【2023・連載記事紹介⑫】サザンの楽曲「勝手に小説化」~妙子と脩の物語(4部作)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

実を言うと、ここ数日、酷い風邪を引いていた。

お陰様でだいぶ良くなったが、一時は咳が止まらず、発熱も有り、かなり酷い状態だった。

だが、ようやく体調も快方に向かっている。

「もう治ったのだから、風邪の事は書かなくても良いではないか」

とも思ったが、後で自分で読み返したりした時に、

「そう言えば、この時期は風邪を引いてたな…」

という事を自分で思い出せるように(?)一応、書いておく。

 

 

それにしても、ちょっと前までは、まさか自分がそんな酷い風邪を引くとは思っていなかったが、人生とは何が起こるかわからないものである。

そして、何が起こるかわからないといえば、これから私がご紹介させて頂く、今年(2023年)の「連載記事」の主人公達も、そうである。

私は、サザンオールスターズの楽曲の歌詞を題材にして、それを小説化するという、

「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」(原案:桑田佳祐)

を書いているが、これからご紹介するのは、サザンオールスターズ桑田佳祐の4つの楽曲を題材にした「4部作」であり、

戦前~戦後にかけて、運命の荒波に翻弄されながらも生き抜いて行った、ある男女、そして家族の物語である。

その「4部作」の題材となったのは、下記の4曲である。

 

・『流れる雲を追いかけて』(1982)

・『かしの樹の下で』(1983)

・『孤独の太陽』(1994)

・『JOURNEY』(1994)

 

上記の楽曲の歌詞を題材にして、それぞれ4編の「短編小説」を書いたが、その4編の「短編小説」は一応、それぞれ独立した短編にはなっているが、4つの物語は、ひと続きの「長編物語」にもなっている。

私は、前々から、『流れる雲を追いかけて』『かしの樹の下で』は、

「これは、小説に書いてみたいな…」

とは何となく思っていたが、いざ書き始めてみると、自分でもビックリするぐらい(?)の壮大な話になってしまった。

という事で、前置きはそれぐらいにして、

「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」の「妙子と脩の物語」の「リンク集」を、ご覧頂こう。

 

<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑫】『流れる雲を追いかけて』(原案:桑田佳祐)【4部作ー①】>(2023/8/11)

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑫】『流れる雲を追いかけて』(原案:桑田佳祐)【4部作-①】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

この物語の語り手である妙子は、1919(大正8)年、長崎県に生まれた。

妙子の父親は腕の良い大工だったが、昭和初期の日本は酷い不況の時代であり、妙子の父親の仕事も頭打ちの状態だった。

1932(昭和7)年、妙子が13歳の年、日本は中国東北部に、

「満州国」

を建国し、移民団を募集したが、妙子の父親は満州への移住を決意し、妙子の母親も賛同した。

こうして、1933(昭和8)年、妙子の両親と妙子の3人は、沢山の人達に見送られながら、長崎の地を後にして、満州へと向かった。

満州に着いた後、妙子の父親は死に物狂いで働き、ようやく仕事も軌道に乗り始めたが、その矢先、1934(昭和9)年の夏、妙子の母親は病気で亡くなってしまった。

日本への望郷の思いや、優しかった母親の死去も重なり、妙子はすっかり「厭世的」になってしまった。

1937(昭和12)年、妙子が18歳の時、妙子は友人に無理矢理に連れて行かれたダンスホールで、5歳年上のという青年と出逢った。

は、かつては早稲田の野球部で活躍した選手だったというが、野球には全く関心が無かった妙子にはピンと来なかった。

しかし、それはともかく、2人は出逢った時から意気投合し、翌1938(昭和13)年、妙子が19歳、が24歳の時、2人は結婚した。

その後、妙子の夫妻の間には、長男の博、長女の敏子という2人の子供が生まれ、幸せな家庭を築いていた。

しかし、そんな幸せな家庭に、容赦なく戦争の影が迫って来ていた…。

 

<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑬】『かしの樹の下で』(原案:桑田佳祐)【4部作ー②】>(2023/8/13)

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑬】『かしの樹の下で』(原案:桑田佳祐)【4部作-②】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

この物語の語り手である少女の「私」は、中国で生まれ育った。

日中戦争⇒国共内戦を経て、1949(昭和24)年10月1日、毛沢東により中華人民共和国が建国されるという、激動の時代だったが、中華人民共和国の建国以降も、毛沢東のメチャクチャな政策で中国全土は大混乱に陥り、中国の人民は塗炭の苦しみを味わった。

「私」は、そんな激動の時代の中、両親と共に懸命に生き抜いて来た。

そして、ある日、「私」劉さんという青年と恋に落ち、劉さんからプロポーズされる。

「私」は喜び勇んで、両親にその事を告げたが、両親は何故か、浮かない表情だった。

「…お父さん、お母さん。喜んでくれないの…?」

「私」は俄かに不安になっていた。

「…よく聞きなさい。これから、とても大切な話をするから」

「私」の父は、苦渋に満ちた表情で、「私」に、ある衝撃的な事実を告げた。

それは、「私」の出生の関する、重大な事実であった…。

 

<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑭】『孤独の太陽』(原案:桑田佳祐)【4部作ー③】>(2023/8/14)

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑭】『孤独の太陽』(原案:桑田佳祐)【4部作-③】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

この物語の語り手であるは、かつては早稲田の野球部で活躍し、

「早慶戦のホームスチール」

で名を揚げた事もあった。

その時の成功体験から、には、

「迷ったら、ゴー」

という人生哲学を得ていた。

の実家は造り酒屋だったが、満州へ移民として渡って行った。

そして、1937(昭和12)年、移住先の満州のダンスホールで、は23歳の時、5歳年下の妙子という女性と出逢った。

翌1938(昭和13)年、妙子は結婚し、その後、2人の間に長男のと長女の敏子が生まれた。

そして、日本が戦火に巻き込まれて行く中、は出征して行くが、その出征先で「地獄」を見る事となる。

は、生きて帰る事を何度も諦めかけたが、その都度、自分の帰りを待っている妙子や子供達の顔が目に浮かび、気力を奮い立たせていた…。

 

<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑮】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)【4部作ー④(終)】(2023/8/16)

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑮】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)【4部作-④(終)】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

「妙子と脩の物語」「4部作」「最終回」である。

この物語は、妙子の夫妻の間に生まれた長男・の視点で描かれている。

戦前~戦後にかけて、波乱万丈の日々を過ごして来た家族について、が語っているが、

は父親と同じ早稲田大学へと進学した。

そして、大学卒業後、某新聞社に勤める事となったであるが、そんなの元に、ある日、思わぬ報せが飛び込んで来た…。

…という事であるが、ここでは、くどくどと「あらすじ」は述べないので、この家族の物語がどうなったのかは、是非とも元記事をお読み頂きたい。

 

<作者からの「あとかぎ」のような物…>

 

 

…という事であるが、

「妙子と脩の物語」

を書いていたのは、今年(2023年)の8月だったが、8月といえば、やはり戦争の事を多く思い起こさせるような時期でもある。

この物語を書くにあたり、まず、登場人物の妙子の名前は、私が大変尊敬する、プロ野球の名監督・三原脩妙子の夫妻から取らせて頂いた。

三原脩自身も、地獄のビルマ戦線に出征し、そこから九死に一生を得て、辛くも生還したという経緯が有った。

そんな所から、この名前を付けさせて頂いたが、もう一つ「裏話」をしておくと、「満州」に移住云々という話は、私の母方の祖父の一家が実際に体験した事であり、私の祖父は、その移住先の満州で「学徒出陣」によって徴兵されたという経験が有った。

私の祖父は、辛くも生き延びたが、亡くなってしまった戦友も沢山居たそうである。

あの時代には、きっと同じような経験をされた方は沢山居た筈だが、そういった方達への思いも込めて、この物語を書かせて頂いた次第である。

私は、当時、この「4部作」を一気呵成に書き上げたが、

「こんな長い話を、よく一気に書けたものだ…」

と、我ながら感心(?)してしまうが、当時はそれだけ気合いが入っていたのかもしれない。

という事で、この物語を既に読んで頂いたという方には、改めて深く感謝申し上げたい。

そして、まだお読みになっていないという方は、是非ともお読み頂ければ幸いである。