8時前に家を出てバスに乗った。地下鉄名谷駅から県庁前駅で降りた。9時から受付だが、10分前に着き時間を待った。

 

大ホールを借りるのだが、いつもはシマさんが取ってくれるが、今日(11月1日)は日帰りの旅に飛鳥へ行く。それで私が予約に行った。次の年の同じ月の1日から受付だ。OKとなり、ほっとした。

 

BOT(ベースオブトップ)はヤマハのホールである。話を聞いた。ここは半年前から予約出来る。音響など設備はいいが、30分で約3,500円だ。必要な演奏時間を計算し更にリハーサルとか準備とかの時間も取るとなると割高である。これは、多分再来年以降にお世話になるかも知れないが、1人に対する負担が嵩む。ちょっと分かり難い所にあった。

 

三宮からJRに乗って元町で降りたのだが、元町のBOTに行く前に三宮のホームで電車を待っている時だった。右を振り向いた時、ベンチに座っている背広を着た男の首がなかった。しかし、組まれて浮いている靴を履いた足が動いている。一体どうなっているのだろうと訝しく思っているが、よくよく目を凝らしてみても、足は動き、全く首から上がない。

 

ここから推理が始まる。余りにも巧妙だと思われた。その男は、そんな事は1ミリたりとも考えていなかった、そう断言してもいい。電車が来た頃、その男が立ってこちらに向かって来た。どうしてくっ付けたのか、首から上が、つまり頭がちゃんと付いていた。手品か怪談か。

 

つまり、キャスター付きの旅行用ハードケースに、座っている時に背広を脱いでそのケースに掛けていたのだ。体は後ろに引いていて、どうしてもそれが見えない角度だった。掛けられた背広に首がある筈はない。寸分違わぬ細工だった。手品なら・・。

 

こんな事が現代の怪談なのだろう。元町に着くと、もう考える事もなしに、階段を上っていた。

 

BOTで受付がある4階で話しを聞いて、すぐに出た。久し振りに南京町に行く事にした。目的は矢張り久し振りのぶたまんを買って帰ろうと思った。老祥記と言って、大正4年(1915)に創業した元祖豚饅頭の店だ。

 

普通の豚まんを半分にして丸めたよりも小さめのぶたまんが、何と100円だ。入って食べる人は殆どなく、もう10数人が並んでいた。持ち帰りの人達だ。私も、太陽の熱を浴びて、耐えながら並んだ。持ち帰りも、3個以上でしか売ってくれない。

 

まあ5個買って帰れば昼は2人でそれは足りるだろう。だが、折角並んだのだ。娘の所に10個届けたいと思った。散財と言えば言えるが、老祥記の味は癖になる。5個は食べられるだろうが、それは昔の話だ。それなら10個でも大丈夫だっただろう。

 

家に着くと、11時30分を過ぎていた。タレは付いていない。そのまま食べる前に、ポン酢を付けて食べた。結構行ける。何も付けないでも食べたが、どちらでも美味しかった。

 

現代の最新版の怪談。今頃思いついている。携帯で写して置けばよかったと。もうないだろう、こんな話。ぶたまんは胃袋に、怪談は脳みその襞の奥にしまった。と言っても、私の脳に襞があるかどうかは保証出来ない。

10月30日は、夕方7時に阪急六甲駅から歩いて10分も掛からない店に8人が集まった。11月24日(日)1時から10組の演奏会の全員でやるコラボ曲の練習の為だった。去年も失敗したが、7時から8時まで食べて飲んで8時から9時まで練習する事にしていた。料理が美味い所為もあって、久し振りの語らいもあって、さあ練習と腰を上げたのが8時半だった。

 

この店では、周囲の迷惑と遠慮から、9時で音出しはお仕舞いなのである。30分で済む筈もない。だが、ピアノ、ギター、リコーダー、オカリナは必至で合わせようとした。「八重山(やいま)」と言う曲。何とか流れは掴めたようだった。流石「気まぐれ音楽集団」だ。

 

私にはもう何年も前からだが「シンクロ」が続き、最近はそれが頻繁だ。私は小さなスプーン3分の1ほどを掌にすっぽり隠れるチャック付きの袋に小分けして、ブログで繋がった素敵なお友達から送って頂いたスロヴェニアの南西端の港町ピランのソルトをお裾分けした。

 

するとどうであろう。その店の料理に、小皿にほんの少し入った塩が出されていた。その塩は経度がハワイと略同じに並んでいるクリスマス島のソルトだったのである。粒はピランの結晶の方が大きかったが、私には不思議でならなかった。

 

丹波の黒豆も茹でたものが出されていたが、つい最近私も或る人から枝ごと農家から買ったものが送られて来ていて、茹でて食べたばかりだった。これは娘たちの家族に、少しずつだったが持って行った。

 

9時を過ぎて数人は帰って行った。私は折角だからと暫く話してから店を出た。だが、どうした事か道を間違って、歩いた。姫路へ帰る女性と一緒に。阪急六甲駅に辿り着いたが、線路伝いに歩いた。その結果、私は三宮で降りて阪急デパート(ついこの前まではそごうデパートだった)の道を挟んだ北側の高速バスの停留所に急いだ。最終が10時30分だが、誰も並んでいない。最終バスに3分間に合わなかった。

 

JRの快速に乗った。垂水駅からバスに乗る事にして。でも、その最終に間に合う筈もなかった。JRでは20分ちょっとかかるので、垂水からの最終は10時45分だからである。でも気持ちは空しく急いだ。遠目からでも閑散としていた。歩いて帰ると1時間10分はかかる。もうその気力はなかった。タクシーに乗った。滅茶苦茶久し振りだった。2千円を超えた。勿体ない!

 

運転手さんと話した。4か月前からタクシーの運転手になったと言った。ついその前まで、観光バスの運転士だったそうだ。遠くは熊本や東京に行ったと言う。2人が乗務していたが、それでなければ幾ら何でも眠くなるだろう。運転する事が好きな人のようだった。

 

 

31日、ヒメダカを水槽で飼っているが、4匹の内メスは1匹だ。もう5匹追加して、メスが2匹もいたら万々歳だと思った。1匹40円だから200円なら安いと思った。「雄雌の選別は致しません」と書いてある。初めて見る女性の店員が妙に話に乗ってくる。

 

「うちのメダカもオスが殆どで、メスを1匹でも連れて帰れたら。でも選別はして貰えないし」

 

と言うと、

 

「ちょっと見てみましょうか」

 

と言うが早いか小さな水槽を持って来て、沢山いるヒメダカをその中に掬い入れ、眺めては戻しまた掬い入れを繰り返していた。100匹近くいるヒメダカを少し入れ替えて見ていたが、

 

「オスばかりですねえ」

 

と言った。他の種類のメダカは、他の容器に入れられていた。初恋とか楊貴妃とか雷電とかの名前が付いている。初恋はダルマメダカだが、名の通りすらっとはしていない。でも、とても愛らしい。そこには3匹入っていた。よく見ると、卵が1つぶら下がっているのがいた。紛れもなく、これはメスである。だが、1匹千円だ。

 

私は考えた。このメスを買って帰ってヒメダカの水槽に入れてみようと。だが、縄張りなどで攻撃されないかが心配だったのと何ぼ何でも1匹千円は高い。1匹40円とのギャップに心は苛まれた。

 

「これ、卵がくっ付いているからメスだと思うけど。でも高い!」

 

「ホント! これメスですね。この3匹は丈夫で、長くここにいますよ。夏にペアのメダカ祭りをしましたが、その3匹が残っているんです。これ、3匹買って頂けるなら、値引きしましょうか」

 

その言葉に気を取られた。ちょっとしか負けてくれないだろうと思ったからだ。

 

「3匹連れて帰って頂かないと、残ったオスが可哀想で」

 

それで、幾らになるんだろうと思った瞬間、

 

「3匹千五百円でどうですか」

 

1匹はメスだと分かっているし、こんな可愛いメダカが増えるならそれもいいかもっと言う気がした。「それより安くはならないかなあ・・」と口から出そうだったがそれは流石に言えなかった。元は安い初恋だろうけれどもだ。

 

「じゃあ、それを3匹頂戴」

 

松のような水草と、卵を産みやすい人口の草紛いのタコの足のようなものも一緒に買った。この女性店員と話すのが楽しかったし、頭の回転もいい利発な、商売も弁えている女性だった。

 

「もう、心は掴みましたよ」

 

「でも、いつも貴女がいる訳でもないし」

 

そう言って店を出た。

 

帰って早速小さなプラスチックの水槽に3匹を入れた。見栄えもする。だが、よくよく見ると、薄い色のメスは確かだったが、後2匹はオスだと思っていた。それが、一番大きいのがオスで、もう1匹はメスだった。これは繁殖には申し分ない。

 

「今年は余り卵が孵らないと皆言っていますね。年に依って違うらしいですよ」

 

と言っていた女性店員の言葉を反芻した。でも、それはそれ。2匹メスなら理想的だと思った。またバクテリア入りの砂でも買いに行くとしよう。

 

頭の中であの100匹程が勢いよく泳いでいるヒメダカが全部オスだと思う悲哀を感じながらも、それが確かな希望に変わる移ろいを眺めていた。

18日は雨と風。眠りに就くまで窓ガラスがガタガタと音を立てていた。明日は晴れるかな?

 

19日は5時半頃には起きて、朝を整えた。窓の外は曇っているが、雨も風もない。前日に用意して置いた鞄と譜面台を持って、7時過ぎにバス停に向かった。垂水から下り電車に乗る為に。その前にコンビニでリポビタンDを一気に飲んだ。

 

8時前の電車に乗る予定だったが、その前に来た普通に乗った。見慣れた明石海峡大橋を目に流しながら、明石駅で再び普通に乗り換えた。8時40分に加古川駅北口の外で待ち合わせているMさんと会うには少し時間があった。CDの伴奏を流してくれる中学からの友達Ki君は、構内の柱の周りのベンチに座っていた。彼は1時間は前に来て、コーヒーを飲み終わっていたのだ。

 

さる公民館までMさんに乗せて貰って、20分位で到着した。音楽は、音響が命だ。Nさんが準備をして下さっていた。彼は何でも知っていると思えたので、丸投げ状態にした。どうしたら綺麗な音で、心地良く聴いて貰えるかが私のオカリナ演奏の時の1番気になる所だったからだ。

 

ちょっと音出しをした。先ず先ずの音量だった。10時から始まるまで、控室でMさん、Ki君、私の3人で、話をしていた。Mさんは、このシルバーの会の方々の副会長をしている。

 

私の持ち時間は1時間半。オカリナの演奏と講演を依頼されている。自分なりに話と曲を交互にする事にして、一応の青写真を描いていた。メインは演奏。講演の中味は聴いて楽しいとか面白いとかの方がいいし、その為にもタイトルは「オカリナと私」にしていた。何を喋っても良い程門戸の広い演題だと一人悦に入った。

 

初めの挨拶が10分あり、それから私の番になった。

 

全く話す事には肩が凝らなかったし、時々皆が笑ってくれた。本来はどちらかなのだろうが、このやり方もありかなと思う。只、講演と言う限りは、テーマに対して一貫性がないといけないだろう。最初にこの形は、まるでレベルは大違いだが、二刀流の大谷翔平のようだと言って、少し笑って貰った。進行具合も順調のようだった。

 

ただ音が凄く大きく感じられたので会場の女性の割合が多い150人位の参加者に聞くと、やっぱり大きそうだった。Ki君に音を少し落とすように合図した。それでも、私には会場全体の音の感じが掴めない。伴奏の音とオカリナの音とのバランスもよく分からない。準備をして貰ったNさんも、後ろにいて調整もしてはくれなかった。

 

そんな不安な演奏が終わりまで続いた。親切にして貰ったのだけれど、自分でもっと確かめる事をしなかった私の否を感じて、後悔が残った。演奏会では、いつも何処かに反省点が出る。

 

PCの天気予報に載っている湿度が、何と99パーセントだった。体が熱く、演奏のシャツは汗でびっしょり濡れた。今回こそは止めようと思っていたリポビタンDが、この時間に効いて来る。顔までぽかぽかとして、気持ちは高揚するものの、いつでも熱くなる。

 

真正面に時計が掛かっている。時間の調整は出来ない事もない。だが、時間通りに終わるように言われていた。挨拶の為に10分遅れて始まった私の演奏に於いて、この10分は大きい。結論を言えば、私は自分で10分伸ばして、11時40分に終えた。1時間半と言う時間はきっちりと守ったが、この辺の事は当事者はどのように思ってくれているのだろう。初めの挨拶を聴きながら、時間が過ぎて行くのはとても辛いものがある。

 

話したかった計画の1つは止めにした。話を少し削った所もある。最後位は皆さんに大笑いして貰いたくてそれは話した。案の定爆笑で、まあそれはいいとして、拍手を貰って控室に戻った。Ki君と私と会長と副会長とで、世間話をしていた。

 

12時半までに浜の宮のすし屋さんに集まる事になっていた。時間は十分あって、Mさんにその駅まで送って貰った。とても良くして頂いたと感謝している。

 

Ki君と私が店に向かって歩いていると、矢張り中学時代の友のO君が来た。店に入ると、今回の演奏を取り持ってくれたHさんが既に座っていた。暫くしてKikさんが来て、5人はここで食べたり飲んだりする喜びを感じ始めた。

 

O君が、この前教えたスプーン折りをHさんに教えて上げるように言った。余程今でも鮮やかに印象に残っているからだろう。これはきっと誰でもが驚く。私は覚えてから20年は経っているから、自分で言うのもなんだが、上手いものだ(笑)。「僕、失敗しないので」。

 

Hさんは目を丸くしてとても驚いた。後でやり方を少し説明した。流石に、どこかで実演したいと言った。O君が、「奥さんにやって見せたら」と言った。

 

他にも手品を教えてと言われ、2つ3つ、それしか知らないけれどやって見た。これも吃驚してくれて、トランプでしか出来ないものは名刺を重ねてそれで代用した。もっと驚くのは、トランプ52枚でも53枚でも、それがなかったら出来ないものもある。この次に、機会があったらやってみよう、と私は言った。

 

よく話が終わらないものだと思いながら食べたり飲んだりしていたが、あっと言う間に3時半になった。最後に出たてんぷらは、私だけどうしてもお腹に入らなかった。柱には、持って帰らないようにと張り紙がしてあったから、1人分そのままにした。

 

そこを出ると、有名だと言うカフェに入った。シュー・ア・ラ・クレームは私だけ注文し、後は全員コーヒーを。ここで5時過ぎまで、皆よく付き合ってくれた。と言うより、私を気遣ってくれたと言った方がいいだろう。Hさんともよく会うが、彼を除いた4人は、加古川ではいつも一緒だ。演奏がある度に集まって、後で飲むのを楽しんでいる。

 

5時も過ぎる頃、外に出た。雨は殆ど感じない位に頭を緩くポツンポツンと覆った。Ki君は頻りにO君を神戸に一緒に行くように誘ったが、流石の彼もそれを拒んだようだった。「いつもは必ず来るのに」と言いながら。しかし、今から加古川から神戸駅まで行き、Kl君の行きつけの飲み屋さんに行くのは、私が逆の立場なら帰りの事を考えただけでも大変な事だろうと思う。私も疲れていたが、どうしても行きたいらしいので、久し振りの店でもあり、彼と行く事にした。揺れたら痛い帯状疱疹のお腹を抱えて(笑)。

 

感じのいいママさんだが、私を久し振りの様に眺めた。そりゃあそうだろう。1年越しだったからだ。

 

「写真屋さんのおかみさんは来ないですか」

 

「足も痛いし、店もなくなって、車に乗せて貰ってたまにきますよ」

 

そのすぐ後だった。おかみさんがやって来た。これは何と言う偶然だろう。3人共驚いた。入って来たおかみさんも驚いた風だった。

 

「今、あなたの事を話していたばかりなのよ」

 

とママさんは言った。前衛の書が額に入れられて掛かっている。

 

「これ、炎と水でしょう」

 

と私が言うと、Ki君はふーんと言う顔をした。それで正解だったが、想像力を駆使しなければなかなか分からない。

 

オカリナを吹くように頼まれたので、アカペラで吹く事にしたその時、2人の男女が入って来た。ママさんと知り合いのようだ。2人にも聴かれる事となったが、「ワインレッドの心」と「この星に生まれて」を吹いた。男は、自分はギターを弾くし、無農薬野菜を作ったり、あらゆる事を手掛けていると言った。30代だろうが、そんな仕事の社長をしているようだった。19歳の頃南米に行って、色んな事を学習したりしたとも言った。

 

私の音が普通の音ではないと言った。お世辞なんかではないと、何度か言って、「千の風になって」が聴きたいと言った。この歌を歌うのが好きだとも。

 

生のオカリナの音を聴いて感動したと言ってくれた。大きな体の人だが、掌はお相撲さんの中でも大きな手のようだった。握力は100kgはあると言った、剣道も、柔道も、空手もやっていると言う。

 

「今考えているのは、耳の聞こえない人がこのオカリナの音をどのように聞くのかを研究したい。高い音や低い音をどう捉えるかに興味があります」

 

と言った。考えた事がなかった。私には、そう言う発想がなかった。もう9時半になる。店を出たが、Ki君と、今日は色んな事がある有意義な日だったなと言い合った。

 

Ki君は新長田駅で降り、私はその先の垂水駅で降りた。今出たばかりのバスターミナルの乗り場のベンチに2番目に座ってバスを待った。空は黒く、並ぶ人も多く、夜でも明かりの多い街には人が集まる。

 

飲んではいたが、今日は千鳥足ではなかった。しっかりとした足取りで、家に向かって歩いた。準備して来た「ミックス公演会&講演会」は終わった。私の演奏は、皆に楽しんで貰う事。だが、本当は自分が楽しまなければ人も楽しくはないと思った。

 

話の内容を考えようとすると、帯状疱疹の所為か1週間前から毎日のように気力がなく寝てしまった。流石に2日前ともなると一応の形が出来た。1つの事が終わると本当にほっとする。

 

終わるとそれは夢幻となって動かなくなって行く。人間に取って、1番大切な時間は、今だ。それがベルトコンベアーのように流れ、過去を定着させ、未来を引き寄せる。今を考え、今を動く事が、それこそが自分の未来をそのように変え、造り出していく。そんな今日が終わった。

急激な寒さに戸惑っているこの2、3日。だが、この時期の毎年の気温だそうだ。Tシャツでも十分に暑かった日々が嘘のようで、その上に長袖でも寒い位だ。夕方ともなると、もう1枚着なければ震える。

 

2日の夜9時を過ぎた時間の診察で、即座に帯状疱疹と看破された。薬を飲み、ガーゼに塗り薬を塗り付け、赤い天の川の上に貼り付けた。その上から4つに千切った、太めの絆創膏で止めた。この絆創膏は殊の外粘着力が強く、8つの箇所に少しずつ飛び出した部分を剥ぎ取るのにお腹の皮膚が引っ張られ、痛さが尋常ではなかった。1日に1回は交換した。

 

ガーゼに塗るようにと医師は言ったが、これでは塗り過ぎてすぐになくなってしまう予感がした。直接患部を触るとまた他に飛び火するだろう忠告だったと思う。しかし、指に薄く塗ったジェルを疱疹の上に優しくなぞった。段々と日に日に薄暗くなって行く天の川に、1週間で1本なくなった。もう1本処方されていたが、それからは塗らなかった。素人判断である。

 

何故かあばら骨の辺りが、まるで骨折しているかのように痛む。そんな原因は何処にもなかったが、バスに乗っても上下に揺れると、「うっ」と呻きそうになる。皮膚科に行こうかとも思ったが、全て7日間の薬を出してくれるだけで、1週間後にまた来るようにとは言われなかった。それから後は日にち薬だと、素人はそう考えた。

 

急に大きくなっている目の下鼻の右横の黒子も、2日の日に取って貰う事にした。いとも簡単に医師は液体窒素の中の何かを、綿棒に付けると黒子を何度か突いた。「1週間もすると、ボロボロ落ちますよ」。医師はそう言っていた。

 

丁度1週間になろうとする1、2日前の朝だった。顔を洗った瞬間黒子に指が当たり、それはポロッと取れた。まだ少し黒い所はあるが、ここまで小さくなれば全くと言っていい程気にならなかった。だが、淡々と言っていた医師の言葉にここまで神通力があるとは思わなかった。2日に私の順番が209番だった事をみても、むべなるかなである。

 

これ以上黒子を低温火傷させるのが良いかどうかは、これが気になってもう1度皮膚科に行った時に決定させればいい。唯々、感心している。こんなに簡単に取れるものかと思うと、恐怖心と無知は敵だと感じる。

 

 

先日、お会いした事はないが、スロヴェニアに住むブロ友のご婦人から、宅急便が届いた。今は長期滞在で日本に帰省中だ。そのお土産の感動の渦が、私をグルグル巻きにした。それはピランソルトだった。缶の上から半透明の蓋を通して、中の塩が覗ける。まるで水晶の超ミニチュアの結晶のようだった。実に美しい。

 

矢も楯もたまらず、缶の両側を覆っている小さな洒落たシールの一方を恐る恐る剥がし、ちょっと抓んで口に入れた。しっかりした塩の味が口内を席巻し、そのドラムの後には甘さが広がり、暫くの間その味覚は消えなかった。噛むと、いびつな結晶の粒が砕かれる。塩を舐めるとはよく表現されるが、塩を噛むとは正にこの事か。日本酒のあてになったのは、言うに及ばない。

 

ピランはスロベニアの南西に位置する港町であり、家々と海が融け合ってその美しさはえも言えぬお伽の世界だ。1200年を超える伝統的製法は全て手作業で、ユネスコ世界無形文化遺産に登録されている。

 

ゆっくりと海水を浄化しながら作られるこの食べる水晶は、見ても味わっても、イタリアと隣接し湾を俯瞰するピランの町をごっそりと届ける。天日と風だけで乾燥させると言うこの塩は、口に入るや否やピランの天候や風や海水や風物や町の人達に変身する。そこにはもう、美しいピランが広がるのである。

 

もう1つおまけがあって、花いんげん(味付)の缶詰も一緒に届いていた。いかにも美味しそうで、これは正月に皆が集まった時に食べようと置く事にした。

 

所が、やっぱり食べてみたくなった。あの猛烈な台風19号が本土に上陸すると言われていた数日前だった。娘の家に4時間かけて行って来たが、そこにはチワワの雑種がいてもう12才だと言っていた。私が頭を撫で喉の下あたりをよしよししてやるとじっとしている。手を休めると、枝のような小さな前足で、私のその手をポンポンと叩き、なでなでの催促をする。

 

娘が、犬のご飯を私にやってみてと言う。ご飯と言ってもドッグフードとミニトマト。人間が食べているものは犬の食の体系が崩れるとの旦那の方針で出来ない。私が器を持つと、その器に集中する。気が漲っている。娘は、ルーティーンを教えてくれた。いつも、待て、お座り、お手、伏せ、時にはホームと言って自分のいつものふかふかした敷物の所に帰らせ、よしと言うと凄い速さで戻って来て、そこで初めて食べられる仕組みだ。

 

私も、今にも器に飛びかかろうとするアーチ(雌犬の名前)に、待てを命じる。因みにだが、もうだいぶ前にアーチと初対面した時、私はアーチ君と呼んでしまった。以来、私だけはアーチ君と呼んでもいい事になっている。

 

待てと言って次にお座りと言った途端何が起こったとお思いか。私はあまりの可笑しさに笑ってしまった。お座りの声を聴くが早いか、お手をし伏せもしてしまったのだ。もう食べたくて仕方がない。眼は私を真剣に見つめている。まるで100メートルのスタートの瞬間のようだ。ごくんと唾を飲み込んでいる様も見える。犬の要領を覚えたのか、賢いではないか。よしと言ったが早いか、小さな器に鼻先を入れて、見る見る食べてしまった。ミニトマトやブドウが好きな犬って、あんまり見た事がない。それに、アーチ君はキャベツが好きなのである。

 

話が長くなったが、丁度アーチのように、私がそうだった。花いんげんの缶を見つめながら、今朝はとうとう誰も「ハイ」と言わないのに禁を犯した。缶切りで開けた。丸い刃と歯車をしっかり缶の口に当て、ペンチのように握り、右手はハンドルを回すと1周してたちどころに缶の蓋がポロッと取れる。

 

何と大きな豆だろう。大きいのはツクツクホウシ位はあるように見えた。卵かけごはんのおかずにした。2個で味わいは十分だ。煮詰められた甘い汁に浸かっている。まるで栗のようだ。豆は好きで、金時豆とか鶯豆とか黒豆とか枝豆はよく食べる。いんげんはこんな形で食べるのは初めてだと思う。珍味に近かった。

 

 

帯状疱疹の後遺症で苦しむ人の話はよく耳にする。私は先ず、肋骨の辺りの痛みが取れて体が元の様に普通に動く事を願っている。この体で、もうすぐオカリナ演奏と卓球の試合が迫っている。卓球は多分出られないだろう。演奏は、何としても実行しないと、180人の人に申し訳ない。帯状疱疹となんら関係のない事だから。

9月30日に虫に刺されたような感じを受けていた。腹部の左側にダニに噛まれたようなものではなく、それよりは大きな発疹が赤い模様のようだった。虫刺されの薬を塗ったが、案の定その行為は無駄に終わった。

 

10月1日、痒いなどの生易しいものではなく、ちょっとでも触るとまるで神経を触ったかのようなビリッとした痛みが感じられた。鏡に映して左側の腹部を見た。その発疹は点在し密集し帯の様に広がっていた。早速PCで調べたが、どうも帯状疱疹ではないかと思った。同時に、そんな言葉も覚えた。

 

2日はパンパンに張った肩凝りだと診断されたクリニックに行って、マッサージと骨密度の測定と医師の面接を受けた。3週間前、毎日のように耐えられないギリギリの緩急はあるものの、連続した鈍痛を肩甲骨辺りに感じていて、たまらずクリニックに行ったのだ。医師は即座に肩凝りを看破し、首筋の上部両側に注射をした。多分筋肉を柔らかくするものだったか単に痛み止めだったか。

 

それから1週間毎にリハビリに行き、この日は医師との面接を受けた。自宅のリハビリ(簡単な運動)も最低限やったし、クリニックのリハビリのお蔭もあってか、殆どあの頃の鈍痛を感じなくなっていた。

 

骨密度とどう言う関係があるか分からなかったが、医師は結果を見て腰椎正面からと大腿骨全体の骨密度は若年成人と比較しても劣らないと言い、自信はなかったが取り敢えずは安堵した。

 

もう自己診断の帯状疱疹はかなり広がっていて、赤ワインの天の川のようだった。流石に、このクリニックから帰ってすぐに皮膚科のクリニックに行った。5時半頃だった。

 

感じのいい2人の受付の人に、ずっと昔に行った事があった診察券と健康保険証を渡した。

 

「予約されていますか」

 

「いや」

 

「それではこちらで予約しておきますので近くなったらお電話でお知らせしますから、それからいらっしゃって下さい。9時過ぎると思います」

 

もう外は暗く、9時と言えばとっくに晩酌をして多分TVを観ている頃だろう。

 

「えっ、そんな時間に診て貰えますか」

 

とっさに聞き返した。3時間は家にいて、それからまた出掛けるような初めての体験だった。

 

「後72人いらっしゃいますので」

 

「大変ですね」

 

あまり意味のない事を喋って、そそくさとその場を離れた。アルコールのない夕食はリラックス出来ない。しかし、赤い川を放って置く方がずっと心配だった。

 

電話があったのは、男子バレーで日本がポーランドに2セット取られ3セット目で1対2となっている時だった。善戦していたが、次のセットも取れたらなあと思っていた。

 

電話は、無機質な声で淡々と喋り終えて切れた。

 

「あなたの順番は209番です。今からお越し下さい。あなたは209番です」

 

クリニックの受付の女性は1人になっていたが、やっぱり感じがいい。すぐに笑顔で応じ、親しみが感じられる。この時間にまだ人はいて、それからも何組かの人達がやって来た。

 

医師はとても感じが良く、後ろに立っている看護士も笑顔がとても感じが良かった。

 

「どうされました」

 

事情を出来るだけ簡潔に話した。腹部の左側を見て、

 

「帯状疱疹と言う事は知っていますか」

 

「はい、知ったばかりです」

 

医師は6ページ程に纏めてあるパンフレットを開けて簡単に説明すると、そのパンフレットをくれた。飲み薬と塗り薬を1週間分処方した。

 

「子供の頃に罹った水疱瘡のウイルスが体内の神経節に潜んでいて、加齢やストレスや疲労が免疫が低下した時に活動をします。神経を伝わって皮膚に到達し帯状疱疹として発症します。」

 

成程、どんな時に発症するかがとてもよく分かった。この3つは、全部当て嵌まっている。NHKの深夜便を聴くので、睡眠はとれていない。それも疲労の大きな原因だ。

 

医師は塗り薬を塗る時、搾り出した薬をまずガーゼに塗って、それを幹部に着けてテープで止めて置くようにと言ったが、パンフレットを後で読んでよく分かった。

 

水ぶくれが破れると、細菌による感染が起こりやすくなるので、細菌による化膿を防ぐためにも、幹部は触らないようにしましょう、と言った事が書かれていた。それで、指で直接に塗るのではなくガーゼに塗ってから貼ると言う事に納得した。

 

『帯状疱疹は他の人にはうつらないそうだが、水疱瘡に罹った事のない乳幼児には水疱瘡を発症させる可能性がある。小さな子どもとの接触は控えましょう』とあった。

 

「先生、もう1つあるんですが、最近右目の下の黒子が急に大きくなったようで、気になってすぐに触ってしまいます。9月の終わり頃からですが、・・」

 

と言うが早いか、

 

「紫外線の影響でしょうね。これは良性です」

 

「それで、小さくするとか色を薄くするとかは出来るのでしょうか」

 

「これは取る事も出来ますよ。今から取りますか」

 

余りにも急で、

 

「またその時に・・」

 

と言ったその時、

 

「もう用意していますよ」

 

と看護士さんが言った。

 

「それならやらないといけませんね」

 

「いや、いいんですよ」

 

「やります」

 

と言った。このアイドルのような黒子がなくなる事は考えた事がなかった。しかし、ちょっと目立ち過ぎになった。

 

銀色のビアマグのような容器からはドライアイスの気化した気体が煙のように上っているのが見えた。医師も看護士も笑っていた。

 

「先生、こんな時間まで大変ですね。余程体力もあるんでしょうね。それにしても皆さん明るいですね」

 

にっこりしながら、こんな時間でも相手に会わせて対応してくれる。喋らずにはおれなかった。

 

「私は楽しんでやっていますから」

 

部屋も明るいが、端々にユーモアが感じられ、何しろ明るいのだ。これが病室なのか、と訝しがる程だった。PCに目を遣るのでもなく、顔を近づけて笑顔で話してくれる。診察されている感じなど、更々なかった。

 

眼鏡を外すと、医師は綿棒をそのマグカップに差し入れては私の黒子の上にちょんちょんと付けた。何度もやっていた。

 

「痛ければ麻酔でも」

 

と脅かされていたのだが、この冷たさでそんな感じもしていたように思う。これで黒子が取れると言うのは半信半疑だ。

 

「1週間もしたらぼろぼろと取れて行きます」

 

帯状疱疹と黒子の治療が出来て、1週間後が楽しみになって来た。

 

薬局で薬を貰って、早速家でガーゼに塗って貼った。それに、もう1度軽くご飯をお腹に入れて、薬を飲んだ。何といいクリニックだったか。やっぱり明るく笑顔があってユーモアのある事が、接客業でなくても、自分にも是非欲しいものだと知らされた。

 

夜の明るい診察室、いやいや談話室だった。