狂犬革命 続き 下書1
<パウダールームにあるロココ調の化粧台>
加奈子のパウダールームにあるロココ調の化粧台。二番目の引き出しに、メレダイヤがはめ込まれたプラチナ製の小さな鍵が入っている。それは一階のリヴィングの奥に置いてある幅約一間、高さが約半間くらいの赤いラッカー仕上げの収納BOXの鍵なのだ。六十年代ニューヨーク現代美術作家が造った作品だと加奈子が言っていた。赤いラッカーの表面には割られた鏡が幾何学模様に象嵌されている。そのBOXの鍵は、加奈子のパウダールームの化粧台の、鍵のない引き出しに無造作に入っている。この豪華なダイヤ入りの鍵は、見た目にはただの宝飾品に見える。でも、僕だけは、それが本当の鍵の役割をはたす代物だということを知っている。リヴィングの奥の真っ赤な収納BOXの一番上の引き出しの鍵穴には、それを飾るプラチナ製の彫刻がはめ込まれている。メレダイヤが水しぶきのように散りばめられていて、泉から溢れる水を象っている。その鍵穴に先ほどの鍵を差し込み、右に回す。前にも開けたことがあるのでコツはわかっている。ゆっくりと鍵穴に引っ掻けるように様子をみながら回さないと鍵は開かない。奥の方の出っ張りに鍵の先端の先が少し当たる辺りでゆっくり回す。すると軽快な音がして鍵が外れる。引き出しをゆっくり引き出すと、中は濃いブルーの艶出しラッカーで仕上げてある。むせるような香水の匂い。加奈子の下着が入っている。高級な絹のランジェリー。それらに混ざって、香水瓶が無造作に何個も埋まっている。それらをどけて、奥の方、引き出しの底あたりに、真っ赤な手帳が埋まっている。蛇の皮を真っ赤に染めたアンティークな住所録。開くと、加奈子の絵画を購入したお客の名前、住所、電話番号、役職、事務所の住所等が横書きで上から順に記入してある。高額購入者で重要人物ほど上に書いてあると、加奈子は僕に、それが愛の告白ででもあるかのように告げた。この住所録こそ、絵画を購入してくれた大切なお客さんのリストなのだ。さらに、それ以上重要なのは、それが加奈子が殺してほしいと願う、殺人候補者のリストでもあるということだ。リストの一番上に書いてあるのは、もちろんあの男だ。つまり、加奈子がエクスタシー度毎に思い出す、あの忌まわしい、あの、殺したい優先順位一位の男。それでいて、現在の加奈子の贅沢な生活の経済的源泉でもある男。加奈子の絵をコレクションしてくる大切なパトロン。それなのに、加奈子のエクスタシーを邪魔する最も憎むべき男。僕はこの宝石のような鍵の使い方と一緒に、この手帳のリストの意味することを加奈子から直々に教えてもらった。もしかなえてくれたら、つまり、殺してくれたらなんでもする、本当になんでもしてあげると加奈子は言った。加奈子は誰にでもそんなことを言う人間じゃない。長年、僕のような男が現れるのを待っていたに違いない。つまり、加奈子の本当のパートナーは、この、泉から湧き出す水を象った鍵穴に鍵を突っ込み、開けることができるだけではなく、手帳に書いてある男を本当に抹殺ことができる男。加奈子は、そんな狂犬を探していたのだ。
ザラザラと尖った蛇皮の住所録。まるで温かい血が新鮮なまま固まったような色をしている。すでに死すべき運命が定められた人間の名前が数ページに渡って書かれてある。舞踏家の田口はよく僕に、「お前はろくな死に方をしないな」と言った。そして飲むとよく、勝手に思いつくまま、出鱈目の予言を語った。「お前は三十になる前に脳梅で死ぬな」とか、「お前は拷問で殺されるな」とか。それから、こんなことを言っていたのを思い出した。「お前、二十人くらい人を殺して死刑になるな」。でも、加奈子の手帳のリストを見る限り、ぼくは三十人以上殺らなければならないらしい。(もしかしたら、田口の“予言”は、全部的中するのかもしれない。)始めたら一気に最後まで、上から順に鉛筆で一行ずつ横棒を引いて消していけばいい。たぶん一番早くても一カ月はかかるだろう。一か月は三十日しかないのに、リストは三十数行あるのだから、間に合わないかもしれない。でも三十歳になるまでには、まだ十年もある。
ザラザラした手帳をジーンズのポケットに突っ込んで、とりあえず買い物に行くことにした。
鍵は鍵穴に突っ込んだまま、引き出しも開けたままにしておいた。そうすれば加奈子が帰ってきてそれを見たら、ぼくが何をしに出て行ったのか、気づくだろう。僕がついに始めたことを。僕は、まずこの、一番上に書かれている男を殺す。加奈子のために殺してやる。どんな奴にしろ、エクスタシーを妨害する輩は死に値する。それが、ぼくと交わった、否、交わりつつある女ならなおさらだ。上手くいけばまたここに戻ってきて、途中経過を彼女に報告できるだろうが、失敗したらもう二度と会えないかもしれない。それでも別になんとも思わない。そもそも僕は加奈子のためにこんなことをやるんじゃない。それをやることが初めから決められていたような気がするからやるのだ。
パウダールームにあるロココ調の化粧台の赤いラッカーの表面に埋め込まれた鏡の破片の一つ一つに、僕の顔が映っている。そのことに、今初めて気がついた。みんな同じ顔をしているはずなのに、ぼくには全部違う顔なのではないかと思われた。
解体
有機的統一がバラバラ
目もあるし鼻もあるし脳もある
でも、なにものも、僕が作ったんじぁない
今まで気付かなかったけど
気付くと、根底から解体する
バラバラに崩壊する
意味も、認識も、表象も
既存の信念体系だった限界
花も、空も、トカゲも
本来は名付け得ず
常識的には存在しない
とてつもなく、あり得ない体で存在している
人間の認識の範疇を遙かに逸脱して
自律している
願わくば
もう僕には
美しかない
美の倫理に従って僕は生きる
それは、この世の倫理に死ぬことである
狂犬革命 続き 下書6
いまどき、教室の廊下側に窓がある建物なんて珍しいかもしれない。ここは民間会社が経営する美大の予備校だが、一昔前の小学校の校舎のような作りをしている。わざわざ一昔前の学校の建築を真似たのか、それともこの建物自体が相当古いのか判らないが、もしかしたら古い校舎を買い取って改装したのかもしれない。
一つの教室だけに明かりが灯いていて、薄暗い廊下を照らしている。加奈子が個人的に有志を集めて、お受験用じゃない人物デッサンを教えている教室だ。雨があまり降らない梅雨の初め、夜になっても生温かく空気が淀んでいるから、廊下の窓も開けているのだろうか。教室の前の窓と後ろの窓だけが中途半端に開いている。後ろの窓から中を覗いてみる。1人の男子がこちらを見た。ぼくは目を伏せて窓枠の外に隠れた。廊下は真っ暗だから、教室の中からこちら側はよく見えないはずだ。真っ暗な廊下を歩き、今度は教室の前の窓からなるべく目だけを出すようにして教室の中を覗く。教室の前に全裸になってモデルをしている田口がいる。その前に座って聖子がいる。そしてその横には小柄なめぐみがいる。なぜ二人は隣り合わせに座っているのだろう。その他に男子が4,5人と女子がもう1人いる。見たこともない太った子だ。加奈子はいない。やっぱり思ったとおりだ。家があんなになっているから来れるはずがない。加奈子がいないせいか、教室の中は暗い感じがする。
しみったれた蛍光灯の明かりが時代劇のセットのような教室を照らしている。流行がとっくに過ぎ去ってしまったあとのセット。前にいる裸の男。彼は、客からさんざん野次を浴びせられた三文役者だ。見せしめに全裸にされ、拷問されているのだ。その拷問とは、三日三晩裸で槍投げのポーズのまま晒し物にされること。なんで槍投げのポーズなのか分からないが、それを見つめる聖子とめぐみ。さながら、キリストの磔刑を見つめる聖マリアとマグダラのマリアの出来の悪い偽コピーだ。ありもしない”憐み”と”憂い”を額に寄せて、あたかもデッサンをしているように全身で演技している東京タワーの蝋人形館の蝋人形。時代遅れの、流行に見放された、二束三文の骨董品だ。そうだ、ここはキリストが磔刑されたゴルゴダの丘のセットで、槍投げの男は、最後にキリストの胸を槍で突いたローマ兵なのだ。だとすると十字架のキリストはどこにいるのだろう。だれもキリストがいないことに気付かないなんて、やっぱりここにいるのはみんなただの蝋人形。本当は死んでいるのに生きているように見せかけている茶番だ。世の中、全てが茶番なように・・・。
ああ、だめだ。これ以上立っていられない。腕が痛くて鉛のように重たい。ぼくが蝋人形だったら溶け始めてる頃だ。身体じゅうが鉛の人形になったみたいに重たくて、全身から蜜ろうがしたたり落ちてくる。冷や汗が毛穴から湧き出してきて、今にも胃に溜まった熱いドロドロに溶けた蝋を吐き出しそうだ。
やましいことをした盗っ人のように淀んだ闇に溶けてしまいそうな自分。ぼくがなにをしたっていうんだろう。こんな拷問、田口の刑より性質が悪い。だって腕を切られた。包丁でずたずたにされた。なぜなら、聖子を犯したからだ。それを謝るためにここに来た。聖子に借りた金を返し、聖子に乱暴したことを謝るためだ。そのためにぼくはこの腕を包丁で刺したのだ。見せしめのために。聖子にぼくが本気なのを解ってもらうために。いや、そうじゃない。本当は、ぜんぜん違う。でも、そうすることしか思いつかなかった。だからここに来た。田口の長屋に行った。そして、あの部屋にいると否応なく、あのときの聖子のことを思い出した。そして、あそこでたまたま見つけた聖子の電話番号。電話してみると聖子は絵を描きに行っているとお母さんが言った。だから、ここに来た。単純な連鎖反応。その結果、どうしようもなく、謝りたくなった・・。ぼくの意志でここに来たんじゃない。連鎖反応で聖子に謝らなければならないと思っただけだ。否、思わされたのだ。誰に? ぼく以外の誰かに。ぼくの犯した罪をすべて告白し、許しを乞うのだと・・。まるで、マリアに贖罪の告白をするように・・。でも、そう思ってここに来たら、なぜだか、一昔前にとっくに廃れてしまった時代劇をみんなでやっていた。着ている物も時代考証も登場人物もチグハグで滅茶苦茶だ。もしぼくがここにいるのだとしたら、あたかもぼくが薄汚い盗っ人であるかのように演じなければならないのだろうか。ぼくはマリアを犯して、金を盗んだ盗っ人で、キリストの磔刑の最中、窓から盗みに入ろうと中を伺っているコソ泥か? ハハハ。おかしいじゃないか。ぼくは殺人者なのに、どうして盗っ人なんだ? 聖子から金をむしり取ったからか? そうだ。確かに。そうだ。聖子の金を盗んで、台風の夜、聖子を突き倒し、聖子に小便を吹っ掛けた。
腕から冷たい血が滴って、廊下に落ちている。まるであのときの小便のように…、地面に滴り落ちている。そして、滴り落ちる地面を見ていると、意識が重力に吸い込まれて吐き気を催す。胃から蜜蝋がこみ上げてきて、口からドロドロと吐く。でも実際は、胃からは何も出て来なかった。ただ水銀のような唾が廊下に糸のように垂れただけだ。それを見つめていると、だんだん頭が冴えてきた。
血の気が引いて、尾てい骨が廊下に落ちて、ドスンと地面を揺らした。視界が低くなると安心する。ベージュのリノリュームに覆われた冷たい地べたが気持ちいい。ぼくは地べたに頬ずりした。
地面の上では何も行われていない。殺人も放火も・・。地上数mの人間の視界の中で、あらゆる醜い行為が行われているのだ。さらに上空は、小鳥たちの領域。夜中だから小鳥たちはいない。でも朝になったらまた小鳥たちはこの世の始まりを祝福して歌うのだ。小鳥たちこそこの世の天使だ! 地上にへばりついている人間どもは、さながら地獄の餓鬼どもだ! 地面と空の間たった数mの間で、あらゆる醜い全てのことが行われている。無意味な全ての醜いこと! でも、こうやって廊下に顔をつけて、地べたに寝ていると、何事もなかったかのように安心できる。ここでは誰もぼくのことを見ず、ぼくも誰のことも見えない。地べたに、2次元に吸収されてぼくはもう誰でもなくなったのだ。無だ。存在すらしていない。目を瞑ってみる。真っ暗で何も見えない。地べたに、2次元の重力に吸収されて、ぼくはもういなくなった。何もない。何もかもない。殺人も、放火も、レイプも、盗みも、死人も、加奈子も、聖子も、誰もいない。ぼくすらいない。
「おい、なにやってんだ!」
目を上げると、ボクサーが着るような青いガウンを着た田口が目の前に立っている。周りに3,4人の男子が興味深そうに好奇の目を光らせている。
「どうしたんだ。その腕!」
威嚇するような叫び声で話しかけてくる。
左腕に巻いていたタオルはどす黒く固まり、滲んだ血が廊下に滴り落ちている。
「オマエ、そこでなにやってんだ!」
どなり声が、暴力性を増してくる。なんでそんなに人を責めるのだ。槍投げの兵隊だからか?
向こうに聖子が見える。
「あ、聖子」
ぼくは立ち上がって、田口を無視してふらふらと聖子に近づいた。聖子はハッと目を見開いてたじろいだ。
「これ、返すよ」
そう言ったかどうか自分でもわからない。ただ、自分ではそう言ったつもりで、力なく、加奈子のタンスから取って来た一万円札の丸めた束をジーンズのポケットから掴み出して差し出した。あの男を本当に殺したのだから、このくらいの報酬を貰っても当然だ。だからこの金は自分の金だという自負があった。汚い金じゃない。聖子に返す金だ。でも、もしできたら・・、この金で・・、聖子と・・、逃げたい。どこか・・、遠くの町まで・・。今すぐに・・。
聖子は汚い物でも見るかのように顔をしかめた。
血だらけの左腕で聖子の右腕を掴んだ。
聖子を連れて、どこかに逃げようと思った。
「やめてよ!」
聖子が掴まれた腕を振りほどくと同時に、田口が後ろから一撃でぼくを突き倒した。学生たちが集まってきて倒れたぼくを囲んだ。
倒れたまま、ぼくはぐるぐる巻きになったミッソーニのタオルを逆巻きにほどき、血糊で固まった皮膚から引き剥がし、ポタポタと廊下に流れ落ちる血を聖子に見せた。キリストの贖罪の血だ!
「許してくれよ。ほら。これで満足だろ! ほら! こうしたら満足だろ! ほら! こうしたら満足だろ! ほら!…」
エンドレス・テープになったぼくの言葉を自分で聞きながら、傷口を右手で引きちぎって見せた。
「お前、なにやってんだ! 大丈夫か?!」
気でも狂ったのかと言いたいのだろう。確かに、そんな雰囲気だ。周りの空気が凍りついたように静かになったのは、みんな気色が悪いからだろう。このオレが・・。田口だけが言葉をしゃべれる人間のようにぼくに日本語を放ってくる。まるで槍投げの槍のように。他の者は全員、舌を抜かれたビックリ人形だ。聖子も恐怖の目で僕を見つめている。
聖子が急に泣きだした。
ぼくは立ち上がって聖子の腕を掴んで金を握らせると、走って逃げた。
「オイ、待てよ!」
田口が後ろから叫んだ。
「人を殺したんだよ! 加奈子も!」
そう叫んでよろよろと走って教室を出た。
後ろを振り返ると田口と聖子が走ってついて来るのが見えた。
「ねえ! 逃げないでよ! 臆病者!」
聖子があのときのように、憎しみを込めて叫んだ。ぼくは振り返って立ち止まった。聖子が田口より先に追いついてぼくの前にいた。ぼくは彼女の腕を固く掴んで言った。
「ねえ、ぼくと一緒に行かないか! その金で、どこか遠くに!」
掴んでいた腕を振りほどくと、聖子がゆがんだ口で言った。
「行くわけねーだろ! バーカ!」
聖子は掴んでいた札束を廊下に投げ捨ててヒールで踏みつけた。
ガウン姿の田口が走ってきた。
「オイ、どういうことだ! ちゃんと説明しろ! 加奈子さんになにした!」
学生たちもバカの一つ覚えのようにぞろぞろ外に出て来た。めぐみもいるのが見えた。
「ねえ、どうしたんですか?」
めぐみが田口を掴まえて訊いている。
「加奈子さんにこいつなにかしたらしい。だから加奈子さん、今日、来なかったんだ。オイ! おまえ! なにした?! 殺したって、誰殺した?!」
田口がぼくの胸倉を掴んで大声で怒鳴った。
「ばかやろう! 黙ってるとぶっ殺すぞ!」
「だから、殺したって言ってんだろ! 殺したんだよ! 鹿村とかいう奴だよ! 加奈子が殺せって言ったから殺したんだよ! それなのに、感謝もしないから、家に火をつけてやったんだよ!」
田口が掴んだ胸倉を自分に引きよせて静かに言った。
「オマエ、鹿村殺したのか? あのリストの?」
「え? 田口さんあのリスト、知ってるの?」
ぼくがびっくりして訊くと、田口は黙って頷いた。それから、瞬発的に烈火のごとく怒って叫んだ。
「おまえ! 人殺したからって、ぜんぜん自慢にならないからな! このバカヤロウ!」
横面を思いっきり殴られて、そのまま地面に倒れた。気が遠くなった。
「みんな、今日はお終い。帰った! 帰った!」
田口が怒って見物人に叫んでいるのが木霊のように聞こえる。それから、なぜか急に、遠くからサイレンの音が聞こえて来た。救急車かパトカーか。何台も来るように聞こえる。
すると田口が倒れているぼくに上から叫んだ。
「おい! 俺は加奈子さんの家を見てくるから、おまえはオレの家に行ってろ! 後で行くから!」
ぼくは倒れたまま、身動きもできずに薄目を開けた。
田口が廊下に落ちていた丸まった一万円の札束を拾って聖子に渡したのが見えた。
「聖子、このバカ、タクシーで家に連れってってやってよ。押し入れに救急箱があるから、中に包帯とか入っているからさ、適当に手当てしてやってくれない? あとですぐ行くから」
早口でまくし立てると、ガウン姿の田口が教室に走って行く足音で地面が揺れた。
聖子と、そして、どういうわけかめぐみがそこに立っていた。
「あたしも行く」と言うめぐみの声が聞こえた。やさしい、甘美な天上の天使のような声だ。
グルグルと視界が回っている中で、聖子がめぐみに顔を近づけて秘密の会話をするように何かをめぐみに耳打ちするのが見えた。めぐみはそれを聞くと、見上げているぼくの目を見て言った。
「あなたの子、堕ろしたの、二人とも」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。「え? 堕したの? ぼくの子? 二人とも?」と、ぼくは言葉を口から外に発することもできずに自問した。
「じゃあ、二人だ。ぼくの赤ちゃんが二人だ。二人が堕ちたんだ。二人とも堕ちたんだ。この地面に。この世の地べたに…」
「二人とも知ってるの」と天使のささやきのようにめぐみが言った。
「え? なにを?」と、言葉にならずに自問した。
そんなぼくを無視するかのように聖子が言った。
「コイツなんて死んでもいいけど、田口さんに頼まれたから…」と言いながら、倒れているぼくの腹を蹴った。
「ほんとは警察に突き出せばいいのに。こんなヤツ。なんで田口さん、コンナヤツ助けようとしてるんだろう?」
聖子はそう言いながら、何度も何度もぼくをヒールで踏みつけた。
「やめなよ、死んじゃうよ」とめぐみが言うと、聖子はなにかめぐみに反論した。これくらい踏みつけたって死にやしないと言ったのか、それとも、別に死んだっていいじゃないかと反論したのかわからないが、どちらにしても、ぼくのことなどどうでもいいということだけは分かった。それから、急に「あの人、本当に優しいから・・」と独り言のように言うと、聖母マリアは贖罪する罪人を蹴るのを止めた。
「田口さん、あたしに言ったことがあるの。加奈子先生のパトロンって、本当にヤバイ人なんだって。田口さんも係わってたみたい。詳しく知らないけど。だから、コイツ警察に捕まったら、なにかヤバイことでもあるのかも・・。わかんないけど」
田口もあの男のことを知っていて、田口もあのリストを加奈子に見せられたことがあるのだと、ぼくは夢のように思いながら、赤い蛇革の手帳の手触りを思い出した。ざらざらした蛇皮の感触を思い出すと、気持ち悪くなってきて、血の気が引いて、眠っているのか起きているのかわからなくなった。
「あたし、タクシー拾ってくるから、コイツ連れて来てくれる?」
聖子がめぐみに話しているのが遠くに聞こえた。そして、聖子が歩いて行く足音で地面が揺れるを感じた。立ち上がろうとしたが、自分で立ち上がれないことに気付いた。
めぐみに支えられながら立ち上がり、歩き始めた。実際、ぼくは、支えられないと歩けないくらいフラフラしていた。
なぜぼくは助けられているのだろう。きっと、復讐するために、助けられているのだと思った。
聖子が拾ったタクシーの所まで歩いていくと、めぐみが先に中に入り、聖子がぼくを中に押し込み、自分も中に乗り込んできた。
狂犬革命 続き 下書5
「もしもし」
「はい」
中年の女性の声。たぶん聖子のお母さんだろう。なにか用があるのか、といったような無愛想な返事。
「聖子さんはいらっしゃいますか?」
「まだ帰っていませんよ。あなたどちら様」
「あ、ああ・・・」
二の句が継げずに黙っていると、急に思いついた。
「あのー、聖子さんと同じ中学の、同級生の紫と申します。
あの、同窓会がありまして、
聖子さんにご案内を送りたいのですが、
住所を教えていただけませんか?」
「本人から訊いたらどうですか。帰ってきたら電話させるので、電話番号は?」
「あ・・あ、」
咄嗟に訊かれても、田口のこの黒電話の番号がいくつなのかわからない。
「あ、あの・・・次の人に連絡しなければならないので、できれば住所を教えていただけませんか」
「だから、帰って来たら本人から電話させますから!」
「わかりました。聖子さん、何時頃帰られますか」
「さあ。今日は絵を描きに行くから遅いと言ってたけど・・・」
「えっ、絵ですか? 絵を描きに行かれているんですか?」
「そうですけど・・・電話番号は?」
「あ、××××ー××××です」
思いついた適当な電話番号を言った。
「あ、あの、聖子さんによろしくお伝えください」
無愛想に無言で電話が切れた。
聖子の住所はわからない。聖子に会えるかもわからない。でも、そうか、今日はデッサン教室の日だったのか。忘れていた。だとすると、田口もそこに居るのだろうか。だとすると、当分ここには帰ってこないはずだ。
受話器を置き、血で固まったミッソーニのタオルがグルグル巻きになった左腕を見つめた。
いったい自分は何をしているのだろう。
何をしたいのだろう。
何をしているのかわからない。
何をしようとしているのか、わからない。
何をしたいのかもわからない。
でも、冷静に、ここで整理しなければならない。
さもないと、もう、自分という綱渡りから転落してしまいそうだ。
ぼくは人を殺した。そして、加奈子の家に放火した。それに、左腕にこんなに傷を負っている。だれにやられたわけでもない。ぜんぶ自分でやったのだ。なんてバカなんだろう。いっそ自分で自分を殺せばよかったのに。でも、ほんとうは、そうしようとはちっとも思わなかった。ぼくがぼくを傷つけ、死に至るまで自分の肉体を傷つけたとしても、ぼくはぼく自身を消すことができないのを知っているから。いや、厳密には、やってみなければわからない。でも、確信がある。ぼくはぼく自身を物理的に消すことはできても、ぼくは、ぼくの中にある本能が、闘争本能と逃走本能が、一斉に起動するのを自覚している。、痛みと伴に・・。そしてぼくは、その”本能”が、効率よくプランを実行できるように、できるだけこの”自我”と”思考”を使わなければならないのだ。そうだ! さあ、考えろ! 考えて実行しろ! どうすればいい!
今ならかなりこの世の仕組みがわかってきた。この世の仕組みとは、マックジョブの時給を単位とした貨幣価値で構成されている。今、ぼくがひとりでこの東京で、この世の仕組みの中でサバイバルするためには、街にうろつく猫を掴まえて皮を剥ぎ、それを焚き木で焼いて食べるのではなく、100円マックバーガーを一つ買うためのアルバイトをマックでして、最低の時給を得、それで食料と等価の貨幣を得、それと食料を交換するしかないのだ。猫を殺して肉を焼くために、焚き火をする場所はこの都市にはない。焚き火をしているだけで警察が来るだろう。だから、都市の中では、生の肉を得るために、自分で狩りをしてはいけないのだ。マックのバイト、ビデオ屋の店員、コンビニのレジ打ち、すなわち誰かに雇われなければならないのだ。最低限の生活が送れるだけの金を得るために。そして、それ以上の生活がしたかったら、なにかにチャレンジするしかない。タランティーノがビデオ屋の店員をしながら脚本を書いて、アメリカン・ドリームにチャレンジしたように。ハングリーになってチャレンジするしかないのだ。それが企業に就職しないで選択できる唯一の生き残りの道だ。さもなければ、すでに法人登録されている”職業”にチャレンジするしかない。人生ゲームで就職コースを選ばなかったなら、この世の仕組みの中では、適当なバイトを捜さなければならない。そして、1日24時間の内の8時間ほどを切り売りして、残りの時間を自由に使うのだ。”生活費”とは、生きるのに必要なカロリーを得るに足る金、ホームレスにならない程度に寝泊まりできる場所を確保するための金、ある程度の清潔と保温が保てるだけの衣服を維持できるだけの金、その合計額のことであり、それを得るために、バイトの時給を計算して1日何時間働かなければならないか算出する。そしてそれを1日24時間から差し引けば、その残りが自由に使える時間となる。でも、当然、自由に使える時間でなにをしてもいいことにはならない。いかなる理由であれ、人を殺せば監獄にぶち込まれる。自由に使える時間で、この世の仕組みを変えてはならない。そうしたら、そうしていることが他人に知られた瞬間、監獄か精神病院にぶちこまれる。ぼくには、自由な時間があるが、それを自由に使うだけの金がない。そして、自由な時間も、もう限られている。犯罪を犯したのだから、監禁されるだ。それまでは自由だが、自由な時間ですら、この都市の中では”消費”しなければならないのだ。五感で楽しむ”文化”を消費しなければならない。すなわち、DVD、音楽CDをレンタルする。そうすると、映画業界が儲かる。そして、タランティーノがアメリカン・ドリームを実現し、オスカー俳優がレッドカーペットの上を歩き、高級車に乗って、五つ星ホテルのクリスタルのロビーに到着するのだ。ほら! 最初の話と繋がっただろ! タランティーのだって、この世の仕組みの中で暮らす”飼い慣らされた犬”なんだ! すなわち、自由時間には、自由になった金を消費して、五感を楽しませているだけの奴らだ。そう、視覚、聴覚を刺激して快感を得てるだけ。結局、脳化学に還元され得る幸福”しか”、都市にはない。そして、その類の”幸福”は、コマーシャリズムと企業資本によって徹底的にマーケティングされ、大量生産されている。社会的欲求不満をリサーチしてそれを解消するように周到に生産された非現実であり、音と映像が記録されたメディアを大量にコピーして売りさばく。”著作権”と称して。そして、いかに多くのコピーが売りさばかれたかで、価値が決まり、少量生産された文化はアングラであり、レベルが低いB級コンテンツでしかない。しかし、それとても、レベルが低いB級コンテンツのゴミの山から自分の感覚に合ったコンテンツを探し出して快楽を得る、所謂”オタク”すら生み出されていく。オタクには、つまらないものを見、聞き、”探し出す”膨大な時間が必要になる。そして、いつしか、都会に溢れる”情報”をただただ消費することだけが、快感になっていることに気付く。ところが、それもまた、A10神経系に電極を埋め込まれた猿と同じで、”感覚の消費”でしかない。消費から果たして幸福は生まれるのだろうか。消費者は、永遠の欲求不満の内に飼いならされ、条件付けられ、中毒にされている。一方、資本家、資産家は、自由を消費によって獲得したりはしない。金持ちは生まれながらにして幸福であり、雇い人である労働者に消費させることによって幸福を得ている。そして、消費者である労働者には職業選択の自由など永遠にないのだ。なぜなら、”選択しない自由”がないのだから。消費者は間違った方しか選択できない。選択すると必ず間違える。なぜなら、”選択の自由”という催眠術によって、自分は自由に選択していると思いこまされながらただ消費するだけで、”この世の仕組み”から抜け出ることに”自由な時間”を使おうとは、ついぞ気付かないように仕組まれているからだ。
ぼくは、こんな都会にいる。狂犬がこんな都会に彷徨い込んでしまったから、人を噛んでしまった。そう、それだけのことだ。実際、人を殺したからといって、もし殺した奴が死刑囚にも勝る犯罪者だったらどうなるのか。実際、そいつは犯罪者だったじゃないか。絶対捕まらない犯罪者。そいつをただ殺しただけだ。夏になったら蚊を殺すように。一匹殺しただけだ。そして、ぼくは、正直な話し、蚊を殺すほどにも罪悪感を感じていない。道徳的であることがこの社会の規範を保っている。でも、そもそもこの社会の規範が反道徳的であったらどうなるのだろう。一人の人を殺すのは犯罪だが、戦争で何万人も殺せば英雄になる。その戦争を指導した政治家は、戦争に負ければ裁かれるが、勝てば国民に称賛される。当たり前のこと? それがあたり前のこと? だったら、ぼくが人を殺して平気なのもあたり前だ。加奈子のリストの二番目は、某メガバンクの会長だ。なんとか経済団体の会頭も務めていたから、ひと頃はよくテレビのニュースにも出ていた。なんで加奈子のアートをコレクションしているのかわからないが、きっと企業の中に文化支援とは名ばかりで本当は投資目的である美術作品をコレクションしている部門があって、現代美術の収集にも力を入れているのだろう。テレビで見たこいつの顔は、およそ現代美術に似つかわしくない、垢抜けしない醜いジジイで、金の臭いばかりを嗅ぎ回って投資し、儲けを数える事だけが生き甲斐のような、薄汚い"経済人"に見えた。何故この死に損ないがリストの二番目に書かれていたのか分からないが、たぶん、ニューヨーク辺りの巨大資本に繋がっているのだろう。実際、こいつらのグループがアメリカではインディアンにウランを採掘させ、世界的に原発を輸出し、オルタナティブエネルギーの促進を阻止してきた。なんかの雑誌でそんな記事を見たような気がする。そうだとしたら、殺し甲斐があるが、ぼくが殺さなくたって、いずれ近い内にくたばるだろう。でも、こんな汚物は、ぶっ殺されることに意義があるのだ。世界中のゴミどもに警告するために、見せしめにすることに意義があるのだ。ただ、そのためには、それを実行するためには、まずぼくが生き残る必要がある。これからどうやって生き延びるか。それを考えていたのだ。でも当然、道徳とか法律に照らし合わせて考えたりはしない。これからどこに行ったらいいのか、それだけだ。
もし今、美術の予備校に行ったら、もうとっくに正規の授業は終わって、建物の中は暗く静まり返っているだろう。でもひとつだけ明かりの点いている教室があって、加奈子が有志の生徒を集めてやっているデッサン教室が開かれているだろう。否、もうすぐ終わる頃かもしれない。そこに聖子が来ているだろう。そして、たぶん、きっと、田口もそこにいてモデルをしているかもしれない。でも、先生の加奈子は、いないだろう。なぜなら、ぼくはあの男を殺した。虫ケラを殺すように殺した。そのことを、加奈子が本気にしたかどうか分からないが、加奈子の家の吹き抜けの玄関に掛けられた装飾的なレースのカーテンに点けた火が消えずに天井に燃え上がり、建物に燃え移り、もう人手では消すことができないほど燃え盛っているとしたら、加奈子が気づいたときにはもうすでに逃げ場を失って、あの豪邸もろとも炎に呑み込まれて、今頃、焼け死んでいるかもしれないから。
狂犬革命 続き 下書4
ほかに行く宛てもない。電車を乗り継ぎ、田口の長屋に着いた頃、日が西に沈みかけていた。
裏口に回り木戸の前に立つ。まだ田口は帰って来ていないようだ。雨ざらしのベニヤの扉は、蹴ればすぐに壊れてしまうだろう。それでも、この粗末な長屋をドロボウから守っているのだろうか、ちゃんと南京錠が取り付けてある。その鍵は今はもう使われていない牛乳箱の中に隠してある。ザラザラに表面がささくれた板木の蓋を開け、真鋳の鍵を取り出す。南京錠を開け、狭い勝手口から台所の板敷きの床に上がる。
今にも抜け落ちそうな板敷きの床をギシギシ音を立てながら、ブヨブヨの畳の上に西洋絨毯を敷いた居間にたどりつくと、そこに突っ立っている。
古い木製のちゃぶ台の脇に黒電話が置いてある。ぼくがこの長屋に居候していたときとまったく変わらないレイアウト。あの頃がまるで何十年も昔の出来事だったように、懐かしくフラッシュバックしてくる。あのとき聖子はぼくの横に座り、ビールが置かれたこのちゃぶ台の向こう側には田口が座っていた。田口からめぐみのことを聞かされた聖子は怒って、この長屋を出て行った。それを追いかけてぼくもこの長屋から外に出た。それが最後だった。
半乾きになった血で重くなったミッソーニのタオルがグルグルに巻かれた左腕。傷口に激痛が走ると同時に思い出した。あの台風の夜の聖子のゆがんだ顔、唇。憎しみにひきつりながらぼくを睨みつけた目。びしょ濡れのアスファルトの上に尻餅をついてひっくり返ったときに開いた太もも。エラ鹿のようにおもむろに立ち上がると、叩きつける雨の中をぼくを罵倒して走り去った姿。
聖子に会いたい。でも、あれほどぼくを憎んだのだから、もう二度とぼくを好きになることはない。二度と、絶対に。
黒電話の横にメモ紙の束があって、田口の知人の電話番号が書いてある。ぼくはその束をめくってみた。もしかしたら聖子の番号があるかもしれない。加奈子のパーティーのとき、田口はぼくに言った。聖子がぼくの居場所を捜していたと。そして、何度も訪ねてきたと。いったい何故聖子はぼくを捜していたのだろう。復讐したいのだろうか。殺したいのだろうか。殺したいほど、ぼくを憎んでいるのだろうか。
田口は聖子と連絡を取り合っていたのかもしれない。加奈子のデッサン教室で二人は頻繁に出会っていたのかもしれない。画学生とモデルとして・・・。
メモ紙をめくってみた。予想は当たっていた。ビンゴ! 聖子の電話番号が書かれたメモ紙が見つかった。メモ紙の束を2,3枚めくると、鉛筆で大きく”聖子”と書かれた下に、03から始まる電話番号が書かれていた。
そうだ、聖子に金を返さなきゃならない。
ジーンズの右ポケットには、丸めた札束が入っていた。左ポケットには100円ライターを突っ込んだ紙パッケージの煙草が入っていた。左ポケットから湿った煙草のパッケージを左手で取り出し、4,5本残っていた煙草のうちの1本を右手で取り出し、口にくわえて100円ライターで火を点けた。それから空いた右手で受話器を掴み、肩と頬の間に挟んでから、空いた右手で旧式の黒電話のダイヤルを回した。
狂犬革命 続き 下書3
包丁を突き立てた左腕から血が大量に滴り落ちる。動脈を切ったのだろうか。これじゃあ大量出血で倒れると思い、加奈子の豪邸に引き返す。さっき蹴り開けた扉は無防備に開いたまま、逆に何かもっと凄惨な事件に招き入れようとするかのように訪問者を待ち受けていた。靴のまま玄関を上がり、居間見回すと加奈子がいた。今まで一度もつけたのを見たことも無いテレビが薄暗い部屋を照らしていて、その前に座り、じっと画面を見つめている彼女は爬虫類の脳である大脳旧皮質以外を全部切除されたロボトミーのような表情で、石のように固まったまま顎を前に突出している。ブラウン管の光が映って、加奈子の顔は亡霊のように青白く光っている。周りの状況に全く気づかない様子で、大音量で騒ぎ立てるテレビを大きく見開いた目で見つめている。昼のワイドショーのレポーターが必要以上の声を張り上げて無意味に興奮しているのが聞こえる。視聴者はレポーターの興奮状態に同調して、自らのアドレナリンを必要以上に上昇させるのだろう。それが一種の中毒となって、犬のように毎日同じ時間にテレビの前に座り、条件反射のようにスイッチを入れるのだ。ところが今の加奈子には、情動を司る脳すら存在しない。爬虫類のように表情を変えないままテレビの前に座っている。
僕は左手の先から真っ赤な血をポタポタと滴らせながらbathroomへと向かう。ヴェネチアングラス製の洗面台の中に左肘まで腕を入れ、スミレ色のクリスタルの蛇口をぬるま湯になるように調節しながら回す。すでに固まってドロドロした血をぬるま湯で溶かしながら洗い流し、さらに溢れ出てくる血が吸い込まれていく排水口を見つめていると、軽い眩暈を覚える。洗面台の横の棚にあったヴァセリンの瓶を掴み、蓋を開け、開いた傷口にパテのように埋め込み、盛り上げる。それから戸棚に畳んで重なっていたミッソーニのタオルを取り出し、左腕に巻き付けた。やがて吹き出してきた血でびしょびしょになったので、さらに別の柄のミッソーニを引っ張り出して、巻き付けてきつく縛った。さらにもう一枚、別の柄のミッソーニを引っ張り出して、首にも巻き付けた。
居間を通るときに加奈子を見たが、まだテレビ画面を見つめていた。が、今度は前に突出した顎を両手で支えていた。
「ミッソーニ三枚もらっていくから!」と叫ぶと「あー、良いよ」と、悪霊に取り憑かれた女が出す男のような声で、反射的に答えるのが聞こえた。
玄関を出、ドアを締めた。
イメージの復活
僕は言語能力がない。
それでも今まで生きてこれたのは、視覚能力があったからだ。
言葉で判断するのではなく、視覚的イメージで判断してきたのだ。バタバタと足音が聞こえるイメージは危険。脳みそが焼けるような匂いは病気。でも本当は、イメージは記憶されない。子供の頃見ていた世界は、今思い出す子供の頃の世界とは全く違う。明らかに子供の頃のイメージの方が、新鮮で驚きに満ちていた。生命は何の躊躇もなく瞬間から瞬間にうつり過ぎていった。未来にやるべき義務もなく、計画することもなく、したがって、今行動していることは、過去の計画に従って行動していることではなかった。その瞬間瞬間に立ち現れるイメージに従って、その瞬間瞬間に行動していただけだ。そこには言語が介在する余地はなかった。
小学校3,4年生と年齢を重ねるにつれて、言語能力が育っていくにつれて、私の中で言語とイメージが分離していった。やがて言語が主導権を握り、私に行動を命令するものとなった。もう一方の私は、奴隷となったのだ。しかし命令するものは、決して行動することができない。従って、王はますます欲求不満になり、暴君と化していくのであった。一方で奴隷は、自らの自由意志で行動することができなくなったため、やがて命がけのハンガーストライキを始めるに至った。
分裂状態はこのように、生命を停滞させ、自滅的無感動を誘発させる結果となった。そこから脱却するためには、行動自らが、何の躊躇もなく、理性を働かせることもなく、イメージのままに行動することを取り戻すしかない。そのためには、今度は新しく、分裂した自己を統合する為に、自らを訓練し直さなければならない。それは、自然状態で既に獲得していたイメージを復権させることであり、そのために、言語的命令に従わないことである。
そのようにして私は、子供の頃に実感していた生き生きとした瞬間を、取り戻してみたいと思う。
iPhoneからの投稿
拒食と過食
拒食になったり、過食になったりしている。
そのバランスがとれたら正常には違いないだろうが、僕の中ではそうじゃない。異常だ。
過食になったり、拒食になったりしているのだ。
そういえば、話しは変わるが、
先日、哲学堂に行った。
そうしたら、ベンチに女の子が下を向いて座っていた。
もしかしたら天使ではないかと思って近づいて行った。
私がかつて見た天使に似ていたからだ。
おにぎりを片手に持ち、片手に本を持って、うつむいて本を読んでいた。
顔が見えないので確認できない。
近づいて行くと、彼女は顔を上げてこちらを見た。
天使ではなかった。
ガッカリした。
でも、彼女は僕の目を見ると、微笑んだ。
まだ午前中の太陽が、降り注いでいた。
眼鏡を掛けた、中学か高校生くらいの女の子だった。
病
私は病んでいる。
再発した。
なにもできない。
前より悪化している。
おかしくなっている。
涙が止まらなくなったり、頭が壊れたみたいになったりしている。
どうしたらいいかわからない。
いろいろ試したがダメだ。
自分でどうにかするしかなさそうだ。
心臓が逆流している。
苦しい。
朝の5時
近くの公園
もう人が十数人いて、ジョギングしている。
タバコを吸ってる奴、サッカーをしてる奴もいる。
こういう奴らはぶん殴りたいが、ガマンしている。
カラスだって遠慮して鳴いている早朝。
早起きしてサッカーボールを蹴っ飛ばして、Jリーグ夢見るのはいいが、
朝の静けさを穢さないでくれ。
サッカーで優勝するよりも、小鳥のさえずりの方がよっぽど貴重だ。