その日も学校から帰ってきて、真っ先にハムスターのケージに行く。


ケージの上にぞんざいにおいてある、容器の中の子供たちとその日は無性に遊びたくてたまらない。


ランドセルをケージの脇、玄関前に放り出す。



一度こうと決めたらわき目を振らない一心さ、子供らしさというのかわからないが、


酩酊したような夢中さにその日に限って取り憑かれた。


いつもなら、用心深く母の動向を監視し、機械的にいつもの学校帰りの手順を踏んでいた。


ランドセルを廊下に放り出しているのが見つかったら、ただじゃすまない。


母に見つかるとまずい、まずい、という声が他人事のようにぐるぐると頭に響いていた。


ちょうど、ゲームやテレビの一番面白い興奮時と重なって、ものすごい尿意を催し、


それを無視しなければならない、妙な使命感のような、高揚感のような。


とりあえずランドセルはその辺に放置、ではなくて、


廊下の壁にぴったり付けて誰にも邪魔のならないように、


見つけられて母の攻撃の材料にならないように、浅はかな努力をした。


空き容器の中の子供ハムスターと戯れた。


この日はいつにも増して、彼らが可愛く、哀しく思えた。





背後からの、わたしを串刺しにするような視線の気配で振り返った。


母が買い物から帰ってきて、


ハムスターのかごの前にしゃがみこんでいるわたしを見つけた。



「こんなところで何やってるの 。 」


わたしは凍りついた。


いつも、すでに母が自分の中で答えを出している、


誰の返事も期待しない問い。


だからわたしは答えない。


すでに判決は下っているのだ。


わたしはゆっくりと立ち上がって母と対峙した。





「こんなところにランドセル置いて、誰かが踏みつけたらどうするの ?


こんなところにおいて、邪魔でしょ ?


汚いでしょ ?


誰が家の中掃除すると思ってるの ?


誰があんたのランドセルの金払ってると思ってるの ?


誰があんたのせいで金を払うと思ってるの ?


あんたじゃないのよ ?


お母さんとパパなのよ ?」



わたしは廊下の壁にくっつけて置いてあるランドセルを横目で見た。


3戸しかない部屋の前、ハムスターのケージ以上にはでしゃばっていないランドセル、


人通りのないマンション、


誰かが思いついて意図的にここにやってくるのでない限り、


ランドセルが踏み潰される危険はない。


けどそれは問題ではない。



母が何を言おうとも、何をしようとも、母がいいたいことをいい、


母がしたいことをするために、わたしは存在してるのだ。


まちがっても、存在することのないよう、


母の存在を妨げる、わたし自身として存在しないように、存在する。


母の思い通りのものをぶつける、


わたしは空白の壁でしかない。


足元からすかすかした隙間風のような空虚な諦めが立ち上ってくる。


母はわたしを責める告発の金きり声に、自分で舞い上がり激昂してくる。


わたしは母のしたいことが見えてきた、


やりたいようにやらせていた。



母は、金のかかる、世話を要求する、手間を取らせる、母の人生の時間と労力を奪う、


母の頭の中の、機能的な計画通りの行動から外れ、


世界のルールと、


ルールに従っていさえいればいい人間の機能の仕方というものをすでに知っている、


母の仕様から逸脱し、異端するわたしを責め、告発し、糾弾し、非難し、指弾し、絶叫した。



どうして、ちゃんとできないんだ。


どうして、ちゃんとした普通の人間になれないんだ。


どうして、親が知っている、


全世界の、全人類と、一般的な、外れない、過ちを犯さない、


世間と、世界と、普通と、常識と、他の人と、


おまえは、同じでいられないんだ、同じことができないんだ。


なんでおまえは、親を苦しめるんだ。





母が一瞬の早業で、子供ハムスターの入った容器をひっつかんだ。


わたしは先ほどから彼らを注意しながら、


でも決して、わたしが彼らを気にかけていることを、


母には気取られてはならないと思っていた。


でも母にはいつも、私のことが何でもお見通しなのだ。


そして、私を最も痛めつけるためには何が一番効果的なのか、その驚異的な察知力でかぎつける。



「 こんなものと関わってるからだらしないことをやるんでしょ !」


蓋の開いた空き容器の中で、激震に見舞われている2匹の子供の、


パニックに目を見開き、四肢を突っ張らせ、


揺れ動く地面に足を踏ん張っているのがちらと見えた。


いくら彼らが倒れまいと地面に足を踏ん張っても、無駄なのだ。


今激震しているのは、彼らの運命をなぎ倒そうとしている人間の手、


2匹の運命そのものなのだから。





母は容器を持った腕を振り上げた。


わたしは目で追わなかった。


その行く先はわかっていた。



音を立てて内臓が一気にずり落ちるように、


わたしの中から何かがごっそりとこぼれ落ちていった。


わたしの中にうずくまっていた闇が膨張して、


わたしの中身を食らって去っていった。


わたしはわたしのなかに、しんしんとした闇だけを感じていた。



母は容器を持った腕を伸ばし、廊下の柵を越して、


下のコンクリートの地面に思いきり叩きつけた。


わたしの罪を声高に裁きながら、


真っ直ぐ、わたしの目を見つめながら。


わたしも、真っ直ぐ、母の目を見つめたまま。



母が興奮するといつもなる、魚のように真円になるほど見開かれた、薄茶色の瞳。


爬虫類よりも表情のない、まばたきしない透明な視線に、


わたしの何もかもが透明に呑み干され、


わたしは、ただ、透明な一対の目玉になっていた。


魔性の力を秘めた白イタチ、ノロイの視線に魅せられた、ネズミたちみたいだった。





真夏の太陽に反射して、勢いをつけて落下する容器の内側のアルミの銀色が、


ぎらりと光るのが視野の片隅に見えた。


世界が無音になった一瞬後に、アルミの容器が地面にたたきつけられる、


世界が粉々に砕け散る音が響きわたる。


命が砕ける音。


わたしは、形骸だけ残してわたしが内部崩壊し、崩れ去った後の闇を見つめ、


虚空に吹き渡る風のような、わたしのなかの闇の、虚ろな音にただ耳を済ませていた。



気がつくと母がまだ何か言っていた。


わたしを糾弾していた。


わたしを責めていた。


母の苦しみの根源がわたしにあること、


わたしの罪を暴いていた。


母のいわんとすることは、見事なほど、


そのパフォーマンスで、十分わたしにわからせた。



母のルールが作る現実、母がどう思うか、母の存在、


わたしの人生の中で、何よりもそれを優先させる意識を持たず、


一度でも母を度外視し、母のルールを忘れ、


自分本位の欲求を優先させれば、すぐさま母の天罰が下り、


母の手の中で、わたしの命はひねりつぶされるのだ、と。


ハムスターの命は、その見せしめのために、


わたしの身代わりに、ひねりつぶされたのだ。



わたしは、わたしを食らった闇に、一心に意識を凝らす。


闇が与えてくれる怒りと憎しみをかき集め、流れ出したわたしを、もう一度再生する。


闇の力で、崩れ去ったわたしを形作る。


闇を一心に見つめる。


闇の声だけを聞く。


闇は応える。


ゆっくりと、血が巡り始めるように、声が、


崩れ去ったわたしの代わりに、わたしを満たす。





いつでもころせばいいのだ


いつ、ころしてもいいのだ


いまではないだけだ


いま、ころさないでおくだけだ


いま、ころさないでおいてやるだけだ





わたしはようやく、母に縛られ、母に縛り付けていた視線を外し、足元に視線を落とす。


流れ去った自分が、今いる場所を確認する。


崩れ落ちた自分が、今ここに存在していることを目視する。


少しでも身動きすれば、ばらばらになるかもしれない。


今はわたしの手となり足となった闇の力の憎しみと怒りで、


わたしは、足を一歩、踏み出す。



いま、ころさないだけ


一歩。


わたしが、ころさないでいてやるだけ


一歩。


いつでもころせばいいのだから、だいじょうぶだから


一歩。





いまだ叱責を続けている母に冷ややかな流し目をくれ、脇をすり抜けた。


「ちょっと、きいてるの、何を考えてるの、まったく 。」


わたしが背中で置き去りにした母が、


背中でわたしを置き去りにして、家の中に入って、玄関を閉めた。


もしかしたらまた家を追い出され、玄関の鍵をかけられるかもしれないと思ったけど、


それでもよかった。


むしろそうしてほしかった。


二度とここに戻らなくてもよかった。


ここにいてどうせ、命を喪うだけなのなら。


あがいても、あがいても、一方通行の砂時計のように、


指の隙間から命を取りこぼし続け、命を喪い続けるだけなら。



堕ちた2匹のもとにいく。


二匹を探す。


容器が植え込みの中に転がってる。


思い切りふり落とされたから、死体さえ見つけるのが難しいかもしれない、不安に思う。


横倒しになった容器を直してみる。


そこにいた。


正確には一匹だけ、どういうわけか横倒しになった容器の中に残っていた。


妹のメスのほうだった。


倒れるでも伸びるでもなく、ただ座っている格好だった。


ただ、目を瞑り、浅い息を小刻みに繰り返し、じっと動かない。


様子がおかしかったけどもう一匹が不安だったので、


妹をそっと握り締め、あたりを探す。



今、命が世界から出て行こうとしているのに、


命が出て行くための引き裂き傷も破れ目も綻びも、


世界に開いていないことが不思議だった。


今、ひとつの命の時間が終わろうとしているのに、


世界の時間が続いていること、


喪われた命がもう足跡をつけることのない世界に、


わたしが今も足跡を残し時間を刻んでいるのが哀しかった。



少し離れた植え込みの中に、


もう一匹が小石のように転がっているのが見つかる。


薄い黄土色の小さい塊に、真夏の攻撃的にぎらぎらした陽光の中に、


一欠けらの黄昏を見つけたような安堵感をおぼえる。


見つけたところでわたしにできることはない。


わたしにできることは見つけることくらい。


自分の手で殺したハムスターを介助する気など親にないことは明らかだ。


わたしにできることは、命の終わりを看取ることくらい。



そして、ハムスターは、自分を殺した人間などに、見つけられたくはなかっただろう。


一瞬見つけなかったふりをして、このままここに放置しておこうかと考える。


彼らのために。


最後くらい、彼らの命を、人間の手から、彼ら自身に奪い返してやるべきではないか。


でも2匹とも、幸いにして、不幸にして、かろうじて生きていた。


何とかすれば、わたしでも延命できるかもしれない。


欲が出たのだ、


人間の、殺しては生かす、自分本位の欲が。





人間は、どこまでも自然のままにおくことをせず、


どこまでも生と死を所有し、コントロールすることをやめない。


どこまでも、他者の、自然の、動物たちの意思を、


自分の意思の支配下におかずにはいない。


自分の意のままにならない生と死を、罪と悪と呼び、


ただあるがままに、生と死の満ち引きを繰り返すだけの自然を、


自分本位の計算で、足し算したり、引き算したりして、


それぞれがそこにあるがままに所有している、


自主的な生と死の自由を管理下に置き、コントロールし、


自然があるがままに持っている、自主責任性と、自由性を、奪う。



人間の手は、何かを創造する、線を引くため作られているから。


人間の手は、自然を閉じ込め、囲い込み、線引きし、所有し、


中と外、善と悪、自由と不自由の、檻の線を引いて、


創造するようにできているからだ。


あるいは、自身の空虚な手の中に、すでに創造されたものを閉じ込めることで、


初めて何かを得られるようにできているからだ。





兄のハムスターは、目を瞑って、ぐったりと倒れている。


わたしになでられたりさすられたりしていると、息を吹き返し、


眠りすぎたあとのように、ものすごい勢いで、


でも半睡しているように目は瞑りながら毛づくろいをはじめた。


活発な様子にわたしは安心した。


問題は、妹のほうだった。



手をそっと開くと、横倒しになり、苦しそうにえずいていた。


人間が、何もでないまま吐くような、えずく動作を発作的に繰り返す。


目を開かない。


わたしは一瞬、もう思考力のない頭で、次の行動に迷う。


自動的に立ち上がる。


マンションの人が共同で使う水道のところにいく。


蛇口をひねり、水を出す。


手に掴んだハムスターを水にさらす。


ハムスターが濡れる。


溺れたようにぐっしょりになる。



なんのつもりだろう、とぼんやり自分に問いかける。


ショック療法のつもりかもしれない、とぼんやり自分が答える。


ショック療法のつもりかもしれないが、功を奏さず、えずきがますますひどくなる。


ぼんやりあせる。


おなかをさすってみる。


心臓の辺りをこすってみる。


えずきがとまらない。



命の黄昏の中、道を失くした生と死の狭間の中、


わたしは迷子になったハムスターとともに、途方に暮れる。


子供らしく泣こうとしてみる。


泣こうとする感情が見つからずうろたえる。


次の行動に迷い、途方にくれる。


世界に対して反響し、表現すべきなにかを喪失したわたしは、


世界を喪失し、世界に存在している自分を喪失している。





容器の中に、元気を取り戻し始めた兄ハムスターをいれ、ケージの上に置き、


死んでも生きてもいない妹ハムスターを握り締めたまま、わたしは途方にくれる。


このまま意地でも家の外にいて、ハムスターの死とともに、


世界の外に、わたしも身を置き続けようと思う。



でも父が帰ってきたら、家の外にいるわたしを、また家を追い出されたのか、


家を追い出されるような馬鹿をしたのかと、嘲笑されるかもしれない。


わたしが意気消沈していたり悄然としていると、


弱みを握ったように嬉々と嘲笑するように。



「 そうなの、なんとかいってやってよ 」


と、愉しそうに母に経緯を説明され、今度は父に罵倒される。


そうしたら、母によって一度死んだ命が、


今度は、父によって辱められ、二重に殺される。


わたしは父という再びの殺戮を避けるために、やむなく家に入る。


母の直情的な攻撃も怖いが、父の精神・人格攻撃のほうが怖かった。


肉体的な暴力と違って、人格が壊されていくのは、防ぎようがないからだ。





無言で家に入った。


すぐの台所で、母が憤懣を撒き散らしながら夕食を作っている。


わたしは死にかけのハムスターを持って食卓につく。


ハムスターはまだえずいて苦しんでいる。


いつまで続くのだろう、とぼんやり思う。


母の手前もあり、手の出しようのない延長戦に困り、あせる。


気だるくなっている。



「あんたさっきお母さんの言ったこと、ちゃんとわかったの ?


ちゃんと聞いてるの ?



人の話 ?


ちゃんとしなきゃダメなのよ ? 」


母がいっていた。


死にかけのハムスターを持って食卓についたわたしの前に、母の作った夕食が置かれる。





人間が生きるための食事が湯気を立てている。


私の手の中で死につつある命の前で。


私の手の中の命が死んでも、私は、生きるために、


私の魂を握りつぶす母の手が作るその食事を食べるだろう。


私は、私の中の命が死んでも、私が生き延びるための闇を喰らうだろう。


私は喰い続けるだろう。


人間の手に命をくびり殺されながら、人間の手に魂を握りつぶされながら。



人間の命を奪うものは、人間と動物と、二種類いるけど、


動物は、人間の魂をに命を与えることができる。


動物も人間もの、命も魂も殺すことができるのは、人間だけだ。





「 やだ、そんなもの持って、家に入らないでよ 。」


母がいう。


わたしは泣こうとして頑張っても泣けない。


わたしはただ顔を上げて母を見る。


母は目を背け、


「 ご飯食べちゃいなさい 。」


いい放つ。



他の家族が帰ってくる前に、ハムスターのえずきはだんだん弱まっていき、


だんだん静かになっていき、ついに止まる。


わたしはむしろほっとする。


母が機械的に食事を提供するからには、


わたしは機械的にそれを消費しなければならない役割なのだ。



一切の運動を止めたハムスターを見た。


今までここにあった命は、こんなにも忍び足で、どこに逃げ出していったのだろう。


人目を忍んでいくほど、そこはここよりも魅力的なところなのだろうか。


なんだかここに取り残されたわたしのほうが、


負かされ、惨めな世界の取りこぼしのように思えて、哀しかった。


それが、このハムスターの死に初めて感じた、ぼんやりした哀しみだった。



哀悼ではなかった。


ハムスターよりも、自分を哀しんでいた。


わたしは死体を白いティッシュにくるんだ。


親よりも、世界中のどの人間の命よりも重い命を喪失した分、


わたしにとって世界は軽くなったようだ。





家族が帰ってきて、私たちは母の食事を食べた。


いつ母がわたしの行状を父に告げ口するかと伺っていたけど、


母はあえて話題をはぐらかすように、


不自然なテンションの高さで父に接していた。


これは母が父に知られたくないことのひとつなのかもしれないと思った。



その後私はハムスターの死体をゴミ箱に捨てようとして、かろうじて思いとどまった。


人間としてと思った。


あえて意思的にそう思わなければ、やってしまいそうだった。


死を悼む気持ちがなかった。


この世界に無様に置いてきぼりを食らっているのは、わたしのほうなのだ。





このとき生き残った兄ハムスターのほうをあるとき、


親ハムスターのもとにおいておいたほうが、群れの心理で、


守ってもらえて安全かもしれないと思った。


弱い子供、人間の弱い状況にこそ、


まるでつけこむように攻撃してくる私の親に狙われず、安全かもしれないと思った。



久しぶりに親子を対面させてみる。


子供を手に持ち、ケージ越しに親ハムスターに近づけてみる。


親ハムスターはケージの中を忙しく動き回る動きをぴたりと止め、


ケージ越しに突き出した子ハムスターの鼻面を嗅いだ。


不気味なほど長い間、そうしていた。


妙な静寂の空間が流れた。


子供は人懐こく、親ハムスターとじゃれたいそぶりを見せて鼻をくんくんさせる。


不穏な静寂が続く。



唐突に、親が、ケージが激しく揺れるほどの勢いで、


子ハムスターの鼻面に思い切り噛み付いた。


子供が悲鳴を上げ、啼いた。


あわててケージから離すと、子供の鼻の付け根から血がにじんでいる。


鼻そのものがもげそうな勢いだった。


それくらいの処置しかできず、湿らせたティッシュで血をふく。


子供は痛がって啼く。


親を見ると、敵は追い払ったとばかりがさがさしている。


憎くなってケージをぶっ叩いたので、


激震に見舞われたケージの中でパニックを起こしたハムスターが狂ったように走り回る。



人間の親からは、そのまま命を落とした妹とともに、命を手から振り落とされ、


実の親からは敵対行動を示され、


病院に連れて行く社会性も、自力で怪我や病気の処置するスキルも持たず、社会的に孤立し、


自分の命さえ自分の手に負う責任能力もない子供一人の手にゆだねられたこの子供の行く末が、


見えた気がした。


わたしの運命のように。



それから数週間後だと思う、


子供は一定の大きさ以上に育たなくなり、餌を食べなくなる。


あの親ハムスターに鼻を噛み切られかねなかった一件を思い出す。


あのせいかと思う。


妹をなくしたせいかと思う。


たった一匹で世界に取り残されたように生かされているせいかと思う。



もともと活発な子ではなかった。


ときどきじゃれるときかみつくけどかむ力がとても弱い。


歯自体が透けるほど薄く小さく未発達のような気がする。


虚弱児なのか未発達かもしれないと思う。


わたしは私一人の手の中に命を抱えて、誰にも声の届かない海を漂流するように、


わからない、どうしようもない、命の助けを求める人間が誰もいない。



やわらかく炊いたお米粒を一粒、口元に持っていってみる。


ぴちぴち音を立てて、半分くらい食べる。


半分も食べてくれたことに嬉しくなる、


半分しか食べられないことに、哀しくなる。


何かもっと栄養のあるものを食べさせたいけど、何も思い浮かばない。


私一人の力で何もできない。





ティッシュの空き箱に、命が漏出しつつあり、軽くなった体を横たえる。


どうしていいかわからないけど、動物を家に入れないという母のタブーを公然と破り、


体を温める暖を与えるため、電気の暖かさがあるからテレビの上に置いてみる。


テレビの前のソファの上に母が寝転がってテレビを見ている。


テレビの前にいるわたしのことよりも、


テレビの中の世界のことのほうが、母の関心を引き、母はよく知っているのだろう。



ティッシュを敷き詰めた白い空き箱の中。


命が水をほしがるかどうかもわからない子供が、


中に水を浸したティッシュだけを置きざりにして眠る。


白い棺桶のような箱の中の子供は翌日、


独房の壁際を出口を探して虚しく彷徨よったように、


後ろ足だけで這い進んだような引きずった跡を残し、


はいずり歩き通したままついに倒れたような格好で、前のめりに倒れて死んでいる。



最後は、ひとつふたつの、黒く硬い花の種のような糞が残る。


私はなぜか、ハムスターの亡骸よりも、


ハムスターが生の最後に残してくれたものだと思えたのか、


その糞のほうにハムスターの生の痕跡を見出す。


糞をティッシュにくるんで箱にしまう。


その糞はその後何年も宝箱の中にしまわれてた。





それ以来ハムスターを買うことはなくなる。


結局、私の手元で生まれ、生き、死んだ命たちのひとつとして、


わたしは、名前をつけることはなかった。


私自身の名前がないからだ。


私の名前が見つからないからだ。



結局、わたしたちにとって、動物たちは、


不特定多数の、名前のない動物たちであり、


わたしたちは、動物たちにとって、


不特定多数の、名前のない、人間たちだった。


わたしの家族の誰ひとりとして、彼らを名前で呼ぶものはなかった。


彼らの飢餓も、渇きも、痛みも、わたしたちにとって、それは、


名前も顔もない、不特定の、誰か、でしかなかったのだ。





わたしの手に、信頼にも見え、あきらめのようにも見え、


無抵抗に身をゆだねる動物の無力さを見ると、


命をゆだねられる私の手が、


ゆだねられる命の信頼の手を裏切る手でしかない、


命を手放す手でしかない、


生を取り零す手でしかない、


すでに、死の闇に満たされている手だということを思う。


それが、信頼というより、わたしを裏切る身の自由の余地もない動物たちが、


いくつもの命を張ってわたしに教えてくれたことへの、唯一の恩返しだと思う。



私にとって動物たちは、生から死に向かう、


生と死をつなぐ命のただ一本の道を、


常にわたしの前を歩いて、真っ直ぐに軌跡を引いて道を行く、


人間の暗い迷い道を往くわたしの、か細い道標になってくれる存在。





事態を表現して伝える相手は誰もいない。


わたしの表現を許し、反響し、待つ人は誰もいない。


わたしの表現を受け止める手を持つ人は、世界に誰もいない。


だから黙って口をふさいで、生の表現をせき止めたところから、


生の壊死、死の漏出が始まるように、ゆっくりと魂が虫食まれるのをただ見つめる。



生の表現の自由な出口をふさがれたとき、


他の細胞から切り離されて、腐って死んでゆく細胞のように、


生の脈動を沈黙させ、ただ自分の死を見つめている。


声のない動物たちの声に、誰にも届かないわたしの中の声が呼応する。


この世界でもっとも弱い声を代弁してくれる動物たちに、私の中の、声なき声を祈る。



人間たちのやることには、いつもどこか嘘がある。


あるいは嘘を作らずにはいられない。


人間は、リアルの命そのものだけではいられない、


自分たちの存在の嘘臭さから逃れることはできない。



私がこの世界で最も信頼しているひとたちは、動物たちだけだ。


命と、生と、死だけを真っ直ぐに見つめる、


嘘のないリアルの体温だけが物語る、


動物たちの、声なき声だけなのだ。





わたしは信用に足らない人間なのだ。


動物たちにとっても、人間たちにとっても。


その戒めを忘れないこと、


それが、動物たちの死を忘れないこと。


そのわたしの前に、今度はウサギを飼って持ってきたのは、母だった。・







サフィと私の関係を要約すれば、対等な関係ということだろう。


自分と違う種であるにもかかわらず、


サフィを「個性あるもの」とみなしているといいたいのだ。


もし彼らが個性あるものとして私たちとかかわり、


私たちも個性あるものとして彼らと関わるなら、


彼らと私たちとが"個性的な"関係を持つことは可能である。


もし、そのどちらかが他方の社会的な主体性を認めなければ、


そのような関係は阻害されてしまう。



言い換えれば、ある人間が、ヒトではないけれども個性を持った動物を、


一個の主体として水に、単なる無名の対象としてしか関係しないとすれば、


その動物のほうではなく、ほかならぬ人間の側こそが、


「個性的存在性」を喪失しているのである。



トマス・アクイナスやオハーンは、動物と人間とは友だちになれないというが、


彼らは、相互主体性との命ずるところに、


自発的にお互いに身をゆだねるという可能性が、


共通の基盤をなすということを無視している。



相手に(それが人間であろうとなかろうと)身をゆだねるといは、


相手を操作しようとしなくなること、


彼らの私たちへの関係の仕方を操作しようとしなくなることなのだから。


操作できなくなるのは不安だが、


それによって得られるものを考えれば安いものだ。



こうして、私はサフィを「個性あるもの」だとみなし、


サフィも私をそう思ってくれるので、私たちは友人でありうる。


私は友人ならば誰にでも願うこと―――つまり自己表現する最大限の自由と、


最大限の幸福――― をサフィのために願っている。





「他の存在の立場になって考えて見られる範囲に限界はありません。


共感的想像力に限界はないのです」


「言い換えれば、彼らは心を閉ざしたのです。


心とは、時々他の存在を共有できるようにしてくれる、


"共感"という能力が宿るな所です。」


ところが、たいていの人間は動物に関して想像力の翼を広げることはしない・・・。


詩や小説は、哲学よりも、この想像力に強く訴えかけるものなのである。



哲学者とは違って、詩人は動物の経験に「共感すること」から始まる。


それによって詩人は、


この世で生きている感覚を経験しうる動物ならどれでも殺すことは罪であるとわかるようになるのだ。


だから「動物のいのち」はガーバーが主張するように、


動物のいのちを問題にしているのと同様に、文学の価値をも問題にしているのである。



クッツェーが私たちに残した問いの中で中心となるのは、


こうした倫理的衝突の解決、言い換えれば対立する感受性同士の和解が―――


哲学的にせよ詩的にせよ心理学的にせよ―――


いったいありうるのかどうか、という問いなのだ。


見方によれば、「共感的想像力に限界はない」という動物をめぐるコステロの主張は、


人間同士におけるいわば「隣人」との関係において試されているともいえるからである。


動物の生のあり方を問う本書は、そのまま人間の生のあり方を問う。





動物は機械のように生きている、とデカルトはいいました。


動物とは、それを成り立たせているメカニズムにすぎないというのです。


もし動物に魂があるとすれば、それは機械にバッテリーがあるのと同じように、


動かす活気を与えるためだ。


思考、思索に対して、私は充足感、肉体が与えられているということ、


存在しているという感覚を対峙させます。


この存在の感覚とは、


自分はものを考える一種の幽霊のような思考機械だという意識ではなく、


それとは逆に、自分は空間に広げられる手足を持った肉体であり、


この世に生きている存在だという感覚であり、


激しい感動的な感覚なのです。





「動物にとって、いのちが私たちにとってほど問題ではないと言う人はみんな、


生きようと闘っている動物を自分の手で抱えたことのない人たちです。


動物の全存在が、その闘いにありったけ籠められているのです。」


「動物たちは私たちに立ち向かうのに、沈黙しか持っていません。


何世代にも渡って、勇敢にも、私たちの捕虜は私たちと話すのを拒否しています。」



実際には戦争と狩猟は同じものだわ。


哀れみの情を育むことができるようになったのは、必ず勝てるようになってからですよ。


でも、私たちの哀れみは実に薄っぺら。


捕虜は自分たちと同じ部族には属していない。


どうにでも好きなように扱ってかまわない、


私たちは彼らを、お前の言うとおり、軽蔑の念を持って見るのです。」





この世で何の(宗教的な)理由もなしに動物を殺して犠牲にしたものは、


その動物の体に生えている毛の数と同じだけ、


死後に生まれ変わっても生まれ変わっても非業の死をとげるのである。


草、いけにえの動物、木、(いけにえ以外の)動物、


そしていけにえとして殺された鳥は、高い身分に生まれ変わる。


これがマヌの述べたことである。


「マヌ法典」





「それでも、いまだに私たちを憎む動物がいます。


たとえばネズミ。


ネズミは降伏しなかった。


彼らは下水溝の中で地下組織の部隊を結成しているの。


勝利を収めてはいないけれど、敗北もしていない。


まだ私たちを打ち負かす可能性はありますよ。


もちろん私たちが滅びたあとも生き延びているわ。」


「動物のいのち」J・M・クッツエー







月は、イタチたちを皓々と照らしています。


六十七ひきのイタチの真ん中に、一ぴきだけ月の光を浴びて、


白く体を光らせているイタチ、ノロイが見えます。



ノロイはそういいながら、ガンバの目をじっと見つめました。


ノロイの目は月の光を反射するというより、のみこんでいるみたいに、


深い青に近い茶色に見え、その目の色に、ガンバは思わずひきずりこまれそうになります。


ガンバも、けんめいにノロイの目を見返しました。


ガンバの方は、黒く、キラリと光る目です。





もはや戦いではありませんでした。


しかし、それにもかかわらず、ネズミたちは決して悲鳴一つ、泣き声一つあげずに、


" 生きぬこう " としていました。


ネズミたちの抵抗はおどろくべきものでした。


どのネズミも、体力の最後のときまで、いや、体力を使い果たしても、


なおかつ、意志だけで戦い続けていたのです。





「どうやら、ノロイ、勝ちはお前だ。


わたしたちは敗れた。」


ガクシャは顔半分を海につけていいました。


そして、


「もう言葉はない。」



「いいやガクシャ、まだある。


ぼくたちはまだ闘う。


まだぼくたちは生きているんだからな。」


「冒険者たち」斉藤惇夫







食わずには生きてゆけない。


メシを


野菜を


肉を


空気を


光を


水を


親を


きょうだいを


師を


金もこころも


食わずには生きてこれなかった。


ふくれた腹をかかえ


口をぬぐえば


台所に散らばっている


にんじんのしっぽ


鳥の骨


父のはらわた


四十の日暮れ


私の目にはじめてあふれる獣の涙。


石垣りん 「くらし」