、暑さ、どれもこれも苦痛のもとだ。


ぼくらは体を鍛えることを決意する。


かわるがわるベルトで打ち合う。


打たれるたびに、言う。「痛くないぞ」


ますます強く打つ。


そのたびに言う。「平気だ」





こんな練習をしばらく続けて、ぼくらはほんとうに、何も感じなくなる。


痛みを感じるのは、誰か他人だ。


火傷し、切り傷を負い、苦しむのは、誰か他人だ。


ぼくらはもう泣かない。



おばあちゃんがぼくらをぶち始めると、ぼくらは言う。


「もっと、もっと、おばあちゃん!


ほら見て、聖書に書かれているとおり、ぼくら、もう一方の頬も差し出すよ。


こっちの頬もぶって、おばあちゃん」


おばあちゃんは言い返してくる。


「おまえたちなんか、その聖書だの頬だのといっしょに、悪魔に攫われてしまえ !」





これらの言葉を聞くと、頬が赤くなり、耳鳴りがし、眼がちくちくし、ひざががくがくと震える。


ぼくらはもう、赤くなったり、震えたりしたくない。


罵詈雑言に、思いやりのない言葉に、慣れてしまいたい。


ぼくらは台所で、テーブルを挟んで向かい合わせに席に着き、


真っ向から睨み合って、だんだんと惨さを増す言葉を浴びせ合う。



こうして、言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳に入らなくなるまで続ける。


ぼくらはわざと、人びとに罵られるようなことをする。


そして、とうとうどんな言葉にも動じないでいられるようになったことを確認する。



しかし、以前に聞いて記憶に残っている言葉もある。


「私の愛しい子! 最愛の子! 私の秘蔵っ子! 私の大切な、可愛い赤ちゃん ! 」


これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。


なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、


それらの言葉の思い出は切なすぎて、とうてい胸に秘めてはいけないからだ。



そこでぼくらは言う。


「私の愛しい子 ! 最愛の子 ! 大好きよ・・・けっして離れないわ・・・・


かけがえのない私の子・・・永遠に・・・私の人生のすべて・・・・」


いく度も繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。


「悪童日記」アゴタ・クリストフ







まるで私の半身が他の半身に一杯食わせてやったとでもいうように、


私の中で誰かが笑う。


この悪ふざけは、たぶらかすほうにとっても、


たぶらかされるほうにも、同じように可笑しいのだ。


私自身のふたつの半身がいっしょに笑う。



なんという不在証明(アリバイ)!


私が行くことのできる場所はひとつもないのだ。


私はどこにもいない。


私は空間の法則から逃れているのである。



外からのいかなる予呼びかけも、そこには届かない。


もはや私の生活はどんな人間とも、何者とも対立しないし、結びついてもいない。


死の静寂の中で、己を固く閉ざしてしまったのだ。



このとおり私はすべてから隔絶されているのみならず、


この世界のいかなる地点にも位置していない。


私はアメリカから、クリーヴランドから、私自身から逃れる。


不在証明の平和を。


「アメリカその日その日」シモーヌ・ド・ボーヴォワール







あらゆるヒトの社会は、


子供たちに適切なふるまいを教えるのに莫大な時間とエネルギーを費やす。


なぜなら、子供を育てるということは、


ある意味で、その社会が存在する根本理由だからだ。


「ロスト・ワールド」マイケル・クライトン