頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

桑田佳祐原由子のために作った曲である。

現在、当ブログでは、その『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1976(昭和51)年春、青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

の中で結成された、桑田佳祐が率いるバンドは、桑田の高校時代からの友人・宮治淳一によって、

「サザンオールスターズ」

と命名された。

そして、その頃、桑田佳祐がギターを弾きながら、原由子に対し、

『娘心にブルースを』

という曲を披露した…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第9話」、

『恋はお熱く』

を、ご覧頂こう。

 

<1976(昭和51)年夏~冬…目まぐるしくメンバー・チェンジを繰り返していた、初期のサザンオールスターズ>

 

 

1976(昭和51)年春、桑田佳祐高校(鎌倉学園高校)時代からの友人・宮治淳一によって、桑田佳祐が率いるバンドは、

「サザンオールスターズ」

と命名された。

その後も、サザンオールスターズは精力的にライブ活動を続けてが、

1976(昭和51)年夏~冬にかけて、初期のサザンオールスターズは、頻繁にメンバー・チェンジを繰り返していた。

そもそも、当時は、

「ベターデイズ」

ではバンド間の壁などは無く、それぞれのバンドに出たり入ったりするのは普通であり、初期サザンも、その例外ではなかった。

そして、初期サザンには、桑田佳祐の友人であり、後に音楽評論家になった萩原健太も、ギターとして参加していた事が有った。

当時、萩原健太早稲田大学に在学しており、同じく早稲田に通っていた宮治淳一の友人だったが、宮治の紹介により、萩原は桑田と知り合い、初期サザンに参加した…という経緯だったようである。

 

 

なお、

「サザンオールスターズ」

の命名者・宮治淳一は、早稲田で学生バンドを結成しており、宮治が率いるバンドは、

「コブラ・ツイスターズ」

という名前だったが、

「湘南ロックンロール・センター」

では、桑田佳祐サザンオールスターズと、宮治淳一コブラ・ツイスターズも、度々共演していた。

桑田もプロレス好きだが、宮治もプロレス好きだったからこそ、そのようなバンド名になったものと思われる。

こうして、初期サザンはスクスクと成長して行ったが、頻繁にメンバー・チェンジを繰り返して行く中でも、ボーカル&ギターの桑田佳祐と、キーボードの原由子という「核」は、ずっと不動だった。

 

<1976(昭和51)年9月26日…桑田佳祐のサザンオールスターズと、宮治淳一のコブラ・ツイスターズが、「秦野タバコ祭り」に出演~現存する「サザン最古の映像」が撮られる>

 

 

さて、桑田佳祐が率いるサザンオールスターズと、宮治淳一が率いるコブラ・ツイスターズは、

「湘南ロックンロール・センター」

を拠点として、精力的にライブ活動を行なっていたが、

1976(昭和51)年秋、そんな彼らのバンドに、外部団体から、ライブ出演のオファーが有った。

1976(昭和51)年9月26日、

「水無瀬」

なる団体…神奈川県秦野市を拠点とする団体からの出演オファーを受け、

桑田佳祐サザンオールスターズと、宮治淳一コブラ・ツイスターズは、

「秦野タバコ祭り」

というイベントに出演している。

なお、この時に撮影された映像が、現存している限りでは、

「サザン最古の映像」

である。

当時、桑田佳祐は20歳、原由子は19歳の頃だった。

 

 

 

 

そして、

「秦野タバコ祭り」

における、

「サザン最古の映像」

を見て見ると、本当に何処にでも有るような、地方のお祭りという感じだが、

一応、ちゃんとしたステージが組まれ、サザンがそのステージで演奏している。

この日(1976/9/26)は、とても天気は良かったようで、お祭りに来ていた人達は足を止め、サザンのステージを見ていた。

とは言え、当時のサザンは、何処にでも有るような、一介の学生バンドに過ぎない。

まさか、この学生バンドが、後に、物凄いスーパースターになってしまうとは、この時は(※当人達も含めて)誰も想像もしていなかったに違いない。

 

 

 

 

 

 

そして、この時の映像を見て見ると、当時のサザンオールスターズの編成は、

桑田佳祐がギター&ボーカルで、原由子はキーボードを担当、

その他、ギター、ベース、ドラムが居て、恐らくバック・コーラスと思しき女の子達が3人居るのが見える。

こうして見ると、初期サザンは、結構な大所帯だったようだが、

前述の通り、初期サザンは頻繁にメンバー・チェンジを繰り返していたので、この編成とて、流動的だったと思われる。

ともあれ、

「1976(昭和51)年秋 秦野タバコ祭り」

の映像は、初期サザンを記録した貴重な映像であり、サザン史でも重要なひとコマである事は間違いない。

 

<1976(昭和51)年秋~桑田佳祐と原由子の「恋物語」①>

 

 

さて、このように、初期のサザンの活動は順調だったが、

1976(昭和51)年秋、桑田佳祐原由子の関係に、大きな進展が有った。

桑田と原は、一緒にバンド活動をする事によって、絆を深めて行ったが、

その頃、桑田と原の仲が深まった。

という事で、以下、当時の桑田佳祐原由子の関係について、

「小説仕立て」

にして、描いてみる事としたい。

 

 

気が付けば、2人は何時間も電話で話し込むような間柄になっていた。

1976(昭和51)年、青山学院大学で学生バンドを結成していた青年…桑田佳祐は、バンド活動に夢中になるあまり、

「留年」

してしまっていた。

当時の彼にとっては、

「音楽」

が全てであり、佳祐は音楽に全てを捧げるような生活を送っていた。

一方、佳祐よりも1年後輩で、1975(昭和50)年に青山学院大学に入った原由子は、至って真面目だった。

由子は、佳祐の後輩として、青山学院の音楽サークルに入り、ピアノやキーボード、ギターに天才的な腕前を発揮していたが、学校にも真面目に通っていた。

前述の通り、佳祐は、「留年」してしまったので、1976(昭和51)年、佳祐と由子は、

「同学年」

になってしまっていた…。

その頃、佳祐は「音楽」と共に、

「恋」

にも夢中になっており、何人かの女の子達との「恋」を楽しんだりしていた。

だが、その頃、佳祐は由子の音楽の才能に惹かれ、前年(1975年)秋、どうにかこうにか、拝み倒して、自分のバンドに由子に加わってもらっていた。

「この子が居ないと、バンド活動は成り立たない…」

佳祐は、そう思っていた。

こうして、佳祐と由子は、一緒にバンド活動をするようになったが、相変わらず、佳祐は他の女の子と「恋」をしたりしていた…。

しかし、気が付くと、佳祐は由子と一番長く話すようになっていた。

その頃、佳祐は、由子に毎日のように電話をしていた。

そんな時、大体は佳祐が一方的に話し、由子は「聞き役」になる事が多かったが、佳祐が何時間でも話し続けるのを、由子は、

「うん、うん…」

と言って、ずっと聞いてあげていたという。

 

 

そもそも、佳祐が由子に惹かれたのは、

「音楽」

の趣味が合ったていたからである。

佳祐も由子も、大のエリック・クラプトン好きという共通点が有り、

2人は、エリック・クラプトン好き同士として、とても気が合っていた。

また、由子は抜群の音楽的才能を発揮していたが、

由子は、エリック・クラプトン、ザ・バンド、リトル・フィート…といった「洋楽」の曲をピアノやキーボードで弾きこなしていた。

由子は、

「女性だけど、音楽的な感覚は、まるっきり男」

と言っても良いぐらい、骨太な演奏をする人だった。

「こんな子は、なかなか居ないぞ…」

佳祐は、由子について、そう思っていた。

だからこそ、佳祐は由子に、自分のバンドにどうしても入って欲しいと思っており、そして、それは実現したのであった。

1976(昭和51)年秋、佳祐のバンドに由子が加わってから、ちょうど1年が経とうとしていた…。

 

<1976(昭和51)年秋~桑田佳祐と原由子の「恋物語」②>

 

 

「ねえ、宮治君が付けてくれたバンド名…。『サザンオールスターズ』って、本当に良いよね!!」

「うん…」

「何か、このバンド名になってから、私達のバンドって、ますます良い感じになって来たよね」

「そうだね…」

佳祐と由子は、2人で車に乗り、そんな会話を交わしていた。

その頃、佳祐は地元・茅ヶ崎でスナックを経営する母親の手伝いのために、スナックで働くホステスさん達を車で「送り迎え」したりしていたが、自分のバンドの楽器を運んだりするためにも、車を運転したりしていた。

その頃、佳祐は車の運転が、とても好きだった。

そして、佳祐はいつしか、由子も車に乗せ、由子の「送り迎え」をしたりしていた。

佳祐と由子は、

「ドライブ」

をしながら、車の中で色々な話をしたりしていた。

2人は、毎日のように電話で何時間も話したりしていたが、それでも、まだまだ話は尽きなかった。

先程、佳祐と由子が話していた通り、1976(昭和51)年春、佳祐の高校時代からの友人、宮治淳一が、佳祐のバンドに、

「サザンオールスターズ」

というバンド名を付けてくれたが、由子も、そのバンド名はとても気に入っていた。

「宮治君って、本当にセンスが有るよね…」

さっきから、助手席に乗っていた由子は、佳祐の友人・宮治君の事を絶賛していた。

でも…。

本当は、今、自分の隣で車を運転している佳祐こそ、本当に凄い人だ…と、由子は心の中で思っていた。

 

 

忘れもしない、この年(1976年)の春の、ある日の事…。

佳祐は由子を呼び出し、青山学院大学の1号館の屋上に、由子を連れて行った。

そこで、佳祐はギターを弾きながら、由子に対し、

『娘心にブルースを』

というオリジナル曲を歌って聴かせてくれた。

「何て、素敵な曲なの…」

由子は一瞬にして、ハートを鷲掴みにされてしまった。

それは、由子も大好きだった、

「ブルース」

をモチーフとした曲だったが、佳祐は由子の心の中までわかっていて、この曲を作ってくれた…その時の由子は、そんな気がしてしまっていた。

「勿論、私の事を歌ってくれたんじゃないと思うけどね…」

由子は、心の中で密かに、そんな事を思いながら、助手席から佳祐の顔をチラっと見てみた。

佳祐は真っ直ぐ前を向いて車を運転していた。

その表情からは、佳祐の心情は何も読み取れなかったが…。

「でも、この人って、本当に凄い才能が有るわ…」

由子は、佳祐について、そう確信していた。

その頃、佳祐は次々にオリジナル曲を作り、

「作曲」

の才能が開花していた。

佳祐のボーカルと作曲の能力、そして由子のキーボードが組んだのだから、その2人を「核」とした、

「サザンオールスターズ」

が、バンドとして急速に力を付けて行ったのも当然だった。

「私達のバンド、本当に良い感じだね…」

由子はそう言ったが、それは彼女の「本音」だった。

でも…。

由子の心の中には、秘められた、もう一つの思いが有った…。

 

 

1976(昭和51)年秋、銀杏の木が、黄色く色付いて来た頃…。

その日も、佳祐はいつものように、由子を家まで車で送っていた。

そして、車が由子の家に着いた時、佳祐は由子に対し、いきなり、

「結婚しよう」

と言ったのである。

あまりにも突然の事に、由子もビックリしてしまい、

「う、うん…」

と、ついマジになって答えたが…。

この時まで、佳祐と由子は、あくまでも、

「友達同士」

という間柄だった。

それが、突然、

「結婚しよう」

と言われるとは…。

由子も戸惑ったが、この時、由子は口には出していなかったものの、佳祐の事が好きになっていた。

そして、恐らく佳祐も、由子の事を好きになっていた。

つまり、お互いに意識はしていたが、2人とも、言葉に出すのが怖くて、なかなか「友達」から先には行けなかった…。

佳祐と由子は、そんな間柄だったので、由子も、

「結婚しよう」

と、突然、佳祐から言われてしまうと、流石にそれには戸惑いも有った。

由子は車から降りると、佳祐が運転する車を見送った。

「どうしよう…」

由子は、しばし呆然としていた…。

 

<1976(昭和51)年秋~桑田佳祐と原由子の「恋物語」③>

 

 

「あの言葉…。本気にして良いのかなあ…」

由子は、佳祐から、

「結婚しよう」

と言われて以来、その言葉を反芻しながら、思い悩んでいた。

そもそも、佳祐はあの言葉を、

「本気」

で言ってくれたのだろうか…。

由子の頭の中で、色々な思いが渦巻いていた。

それから数日後…。

佳祐は由子の事を、渋谷の居酒屋に呼び出した。

そして、佳祐は由子に対し、

「こないだの事だけど、ちゃんと考えてくれてる?」

と、聞いて来た。

そう、あれはいい加減な言葉ではなく、佳祐は本気で、由子の事を考えてくれていた。

由子は、佳祐が自分の事を本気で考えてくれているのが、とても嬉しかった。

こうして、1976(昭和51)年秋、桑田佳祐原由子は、

「友達」

から、

「恋人」

になった。

それは、佳祐が20歳、由子が19歳の秋の季節だった…。

 

<1978(昭和53)年…サザンオールスターズのファースト・アルバム『熱い胸さわぎ』に収録された『恋はお熱く』>

 

 

…という事であるが、

上記の桑田佳祐原由子の、

「恋物語」

は、1984(昭和59)年に刊行された、桑田佳祐の著書、

『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』

と、1998(平成10)年に刊行された、原由子の著書、

『娘心にブルースを』

での、桑田佳祐原由子の回想に基づき、私が勝手に(?)、

「小説化」

したものである。

なので、多少の「脚色」は有るかもしれないが、概ねこんな感じだったであろう…という事で、描かせて頂いた。

というわけで、桑田佳祐原由子が、

「恋人同士」

になった事を記念し(?)、1978(昭和53)年にリリースされた、サザンオールスターズのファースト・アルバム、

『熱い胸さわぎ』

に収録されている、

『恋はお熱く』

という曲の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『恋はお熱く』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

ひとりで渚に立って 寄せる波に吐息だけ

早いものね もう日が暮れてきたわ

帰り道がつらい

 

誰でも恋するように 俺もあなたに恋した

早いものね 時のたつのだけは

どこで何するやら Oh! Baby

 

※今でも思い出せば 涙がこぼれるだろう

小粋な言葉はいらないけれど

夢からさめずにいたいだけ※

 

※※お熱いのが好き Baby 心に灯がともるような

お熱いのが好き Baby 照れたりしないで心から※※

 

涙 砂にうずめて 今年も夏にお別れ

つらいものね 思い出をたどれば

届かない夢のよう

 

※※…

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために作った曲であるが、

現在、当ブログにて、その『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1975(昭和50)年、桑田佳祐原由子は、青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

にて、遂に一緒に音楽活動をする事となり、

「青学ドミノス」

というバンドを結成した。

そして、バンド結成と前後して、桑田佳祐「ソング・ライティング」の才能が開花して行った…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第8話」であり、

桑田佳祐原由子の2人にとって、重要な出来事を描く、

『娘心にブルースを』

を、ご覧頂こう。

 

<1976(昭和51)年4月…あまりにも「音楽」に熱中するあまり、「学業」が疎かになった桑田佳祐、遂に青山学院大学の2年生で「留年」>

 

 

 

1976(昭和51)年4月、本来であれば、

「進級」

の季節であるが、これまで述べて来た通り、当時の桑田佳祐は、

「音楽」

に夢中だった。

従って、桑田は大学では全く、

「学業」

は疎かになってしまった。

そもそも、大学(青山学院大学)には教科書すら持って来ていなかった…というのだから、それも仕方が無い(?)。

そして、その当然の帰結というべきか、1976(昭和51)年4月、桑田佳祐は、

「留年」

をしてしまった…。

こうして、桑田は「ダブリ」をやらかしてしまったために、

「2度目の2年生」

を送る事となった。

一方、原由子の方は至って真面目で、学業の成績も優秀だったので、普通に進級した。

こうして、1976(昭和51)年4月、桑田佳祐原由子は、図らずも青山学院大学「2年生」として、「同学年」になってしまった…。

これには桑田の親も嘆いたかもしれないが、もしかしたら、

「まあ、夢中になれる物が有るだけ、良いか…」

と、思っていたかもしれない。

前回の記事で書いた通り、その頃、桑田は地元・茅ヶ崎スナックを経営する母親のために、スナックで働くホステスさん達を車で「送り迎え」していた。

その頃の桑田は、とにかくバンド活動が忙しく、なおかつ、母親のお店の手伝いもしていたので、なかなか勉強にも身が入らなかった(?)のではないだろうか…。

 

<1976(昭和51)年春…桑田佳祐の友人・宮治淳一、桑田佳祐のバンドを「サザンオールスターズ」と命名!!>

 

 

 

 

さて、その桑田佳祐が率いるバンドであるが、当初、1974(昭和49)年から、桑田佳祐関口和之が結成していたバンドは、

「温泉あんまももひきバンド」

という名前であり、その後、そのバンドは発展的解消(?)をして、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

という新バンドが結成された。

1975(昭和50)年秋、桑田佳祐の熱心な誘いにより、原由子が桑田のバンドに加わり、

「青学ドミノス」

が結成された…という経緯は、既に述べた。

このように、当時の桑田のバンドは、とにかく頻繁に名前を変えていた。

桑田のバンドに原由子が加入した後も、桑田は高校(鎌倉学園高校)時代の友人で、その頃は早稲田大学に通っていた宮治淳一と共に、

「湘南ロックンロール・センター」

を組織して、そこで桑田のバンドは定期的にライブを行なっていた。

しかし、前述の通り、桑田のバンドは、そのライブの度に、とにかくコロコロと名前を変えていた。

例えば、そのバンド名は、

「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」

などなど…とにかく、その場の「ノリ」で、適当に(?)バンド名を決めていた。

 

 

これに頭を抱えていたのが、前述した通り、桑田佳祐の高校時代からの友人であり、その頃は、

「湘南ロックンロール・センター」

で、広報係を務めていた宮治淳一だった。

宮治は、次のライブの告知を出そうにも、桑田が率いるバンドは、しょっちゅう名前が変わるので、告知を出そうにも出せないのである。

「おい桑田、お前ら、今度のライブでは、何ていうバンド名で出るんだよ…」

宮治は毎回、桑田にそんな事を聞いたりしていた。

そして、1976(昭和51)年春の事。

「湘南ロックンロール・センター」

のライブに、桑田のバンドが出る事になったが、いつものように、バンド名は決まっていない。

「どうしようかなあ…」

宮治は考え込んでしまったが、とりあえず彼は風呂に入る事にした。

その時、宮治の頭の中に、ある「考え」が思い浮かんだ。

「あいつらって、『サザン・ロック』が好きだったよな…」

宮治が思い浮かんだ、

「サザン・ロック」

というのは、ブギー(ブギウギ)、ブルース、R&B、カントリー…など、アメリカ南部の、

「黒人音楽」

をルーツとした音楽の事であり、桑田佳祐原由子は、そういった音楽を愛好していた。

 

 

 

 

実は、宮治淳一は、風呂に入る前、次回のライブのポスターのガリ版を作っていた。

その時は、桑田のバンド名が決まっておらず、宮治はポスター作りに行き詰まってしまった(?)ので、とりあえず風呂に入る事にした。

その時、宮治は音楽を聴きながら、ガリ版作りをしていたが、その時に宮治が聴いていたのが、ニール・ヤングの、

『After Gold Rush』

というアルバムだった。

また、宮治が風呂に入っている間、ラジオ(ニッポン放送)を聴いていると、そのラジオ番組で、

「サルサの帝王、『ファニア・オールスターズ』が遂に来日!!」

というニュースを流していた。

その後、宮治が風呂から上がると、先程から聴いていた、ニール・ヤングのアルバム、

『After Gold Rush』

の4曲目として、

『Southern Man』

という曲が流れていた…。

「『ファニア・オールスターズ』と、『サザン・マン』か…。そうだ、あいつらのバンド名は『サザンオールスターズ』にしてしまおう!!」

この時、宮治淳一の頭の中で、桑田佳祐バンド名のアイディアが電流のように(?)閃いたのである。

勿論、前述の通り、そこには、

「桑田達は、『サザン・ロック』が好きだから」

という意味も込められていたであろう。

 

 

 

 

「お前らのバンド名、『サザンオールスターズ』にしといたから。今度のステージは、そのバンド名ね」

宮治淳一は、次に桑田佳祐に会った時、そう告げた。

こうして、1976(昭和51)年4月11日、そう、桑田佳祐「留年」してしまった直後、

「湘南ロックンロール・センター」

の定例ライブにて、

「桑田佳祐とサザンオールスターズ」

というバンド名で、桑田佳祐・原由子らのバンドは、会場の藤沢青少年会館のステージに立った…。

これが、

「サザンオールスターズ」

命名の経緯であるが、原由子は、

「それ以来、私達は、宮治君が付けてくれたバンド名を、今日に至るまで、ずっと名乗っている。宮治君、本当に有り難う!!」

と、後に、宮治淳一に対し、感謝の言葉を述べている。

なお、初期のサザンは、

「ベターデイズ」

の内部で、しょっちゅうメンバーが入れ替わったりしていたので、文字どおりの、

「オールスターズ」

であり、確固たるメンバーは定まっていなかった。

そんな中でも、桑田佳祐・原由子はバンドの「核」であり続けたが、

「サザンオールスターズ」

のメンバーが固まり、サザンがデビューに向けて動き始めるのは、もう少し先の話である。

 

<1976(昭和51)年春…青山学院大学の1号館の屋上にて~桑田佳祐が原由子に『娘心にブルースを』という曲を歌う…>

 

 

さて、1976(昭和51)年春といえば、もう一つ、とても重要な出来事が有った。

それは、桑田佳祐原由子にとって、本当に大切な、そして素敵な出来事だった…。

1976(昭和51)年春の、ある日の事。

原由子が、いつものように、青山学院大学の学食で、仲間達と過ごしていると、そこに桑田佳祐がやって来て、

「原、曲が出来たから、ちょっと聴いてよ…」

と言って、原由子を連れ出した。

そして、桑田は原を青山学院大学の1号館の屋上に連れて行った。

 

 

 

その日は、とても天気が良く、

青山学院大学の1号館の屋上は、ぽかぽかとした陽光に照らされ、風はとても気持ちが良かった。

そして、屋上に原由子を連れて来た桑田佳祐は、おもむろに、ギターを弾きながら歌い始めた。

それが、

『娘心にブルースを』

という曲だった…。

その曲を聴きながら、原由子は、とてもグッと来ていた。

何よりも、

『娘心にブルースを』

というタイトルが、とても素敵だった。

それは、原由子もとても好きな、

「ブルース」

という音楽から取られたタイトルであり、彼女はそれがとても嬉しかった。

 

 

「女だって、ブルースが好きなんだもん。自分でブルースをやるにゃあ、百年早いって言われるかもしれないけど、好きなんだもん。女だってね、顔で笑って心で泣いてる時が有るのさ。ブルースに酔いしれて、思いっきり泣いてみたい時が有るのさ…」

この時、原由子は心の中で、そんな事を思っていたという。

「私のそういう気持ちを、桑田はわかってくれているような気がした。別に、私の事を歌っているわけではなかったと思うが、私は密かに、そして勝手に喜んでいた…」

後に、原由子はこの時の事を、そう振り返っている。

ちなみに、

『娘心にブルースを』

は、アマチュア時代の練習テープにしか残っていないが、曲調は、三拍子のブルースだった。

そして、歌詞も特に決まってはいなかったが、サビの部分の歌詞は、

「I believe my time…(アイ・ビリーブ・マイ・タイム…)」

だった…という事は、原由子も覚えているという。

「桑田が歌ってくれた『娘心にブルースを』を聴きながら、私はこの日、なぜか胸がドキドキしていた…」

原由子はそう語っている。

そう、原由子が語っている通り、

『娘心にブルースを』

によって、桑田佳祐原由子の心の距離は、グッと縮まったのであった…。

 

 

…という事であるが、上記のエピソードは、1998(平成10)年に刊行された原由子の著書、

『娘心にブルースを』

で、原由子によって語られている。

最初、私はこの本を買った時、

「『娘心にブルースを』って…。どうして、そういうタイトルなんだろう?」

と思っていたが、このエピソードを読んで、

「そうか、『娘心にブルース』をというのは、桑田佳祐が初めて原由子のために歌った曲のタイトルだったのか!?」

という事を知った。

つまり、

『娘心にブルースを』

とは、原由子の心に残る、大切な思い出の曲を、本のタイトルにした…という事だったのである。

この本は、そういう素敵なエピソードが沢山出て来るが、中でも、

『娘心にブルースを』

のくだりは、私もとても大好きである。

…こうして、桑田佳祐原由子の心の距離はグッと縮まったが、果たして、この後、桑田と原の2人はどうなって行くのであろうか…?

 

(つづく)

 

 

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲でもある。

現在、当ブログでは、そんな『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1975(昭和50)年、桑田佳祐の1年後輩として、原由子青山学院大学に入学し、桑田と原は、青山学院の音楽サークルで出逢った。

そして、紆余曲折を経て誕生した、

「ベターデイズ」

という音楽サークルで、桑田佳祐原由子は、お互いの音楽の才能に惹かれ合い、同年(1975年)10月、桑田と原は、

「青学ドミノス」

というバンドを結成するに至った…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第7話」、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

を、ご覧頂こう。

 

<桑田佳祐の破天荒な(?)学生生活~「貰いタバコの王者」「時間にルーズ」で、「ベターデイズ」のメンバー間でも有名(?)だった桑田佳祐>

 

 

1975(昭和50)年10月、桑田佳祐は、自らが率いるバンドに、ピアノやキーボードに天才的な才能を発揮していた原由子を引き入れ、

「青学ドミノス」

というバンドを結成した。

そして、桑田はバンド活動に夢中になり過ぎてしまい、「学業」はすっかり疎かになってしまったようだが、何しろ、桑田は大学には一切、教科書などは持って来なかったという。

そして、楽器も持ち歩かず、常に他の人の楽器を借りて演奏したりしていたようである。

また、桑田は、

「貰いタバコの王者」「時間にルーズ」

として、

「ベターデイズ」

のメンバー間でも有名(?)だった。

そんな破天荒な(?)学生生活を送っていた桑田だったが、後輩の馬鹿な行動にも率先して付き合うような所もあり、何処か憎めない人柄で、桑田は常に「人気者」でもあった。

桑田の行く所には、常に人が集まり、当時から桑田には、

「カリスマ性」

が有ったようである。

こうして、桑田は気の合う仲間達と共に、「音楽」に明け暮れる楽しい学生生活を送っていた。

 

<1975(昭和50)年頃から、次々に「オリジナル曲」を作曲して行った桑田佳祐~桑田の「ソング・ライティング」の才能が開花>

 

 

そんな風に、自由気儘な(?)学生生活を送って行く中で、桑田佳祐のミュージシャンとしての才能が開花して行った。

1975(昭和50)年、桑田佳祐が大学2年生の頃、桑田が初めて、

『茅ヶ崎に背を向けて』

というオリジナル曲を作曲した…という話は、既に以前の記事で書いた通りだが、桑田はその他にも、

『ニグロの気持ち(湘南ニグロ節)』

という曲や、当時、桑田のバンドでドラムを叩いていた、「イケダ」という男の事を歌った、

『池田の子守歌』

といったオリジナル曲も作った。

また、当初は、

『ボサノバ69』

というタイトルであり、後には、

『別れ話は最後に』

というタイトルになった、バラード曲も作った。

このように、桑田は既に、様々な曲調のオリジナル曲を作る才能を発揮し始めたのである。

「桑田さん、凄いっすね!!」

「桑田さん、僕にも曲を作って下さいよ!!」

桑田の作った曲は、

「ベターデイズ」

の後輩達…後に、サザンのサポート・メンバーになる、斎藤誠らに熱烈に支持された。

こうして、後輩達に乗せられて行く内に、桑田は気分良く、次々に「新曲」を書いて行った…。

「天才ミュージシャン・桑田佳祐」

の才能がいよいよ開花し、桑田は「大器」の片鱗を見せ始めたのであった。

当時、原由子もそんな桑田佳祐の事を側で見ていて、

「桑田さんって、凄いなあ…」

と、思っていたであろう。

 

<大森隆志の仲間達①~大森の幼馴染で、宮崎から上京して来たドラマー・松田弘~松田は上京してすぐに桑田佳祐と出逢う>

 

 

さて、1975(昭和50)年4月、原由子と「同学年」で、青山学院大学に入学した、

「ギター少年」

大森隆志は、当初、原と一緒に、

「AFT」

に入部したが、その後は「AFT」の活動には参加していなかった。

しかし、その後も大森は、

「ベターデイズ」

の集まりには、ちょくちょく顔を出しており、桑田達とも顔馴染みになっていた。

大森隆志は、とても人懐っこかったので、

「ベターデイズ」

のメンバー達とも関係は良好だった。

 

 

 

1975(昭和50)年冬、大森隆志とは地元・宮崎県で幼馴染だった、松田弘というドラマーが、その大森を頼って上京した。

当時、松田弘は、地元・宮崎で既にバンド活動を行なっていたが、

「日本一のドラマーになる」

という大志を抱き、一念発起して上京したという。

松田が上京した時、東京はとても寒かったが、松田はアフロ・ヘアだったので、

「アフロにしてて、助かった…」

と思ったという。

そして、松田弘は上京してすぐに、大森隆志の紹介で、桑田佳祐と出逢っている。

「僕は上京してすぐに、桑田と出逢った。今思えば、運命でしたね…」

と、後に松田弘は語っている。

ちなみに、大森と松田の生年月日は、

 

・大森隆志…1956(昭和31)年12月12日

・松田弘…1956(昭和31)年4月4日

 

…という事で、1956(昭和31)年12月12日生まれの原由子ともども、「同い年」であり、

大森隆志・松田弘・原由子の3人は、桑田佳祐から見れば、学年は1つ下である。

 

<大森隆志の仲間達②~大森のバイト先のライブハウス「ロフト」で、「ロフトのダニ」と言われていた「セミプロ」の野沢秀行~「毛ガニ」という愛称で知られていた野沢~実は日大の「ニセ学生」だった!?>

 

 

 

そして、当時の大森隆志の交友関係の中で、もう一人、とても「面白い」人物が居た。

それが、当時、大森のバイト先だった、下北沢の、

「ロフト」

というライブハウスに出入りしていた、野沢秀行という男である。

この野沢秀行という男は、当時、

「ロフトのダニ」

という、有り難くない呼び名(?)が有った。

何しろ、野沢は大森を「小僧」扱いして、

「おい、ター坊(※大森)。焼きソバ」

などと注文しては、全くお金も払わず、

「おい、ター坊。このタバコ、貰っていいかな。このレコード借りて行くから…」

などと言って、大森を良いように利用(?)し、「ロフト」に入り浸っては、お金も払わずに、料理を食べたり、タバコを拝借したり、レコードを借りて行ったり…と、とにかく「やりたい放題」だったという。

 

 

では何故、野沢がそんなに「やりたい放題」だったのかと言えば、

当時の野沢は、パーカッションとして、南佳孝のバック・バンドで活動していた、

「セミプロ」

であり、野沢は何となく、「セミプロ」として、皆に一目置かれていた(?)からでもあった。

また、野沢秀行には、

「毛ガニ」

という愛称もあり、当時の音楽仲間達からは、

「毛ガニ」「毛ガニさん」

と呼ばれる、ちょっとした有名人(?)でもあった。

だからこそ、当時の野沢から見れば、一介のアルバイト学生である大森など、

「鼻たれ小僧」(?)

ぐらいにしか見えなかった…としても、不思議ではない。

ちなみに、野沢秀行は1954(昭和29)年10月19日生まれで、大森よりは2歳年長だったが、その正体(?)は、

「日大のニセ学生」

であり、野沢は日大の学生のフリをして(?)、日大の音楽サークルにも参加したりしていたという。

この何とも怪しい男…「毛ガニ」こと野沢秀行も、後にサザンに関わって来る事となるのである。

 

<「ベターデイズ」の個性的な面々~「原宿のジャニス」夏美との愉快な(?)エピソード!?>

 

 

さて、桑田佳祐・原由子らが結成した、

「ベターデイズ」

は、大学から認可されてはいなかったので、部室が無かった。

そのため、

「ベターデイズ」

のメンバー達は、青山学院大学の学食の片隅を溜まり場にしていた…という事は、既に述べたが、

その「ベターデイズ」の溜まり場での、ちょっと愉快な(?)エピソードを、一つご紹介させて頂く。

当時、桑田達は学食の「溜まり場」で集まっては、自由に音楽を語り合っていたが、ある時から、

「謎の女」

が、この「溜まり場」にやって来るようになっていた。

「ベターデイズ」

には、男も女も、実に個性的な面々が居たのだが、その中のある男が、いつも「彼女」と腕を組んでやって来ていた。

桑田から見れば、

「その男の方が、女の方に『捕獲された』ように見えた」

との事だが…。

その女は、桑田達が「音楽談議」をしていると、必ず割り込んで来て、音楽に関する「蘊蓄(うんちく)」を垂れていたという。

「誰なんだ、この女は…?」

当初、「ベターデイズ」のメンバー達も訝しんでいたが、やがて、彼女が夏美という名前で、桑田よりも1学年下の女子であるという事を知った。

 

 

その女…夏美は、常に「上から目線」で、桑田達の音楽の事を辛辣に評したり、自らの交友関係の広さなどを、滔々と語ったりしていた。

そして、夏美は、

「私は、『原宿のジャニス(※ジャニス・ジョプリン)』って言われてるの」

などと「自称」していたという…。

そんな、

「原宿のジャニス」

こと夏美は、どうやら音楽に関する知識も豊富で、とても弁が立つので、

「この子、ひょっとしたら凄い子なんじゃないか…」

と、桑田達も、何処か身構えていた。

何しろ、夏美と来たら、

「アンタ達のやってる事なんて、私から見ればレベルが低いのよ…」

といった態度だったという。

しかし、そんな夏美には、悪気も無さそうだし、案外、イイ子なんじゃないか…という所もあり、桑田達も、夏美とは何となく交流を続けていた。

さて、そんな夏美を巡って、ある時、ちょっとした「事件」が起こった。

「ベターデイズ」

では、毎週土曜日に、「発表会」を行ない、メンバー達が、それぞれの練習の成果を見せたりしていた。

基本的には、和気藹々とした会だったが、そんな中、あの夏美は、例の彼氏に頭をもたせ掛けながら、「ベターデイズ」の発表会の音楽を聴いていたかと思うと、夏美は、次々に、その発表会に出た「出演者」達の音楽の出来栄えを辛辣にダメ出ししまくり、「酷評」してしまった。

流石に、部内で不穏な空気が流れ、険悪な雰囲気になったが、ちょっとカチンと来たらしい、「ベターデイズ」の後輩の女の子が、そんな夏美に対し、

「夏美さんは、いつ発表会で歌うんですか?早く聴かせてもらいたいなあ…」

と言った。

そう、夏美は色々と偉そうな事を言っていた(?)割には、まだ一度も、皆の前で、その歌声を披露した事は無かった。

「あ、いつかね。でも、このサークルには、私のボーカルに合うバンドが居ないから…」

夏美は、遠い目をして答えたという…。

その後も、夏美は、

「喉の調子が悪い」「マイクを忘れた」

など、様々な理由を付けては、皆の前で歌う事は無かった。

 

 

しかし、遂に「その時」は訪れた。

少し先の話になるが、1977(昭和52)年暮れ、

「ベターデイズ卒業生発表会」

が開かれる事となった。

そして、遂に、夏美が歌うというのである。

ネルシャツやTシャツを着た部員達の出番が終わり、遂に夏美の出番が回って来た。

夏美は、いつもよりお洒落な出で立ちをしていた。

「それでは、歌います。ユーミンの『翳りゆく部屋』…」

夏美が自ら曲紹介したが、桑田が見ると、夏美がマイクを持つ手は小刻みに震えていた。

そう、夏美は明らかに緊張していた…。

「ベターデイズ」

のメンバー達も、固唾を飲んで夏美の様子を見守っていたが、歌が始まった途端、初めて夏美の歌を聴いた「ベターデイズ」のメンバー達は、思わず、

「力が抜けてしまった…」

という。

何と言うか…夏美「歌」は、よもやという予想や期待とは大きく違ったが、思いの外(ほか)、実直で不器用さが滲み出るような「歌」だった…。

そして、夏美は歌い終わると、バツが悪そうにしていたが、

「先輩達、本当に有り難う!!私はこんなんだけど、皆さんと会えて本当に幸せでした!!」

と言うと、更に夏美は、

「〇〇くーん(※彼氏の名前)、サイコー!!」

と、マイクで絶叫した…。

「ああ、あの日に帰りたい…」

桑田は、そんな愉快な思い出話(?)を、そんな言葉で締めくくっている…。

 

<平塚でスナックを経営していた桑田佳祐の母・昌子~母親のスナックで働くホステスさん達を車で「送り迎え」していた桑田佳祐は…?>

 

 

さてさて、桑田佳祐が生まれ育った地元・茅ヶ崎の家庭であるが、

桑田の母・昌子は、平塚でスナックを経営しており、桑田の父・久司は茅ヶ崎で映画館の「雇われ館長」を務めていた。

そんな家庭だったので、桑田の両親は不在がちだったが、

「ビートルズ狂い」

だった桑田の姉・えり子は、桑田に対し、ビートルズの素晴らしさを教えてくれていた。

その桑田の姉・えり子は、19歳か20歳の頃、若くして結婚してしまい、家を出てしまったが、その後も桑田は実家で暮らし、桑田は青山学院大学に入った後も、茅ヶ崎の実家から大学に通っていた。

「茅ヶ崎から渋谷の大学に通うのは、凄く遠かったんだけど、自分の場合、東京に下宿したりしなくて良かった。何故なら、もしも東京で下宿なんかしていたら、ただただ呑んだくれて、他に何もせずに、自堕落な生活を送っていたに違いない」

…と、後に桑田は語っている。

桑田にとって、生活が乱れないようにするためにも、茅ヶ崎から大学に通う事は必要だったという。

そして、桑田の母・昌子は、桑田が大学に入った後も、スナック経営を続けていた。

 

 

そして、当時の桑田は車を運転し、バンド仲間のために楽器を運んだりしていた…という事は、以前の記事でも書いたが、

桑田は、その他にも、母親のスナックで働いていたホステスさん達「送り迎え」をしていた。

当時、桑田の母親のお店では、複数の女の子達がホステスとして働いていたが、当時の茅ヶ崎、平塚、大磯辺りは、夜中の交通機関も乏しく、そのため、毎晩、お店で働いていた女の子達を車に乗せて、彼女達の自宅に送り届けるのが、桑田の役割だった。

「俺は、車を運転するのも好きだったし、酔っ払ったホステスさん達の話を聞くのも、なかなか刺激が有ってね(笑)」

…と、後に桑田は語っている。

「彼女達は、たいそう陽気なご帰還の日もあれば、何が有ったか、泣き通しの夜もある。酒を呑み過ぎたら、水を飲ませたり。田んぼの畦道で背中をさすったりして、何だか彼女達と居る時の方が、大学に居る時よりも『人生がリアル』に感じた」

桑田は、当時の思い出を、そのようにも振り返っているが、桑田が車を運転していると、後ろからホステスさんに肩を突つかれ、

「ねえ、黙ってると、お互い疲れるからさあ、何か話してよぉ…」

などと、甘いトーンで言われ、桑田とホステスさんが他愛もない話をしたり…そういった事も有った。

こうして、桑田は「艶っぽい大人の世界」を垣間見た…というより、

「等身大の彼女達に触れる事が、何か良かったんだよなあ…」

と語っている。

 

 

さて、そんなある日の事。

桑田が車で送り迎えをするホステスさんの中で、

「あやこさん」

という、小柄で色っぽくて、とても人懐っこい笑顔の人が居た。

良く言えば、女優の山本陽子さんにも似た感じの、とても魅力的な人で、そんな彼女はお客さん達からも人気が有った。

その「あやこさん」が、ある時、桑田に対し、

「佳祐さんって、何か大人しいけど…。普段、何やってるの?そう言えば、ママに聞いたらバンドやってるんだって?」

と、聞いて来た。

普段の「大人しい」桑田しか知らない「あやこさん」は、バンド活動をしている桑田の姿など想像もつかないという。

「あやこさん」に聞かれた桑田は、自分のバンド活動の事を、あれこれ説明した。

「へー!私、一度聴いてみたいな!!」

彼女が、自分のバンド活動に興味を持ってくれたのが嬉しく、桑田は、

「今度、藤沢でやりますよ!!よ、良かったら来ます??」

と、自分のライブに「あやこさん」を誘った。

当時、桑田のバンドは、桑田の友人・宮治淳一が主宰する、

「湘南ロックンロール・センター」

のライブに、定期的に出演していたが、そのライブに、桑田は「あやこさん」を招待したのである。

 

 

そして…。

ライブの当日、ライブ会場の藤沢青少年会館に、彼女…「あやこさん」が姿を現した。

昼間の「あやこさん」は、地味ながらも、とても落ち着いた大人の雰囲気を漂わせていた。

彼女は、とても熱心に、桑田のバンドのライブを見てくれていた。

そして、その日の夜の事…。

お店が終わり、桑田がいつものように車で「あやこさん」を迎えに行くと、「あやこさん」は車に乗り込むなり、桑田に対し、

「ねえ、佳祐さん、凄く良かったよ!!私、ビックリした!!声が凄く素敵だね!!」

と、大絶賛してくれたのである。

そこまで褒めてくれた人は、桑田がバンドを始めて以来、「あやこさん」が初めてだった。

「え、ホント…?有り難う…」

まさに、天にも昇る気持ちとは、まさにこの事だ…と、桑田は思ったという。

それ以降も、桑田は「あやこさん」の送り迎えを続けたが、年齢も「26歳」という彼女に対し(※「女性に年齢は無い」とも、桑田は言っている)、

「こちとら、そんな大人な女性に対して、手も足も出やしない。モヤモヤした気持ちは、行き着く先も無かった…」

と、桑田は、そんな甘酸っぱい思い出について、振り返っている。

こうして、桑田は「音楽」を通し、様々な経験を積み重ねて行ったが、それが桑田の「創作」の源となっていたに違いない。

 

<ビートルズ『In My Life』の詞に「青春の思い出」を重ね合わせる桑田佳祐>

 

 

というわけで、上記の「夏美」「あやこさん」…に関するエピソードは、

桑田佳祐の著書、

『ポップス歌手の耐えられない軽さ』

で、桑田が語っていた事であるが、その著書で桑田は、ビートルズの、

『In My Life』

という楽曲の歌詞と、自らの「青春の思い出」を重ね合わせて語っている。

そして、上記の桑田の著書の「あやこさん」の思い出を語った章には、桑田佳祐「和訳」したと思しき、

『In My Life』

の歌詞が有るので、ここで「引用」させて頂く。

 

 

『In My Life』

作詞・作曲:ジョン・レノン/ポール・マッカートニー

唄:ザ・ビートルズ

訳:桑田佳祐

 

There are place I'll remember

All my life though some have cahged

Some, forever, not for better

Some have gone and some remain

All that place have their moments

With lovers and friends I still can recall

Some are dead and some are living

In my life I've loved them all

 

「生涯忘れ得ぬ いくつかの場所がある

今はもう無い場所や 

昔のままに残る場所

そうしたいろんな場所で

恋人や友達と一緒に

時を過ごした

今は亡き人 元気でいる人

みんな僕が

人生で愛した人たちだ…」

 

<桑田佳祐の学生時代の「想い出」を歌ったサザンの名曲『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』>

 

 

…という事であるが、

1982(昭和57)年、サザンオールスターズがリリースした、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

は、桑田佳祐の学生時代の「想い出」を歌った名曲であり、歌詞の中には、

「ベターデイズ」

も登場する。

というわけで、桑田の「青春の想い出」が凝縮された、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

胸に残る いとしい人よ

飲み明かしてた なつかしい時

 

Oh, Oh, 秋が恋をせつなくすれば

ひとり身のキャンパス 涙のチャペル

 

ああ、もう あの頃のことは夢の中へ

知らぬ間に遠く Years goes by

 

※Sugar, Sugar, Ya Ya petit choux

美しすぎるほど

Pleasre, Pleasure, la la voulez vous

忘られぬ日々よ

 

互いにGuitar 鳴らすだけで

わかり合えてた 奴もいたよ

 

Oh, Oh, Oh, 戻れるなら In my life again

目に浮かぶのは Better days

 

とびきりステキな恋などもしたと思う

帰らぬ思い出 Time goes by

 

Sugar, Sugar, Ya Ya petit choux

もう一度だけ逢えたら

Pleasre, Pleasure, la la voulez vous

いつの日にかまた

 

※Repeat

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために作った曲である。

現在、当ブログでは、その『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルに入ったが、そのサークルで原由子の1年先輩の桑田佳祐という男と出逢った。

当時の桑田は「女好き」で有名(?)だったが、同年(1975年)6月、桑田が率いるバンドのライブで、原は桑田のボーカルとしてのカッコ良さに目を瞠った。

そして、同年(1975年)夏、「AFT」は内部分裂し、桑田佳祐原由子らは、

「ベターデイズ」

という新サークルを結成した…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第6話」、

『ブルースへようこそ』

を、ご覧頂こう。

 

<1975(昭和50)年9月…「ベターデイズ」結成~部室は無く、青山学院大学の学食の片隅が「溜まり場」に…>

 

 

1975(昭和50)年夏、

「AFT」

は路線の対立から内部分裂してしまい、

「ロック派」「フォーク派」

に分かれたが、桑田佳祐・原由子らは、

「ロック派」

が新たに結成した新サークル、

「ベターデイズ」

に参加した。

しかし、当初、桑田佳祐は「内部分裂」騒動に嫌気が差し、

「ベターデイズ」

の集まりにも顔を出していなかったものの、結局はすぐに桑田も参加した。

なお、結成当時、

「ベターデイズ」

には部室も無かった。

そこで、青山学院大学の学食の片隅が、「ベターデイズ」の「溜まり場」になり、桑田と原、そして「ベターデイズ」の仲間達は、好きな音楽などについて語り合った…。

そんな中、桑田佳祐原由子の音楽的才能に気が付く、重大な出来事が起こった。

 

<1975(昭和50)年夏…原由子、ピアノでエリック・クラプトンの『いとしのレイラ』を桑田佳祐に披露~桑田の原に対する見方がガラリと変わる>

 

 

 

 

 

後年、原由子が、学生時代の事を振り返った際に、こんな事を語っていた。

「AFT」

が分裂してしまい、少し前の事…。

1975(昭和50)年夏の、ある日の事である。

原由子は、スタジオで、桑田佳祐が率いるバンドの練習を見ていたが、その時、桑田が原に対し、

「原、ピアノを弾けるんだって?」

と、尋ねて来た。

原は桑田に聞かれ、ちょっと緊張気味に、

「は、はい…」

と答えたところ、桑田は、

「じゃあ、何か弾いてみて…」

と言った。

そこで、原由子がピアノで曲を弾いたが、その曲とは勿論、彼女が大好きだったエリック・クラプトンの、

『いとしのレイラ』

だった。

原由子は、『いとしのレイラ』は大好きな曲であり、それと同時に、桑田にも、ちょっと良い所を見せたいと思い、

『いとしのレイラ』

を、心を込めて、ピアノで弾いてみた。

すると…。

 

 

 

原由子が、

『いとしのレイラ』

を弾き終わり、桑田佳祐の方を見て見ると、桑田は少し驚いた顔をして、原に対し、

「やればできんじゃん!!」

と言ったという。

そう、桑田佳祐は、この時、原由子の音楽の才能に度肝を抜かれたのであった。

「原由子って…。すげー音楽の才能が有るな…」

桑田は内心、そう思っていたに違いない。

「それが、後にサザンオールスターズが出来るキッカケになったんですけど…」

原由子は、後にそう語っていたが、原が言う通り、この出来事は「サザン史」にとって、大きな分岐点であった。

 

 

「原由子は、抜群にピアノが上手い。しかも、ギターも弾ける…」

原由子は、桑田佳祐から、その音楽的才能を認められたが、

それと同時に、原由子は、

「即戦力」

として、サークル内でも、一気に注目される存在となった。

「当時、ピアノやキーボードを弾ける人って、専門で音楽教育を受けて来た女子しか居なかったからね…」

後に、桑田もそう言っていた通り、幼い頃からピアノを習い、しかも、「洋楽」好きだった兄・成男の影響で、原由子はクラシックだけではなく、ロックやポップスもピアノやキーボードで弾く事が出来た。

しかも、原由子のピアノはかなりの腕前だった…。

おまけに、当時は何なら原由子の方が桑田佳祐よりも、ギターは上手かったそうである。

「お前、俺の前ではあんまりギターは弾くな」

桑田は、原に対し、後でコッソリと言ったそうだが…。

それはともかく、原由子は、

「即戦力のキーボード・プレーヤー」

として、サークル内の各バンドから「引っ張りだこ」になった。

 

<1975(昭和50)年秋…原由子、「ジェロニモ」の活動と共に、ヤマハのコンボオルガンを購入し、「ヘッドライナー」というバンドに参加>

 

 

さて、原由子桑田佳祐に対し、

『いとしのレイラ』

を披露し、それが後にサザンが出来るキッカケになった…という事は既に述べた。

しかし、その後すぐに桑田と原は一緒にバンド活動をしたわけではなく、今少し「回り道」が有った。

原由子は、相変わらず、高校時代以来の親友・「モリ」と共に、

「ジェロニモ」

として活動し、ギターを猛練習していたが、その頃の「ジェロニモ」は、

「ごっつく、骨太に音楽をやる」

というコンセプトであり、原由子のギターの腕前は、更に向上していた。

そして、その頃、原由子には大きな転機が有った。

 

 

その頃、原由子のピアノ・キーボードの腕前は、青山学院大学の音楽サークル界隈では知れ渡っていた。

そこで、原由子には色々なバンドから「お誘い」が有り、

「ウチのバンドで、キーボードを弾いてくれない?」

という「スカウト」が多数有った。

そこで、原由子はバイトで貯めた9万円の貯金を全てはたいて、ヤマハのコンボ・オルガンを購入したという。

そして、原由子は、ディープ・パープルレッド・ツェッペリン…といった、ハード・ロック系の音楽をコピーしていた、

「ヘッドライナー」

というバンドに、キーボード奏者として加わった。

しかし、

「ヘッドライナー」

というバンドは、原由子の他は、長髪で細身の4人組の男の子であり(※後のビジュアル系のような美少年の集まりだった)、どう見ても原由子は浮いていた…という。

しかも、原由子が買ったコンボ・オルガンは、30kgぐらいの重さが有ったので、とても1人では運べず、いつも原由子と「ノリ」が2人がかりで運んでいた。

「あの男の子達、何で運んでくれないんだろう…」

「ちょっと、あんまりだよねー…」

原由子「ノリ」は、いつも、そんな愚痴をこぼし合っていた…。

 

<1975(昭和50)年秋、桑田佳祐と原由子、それぞれの「失恋」をキッカケに急接近!?~桑田と原を結び付けたのは、エリック・クラプトンの「ブルース」だった…>

 

 

さて、そんな風に、当初、原由子桑田佳祐とは別のバンドで活動していた。

しかし、そんな桑田と原が、ある出来事をキッカケに、

「急接近」

する事となった。

それは何かと言えば、ズバリ、桑田と原の、それぞれの(別々の)、

「失恋」

だった。

その頃、桑田は、ある1人の女の子に、果敢にアタックしていた。

桑田のあまりの「一途さ」は、青山学院のキャンパス内でも知れ渡り、

「あんなに思ってもらえたら、女の子冥利に尽きるよねー」

と、他の女の子達の「同情票」まで集めるほどだったという。

しかし、桑田の思いは実らず、結局、その女の子は、原由子が所属していたバンド…あの、

「ヘッドライナー」

のメンバーと付き合い始めてしまったという…。

こうして、桑田は残念ながら、

「大失恋」

をしてしまった。

 

 

「失恋」

をしてしまった、桑田佳祐の心を癒してくれたもの…。

それは、やっぱり、

「音楽」

だった。

ある時、原由子が、「ヘッドライナー」のメンバー達や、桑田が思いを寄せていた、例の女の子達と一緒に居る時を見計らって(?)、突然、桑田から原に対し、電話がかかって来た。

「原さん、一緒にブルースやろうぜ!!」

桑田はそう言っていたが、原由子は、

「わざわざ、あの子が居る時を見計らって、電話をかけて来たんだろうな…」

とは思ったものの、桑田の気持ちは痛いほどわかった。

その時、桑田は「失恋」の痛手から立ち直るために、

「ブルース」

を歌いたがっていた。

そして、その曲は、桑田が敬愛する、あのエリック・クラプトンの、

『Have You Ever Loved A Woman?』

という曲だったという。

以前の記事でも述べたが、エリック・クラプトンは、

「叶わぬ恋」

に身を焦がし、それが悲痛な叫びとなって、

「ブルース」

を生み出していた。

きっと、その頃の桑田も、

「ブルース」

を思いっきり歌いたい心境だったに違いない…。

原由子は、そう思っていた。

 

 

一方、実はその頃、原由子も、

「失恋」

をしていた。

とは言っても、原由子の場合、レコードを貸してくれた先輩に勝手に片想いし、勝手に諦めた…という事だったようだが、

それでも、原由子「失恋」を悲しみ、エリック・クラプトンの、

『BELL BOTTOM BLUES(ベルボトム・ブルース)』

という曲を聴いては、勝手に共感し、おいおい泣いていたという。

こうして、桑田佳祐原由子は、

「失恋した者同士」

で、大いに共感し合い、しかも、桑田と原が敬愛してやまない、エリック・クラプトンによる、

「ブルース」

が、この2人の距離を、グッと縮めた…という事である。

やはり、音楽の力は偉大である。

ともあれ、この時、原由子は、

「私だって、ブルースやりたいよー!!いくらでもやりたいよー!!」

…と、心の中で叫んでいたという。

 

<桑田佳祐、原由子を誘い、遂に桑田佳祐と原由子がサザンの「原型」となるバンド…「青学ドミノス」結成!!>

 

 

 

さて、いよいよ、桑田佳祐原由子が一緒にバンドを組む…という、

「歴史的瞬間」

について描く。

なお、桑田と原による「バンド結成」の経緯は、

 

・『ロックの子』(桑田佳祐)

・『娘心にブルースを』(原由子)

・『ポップス歌手の耐えられない軽さ』(桑田佳祐)

 

…といった、当事者の桑田佳祐原由子らの著書によって語られているが、

何しろ、だいぶ昔の話であり、些か本人達の記憶も曖昧(?)なようで、ちょっと経緯が不確かだったり、著書によっては矛盾する部分も有るようだが、概ねこんな感じだったであろう…という事で、その経緯を描く。

 

 

1975(昭和50)年秋、原由子は、

「ヘッドライナー」

というバンドに入り、そのバンドのキーボード奏者として活動していた…という事は、前述した。

しかし、桑田佳祐は、バンド活動をするに際し、

「どうしても、原由子に、俺のバンドに入って欲しい…」

と思っていた。

桑田も、原の音楽の才能には脱帽していた。

だからこそ、

「原由子と一緒に活動したい」

と、熱望していた。

だが、この時、原由子は別のバンドで活動していた(※しかも、桑田が好きだった女の子が、よりによって、そのバンドのメンバーと付き合い始めてしまう…という、オマケ付き?だった)。

そこで、桑田佳祐は、どうしたのか…と言えば、桑田は原に対し、

「そんなに忙しいなら、いいよ。他のキーボードを捜すから…」

と、敢えて「高飛車」な態度を取った。

すると、

「向こう(※原由子)の方から折れて来て、『こっちのバンドでやりたい』って、言って来たんだよ…」

…との事であるが、これは1984(昭和59)年に刊行された、桑田の著書、

『ロックの子』

で語られている経緯である。

しかし、遥か後年、2021(令和3)年に刊行された桑田の著書、

『ポップス歌手の耐えられない軽さ』

では、桑田は、

「大学2年の時、どうにかこうにか、原さんを宥(なだ)めすかして、俺のバンドに入ってもらった…」

…と、語っている。

果たして、どちらが本当なのかはわからないが、いずれにしても、

「桑田佳祐が、どうしても原由子と一緒にバンド活動をやりたいと思っていた…」

という事だけは、確かなようである。

 

 

では、その時の事を、原由子はどう語っているのか…。

1998(平成10)年に刊行された、原由子の著書、

『娘心にブルースを』

によると、こんな出来事が有った。

原由子は、桑田佳祐に誘われ、桑田のバンドに入る事を決めたが(※どうやって誘われたのか…は、明言していない)、

その最初のリハーサルの時、原由子が、あの重いコンボ・オルガンを持って、青山学院大学から、宮益坂のスタジオに向かおうとしていたところ…。

何と、桑田佳祐がやって来て、あのオルガンをヒョイと頭の上に乗っけて、さっさと歩き出した。

「もう!壺じゃないんだからねー!!」

原由子は、ビックリして、そう思ったが、桑田の行動が、とても嬉しかった。

「桑田さん…良い所あるじゃん!!」

原由子は思い、すっかり桑田の事を見直した。

「もう『ヘッドライナー』なんて辞めよう!!桑田さんと一緒にバンドをやろう!!」

この時、原由子はそう決心した。

 

 

 

 

こうして、1975(昭和50)年10月、桑田佳祐・原由子らは、後の、

「サザンオールスターズ」

の「原型」となるバンド、

「青学ドミノス」

を結成した。

なお、上の画像では、

「1975年10月 サザンオールスターズ結成」

とあるが、正確に言えば、この時はまだ、

「サザンオールスターズ」

というバンド名は名乗っておらず、あくまでも、

「青学ドミノス」

というバンド名だった。

しかし、兎にも角にも、桑田佳祐と原由子が一緒にバンドを組み、後のサザンの「原型」が出来上がった…という事は、歴史的に見て、極めて重要である。

こうして、「歴史」の歯車は大きく回転し始めた…。

 

<1979(昭和54)年4月5日…サザンオールスターズの2枚目のアルバム『TENナンバーズ・からっと』に『ブルースへようこそ』が収録>

 

 

 

さて、後の話になるが、サザンオールスターズがデビューした後、

1979(昭和54)年4月5日、サザンの2枚目のアルバム、

『TENナンバーズ・からっと』

がリリースされたが、このアルバムには、

『ブルースへようこそ』

という曲が収録されている。

残念ながら(?)歌詞は不明(?)であるが、桑田佳祐原由子、そしてサザンのメンバー達の、

「ブルース」

に対するリスペクトが溢れているような曲である。

「私も、ブルースがわかる女になりたいと思っていた。しかし、それが『百年早い』という事に気付いたのは、だいぶ経ってからの事だった…」

原由子は、後にそんな風に語っていた。

しかし、人間の心の悲しみや切なさなどを表現した、

「ブルース」

という音楽が、サザン結成の元になった…という事は確かである。

…という事で、こうして結成された、桑田佳祐原由子らによるバンド、

「青学ドミノス」

を、この後、更に波乱万丈の道のりが待っていた…。

 

(つづく)

1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

をリリースした。

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

現在、その『いとしのエリー』誕生秘話を、当ブログにて連載中である。

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルに入った。

そして、その「AFT」には、原由子の1年先輩だった桑田佳祐という男が居た。

こうして、1975(昭和50)年4月、桑田佳祐原由子は、

「運命の出逢い」

を果たした…。

という事で、青山学院で出逢った桑田と原が、その後、どうなって行ったのか…桑田と原の「青春物語」を描く。

それでは、『いとしのエリー』誕生秘話の「第5回」、

『当って砕けろ』

を、ご覧頂こう。

 

<1975(昭和50)年4月…原由子と「モリ」が、「ジェロニモ」として「AFT」に入部>

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルに入った。

その「AFT」には、原由子の1年先輩として、桑田佳祐という男も居たが、当初、桑田は、原由子が青山学院に入った後に知り合った「ノリ」という美人の女の子にゾッコンだった。

一方、原由子は、フェリス女学院高校時代に、「モリ」という親友が居り、高校時代、原由子と「モリ」は、

「ジェロニモ」

というユニットを組み、音楽活動をしていた…という事は、既に述べた。

その「モリ」は、某女子大に入学していたが、「AFT」は、

「他大学の人でも入部は大歓迎」

という方針だったので、「モリ」「AFT」への入部が認められ、原由子と「モリ」は、

「ジェロニモ」

として、「AFT」に入った。

だが、その頃、他の女の子達が、

「先輩、コード教えて下さい!!」

などと言って、上手く先輩達に溶け込んでいるのに対し、「ジェロニモ」の2人組は、出遅れてしまった。

だが、それに気付いた時は、時既に遅しだった…。

「しまった!!」

と、原由子は思ったが、「ジェロニモ」は放っておかれっぱなしだったという…。

「こうなったら、高校時代までのように、「ごっつく」音楽を練習しよう」

…と、彼女達は決意していた。

 

 

また、原由子は、小学校の高学年の頃から、

「肥満化」

してしまい、同級生の男子達から、それをネタにしていじめられたり、からかわれたりした事があり、

高校は女子高だったので、3年間、男子から隔離されていた事もあって、その頃は、

「男性恐怖症」

になっていたという。

なので、「AFT」の集まりに行く時に、

「そこに男の人が居る」

というだけで、原由子は緊張してしまっていた。

つまり、原由子は、それまでの「トラウマ」が有って、すっかり男性が苦手になっていたのだった。

そんな事情もあり、原由子は男性に対し、「壁」を作ってしまっていたという。

 

<「音楽と女」に夢中になっていた、桑田佳祐…~バンド名を「温泉あんまももひきバンド」⇒「ピストン桑田とシリンダーズ」に改名>

 

 

一方、その頃、桑田佳祐は…。

大学2年生になった桑田は、ベースの関口和之など、「AFT」の仲間達と、

「温泉あんまももひきバンド」

なるバンドを組み、活動していたが、そのバンドは、スタジオで練習したりする一方、桑田の友達がアルバイトをしていた、バーやスナックなどに行き、そのステージで演奏したりしていた。

ちゃんとしたライブハウスではなく、

「場末のバーやスナックだった」

という事であるが、少ないながらも「ギャラ」を貰ったりしていたという。

その頃、バンドの中で、車の運転が出来るのは桑田だけだったので、桑田が車を運転し、バンド仲間の楽器を運んだりしていたが、そのように、バンド活動を盛んに行なっていた。

「俺達って、何か『セミプロ』みたいじゃないか!?」

その頃、桑田はそんな事を思ったりしていたという。

桑田は「学業」など、そっちのけで、バンド活動に夢中になっていた。

ちなみに、その頃のバンド演奏のレパートリーは、

ビートルズ、ボブ・ディラン、ステッペン・ウルフ、グランド・ファンク・レイルロード…

などなど、とにかく桑田達が、

「これは、カッコいい!!」

と思った曲は、何でも演奏していた。

そして、バンドで演奏するために、桑田達は更に色々な音楽を聴くようになって行った。

なお、1975(昭和50)年5月頃、桑田が率いるバンドは、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

と改名したが、桑田佳祐がボーカルを務め、引き続き、関口和之がベースを弾いていた。

 

 

そして、その頃の桑田佳祐「バンド活動」と共に、夢中になっていたもの…それは、

「女性」

である。

当時の事を、桑田佳祐は、このように回想している。

「大学でサークルに入ってると、いろんなライバルが出てくるじゃない。ギターの上手い奴が沢山出て来たりとか…。そういう奴らと喧嘩したりしてさ。ま、色々と良い勉強になったよね。その頃はもう、音楽と女ひとすじ…」

桑田が、そのように振り返っている通り、その頃の桑田の頭の中を占めていたのは、

「音楽と女」

の事ばかりだったという。

その頃、桑田は色々な女の子にアタックしたりしていたが、その女の子達とは、上手く行ったり、行かなかったり…と、色々有ったが、当時の桑田は、

「恋多き男」

だったようである。

このように、青春真っ只中の桑田は、

「音楽と女」

に、全力で夢中になっていたのであった。

 

<相変わらず(?)、原由子の友達の「ノリ」にご執心だった桑田佳祐は…?>

 

 

さて、「音楽と女」に夢中になっていた、その頃の桑田佳祐であるが、

桑田は、相変わらず、原由子の友達の「ノリ」に、ご執心だった。

例えば、原由子と「ノリ」が、並んで青山通りを歩いていると、後ろから物凄い勢いで桑田が走って来て、

「あ!ノリちゃん偶然だなあ!一緒に帰ろう!!」

などと言って来た事が、度々有ったりしたという。

これは、どう見ても桑田が「偶然」を装って、狙っていた事だったが、

「全く、わかりやすすぎる奴である」

…と、後に原由子は振り返っている。

また、ある時、「ノリ」が、ある男の子から、

「新宿で、ビートルズの3本立ての映画が有るから、見に行こう」

と、「デート」の誘いを受けた。

ここで大問題が起こった。

「ノリ」原由子に対し、

「心細いから、どうしても一緒に来て欲しい」

と言って来たのである。

しかし、そんな事をすれば、単なる「お邪魔虫」になってしまうので、それは嫌だ…と、原由子は断ったが、

「お願いだから、どうしても来て!!」

と、「ノリ」はそう言って聞かなかった。

「どうしよう…」

と、原由子が悩んで来た時、あの男…桑田佳祐が割り込んで来た。

「ノリちゃん、あいつとビートルズ見に行くんだって?僕もビートルズ見に行きたかったんだ。一緒に行こう!!」

桑田はそう言って、強引にくっついて来てしまった。

「私が悩んでいたというのに、デリカシーのひと欠片(かけら)も無い奴である」

原由子は、後にそう振り返っていたが、結局、そのビートルズの3本立ての映画は、「ノリ」を誘った男の子と、「ノリ」が両端に座り、「お邪魔虫」桑田佳祐原由子が、その2人の間に入り、並んで真ん中で見る事になってしまった…。

「全く、あの男の子には、可哀想な事をしてしまった…」

と、原由子は申し訳無い気持ちでいっぱいだったという…。

 

 

そして、原由子「ノリ」が、東横線に乗って横浜方面に帰る時、桑田佳祐も付いて来ていたが、

「ノリ」はいつも、先に菊名で降りてしまうので、最後は桑田と原だけが残されてしまっていた。

その度に、原由子は申し訳無い気持ちになってしまっていた(?)というが、

「何で、私が気にしなきゃならないんだい!!」

と、原は思っていた。

しかし、前述の、

「新宿デート事件」

の時も、実は桑田が割り込んで来てくれたお陰で、原由子は、

「邪魔者は私だけじゃない!!」

と思い、少し気が楽になっていた。

また、原由子と「モリ」による、

「ジェロニモ」

の練習にも、桑田は飛び入りで参加してくれたりするようになっていた。

そんな事もあり、原由子は、相変わらず「男性恐怖症」は治っていなかったものの、桑田とだけは、あまり緊張せずに話せるようになっていた。

 

<1975(昭和50)年6月…目黒区民センターホールの「AFT」のライブに「ピストン桑田とシリンダーズ」出演~ディープ・パープル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』などを歌う桑田佳祐に、原由子が感心>

 

 

1975(昭和50)年6月の、ある日の事である。

この日は、目黒区民センターホールで、

「AFT」

の定例ライブが開かれていたが、そのライブに、桑田佳祐が率いる、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

も出演していた。

後から振り返れば、このライブは、桑田佳祐と原由子にとって、大きな「分岐点」となるライブとなった。

原由子にとって、「AFT」に入ってから、初めてのライブだったが、

この時、原由子は初めて、桑田が率いるバンドのライブを見る事となった。

そして、この時、原由子は衝撃を受けた。

 

 

「ピストン桑田とシリンダーズ」

は、その時のライブで、ディープ・パープルの、

『スモーク・オン・ザ・ウォーター』

や、エリック・クラプトンが所属していた伝説のバンド・クリームの、

『ホワイト・ルーム』

といった楽曲を披露したが、桑田佳祐のボーカルは、とてもカッコ良かったのである。

「へー!!この人って、歌も歌えるんだ!?ただの『わかりやすい人』じゃなかったんだね…」

原由子は、ビックリしてしまった。

「桑田さんって…カッコイイ…」

この時、原由子は初めて、そう思ったという。

原由子がそう思っていた通り、その頃、桑田はボーカルとしての才能が開花していた。

こうして、原由子の桑田佳祐に対する見方は、ガラッと変わった。

そして、原由子「モリ」「ノリ」といった友達を連れて、渋谷の宮益坂のスタジオに、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

の練習を見に行くようになった。

そう、この時、原由子は桑田佳祐の「ファン」になった…という事である。

 

<1975(昭和50)年夏…「AFT」内部で紛争が勃発!?~「AFT」は「フォーク派」と「ロック派」に分裂し、桑田佳祐・原由子ら「ロック派」は「ベターデイズ」結成!!>

 

 

1975(昭和50)年夏、

「AFT」

は、河口湖にて、恒例の夏合宿を行なっていた。

「AFT」

というサークルは、実は上下関係が厳しく、先輩が後輩に、ライブの「スタッフ」をやらせたりしていた。

また、「AFT」は、クラブとしての親睦を重視する団体だったが、このサークルの伝統として、

「シング・アウト」

なる物が有り、ライブの最後には、必ず部員達が並んで、全員で歌う…というような行事も有った。

しかし、桑田佳祐は、「AFT」では「異端児」であり、桑田は一人だけ、ジョン・レノンのようなデカいサングラスを付けていたりしたので、

「シング・アウト」

の時も、桑田はかなり浮いていた。

そんな桑田を見て、他の部員が笑ったりしてしまっていた…との事だが、1975(昭和50)年、桑田が2年生の頃になると、「AFT」には、桑田の他にも、どんどん「異端児」が入って来るようになってしまった。

もしかしたら、「AFT」の先輩達は、そんな桑田達、「異端児」の事を、苦々しく思っていたのかもしれない。

そして、1975(昭和50)年夏、河口湖での「AFT」の夏合宿で、「事件」は起こった。

突然、「AFT」の部員達が、宿舎の大広間の座敷に集められると、「AFT」の部長が、いきなり、こんな事を言い出した。

「この中に、クラブの和を乱す人達が居る。そういう人達は、ここから出て行ってくれ!!」

部長はそう言って、ある部員の事を名指ししたが、その人は桑田と同じ茅ヶ崎の出身の先輩で、桑田もお世話になっていた人だったという。

 

 

こうして、部長に名指しされてしまった、桑田の先輩であるが、

「AFT」

は、その事件を境に、

「部長派」「先輩派」

に、分裂してしまった。

「部長派」は、フォーク指向の人達が多く、「フォーク派」と称され、

「先輩派」が、ロック指向の人達が多く、「ロック派」と称された。

「やはり、音楽の好みと人間性って、何か関係が有るのかな…」

と、原由子は思ったというが、

「クラブの親睦も大事だけど、それよりも、好きな音楽をやろうよ!!」

という人達が、「先輩派=ロック派」には多かったという。

そして、原由子と「モリ」のジェロニモの2人組と、「ノリ」という、原由子と友達の一派は、仲が良かった先輩が多かった事もあり、「先輩派=ロック派」に付いて行く事にした。

 

 

 

 

こうして、「AFT」は、

「フォーク派」「ロック派」

に分裂してしまったが、

「フォーク派」が「フォーク・イン・青山」というサークルを立ち上げる一方、

「ロック派」は、先輩の発案により、

「ベターデイズ」

というサークル名を名乗る事となった。

ちなみに、

「ベターデイズ」

という名前は、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのアルバムのタイトルから取られた名前だったそうだが、原由子は、

「何てカッコイイ、素敵な名前なの!!」

と思い、原由子は一遍で、「ベターデイズ」という名前が気に入ってしまった。

 

 

こうして、

「ベターデイズ」

はスタートしたが、当初は20人ほどの集まりに過ぎなかったものの、原由子は、新たな始まりに、希望に胸を膨らませていた。

だが、当初、桑田佳祐「ベターデイズ」の集まりには顔を出さなかった。

「何が分裂だ!!バカバカしい!!俺は俺で行く!!」

桑田は、昔から、小さい事でガタガタ言うのは嫌いだったらしく、今回の騒動でも怒っていた。

なので、桑田は当初「ベターデイズ」には入らず、「ベターデイズ」の溜まり場だった、青山学院の学食にも顔を出さなかった。

しかし、結局、その後すぐに、桑田は「ベターデイズ」に入り、原由子達と一緒に活動する事となった。

ともあれ、紆余曲折を経て、桑田佳祐原由子は、新サークルの、

「ベターデイズ」

で、共に音楽活動をするようになった。

 

<サザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバッド』のB面曲で、サザンのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』に収録されていた『当って砕けろ』>

 

 

…という事であるが、

この頃の桑田佳祐原由子は、まさに青春真っ只中であり、若さと情熱で、色々な事に挑戦していた。

その頃の桑田や原の青春の日々は、まさに、

「当って砕けろ」

の精神だった…と言えよう。

というわけで、後にサザンオールスターズのデビュー曲、

『勝手にシンドバッド』

のB面曲となり、サザンのファースト・アルバム、

『熱い胸さわぎ』

にも収録された楽曲、

『当って砕けろ』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『当って砕けろ』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

※いの一番に 飛んでいきましょ

昔の女なんて おさらば

心に火がついたら もうそれだけ

他人(ひと)の事など どうでもいい※

 

その気になれば いつでも逢える

噂 気にするなんて ないじゃない

当って砕けること 忘れないで

恋を知らずに 何が出来ようか

 

※※本当の幸せ あなたは教えてくれたの

私に 何かにつけて

心がさめれば 別れもくるだろ

いつかは二人で 話し合わなきゃ※※

 

抱きしめるほどに恋が果てることなく

このまま別れ話もないまま

涙流すことなく

 

※※

 

誰かが教えてくれた

あんた このごろ 嫁入りしたいそうではないかいな

ここで覚悟を決めて

 

Keep On Smilin' Keep On いつも……

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史上に残る屈指の名曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

現在、その『いとしのエリー』の誕生秘話を、当ブログにて連載している。

 

 

さて、原由子は横浜・JR関内駅前で現在も営業している、

「天吉(てんきち)」

という老舗の天ぷら屋の娘として生まれたが、

その「天ぷら屋の娘」の原由子が、やがて音楽の天才的な才能を発揮するようになった。

そして、1975(昭和50)年4月、遂に青山学院大学桑田佳祐原由子が出逢った。

という事で、桑田と原の「運命の出逢い」の物語を描く、『いとしのエリー』誕生秘話の「第4話」、

『今宵あなたに』

を、ご覧頂こう。

 

<原由子の実家「天吉」~原由子の兄・原成男(はら・しげお)が5代目店主を務める~JR関内駅の「北口」近くで営業>

 

 

 

 

JR関内駅と言えば、横浜DeNAベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの最寄り駅として、

ベイスターズファンであれば、誰もが知っている駅である。

その横浜スタジアムは、JR関内駅の「南口」の、すぐ目の前に有る。

JR関内駅の「南口」は、ご覧の通り、今やすっかり、

「ベイスターズ仕様」

になっているが、JR関内駅の「南口」を出て、右側の方向に歩いてすぐの所に、大きな交差点が有る。

そして、その交差点を渡った先に、横浜公園が有り、その横浜公園内に有るのが、

「横浜スタジアム(ハマスタ)」

である。

従って、関内駅を出ればすぐに、「ハマスタ」が見えて来るので、

「関内駅と言えば、ベイスターズのお膝元」

として、ベイスターズファンは誰もが連想する筈である。

 

 

 

一方、JR関内駅の、

「ハマスタ側ではない方」

の改札口…JR関内駅の北口は、現在、立派な「屋根付き広場」が作られ、かつての姿から一変しているが、

そのJR関内駅の北口から少し歩き、左側の方に曲がると、「伊勢佐木町」が有る。

そのJR関内駅の北口のすぐ近くで、ある老舗の「天ぷら屋」が営業している。

 

 

 

JR関内駅の「北口」のすぐ近くに有る、老舗の天ぷら屋、その名も、

「天吉(てんきち)」

は、1872(明治5)年創業であるが、その「天吉」の5代目の店主は、原成男(はら・しげお)という人である。

そして、この原成男こそ、サザンオールスターズ原由子の兄であるが、

「天吉」

は、原家の当主によって、代々、受け継がれ、前述の通り、現在は原由子の兄・成男(しげお)によって営まれている。

今や、「天吉」と言えば、

「サザンの原由子の実家」

として有名になっており、しばしば、テレビ番組にも取り上げられたりしている事もあり、今や、いつも行列が出来ている人気の天ぷら屋である。

 

 

 

なお、私も「天吉」には何度も行っているが、

「天吉」には、5代目当主にして原由子の兄・原成男が書いた著書、

『酒と涙と男と天ぷら』

が売っているので、私も記念に(?)その本を購入した事が有る。

そして、今回はその本などを元に、

「天吉」

原成男・由子の兄妹の軌跡などを、描いてみる事とする。

 

<1872(明治5)年創業の「天吉」~当初、横浜・伊勢佐木町に創業され、第二次世界大戦後に「関内」に移転~「関内」の新店舗開店の「ドサクサ」に紛れ(?)、1956(昭和31)年12月11日に原由子が誕生>

 

 

1872(明治5)年、武蔵小杉出身の原庄蔵という男が、横浜・関内の住吉町で、屋台の「天ぷら屋」として開業したお店…それこそが、

「天吉」

のルーツである。

その「天吉」の初代当主・原庄蔵は、前述の通り、まずは屋台から商売を始め、横浜・関内の住吉町を拠点としていたが、その後、真金町の遊郭の近くにあった山田町に拠点を移した。

そして、原庄蔵の息子・原元吉が「天吉」の2代目当主を受け継ぎ、原元吉の代で、「天吉」は横浜・伊勢佐木町に拠点を移した。

原元吉の代で「天吉」は大いに繁盛したが、その後、原元吉の息子・原源蔵が「天吉」の3代目当主となった。

この原源蔵こそ、原成男・由子兄妹の「お祖父ちゃん」である。

その原源蔵の代の時、1923(大正12)年9月1日、

「関東大震災」

が起こったが、「天吉」は無事だった。

その後、第二次世界大戦の頃、「天吉」は横須賀海軍武官府指定食堂に指定され、軍人の御用達の店となったが、

1945(昭和20)年5月29日、

「横浜大空襲」

に遭い、「天吉」も全焼してしまった。

 

 

戦後、1946(昭和21)年、「天吉」の店舗は、バラックで営業を再開した。

そして、1956(昭和31)年には、現在の横浜市中区港町2丁目…即ち、「関内駅」の北口の目の前に店舗を移した。

1956(昭和31)年12月10日、

「天吉」

は、改めて新店舗を開店したが、その「天吉」の「新装開店」の翌日…1956(昭和31)年12月11日、

「新装開店で、みんなが大忙しのドサクサに紛れ、私が生まれた」

…と、後に原由子が語っている通り、「天吉」の新装開店の翌日に原由子が生まれている。

上の写真は、「天吉」の新装開店の直後の写真であるが、右から2番目で、蝶ネクタイを付けている男が、原成男・由子兄妹の父親・原弘之である。

そして、左端に写っている女性が、原弘之の妻・原信子…つまり、原成男・由子兄妹の母親である。

そのお母さんに寄りかかり、甘えている男の子は、幼い頃の原成男だが、原由子曰く、

「兄は、大変な『お母さんっ子』で、いつも母親に甘えていた」

との事である。

ちなみに、当時、原兄妹の父親…原弘之は「天吉」は継いでおらず、米軍関係の会社に勤めており、その会社の同僚として、原弘之信子は出逢った。

写真中央の女性は、原源蔵の妻…つまり、原成男・由子兄妹の「お祖母ちゃん」で、その「お祖母ちゃん」に抱きかかえられている「おくるみ」が、赤ん坊だった頃の原由子である。

「私、お祖母ちゃんに抱かれた事なんて無かったと思ってたけど、抱かれてたんだー。エヘヘ…」

と、後に原由子は語っていたそうだが、

「後に妹は『巨大化』し、祖母は妹はとても抱きかかえられなくなってしまった」

と、原成男は語っていた…。

それはともかく、

「祖母に抱きかかえられた、モスラのさなぎ状の物が、我が妹だが、この妹が、後に本当にモスラになってしまうとは、この時の私は気付いていなかった」

とも原成男は語っている。

そう、「モスラのさなぎ」は、後に「モスラ」のように「大化け」し、天才ミュージシャン・原由子に成長するのである。

 

<兄妹喧嘩を繰り返しながらも、仲良く(?)成長して行った原成男・由子兄妹>

 

 

 

さて、兄・原成男は1953(昭和28)年生まれ、妹・原由子は1956(昭和31)年生まれ…という事で、

この兄妹は3歳違いなのだが、原兄妹の幼少期の頃、横浜・関内駅周辺は、今とは全く景観が違っていた。

原兄妹の幼少期、関内駅の辺りには、

「派大岡川」

という、川が流れており、「関内駅」は水上駅として建てられていた。

その後、埋め立てにより、「派大岡川」は姿を消したが、更に、関内駅の南側、根岸駅の方面には、

「間門海岸」

が有り、原兄妹はこの根岸の海で、よく遊んでいたという。

この辺も、今は埋め立てられてしまっているが、かつては、「三渓園」の辺りまで、全部が海だった。

 

 

 

 

原兄妹の実家、

「天吉」

の周辺は、当初、野原が広がる、のどかな光景だったが、

やがて、「天吉」の周りには、どんどん高いビルが建って行き、

「都会化」

して行った。

つまり、原兄妹の幼少の頃は、この辺は田舎で、原兄妹は野山を駆け巡って(?)遊び回っていたという。

現在、この辺は、かつて野原だったという面影は全く無いので、その話を聞くと、何だか不思議な感じである。

ちなみに、「余談」だが、関内駅の南口方面には、後に(※1978年)、

「横浜スタジアム」

として建て直される事になる、

「横浜公園平和野球場」

という、ボロい野球場(?)が有り、その前の道を市電が走っていた。

それを思うと、今やとても綺麗になった「横浜スタジアム」を見ると、隔世の感が有る。

 

 

 

さて、原成男・由子の兄妹は3つ違いだが、

この兄妹は、兄妹喧嘩を繰り返しながらも、仲良く(?)成長して行った。

兄・成男は、かなりの「お母さんっ子」だった…というのは前述したが、

彼は、とにかくお母さんに怒られないよう、要領よく立ち回る(?)のが得意であり、

兄妹喧嘩をして、妹・由子が泣きそうになると、妹の目じりとほっぺたをつねり、無理矢理に笑顔を作らせたりしていた…という。

更に、それでも妹が泣き止みそうもない時は、無理矢理に全身をくすぐって、妹を笑わそうとしていた…。

「この、『妹を絶対泣かさないぞ作戦』は、私が高校生になる頃まで続いた。それほど、兄は母の前では、『良き息子』でいようとしていた…」

と、後に原由子は語っている。

 

<兄・成男の影響で「洋楽」のロックやポップスに目覚め、「音楽」の才能を開花させて行った原由子~そして、1975(昭和50)年春、原由子は青山学院大学英米文学科に合格>

 

 

さて、子供の頃は、大変な「お転婆」だった原由子は、

ピアノを弾いている時だけは大人しかったので、原由子の両親は、彼女にピアノを本格的に習わせるようになった…という事は、以前の記事でも書いた。

そして、ピアノを本格的に習い始めた原由子は、その頃は勿論、

「クラシック音楽」

を学んでいたが、やがて、原由子はロックやポップスに目覚めて行った。

それは、兄・成男の影響でもあった。

 

 

ところで、原兄妹の父・原弘之は、米軍関係の会社に勤めるサラリーマンであり、

原兄妹が子供の頃は、「天吉」は継いでいなかった…という事は、既に述べた。

しかし、1970(昭和45)年頃…原由子が中学生だった頃、父・弘之は会社を辞め、「天吉」の跡を継ぐべく、3代目・原源蔵に「弟子入り」して、「天ぷら屋」修行を始めた。

その後、原弘之は「天吉」の4代目当主となって行く事となるが、

ちょうどその頃は、原兄妹が、

「洋楽」

に目覚め、ロックやポップスにハマって行った頃でもあった。

 

 

 

しかし、原由子は、小学生の高学年頃から、

「肥満化」

してしまい、それが原因で、同級生達から、

「デブ」

だのと言われ、からかわれるようになってしまったという。

そんな事が続いたので、原由子はどんどん性格が暗くなってしまい、鬱々とした日々を過ごすようになってしまったようだが、そんな中でも、彼女を支え続けてくれたのが、

「音楽」

という最高の友達だったという。

原由子は「音楽」のお陰で、何とか精神の安定を保つ事が出来たようだが、原由子は兄・成男の影響で、「洋楽」のロックやポップスを沢山、聴くようになり、時には原兄妹で「セッション」を楽しんだりしていた。

その後、原成男武蔵大学に進学し、大学時代にアマチュア・バンドで活動するようになったので、原由子も、あまり兄とは一緒に遊べなくなってしまったが、1972(昭和47)年、原由子はフェリス女学院高校に進学し、そこで重要な転機が有った。

 

 

フェリス女学院高校への進学時に、原由子は母親と喧嘩してしまい、

高校入学当初、母とは険悪な関係になり、暗い日々を送っていた。

しかし、そんな中、フェリス女学院高校の同級生、

「モリ」

と親しくなった原由子は、「モリ」と2人組で、

「ジェロニモ」

というユニットを結成し、本格的に音楽活動をするようになった…という事は、既に述べた。

そして、「ジェロニモ」の活動を機に、原由子の性格も明るさを取り戻し、母親とも「和解」する事が出来た…。

「私は、本当に『音楽』に救われた」

と、後に原由子は語っている。

その後、原由子は大学進学の時期を迎えたが、

「音楽ライターになり、海外のミュージシャンにインタビュー出来るようになりたい」

という夢を抱いていた彼女は、英語を猛勉強し、その甲斐有って、1975(昭和50)年春、原由子青山学院大学英米文学科に合格した。

「人間は、目標が有れば、それに向けて物凄く大きな力を発揮する事が出来る」

と、後に原由子は語っている。

そして、青山学院大学では、原由子の人生を全て引っ繰り返すような、物凄い「出逢い」が待っていた…。

 

<1975(昭和50)年4月…原由子と大森隆志、青山学院大学に入学し、「AFT」に入部>

 

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学英米文学科に入学した。

そして、原由子の「同学年」として、宮崎県出身で、ギターが大好きな大森隆志という青年も青山学院大学に入学したが、原由子大森隆志は、

「AFT」

という音楽サークルに入り、そこで出逢った。

ちなみに、原由子は入学式の直後、広島出身で、音楽好きの美人の女の子、

「ノリ」

という子と意気投合し、友達になった。

原由子「ノリ」は、2人で様々な音楽サークルの見学に行ったが、その中で、

「AFT」

の出店が有り、その雰囲気がとても楽しそうなのが、とても印象に残っていた。

「AFTの『T』は「出発(たびだち)」の『T』」

と言われ、正直言って、

「何か…ダサイ名前だな…」

と、正直言って、原由子は思ったようだが、

「このサークルでは、フォークをやっている人やロックをやっている人、とにかく沢山のバンドが有って、みんな楽しく活動しているから、とにかく一度見に来てよ!!」

優しそうな先輩からそう言われ、原由子と「ノリ」は、そのサークルの楽しそうな雰囲気に惹かれ、見学に行ってみる事にした。

結局、原由子「ノリ」は、その「AFT」に入り、前述の通り、大森隆志も一緒に入る事となったのだが、この「AFT」には、1年先輩として、

「あの男」

が居た。

そう、桑田佳祐という男が…。

 

<1975(昭和50)年4月…青山学院大学の音楽サークル「AFT」にて、遂に桑田佳祐と原由子が出逢う!!~桑田と原は「エリック・クラプトン好き」として、意気投合…?>

 

 

原由子「ノリ」は、連れ立って、

「AFT」

の説明会へと向かった。

そして、その説明会場である、部室から、「クリーム」時代のエリック・クラプトンの楽曲、

『バッヂ(Badge)』

という曲が聴こえて来た。

「あ!?クラプトンを弾いている人達が居る!?」

エリック・クラプトンが大好きだった原由子は、それだけで嬉しくなってしまい、部室を覗いてみた。

すると…。

 

 

そこには、エリック・クラプトンの雰囲気とは、かけ離れた人達…。

前髪はリーゼントで、後ろの髪は長髪…という、何とも変な髪型(?)のちょっと怖そうな雰囲気の男…桑田佳祐が、ギターを弾いていた(※桑田は、デヴィッド・ボウイを意識(?)していたという)。

そして、桑田の他には、帽子を目深に被り、遠藤賢司ばりに、髪の毛を胸のあたりまで伸ばしていた男、関口和之がベースを弾き、ビートルズポール・マッカートニーにソックリな「おかっぱ頭」で、「社長」というあだ名で呼ばれていた男が、ボーカルを務めていた。

つまり、何ともチグハグで、珍妙な取り合わせの男達が、バンドを組み、クラプトンの曲を演奏していたが、前述の通り、彼らはエリック・クラプトンの雰囲気とは、全くかけ離れており、下を向きながら、ボソボソ…といった調子で、情けなく(?)演奏していた。

しかも、そのバンドは、

「温泉あんまももひきバンド」

なる、ふざけたバンド名(?)だった…。

しかし、原由子は、

「エリック・クラプトンが好きな人達が居る!!」

という、もうそれだけで感動してしまった。

「ねえ、このサークルに入ろうよ!!」

原由子は、喜び勇んで「ノリ」に言ったが、「ノリ」は、あまり気が進まなそうだった。

「うーん…。でもさ、あのリーゼントの人、怖そうだから、話すのはやめようね」

「うんうん、そうしよー」

原由子と「ノリ」は、そんな会話を交わしたが、ともかく原由子は、こうして「AFT」に入部した。

 

 

さて、それから暫く経った頃…。

青山学院大学の近くの、とある喫茶店で、

「AFT」

の新入生歓迎コンパが開かれていた。

ちなみに、原由子は、「AFT」の入部申込書に、好きなミュージシャンとして、

「エリック・クラプトン、レオン・ラッセル、オールマン・ブラザーズ・バンド、CSN&Y」

…と、好きな洋楽のミュージシャン達の名前を、

「思いっきり突っ張って」

列挙していたという。

そして、この喫茶店で、原由子「ノリ」が、並んで座っていたところ、「あの男」…彼女達の1年先輩の男・桑田佳祐が、

「ねえねえ、この辺にクラプトン好きな子が居るんだって?」

と言って、話しかけて来た。

原由子は、

「あ、はい…。私です…」

と答えたが、「ノリ」は咄嗟に身を固くしていた。

しかし、桑田は強引に、原由子と「ノリ」の間に割り込み、そこに座ってしまった。

何の事はない、「クラプトン」云々というのは、どう見ても、桑田が美人の「ノリ」と話したいがための「作戦」だった…。

 

 

「君、名前は?あ、イニシャルがN・N?僕のイニシャルはK・K!!奇遇だねー」

桑田は、原由子とのクラプトンとの話を早々に切り上げ、「ノリ」との話に夢中であった。

「何処が奇遇なんだ…」

原由子は、心の中で桑田にツッコミを入れていた。

「ノリちゃん、家は何処?あ、菊名?偶然だなあ。僕も東横線で帰るんだ…」

というような調子で、桑田はベラベラと「ノリ」に話しかけていた。

「あのう…。私も東横線ですう…」

一応、原由子も話しかけてみたが、桑田は、

「あ、そう…」

と、嫌そうな様子だった。

せっかく、「ノリ」と2人きりになれるチャンス(?)が台無しになってしまいそうだったからである。

その後、桑田佳祐原由子「ノリ」、そして、ポール・マッカートニーもどきの「社長」も加わり、4人で東横線に乗り、帰路に着いたが、「ノリ」はアッサリと菊名で降りてしまった。

後には、桑田と「社長」、そして原由子が残った。

「…原さんの家って、天ぷら屋なの?」

「はい」

「…どんな天ぷら?」

「えっと…。かき揚げが自慢で、凄く大きいんですけど、サックリしてて、美味しくて、ペロっと食べられちゃうんですう…」

「ふーん…」

桑田と「社長」は、ガックリと力が抜けたようだった…。

「全く、わかりやすい人達である」

後に、原由子はそう語っているが、それでも彼らは遠回りして、根岸経由で帰ってくれたという。

こうして、桑田佳祐原由子は出逢ったが、

「まさか、こんなにわかりやすい人と、後に結婚するとは思わなかった!!」

と、原由子は回想している…。

 

<原由子の実家「天吉」の事が歌詞に登場する、サザンオールスターズの楽曲『今宵あなたに』~サザンオールスターズのファースト・アルバム『熱い胸さわぎ』に収録>

 

 

さて、後の話になるが、

サザンオールスターズがデビューした後、1978(昭和53)年8月25日、サザンのファースト・アルバム、

『熱い胸さわぎ』

がリリースされたが、このアルバムに、

『今宵あなたに』

という楽曲が収録されている。

そして、

『今宵あなたに』

には、

「あなた悲しや 天ぷら屋…」

という歌詞が登場するが、この歌詞は勿論、原由子の実家、

「天吉」

の事を歌っている…という事は、言うまでもない。

そして、この曲は、まずはドラムの松田弘「カウント」から始まり、

途中の間奏で、桑田佳祐が、

「Oh! タカシ・オオモリ、Play the guitar(ギター)!!」

「Hey! Piano(ピアノ)! ユウコ・ハラ!!」

と言い、大森隆志のギター、原由子のピアノの演奏がそれぞれ始まる…という箇所が有り、

「バンドとしてのサザンの演奏」

が意識された楽曲でもある。

また、原由子がバック・コーラスを務め、桑田と原の息の合ったハーモニーを聴く事も出来るが、このように初期サザンのバンドとしての演奏を堪能する事が出来る楽曲である。

というわけで、1975(昭和50)年4月の、桑田佳祐原由子の、

「運命の出逢い」

に思いを馳せ、

『今宵あなたに』

の歌詞をご覧頂きたい。

 

 

『今宵あなたに』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

※いつも目にしむ おなごの群れ

今宵あなたに逢いたくて

あなた悲しや 天ぷら屋 だけども

素肌負けないで Baby

素肌負けないで Baby ※

 

雪になりそうで ならぬ夜

ものになりそうで ならぬ恋

今夜もひとりで 膝をかかえて 眠れば

素肌負けないで Baby

素肌負けないで Baby ※

 

※※寄る年波に恥じらいさえも忘れそうなほど

凍てついた夜に間違いさえも起こしそうな恋※※

 

今年も冬になれば oh……

恋が通り過ぎてく 心が痛いわ

くやしいけど Whisky に涙浮かべて

 

※※

 

寄せて返す波のように

枯葉みたいな声が

耳についてて離れはしないわ

思い出は何もかもあなただけ

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

現在、当ブログでは、その『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

『いとしのエリー』

は、一日して成らず…という事で、桑田佳祐が、如何にして『いとしのエリー』という名曲を生み出すに至ったのか…という事を、サザンのデビュー前の軌跡から辿っているが、今回の記事では、サザン史上にとって極めて重要な曲、

『茅ヶ崎に背を向けて』

という曲にまつわるエピソードである。

それでは、『いとしのエリー』誕生秘話の「第3話」、

『茅ヶ崎に背を向けて』

を、ご覧頂こう。

 

<桑田佳祐が初めて作ったオリジナル曲『茅ヶ崎に背を向けて』>

 

 

「桑田佳祐が、生まれて初めて作ったオリジナル曲は、何か?」

…という点を明らかにする事は、サザン史を解き明かす上で、非常に重要である。

そして、桑田が初めて作ったオリジナル曲は何か?…というのは、実はハッキリしている。

何故なら、1984(昭和59)年に刊行された、桑田佳祐の著書、

『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』

という本で、当の桑田本人が、

「俺が初めて作ったオリジナル曲は、大学2年の時に作った『茅ヶ崎に背を向けて』だった」

と、明言しているからである。

という事で、桑田佳祐が、

「ミュージシャン」

としての第一歩を歩み始めた、その記念碑的な楽曲、

『茅ヶ崎に背を向けて』

の誕生にまつわるエピソードを紐解いてみる事としたい。

 

<1956(昭和31)年…石原慎太郎・石原裕次郎兄弟が『太陽の季節』でデビュー~「太陽族」が登場し、「湘南」の海が脚光を浴びる>

 

 

 

私は、このブログで、何かと言えば、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟の事を書いている。

そして、今回もまた、「石原兄弟」について書くので、

「また、その話か…」

と思われる方も多いと思われるが、ご容赦願いたい。

1955(昭和30)年、当時、一橋大学の学生だった石原慎太郎が、

『太陽の季節』

という小説を書いたが、この小説により、石原慎太郎は、史上最年少(※当時)の23歳という若さで、「芥川賞」を受賞し、慎太郎は鮮烈な文壇デビューを飾った。

 

 

そして、

『太陽の季節』

は大ブームを巻き起こし、「湘南」の海辺に、慎太郎を真似た、

「慎太郎刈り」

という髪型にして、アロハシャツで闊歩する若者達、

「太陽族」

が現れ、社会現象となった。

そして、1956(昭和31)年…桑田佳祐原由子が生まれた年に、

『太陽の季節』

は日活で映画化されたが、元々、慎太郎が『太陽の季節』の主人公のモデルとして描いていた、慎太郎の弟、石原裕次郎が、この映画でデビューを飾った。

 

 

ところで、先程、

「湘南」

と書いたが、そもそも、

「湘南」

とは何処の辺りを指すのか…というのは、極めて曖昧である。

何となく、

「神奈川県南部の海辺の辺り」

という、ボンヤリとしたイメージは有るが、人によって、

「何処から何処までが湘南なのか?」

という定義が異なったりしているので、問題はややこしい。

この問題は、以前、

「ブラタモリ」

でも取り上げられ、私もその事について、このブログで記事にした事が有った。

しかし、とりあえず、石原慎太郎・石原裕次郎の兄弟が遊び場にしていて、1956(昭和31)年頃に「太陽族」が闊歩していたのは、逗子や葉山の辺りだったようである。

そして、ただの田舎の海辺だった、

「湘南」

は、お洒落な若者達が遊びに行く所…という風に変わって行った。

そのキッカケを作ったのが、石原慎太郎・石原裕次郎の兄弟だった…という事になる。

 

<「湘南サウンド」の元祖~石原慎太郎・石原裕次郎兄弟が生み出した『狂った果実』(1956)>

 

 

さて、1956(昭和31)年、石原裕次郎は、兄・石原慎太郎が原作を書いた、

『太陽の季節』

の映画でデビューを飾ったが、同年(1956年)、今度は石原慎太郎が原作・脚本を書き、日活で映画化された、

『狂った果実』

で、石原裕次郎は、早くも(※映画出演2本目にして)初主演を務めている。

そして、裕次郎はこの映画で共演した北原三枝と恋仲になり、後に結婚した。

そういうエピソードも有ったが、

『狂った果実』

は、映画と同名タイトルの主題歌を裕次郎が歌った…という意味でも、極めて重要である。

 

 

『狂った果実』

は、石原裕次郎の初めての楽曲(オリジナル曲)であり、

「湘南サウンド」

の元祖となった曲でもある。

そして、『狂った果実』は映画も主題歌も大ヒットし、以後、裕次郎はスーパースターへの階段を駆け上がって行った。

という事で、

『狂った果実』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『狂った果実』

作詞:石原慎太郎

作曲:佐藤勝

唄:石原裕次郎

 

夏の陽を浴びて

潮風に揺れる 花々よ

草蔭に結び 熟れてゆく赤い実よ

夢は遠く 白い帆に乗せて

消えてゆく 消えてゆく

水のかなたに

 

人は誹(そし)るとも

海の香にむせぶ この想い

今日の日もまた 帰り来ぬ夏の夢

熱きこころ 燃え上がる胸に

狂いつゝ 熟れてゆく

太陽の実よ

 

潮の香も 匂う

岩かげに交す くち吻(づけ)も

その束の間に 消えゆくと知りながら

せめて今宵 偽りの恋に

燃え上がり 散ってゆく

赤い花の実

 

 

…という事であるが、

兄・石原慎太郎が作詞し、弟・石原裕次郎が歌った、

『狂った果実』

は、裕次郎の初めてのオリジナル・ソングであり、

「湘南サウンド」

の元祖と言われる曲となった。

なお、「余談」だが、

『狂った果実』

の1番の歌詞の、

「白い帆に乗せて 消えてゆく…」

という箇所は、実は当初、慎太郎が書いた歌詞は、

「白い帆に乗って 消えてゆく…」

だったものの、裕次郎が、

「歌いにくいから」

という理由で、勝手に歌詞を変えて歌ってしまった。

「『白い帆に乗せて 消えてゆく』では、日本語になっていない。俺が書いた歌詞である、『白い帆に乗って 消えてゆく』と歌え」

と、慎太郎は怒っていたが、裕次郎はそんな細かい事は全く気にせず(?)、勝手に変えた歌詞で歌い続けていた。

…というわけで、桑田佳祐・原由子が生まれた年(1956年)に、

「石原兄弟」

が颯爽とデビューし、

「湘南サウンド」

も誕生した…という事を、まずは抑えて頂きたい。

そして、当時、石原裕次郎は慶応の学生だったが、

「慶応ボーイで、湘南の海を遊び場とするお坊ちゃん」

という系譜は、この後、あのスーパースターへと引き継がれる事となる。

 

<桑田佳祐の地元・茅ヶ崎が生んだスーパースター・加山雄三~「若大将」を地で行く男>

 

 

さて、桑田佳祐の生涯を語る上で欠かせない人物…それは、加山雄三である。

加山雄三(本名:池端直亮)は、1937(昭和12)年4月11日、上原謙・小桜葉子という、美男美女の俳優・女優の夫婦の長男として、神奈川県茅ケ崎市に生まれた。

上原謙と言えば、言わずと知れた天下の二枚目俳優であり、加山雄三は、生まれながらの、

「お坊ちゃん」

だった。

 

 

 

 

加山雄三の実家は、茅ヶ崎に建っており、有名な豪邸だったが、

加山雄三の実家に面していた道は、現在、

「雄三通り」

と称されている。

JR茅ヶ崎駅の南口から、真っ直ぐ南に向かい、海に向かっているのが、

「雄三通り」

であるが、この道の西側には、

「高砂通り」

が有り、その更に西側には、

「サザン通り」

と称される道が有る。

そして、

「サザン通り」

を真っ直ぐ南側に進むと、

「サザンビーチ」

に突き当たる。

なお、言うまでもないが、勿論、加山雄三桑田佳祐が、かつて茅ヶ崎に住んでいた頃は、そんな名前は付けられていなかった。

これらの名前は、近年、茅ヶ崎市が、

「街おこし」(?)

のために命名したものである。

 

 

 

さて、加山雄三は、地元・茅ヶ崎で少年時代を過ごし、茅ヶ崎小学校-茅ヶ崎一中に通ったが、この小中学校は後に桑田佳祐も通った。

つまり、加山雄三は桑田佳祐の直系の先輩である。

その後、加山雄三は慶應義塾高校-慶應義塾大学に進学し、

「慶応ボーイ」

となったが、加山は大学時代、

「カントリー・クロップス」

というバンドを結成し、本格的に音楽活動を開始している。

 

 

なお、加山雄三は音楽に天才的な才能を発揮し、幼少期からピアノやギターが抜群に上手く、

13歳の時、加山は早くもピアノで、

『夜空の星』

という、初めてのオリジナル曲を作曲してしまった。

流石は、上原謙・小桜葉子夫妻のDNAを引いているというか、

「芸能一家」

の面目躍如であるが、加山は音楽だけではなく、スポーツも万能だった。

 

 

 

さて、加山雄三は1960(昭和35)年、東宝に入り、映画俳優としてデビューしたが、

1960年、東宝は、加山雄三を主演にした、

「『若大将』シリーズ」

を多数製作し、このシリーズは大人気となった。

加山雄三は、

「カッコ良くて二枚目で、音楽の才能も抜群、スポーツも万能」

…という主人公に扮していたが、

「そんな奴が本当に居るのか!?」

と言われそうな主人公は、まさに加山雄三そのものだったので、何処からもそんなツッコミ(?)は入らなかった。

「『若大将』シリーズ」

は、加山雄三演じる主人公が、星由里子演じるヒロインと恋に落ち、

「青大将」

と称される、田中邦衛とのライバル対決を制し、最後は必ず加山雄三星由里子が結ばれる…という、ワンパターンの筋が延々と続くのだが、観客は、その「お約束」の展開を待っていたので、それで良かったのである。

こうして、

「慶応ボーイ&湘南ボーイのお坊ちゃんのスーパースター」

という系譜は、石原裕次郎から加山雄三に受け継がれたが、裕次郎も加山の事は気に入っており、とても可愛がっていたという。

 

<「パシフック・ホテル」の幻の栄光と、「湘南サウンド」を確立させた加山雄三~『君といつまでも』(1966)が空前の大ヒット>

 

 

さてさて、

「『若大将』シリーズ」

でスーパースターとなった加山雄三であるが、1965(昭和40)年、上原謙・加山雄三の親子は、地元・茅ヶ崎に、

「パシフィック・ホテル」

という、超豪華なホテルを開業した。

この年(1965年)、その「パシフィック・ホテル」のオープニング・セレモニーが盛大に行われ、このセレモニーには、多数の芸能人も招待され、華やかで賑やかなものとなった。

 

 

 

ところで、桑田佳祐の母・昌子は、加山雄三の大ファンだった。

1965(昭和40)年の、

「パシフィック・ホテル」

のオープニング・セレモニーに、桑田の母は、長女・えり子、長男・佳祐という2人の子供達を連れて行ったが、その時、母親は佳祐の事を加山に向かって、突き飛ばした。

その時、加山は佳祐の事を抱き上げ、

「坊や、可愛いねー」

と言ってくれたようだが、桑田の母親は、それを見て感激のあまり(?)嗚咽し、号泣していたという。

そんな桑田の幼少期の思い出に残る、

「パシフィック・ホテル」

も、華やかだったのは最初の頃だけで、徐々に経営が傾き、後に倒産の憂き目に遭った。

そして、後年、サザンオールスターズの、

『夏をあきらめて』『HOTEL PACIFIC』

などの楽曲に、「パシフィック・ホテル」が登場する…というのは、皆様もご存知の通りである。

 

 

さて、音楽の天才・加山雄三は、作曲する際には、團伊玖磨(だん・いくま)山田耕筰(やまだ・こうさく)という、2人の大作曲家の名前から取った、

「弾厚作(だん・こうさく)」

というペンネームを名乗った。

そして、数々の名曲を生み出したが、加山雄三は、自らが作曲した曲を歌う、

「シンガー・ソングライター」

の走りでもあった。

そんな加山雄三が歌う名曲の数々は、

「湘南サウンド」

として定着して行く。

という事で、今回はそんな加山雄三の数ある名曲の中から、1965(昭和40)年にリリースされた、

『君といつまでも』

の歌詞をご紹介させて頂こう。

 

 

『君といつまでも』

作詞:岩谷時子

作曲:弾厚作

唄:加山雄三

 

ふたりを 夕やみが

つつむ この窓辺に

あしたも すばらしい

しあわせが くるだろう

 

君のひとみは 星とかがやき

恋するこの胸は 炎と燃えている

大空そめてゆく 夕陽いろあせても

ふたりの心は 変わらない

いつまでも

 

(セリフ)

「幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ

僕は死ぬまで君を離さないぞ、いいだろ」

 

君はそよかぜに 髪を梳かせて

やさしくこの僕の しとねにしておくれ

今宵も日がくれて 時はさりゆくとも

ふたりの想いは 変わらない

いつまでも

 

 

…という事であるが、

1965(昭和40)年に公開された映画、

『エレキの若大将』

の主題歌だった、

『君といつまでも』

は、爆発的な大ヒットを記録し、加山雄三は『君といつまでも』で「紅白」初出場も果たしている。

そして、昨年(2023年)、サザンオールスターズの、

「茅ヶ崎ライブ」

で、サザンの登場曲として、

『君といつまでも』

が使用されていた…というのは、記憶に新しい。

 

<1966(昭和41)年…加山雄三の弟分・加瀬邦彦を中心に結成された「ザ・ワイルドワンズ」の『想い出の渚』が大ヒット~「湘南サウンド」の系譜に新たな名曲が加わる>

 

 

さて、

「湘南サウンド」

の系譜に連なる名曲の話を、もう一つ。

加山雄三の慶応の後輩で、元々は東京出身だが、慶應義塾高校時代に東京から茅ヶ崎に転居した際に加山雄三と知り合い、加山の「弟分」となっていた、加瀬邦彦という男が居たが、

1966(昭和41)年、その加瀬邦彦を中心に、

「ザ・ワイルドワンズ」

というバンドが結成された。

ちなみに、このバンド名は加山によって命名され、

「野生児」

というような意味である。

 

 

そして、1966(昭和41)年、「ザ・ワイルドワンズ」のデビュー曲としてリリースされたのが、

『想い出の渚』

という曲であるが、

『想い出の渚』

は、本当に素晴らしい名曲中の名曲であり、多くの人達の胸に響き、そして大ヒットを記録した。

という事で、その歌詞をご紹介させて頂こう。

 

 

『想い出の渚』

作詞:鳥塚繁樹

作曲:加瀬邦彦

唄:ザ・ワイルドワンズ

 

君を見つけた この渚に

一人たたずみ 思い出す

小麦色した可愛いほほ

忘れはしない いつまでも

 

水面走る 白い船

長い黒髪 風になびかせ

波に向かって叫んでみても

もう帰らない あの夏の日

 

長いまつげの大きな瞳が

僕を見つめてうるんでた

 

このまま二人で 空の果てまで

飛んで行きたい夜だった

波に向かって叫んでみても

もう帰らない あの夏の日

あの夏の日 あの夏の日

 

 

…という事であるが、

『想い出の渚』

を聴くと、まるで「湘南」の海が目に浮かぶようであり、

何処か郷愁を誘う曲調と相俟って、何度聴いても聴き飽きない、素晴らしい曲である。

「俺なんか、どう逆立ちしたって、こんな凄い曲は作れないよ。加瀬は本当に凄いよ」

加山雄三も、そう絶賛していた。

 

 

…という事で、

1960年代には、加山雄三ザ・ワイルドワンズの大活躍もあり、茅ヶ崎辺りも、

「湘南」

として認知されて行ったが、かつてはただの田舎の海辺だった、

「湘南海岸」

も、夏になると、多くの海水浴の客で、ごった返すようになって行った。

そして、その「湘南」で生まれ育ち、加山雄三をリスペクトしてやまない男…それは勿論、桑田佳祐である。

 

<1975(昭和50)年3月…桑田佳祐、「湘南ロックンロール・センター」を拠点にバンド活動を行なう>

 

 

 

さて、前回までの記事に書いた通り、

1974(昭和49)年、桑田佳祐青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルで、同学年の関口和之らと共にバンドを結成し、音楽活動を行なっていた。

そして、翌1975(昭和50)年2月、桑田佳祐鎌倉学園高校で同級生だった宮治淳一が、一浪の末、早稲田大学に合格したが、桑田と宮治は、昔の誼(よしみ)で、共に音楽活動を行なう事となった。

1975(昭和50)年3月、桑田の地元・茅ヶ崎で、桑田と宮治は、

「湘南ロックンロール・センター」

という組織を結成し、同年(1975年)3月25日、茅ヶ崎青少年会館にて、

「湘南ロックンロール・センター」

の第1回公演が開催された。

この時、複数のバンドが出演しているが、桑田佳祐・宮治淳一らは、

「湘南ロックンロール・ボーイズ」

というバンドを結成し、ステージに立った。

以後、桑田は「湘南ロックンロール・センター」で、定期的にステージに立った。

従って「湘南ロックンロール・センター」は、青山学院大学と並び、当時の桑田にとっては音楽活動の重要な拠点となった。

 

<1975(昭和50)年…桑田佳祐、初のオリジナル曲『茅ヶ崎に背を向けて』を作曲!!>

 

 

さて、1975(昭和50)年、桑田佳祐が大学2年生となった、ある日の事…。

桑田は、遂に初のオリジナル曲、

『茅ヶ崎に背を向けて』

を作った。

以下、桑田の著書、

『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』

での桑田自身の回想に基づき、その経緯を記す。

桑田は、自宅の鏡の前で、ギターをガンガン弾きながら、気分を出して歌っている内に、いつの間にか、曲が出来ていた。

曲が出来た当初は、歌詞などは無く、桑田もデタラメに歌っていたが、その翌日、その曲をバンドで練習してみたところ、これがバンドのメンバー達に大ウケした。

「桑田が曲を作った!!」「しかも英語だ!!」

と、メンバー達は大いに盛り上がった。

そう、当初は歌詞は定まっておらず、桑田はとりあえず、歌詞はコーラスの所だけ決めて、あとはデタラメな英語で歌っていた…。

これが、

『茅ヶ崎に背を向けて』

という曲の原型となったが、その後、サークルの後輩達に、

「桑田さん、凄いっすね!!」「桑田さん、もっと曲を作って下さいよ!!」

などと、おだてられ(※多分、それはお世辞ではなく、本気で褒められていたのだろうが)、それで気分が良くなった桑田は、この後、曲を次々に作り、「多作」になって行った…。

つまり、この曲こそ、桑田佳祐「ミュージシャン」としての才能が開花した「原点」だったのである。

…という事で、桑田の地元・茅ヶ崎をモチーフとして、なおかつ、

「湘南サウンド」

の系譜にも連なる、

『茅ヶ崎に背を向けて』

が、桑田の初のオリジナル曲となった…というのは、まさに象徴的と言えよう。

というわけで、

『茅ヶ崎に背を向けて』

の歌詞を、ご覧頂こう(※後年、サザンがデビューした後、改めてレコーディングされた際の歌詞。ピンクの字の箇所は、後に原由子が歌っている)。

 

 

『茅ヶ崎に背を向けて』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

ほんとうに今まで ありがとう

さびしいね これから先

だって見なれた街 後にするの

 

誰よりも信じているから

いわないで その言葉は

だってあなたのこと わからないわ

 

Oh! Baby 今夜は雨はないだろう

Darlin' Let me see your smile

 

さらば 背を向け 茅ヶ崎

せめないで せつない胸

だって今夜は ホラここで二人

 

Oh! Baby 今夜はこれでいいだろう

Darlin' Won't you see my way.

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

その『いとしのエリー』の「誕生秘話」を、シリーズで書かせて頂いている。

 

 

1974(昭和49)年、桑田佳祐青山学院大学に入学したが、

この年(1974年)、プロ野球の巨人のスーパースター・長嶋茂雄が現役引退した。

そして、この「長嶋引退」を、桑田はある感慨を持って、見守っていた…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第2話」、

『栄光の男』

をご覧頂こう。

 

<桑田佳祐・原由子の幼少期~長嶋茂雄(立教大学)、王貞治(早稲田実業)が学生野球で大活躍>

 

 

桑田佳祐(くわた・けいすけ)は1956(昭和31)年2月26日、神奈川県茅ケ崎市に生まれ、

原由子(はら・ゆうこ)は1956(昭和31)年12月11日、神奈川県横浜市に生まれた。

これまで述べて来た通り、桑田と原は、学年で言うと1つ違いであり、桑田が原よりも、学年は1つ上である。

そして、桑田と原の幼少期、野球界で大活躍していたのが、長嶋茂雄王貞治だった。

しかも、長嶋と王は、プロ野球に入る前…学生野球の頃から大活躍していた。

 

 

 

長嶋茂雄は1936(昭和11)年2月20日、千葉県佐倉市に生まれ、

王貞治は1940(昭和15)年5月20日、東京都に生まれている。

長嶋と王は、年齢は4つ違いだが、2人とも、学生野球の頃から大活躍していた。

長嶋茂雄は佐倉一高では甲子園に出場する事は叶わなかったが、長嶋は東京六大学野球の立教大学に進学し、長嶋は立教時代、六大学野球のスーパースターとして大活躍した。

1957(昭和32)年秋、長嶋は立教の最終学年(4年生)の最後の試合で、

「東京六大学新記録の通算8号ホームラン」

をかっ飛ばし、超満員の神宮球場の観客を熱狂させた。

一方、王貞治は、この年(1957年)早稲田実業の2年生だったが、同年(1957年)春のセンバツ高校野球で、王は早実のエースとして、早実を初優勝に導き、東京の野球ファンを大喜びさせた。

つまり、桑田佳祐原由子が1歳の頃、長嶋茂雄王貞治は、

「学生野球界のスーパースター」

として、既に大活躍していた。

 

<1958(昭和33)年…長嶋茂雄が巨人に入団し、プロ1年目から大活躍>

 

 

1957(昭和32)年秋、東京六大学野球の立教のスーパースター・長嶋茂雄を巡り、プロ野球の全球団が、凄まじい争奪戦を繰り広げたが、結局、長嶋を獲得したのは巨人だった。

そして、長嶋は巨人に入団し、長嶋は新人ながら、

「背番号『3』」

を背負っている。

それだけ、巨人の長嶋への期待は大きかった。

 

 

こうして、鳴り物入りで巨人に入団した長嶋茂雄であるが、

1958(昭和33)年4月4日、長嶋は後楽園球場で行われた、

「巨人VS国鉄」

の開幕戦で、

「3番・三塁手」

として、スタメン出場し、デビューしたものの、

「ついこの間まで、学生だった選手に打たれるわけにはいかない」

と、燃えに燃えていた、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の大エース・金田正一が、長嶋の前に立ちはだかり、長嶋は金田の前に、

「4打席4三振」

に斬って取られるという、屈辱のデビュー戦となってしまった。

 

 

こうして、デビュー早々、プロ野球の厳しさを嫌というほど、味わってしまった長嶋であるが、

長嶋は、デビュー戦の屈辱を晴らすべく、その後は大活躍し、

この年(1958年)、長嶋茂雄は、

「打率.305 29本塁打 92打点 37盗塁」

と、新人ながら、いきなり本塁打王と打点王を獲得、打率もリーグ2位を記録し、

「ゴールデン・ボーイ」

の名に違わず、期待どおりの大活躍を見せた。

そして、何よりも重要なのは、長嶋の大活躍により、当時、人気絶頂だった東京六大学野球のファンが、ごっそりプロ野球のファンに移ってしまった…という事である。

それだけ、当時の長嶋の人気は凄まじかった。

 

<1959(昭和34)年…王貞治が巨人に入団~プロ2年目の長嶋茂雄、「天覧試合」で劇的なサヨナラホームランを放つ>

 

 

 

前述の通り、1958(昭和33)年、長嶋茂雄はプロ1年目から大活躍したが、

この年(1958年)、早実の3年生だった王貞治は、残念ながら最後の夏の甲子園出場は逃してしまった。

その後、王貞治を巡って、またしてもプロ野球の全球団で激しい争奪戦が繰り広げられているが、

そんな中、同年(1958年)9月1日、長嶋茂雄王貞治は、歴史的な「初対面」を果たしている。

そして、争奪戦の末に、長嶋に続いて巨人が王も射止め、王は巨人に入団する事となった。

巨人に入団した王貞治は、

「背番号『1』」

を背負ったが、巨人は長嶋に続くスター候補生として、王に期待していた。

 

 

こうして、巨人に入団した王であるが、翌1959(昭和34)年、プロ1年目のキャンプで、王は長嶋と「同室」になった。

しかし、王は結構呑気というか、朝はいつまでもグーグー寝ており、

「おい、いつまで寝てるんだ!!早く起きろ!!」

と、毎朝いつも先輩の長嶋が王の事を起こしていたという。

世間一般では、

「長嶋は天真爛漫、王は生真面目」

といったイメージがあるが、実はこういう一面も有った。

 

 

さて、1959(昭和34)年、プロ2年目を迎えても、長嶋は引き続き大活躍したが、

1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇・香淳皇后夫妻が、初めて、プロ野球の公式戦である、

「巨人VS阪神」

を観戦するという、

「天覧試合」

が、後楽園球場で行われたが、この試合で、長嶋茂雄は、後に終生のライバルとなる、阪神タイガースの新人投手・村山実から、

「天覧試合サヨナラホームラン」

を放った。

あまりにも劇的な、

「長嶋の天覧ホームラン」

であるが、この試合で、長嶋の名声は決定的となり、以後、長嶋はプロ野球界ナンバーワンのスーパースターとしての道を歩んで行く事となった。

この年(1959年)長嶋は、

「打率.334 27本塁打 82打点」

で、初の首位打者を獲得し、プロ2年間で、長嶋は早くも本塁打王、打点王、首位打者…という、打撃の主要タイトルを全て獲ってしまった。

 

 

一方、プロ入りを機に、投手から打者に転向した王貞治であるが、

この年(1959年)、巨人入団1年目の王は、開幕戦で、国鉄スワローズの大エース・金田正一の前に手も足も出ず、

「3打数2三振」

に斬って取られてしまい、前年(1958年)の長嶋に続き、金田にプロの厳しさを嫌と言うほど味わわされ、ほろ苦いデビューとなった。

そして、この年(1959年)王は、

「打率.161 7本塁打 25打点」

という、全くの不振に終わってしまった。

しかし、前述の「天覧試合」では、王は起死回生の同点2ラン本塁打を放ち、それが長嶋のサヨナラ本塁打にも繋がり、

「ON(王・長嶋)のアベック本塁打の第1号」

も記録している。

なお、後に、

「ON(王・長嶋)のアベック本塁打」

は、

「通算106回」

も記録される事となった。

 

<1960(昭和35)~1962(昭和37)年…スーパースターとして君臨し続ける長嶋と、苦戦の末に荒川博コーチとの「二人三脚」で「一本足打法」を編み出し、ようやく開花した王貞治~ピアノを習い始めた原由子と、「ガキ大将」となった桑田佳祐>

 

 

さて、長嶋茂雄は順調にスーパースターとしての大活躍を続けて行った。

1960(昭和35)~1961(昭和36)年の長嶋茂雄の打撃成績は、下記の通りである。

 

・1960(昭和35)年…「打率.334 16本塁打 64打点」★首位打者(2年連続2度目)

・1961(昭和36)年…「打率.353 28本塁打 86打点」★首位打者(3年連続3度目)★本塁打王(3年振り2度目)★MVP(初)

 

…という事であるが、長嶋は1958(昭和33)年の巨人入団以来、毎年、何らかの打撃タイトルを獲得し、

巨人の不動の4番打者として大活躍していた。

1961(昭和36)年、川上哲治監督の就任1年目、長嶋は首位打者と本塁打王を獲得する大活躍で、川上巨人の初の「日本一」に大きく貢献し、初のMVPも獲得している。

 

 

一方の王貞治は、長嶋とは対照的に、伸び悩んでいた。

1960(昭和35)~1961(昭和36)年の王貞治の打撃成績は、下記の通りである。

 

・1960(昭和35)年…「打率.270 17本塁打 71打点 101三振」

・1961(昭和36)年…「打率.253 13本塁打 53打点 72三振」

 

…という事で、王の成績は別に悪くもないが、突出して良くもない。

それに、当時の王はとにかく三振の数が多く、打席に入る度に、

「王、王、三振王」

などと、観客から野次られていた。

それに、王の打撃は安定せず、王は年々、自信を失って行った。

 

 

 

当時の王には、致命的な欠陥が有った。

それは何かと言えば、

「王は速球に弱く、速球に振り遅れてしまう」

という事である。

その王の致命的な欠陥に気付いたのが、1962(昭和37)年に巨人の打撃コーチに就任した、荒川博だった。

荒川博は、川上哲治監督から、

「王を一人前にしてやって欲しい」

と頼まれた。

そこで、荒川は王を付きっ切りで指導したが、荒川は王に対し、

「速球に振り遅れるなら、最初から右足を上げて投球を待つようにしよう」

とアドバイスした。

こうして、王と荒川コーチは、二人三脚で、連日連夜、血の滲むような猛特訓を繰り返し、遂に王貞治は、

「一本足打法」

を編み出す事となった。

 

 

この年(1962年)王貞治は、シーズン途中から、

「一本足打法」

で試合に臨むようになると、以後、王の打棒は爆発し、同年(1962年)王貞治は、

「打率.272 38本塁打 85打点」

で、遂に初の本塁打王、打点王のタイトルを獲得した。

こうして、王はプロ入団4年目にして、打撃の才能が開花し、

「世界の王」

としての道を歩み始めた。

 

 

一方、長嶋茂雄は、この年(1962年)はプロ入団以来、初めて打撃不振に苦しみ、

「長嶋、5年目のスランプ」

と言われてしまったが、この年(1962年)の長嶋は、

「打率.288 25本塁打 80打点」

と、プロ5年目にして初めて打率3割を割ってしまい、打撃タイトルも「無冠」に終わっている。

スーパースター・長嶋の初めての挫折だったが、長嶋は捲土重来を期す事となった。

 

 

 

という事で、長嶋と王が、巨人の選手として活躍していた頃、幼少期を過ごしていた桑田佳祐原由子であるが、

桑田は、幼稚園に入る時、

「幼稚園になんか行きたくない!!」

と、ぐずってしまい、母親を困らせていたが、渋々、幼稚園に入った後は、何故か桑田はあっという間に、

「ガキ大将」

になってしまったという。

こうして、桑田佳祐は早くも「人気者」としての道を歩み始めた。

一方、幼少期は、物凄く「お転婆」だった原由子は、幼稚園の時に、

「ピアノ」

という楽器に出逢った。

そして、原由子はピアノを弾いている時だけは大人しかった…という事で、原由子の両親は彼女に本格的にピアノを習わせるようになった。

こうして、期せずして原由子は「音楽の道」を歩み始める事となった。

 

<1963(昭和38)年~「ON砲」が並び立ち、「巨人V9時代」(1965~1973年)のスーパースターとして大活躍~桑田佳祐は「野球少年」として「ON砲」に憧れを抱く~しかし、その後は「音楽」と「ボーリング」に夢中になった桑田佳祐>

 

 

1963(昭和38)年、長嶋茂雄の打棒が復活し、

王貞治長嶋茂雄は、初めて揃って大活躍し、遂に王と長嶋による、

「ON砲」

が完成した。

という事で、この年(1963年)の長嶋と王の打撃成績は、下記の通りである。

 

・長嶋茂雄「打率.341 37本塁打 112打点」★首位打者(2年振り4度目)★打点王(5年振り2度目)★MVP(2年振り2度目)

・王貞治「打率.305 40本塁打 105打点」★本塁打王(2年連続2度目)

 

 

 

 

…という事であるが、

以後、長嶋茂雄王貞治は、毎年、何らかの打撃タイトルを獲り続けた。

そして、その間、川上哲治監督率いる巨人は、

「V9(9年連続日本一)」(1965~1973年)

という、空前絶後の黄金時代を築き上げた。

勿論、「V9時代」の巨人を引っ張ったのは、

「ON砲」

である。

 

 

 

さて、現在もプロ野球は人気スポーツであるが、

1960~1970年代にかけて、

「高度経済成長」

の時代を迎えていた戦後日本にとって、プロ野球は、今とは比較にならないぐらいの、超人気スポーツだった。

何故かと言えば、連日、テレビのゴールデンタイムで、巨人戦がテレビ中継され、全国放送されていたからである。

そのため、巨人と「ON砲」は、テレビ放送を通して、日本国民の圧倒的な人気を得ていた。

つまり、巨人と「ON砲」は、「高度経済成長」の時代の日本の象徴のような存在でもあった。

そして、当時の子供達が皆そうであったように、この時代、桑田佳祐少年も野球に夢中になり、

「野球少年」

として過ごしており、桑田は「ON砲」に憧れを抱いていた。

なお、「余談」だが、桑田は「ON砲」は好きだが、巨人は好きではなく、

「アンチ巨人」

だったという。

 

 

1968(昭和43)年、桑田佳祐は地元・茅ヶ崎一中に進学したが、

桑田は、その茅ヶ崎一中の1年生の頃、後にサザンオールスターズが、

「茅ヶ崎ライブ」

を行なう事となる、茅ヶ崎公園野球場で行われた、中学野球の新人戦で、桑田はエースとして茅ヶ崎一中を新人戦優勝に導いた。

だが、この頃が桑田にとっての「野球熱」のピークであり、以後、桑田の興味の対象は、他の分野に移って行った。

 

 

桑田佳祐は、中学生~高校生の頃、

「音楽」

に目覚め、「音楽」に夢中になると同時に、

当時、大ブームとなっていた、

「ボーリング」

にも夢中になって行った。

そして、中高生の頃の桑田は、「音楽」と「ボーリング」に明け暮れる青春時代を過ごして行く事となった。

高校(鎌倉学園高校)時代、桑田は姉・えり子の影響で、

「ビートルズ」

にハマり、その後はエリック・クラプトンを好きになった…というのは、前回の記事で書いた通りである。

 

<1973(昭和48)年…巨人は「V9」を達成するも、長嶋茂雄は川上哲治監督から「引退勧告」を受ける…その時、長嶋は…?>

 

 

1973(昭和48)年、川上哲治監督率いる巨人は、遂に、

「V9(9年連続日本一)」

を達成した。

この年(1973年)王貞治は、初の「三冠王」を獲得するなど、まさに全盛期を迎えていた。

しかし、この年(1973年)プロ16年目のシーズンを送った長嶋茂雄は、次第に衰えが隠せなくなっていた。

そして、この年(1973年)のシーズン終了後、ある料亭で、川上監督は長嶋に対し、

「お前(※長嶋)はもう限界だ。お前は今年(1973年)限りで引退しろ。そして、来年(1974年)からは巨人の監督をやれ」

と、自らの巨人監督退任を示唆すると同時に、

「長嶋への引退勧告」

を行なった。

だが、この時、長嶋は川上監督に対し土下座し、

「私は、まだ燃え尽きておりません。もう1年、選手をやらせて下さい!!」

と、必死に頼み込んだ。

当初、川上監督は、長嶋の頼みを跳ね除けたが、最後は長嶋の必死の頼みを受け入れた。

こうして、翌1974(昭和49)年、長嶋茂雄はプロ17年目のシーズンを迎える事となった。

 

<1974(昭和49)年…桑田佳祐、青山学院大学に入学~桑田は「AFT」という音楽サークルに入部>

 

 

 

 

 

1974(昭和49)年4月、桑田佳祐青山学院大学に入学した。

この時、桑田の「同学年」として、新潟県出身の関口和之も、青山学院に入学している。

桑田と関口は、当時、青山学院に有った、

「AFT」

という音楽サークルに入り、桑田と関口は、新入生同士として、そこで出逢った。

だが、桑田は、

「AFT」

とは、何の略称なのかがわからず、先輩に聞いてみたところ、

「A(青山)・F(フォーク)・T(出発(たびだち))」

の略称である…と言われ、

「ええっ!?た、旅立ちって…」

と、驚いてしまった。

なお、この時、桑田を「AFT」に勧誘した、美人の女子の先輩は、既にサークル内で彼氏が居る事が判明するなど、

このサークル内には、既に何組ものカップルが居たという。

「女の子にモテたいから」

という動機(?)で、青山学院に入り、音楽活動をしようとしていた桑田としては、

「あれれ…?」

といった心境であった(?)。

 

<1974(昭和49)年…プロ17年目の長嶋茂雄、遂に「現役引退」を表明>

 

 

さて、桑田佳祐青山学院大学に入学した年…1974(昭和49)年、長嶋茂雄は、

「復活」

を期して、もう一度、身体を徹底的に鍛え直し、シーズンに臨んだ。

そして、シーズン当初こそ、長嶋は打撃好調を維持していたものの、やはり長嶋の身体は限界に来ていた。

この年(1974年)、長嶋は、

「打率.244 15本塁打 55打点」

という成績に終わってしまう。

そして、この年(1974年)の巨人は、中日ドラゴンズと激しい優勝争いを繰り広げたものの、遂に中日ドラゴンズの20年振りの優勝を許してしまい、巨人は「V10」を逃した。

長嶋は遂に、自らの限界を悟り、

「現役引退」

を決意した。

「長嶋引退」

のニュースは、日本全国に衝撃を与えたが、それは一つの時代の終わりを意味していたからである。

 

<1974(昭和49)年10月14日…「長嶋の引退試合」をテレビで見ていた桑田佳祐青年は…?>

 

 

さて、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐は、関口和之らと共に、

「温泉あんまももひきバンド」

なる、珍妙な名前のバンドを組み、音楽活動を本格的に開始していた。

だが、桑田の大学生活は、本人の思惑とは違っていた。

当時の桑田は、あまり女の子にもモテず、桑田は鬱々とした日々を送っていたという。

「こんな筈じゃなかった…」

それが、当時の桑田の偽らざる心境だった。

 

 

ちょうど、その頃の事である。

1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場の、

「巨人VS中日」

の試合が行われ、この試合は、

「長嶋茂雄の引退試合」

として行われていた。

その長嶋の引退試合の模様が、テレビ中継されており、当時、鬱々とした日々を送っていた、青山学院の1年生・桑田佳祐は、その長嶋引退試合のテレビ中継を、ソバ屋のテレビで見ていた。

「私は今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!!」

試合後の引退セレモニーで、カクテル光線に照らされた長嶋は、あまりにも有名な「名言」を吐いていた。

「長嶋さん、やっぱり最後まで光り輝いていて、カッコいいなあ…。それに引き換え、俺の学生生活はパッとしないなあ…」

桑田は、かつて憧れていた長嶋の姿を見て、そんな事を思っていたという。

あまりにも光り輝く存在であるスーパースターの姿を見て、あまり冴えない我が身と比べて、ついつい落ち込んでしまう…そんな経験をされた方も多いかもしれないが、この時の桑田は、まさにそんな心境であった。

 

<2014(平成26)年…「長嶋引退」の頃の桑田佳祐の心象風景が、サザンオールスターズ『栄光の男』として結実>

 

 

「栄光の背番号『3』・長嶋茂雄の引退」

は、桑田佳祐の心に、あまりにも大きなインパクトを残した。

そして、この時の事は、桑田の心にずっと残っていたが、

それから40年あまり経った時…2014(平成26)年、桑田佳祐は、サザンオールスターズの楽曲として、

「長嶋引退」

をモチーフとした、ある曲を作った。

 

 

2014(平成26)年、サザンオールスターズは、

『東京VICTORY』

という曲をリリースしたが、そのカップリング曲だったのが、

『栄光の男』

という曲である。

『栄光の男』

は、前述の通り、

「長嶋引退」

の時の桑田佳祐の心象風景がモチーフになっているが、桑田は、この曲を通して、

「人は、誰もが光り輝くスーパースターになれるわけではないし、人生は辛い事の方が多いかもしれない。それでも、人生は捨てたもんじゃないし、頑張って生きて行こう」

というメッセージを込めているように思われる。

かつて、長嶋茂雄というスーパースターと、一介の学生である、冴えない我が身を比べて、落ち込んでいた桑田佳祐であるが、そういう「コンプレックス」をバネにして、桑田はミュージシャンとして大成した。

なので、私は『栄光の男』を聴く度に、

「色々有るけど、それでも前向きに行こう!!」

という事を教えてくれるような気がしているのである。

…という事で、そんな桑田の思いが込められた、

『栄光の男』

の歌詞をご紹介させて頂こう。

 

 

 

『栄光の男』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

ハンカチを振り振り
あの人が引退(さ)るのを
立ち喰いそば屋の
テレビが映してた


シラけた人生で
生まれて初めて
割箸を持つ手が震えてた

 

「永遠に不滅」と
彼は叫んだけど
信じたモノはみんな
メッキが剥がれてく

 

I will never cry.
この世に何を求めて生きている?
叶わない夢など
追いかけるほど野暮じゃない

 

悲しくて泣いたら
幸せが逃げて去っちまう
ひとり寂しい夜
涙こらえてネンネしな

 

ビルは天にそびえ
線路は地下を巡り
現代(いま)この時代(とき)こそ
「未来」と呼ぶのだろう


季節の流れに
俺は立ち眩み
浮かれたあの頃を思い出す

 

もう一度あの日に
帰りたいあの娘(こ)の
若草が萌えてる

艶(いろ)づいた水辺よ

 

生まれ変わってみても

栄光の男にゃなれない
鬼が行き交う世間
渡り切るのが精一杯

 

老いてゆく肉体(からだ)は
愛も知らずに満足かい?
喜びを誰かと
分かち合うのが人生さ

 

優しさをありがとう
キミに惚れちゃったよ
立場があるから
口に出せないけど
居酒屋の小部屋で
酔ったフリしてさ
足が触れたのは故意(わざ)とだよ

 

満月が都会の
ビルの谷間から
「このオッチョコチョイ」と
俺を睨んでいた

 

I will never cry.
この世は弱い者には冷たいね
終わりなき旅路よ
明日天気にしておくれ

 

恋人に出逢えたら
陽の当たる場所へ連れ出そう
命預けるように
可愛いあの娘とネンネしな

 

(つづく)

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザンを代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、実は桑田佳祐原由子のために書いた曲である。

 

 

私は、今までこのブログで、

『いとしのエリー』

「誕生秘話」について、何度も書いて来たが、

この度、『いとしのエリー』誕生秘話の「決定版」を、改めて書いてみる事としたい。

『いとしのエリー』

という、サザン史を代表する名曲が、如何にして誕生したのか…そこには、物凄いドラマが有った。

それでは、まずはその「第1話」をご覧頂こう。

 

<1972(昭和47)年…当時、高校2年生の桑田佳祐青年、エリック・クラプトンの音楽と出逢う>

 

 

1972(昭和47)年の、ある日の事である。

当時、NHKで、

「ヤング・ミュージック・ショー」

という音楽番組が放送されていた。

当時の日本では、「洋楽」を紹介する音楽番組など、殆んど無かったが、

「ヤング・ミュージック・ショー」

は、日本人向けに「洋楽」を紹介してくれる、貴重な音楽番組の一つだった。

そして、1972(昭和47)年、この番組で、あるミュージシャンの事が紹介されていた。

 

 

そのミュージシャンとは、エリック・クラプトンである。

エリック・クラプトンは、1960年代に、

「クリーム」

というバンドに在籍し、このバンドでギタリストだったが、

「ヤング・ミュージック・ショー」

で、その「クリーム」の映像が紹介されていたのである。

当時、「クリーム」は既に解散していたが、「クリーム」時代のエリック・クラプトンの「動く映像」というのは、大変貴重だった。

 

 

 

そして、この時に放送された、

「ヤング・ミュージック・ショー」

で、「クリーム」のギタリストだった、エリック・クランプトンのインタビューも放送されていた。

この時、そのエリック・クラプトンの映像を見て、

「何て、カッコいい人なんだ!!」

と、シビれまくっていた、一人の青年が居た。

その青年こそ、当時、鎌倉学園高校2年生に在学中だった、桑田佳祐青年である。

 

 

桑田佳祐(くわた・けいすけ)は、1956(昭和31)年2月26日生まれであり、

当時16歳で、学年は「高校2年生」だったが、

桑田は当時、姉・えり子の影響で、2年前(1970年)に解散してしまった、

「ザ・ビートルズ」

にハマり、桑田は「ビートルズ」に心酔し、「洋楽」に目覚めていた。

そして、桑田は見よう見真似でギターなどを弾き始め、音楽活動を開始していたが、

そんな風に「音楽漬け」の毎日を過ごしていた桑田佳祐青年が、新たに出逢ったのが、前述のエリック・クラプトンの音楽だった。

エリック・クラプトンは、後に、

「ギターの神様」

と称されるほど、天才的なギターの腕前を持った人だった。

だが、その後、桑田はエリック・クラプトンに関する音楽雑誌の記事などを、貪るように読み漁ったが、その記事を通して、このエリック・クラプトンなる人は、

「あれほどハンサムなギターの神様でも、アル中、ヤク中の過去があり、女にもだらしがなく、非嫡出子としてのコンプレックスもあり、心の傷が沢山有る人なんだな…」

という事を知った。

エリック・クラプトンの音楽は、ジャンルで言えば、

「ブルース」

という物のようだったが、この時、桑田は、

「『ブルース』という物は、心に悲しみを持った人が奏でるからこそ、聴く人の心を打つ」

…という事を、彼なりに解釈したという。

そして、エリック・クラプトンの音楽との「出逢い」が、桑田の音楽人生を大きく左右して行く事となるのである。

 

<1974(昭和49)年4月…桑田佳祐、青山学院大学に入学>

 

 

さて、1973(昭和48)年、高校3年生になっていた桑田佳祐は、そろそろ進学先を決めなければならない時期になっていた。

桑田は、東京都内の大学のパンフレットを集め、その中から、

「青山学院大学」

に行きたいと思うようになっていた。

桑田曰く、その理由は、下記の通りである。

「青学は、お洒落な大学で、音楽サークルも沢山有り、音楽が盛んだった。それに、可愛い女の子も沢山居る大学らしかった。だから、青学に行って、音楽をやりたい。そして、あわよくば女の子にもモテたい…」

桑田は、そういう「動機」で、青山学院大学への進学を希望するようになった。

だが、桑田は「音楽」に夢中であり、「学業」はそれほど熱心ではなかった。

しかし、それでも桑田は「国語」と「英語」が天才的に成績が良かった。

「この俺が受かりそうな大学は、3教科(国語・英語・社会)で受験出来る私立大学だろう。そして、偏差値もそんなに高くない所だろう…」

桑田は、そう思い、当時、青山学院大学で、一番偏差値が低かった経済学部に狙いを定めた。

そして、桑田の「戦略」は見事に当たり、桑田青山学院大学の経済学部の入試に合格した。

こうして、1974(昭和49)年4月、桑田佳祐青山学院大学経営学部に入学した。

「受験は戦略が大切」

…桑田は、まさに受験を「戦略」で乗り切り、希望どおり、青山学院に入る事が出来たのであった。

 

<1972(昭和47)年…当時、フェリス女学院高校2年生の原由子、エルトン・ジョン好きの同級生とユニットを組み、音楽活動を行なう>

 

 

一方、その頃…。

1956(昭和31)年12月11日生まれ、学年で言うと、桑田佳祐よりも一つ下だった原由子(はら・ゆうこ)は、フェリス女学院高校に在学していた。

原由子は、横浜・関内の「天ぷら屋」の娘だったが、原由子は幼い頃からピアノを習い、音楽に天才的な才能を発揮していた。

原由子は、当初、専ら「クラシック」の音楽を学んでいたが、10代の中高生の頃から、兄・成男(しげお)の影響でロックやポップスも聴くようになっていた。

そして、原由子は、その頃、ピアノだけではなく、ギターも弾くようになっており、原由子は、ピアノやギターでロックやポップスの曲を弾いては、「音楽」を楽しんでいた。

「やっぱり、音楽って、良いなあ…」

その頃、桑田と同様、原由子も「音楽」に夢中だった。

 

 

ところで、先程、原由子フェリス女学院高校に在学していたと書いたが、

実はそれまで、原由子はフェリスの「受験」に3度も失敗していた。

1度目は、フェリス女学院中等部の受験、2度目は中等部の「補欠」試験の時、そして、3度目は高等部の入学試験…。

原由子の母親は、フェリスの出身であり、娘にもフェリスに通ってもらいたかったようだが、原由子は悉く受験に失敗していた。

そして、受験に失敗する度、原由子は母親と2人で映画を見に行ったが、2人とも真っ暗な気持ちであり、何も頭には入って来なかったという。

「どうやら、私はフェリスには縁が無いのかな…」

原由子もそう思っており、フェリス女学院高校の受験に失敗した後、地元の公立高校に合格し、原由子はその高校に行くつもりになっていた。

しかし、その後、思いがけない事が起こる。

何と、フェリス女学院高校に入学辞退者が出て、「補欠」だった原由子は、一転してフェリスに「合格」してしまった。

「由子、貴方、フェリスに行けるのよ!!」

フェリス出身だった母親は、とても嬉しそうだった。

だが、それまで3度も「屈辱」を味わっていた原由子は、

「私は嫌だ!!フェリスには絶対に行かない!!地元の高校に行く!!」

と言って、頑強に母親に抵抗した。

しかし、今まさに、愛娘が自分と同じフェリスに入れる…という夢が叶おうとしている母親は、

「由子、そんな事を言わないで、ね!!フェリスって、本当に良い学校なのよ…」

と、必死に原由子を説得しようとしていた。

だが、反抗期真っ盛りだった原由子は、なおも頑強に抵抗し続けたが、その内、同じくフェリス出身だった叔母達まで家にやって来て、かわるがわる説得されるに及び、

「そろそろ、折れても良いかな…」

と思い、フェリスへの入学を受け入れたという。

 

 

そんな経緯も有り、フェリス女学院高校に入った原由子であるが、

「結局は、母親の言いなりになってしまった…」

という思いもあり、母親との関係は悪化し、母親とは殆んど口も利かなくなってしまったという。

そして、高校に入ってから暫くの間は、彼女は友達も出来ず、独り寂しく過ごしていた(※同級生は皆、優しい子達だったが、原由子が自ら壁を作っていたという)。

しかし、そんなある日の事。

「原さん、一緒にお弁当食べない?」

と言って、原由子に声をかけてくれた子が居た。

それが、原由子の同級生で、

「モリ」

という子だった。

「モリ」

は音楽好きの子であり、忽ち、原由子と意気投合したが、原由子と「モリ」は、

「一緒に音楽をやろう!!」

という事を決め、2人でユニットを組んだ。

「モリ」はギターは未経験だったが、バイオリンを習っていた事もあって、ギターもすぐに覚えた。

「私達、バンド名を決めようか?」

彼女達は、そう話したが、当時の彼女達は「もっさり」していたので、

「クリームソーダ」「シャンプー」

…というような、いかにも女の子っぽい名前のバンド名を考えたものの、それはどうにも似合わなかった。

 

 

「もっと『男らしい』、カッコいいバンド名は無いものか…」

そう考えていた時、原由子は、ふと、

「ジェロニモ」

というバンド名を思い付いた。

「ねえ、『ジェロニモ』っていう名前はどうかな?」

原由子が提案すると、「モリ」も、

「それ、良いね!!」

と言って、気に入ってくれた。

「『ジェロニモ』って、いかにもごっつくて、良いじゃん!!」

こうして、原由子と「モリ」は、

「ジェロニモ」

というユニット名で、音楽活動を本格化させて行ったが、その頃から、原由子と母親の関係も、徐々に改善して行った。

「『ジェロニモ』を始めてから、すっかり明るくなって…」

原由子の母親は、「モリ」のお母さんに、そんな事を言っていたという。

原由子と彼女の母親にとっても、まさに「ジェロニモ」は救世主だった。

「私は、本当に音楽に救われた」

と、後に原由子は語っている。

 

 

なお、原由子と「モリ」は、当初、あまり音楽の趣味は合わなかったが、

「モリ」エルトン・ジョンの大ファンであり、1972(昭和47)年のエルトン・ジョンの「来日公演」を見に行くほどだったという。

原由子も、エルトン・ジョンは大好きだった。

こうして、原由子と「モリ」は、

「エルトン・ジョン好き」

という共通点が有ったため、より一層、親密になり、

「ジェロニモ」

のレパートリーには、勿論、エルトン・ジョンの曲も加えて行った。

やはり、「音楽」の趣味が合うと、相手とは意気投合しやすいものである。

 

<1974(昭和49)年…当時、高校3年生の原由子、エリック・クラプトンの音楽と出逢い、エリック・クラプトンに「恋」をする…>

 

 

さて、1960年代後半、フジテレビで、大橋巨泉が司会の、

「ビートポップス」

という音楽番組が放送されていたが、この番組も、NHKの、

「ヤング・ミュージック・ショー」

と同様、「洋楽」を紹介する音楽番組だったが、当時、「洋楽」が好きになっていた原由子も、

「ビートポップス」

は、好んで見ていた。

 

 

そして、

「ビートポップス」

で、「クリーム」の映像が放送された事が有り、その時、原由子は「クリーム」のギタリストだったエリック・クラプトンを見て、子供心に、

「サイケでカッコイイお兄さんだなあ…」

と、思っていたという。

これは、やはりテレビの音楽番組を見て、エリック・クラプトンに「憧れ」を抱いた桑田佳祐と同じキッカケだった。

 

 

 

そして、1974(昭和49)年のある日の事である。

前述の通り、この年(1974年)は桑田佳祐青山学院大学に入った年であるが、

桑田よりも学年が一つ下だった原由子は、フェリス女学院高校の3年生だった。

そして、その頃、原由子は、当時、

「ブラインド・フェイス」

というバンドで活動していた、エリック・クラプトンのジャケット写真を見て、彼に「一目惚れ」をしてしまった。

「ゆるくウェーブのかかったロング・ヘアに神経質そうで影のある瞳…それが、エリック・クラプトンとの出逢いだった」

と、後に原由子は語っている。

前述の通り、「クリーム」時代から、原由子はエリック・クラプトンの事は知っていたが、

「私は、今度は完全にクラプトンに恋をしてしまった」

という。

「クラプトンのギターは、好きな人に気持ちも伝えられない、私のせつない気持ちを代弁してくれるかのようだった。『きっと、この人も恋をして、辛い事がたくさん有ったんだ』…そう思い込んで、勝手に共感してしまった」

原由子は、後にそう語っているが、これは、桑田佳祐が感じていた事と同じである。

エリック・クラプトンという人は、それまでの人生で色々と辛い事が有り、それを「音楽」という手段で表現していた…。

だからこそ、それが10代だった桑田佳祐原由子の胸を打った…という事である。

そして、この年(1974年)…エリック・クラプトンは遂に「来日公演」を行なう事となるのである。

 

<1974(昭和49)年10月~11月…エリック・クラプトン、初の「来日公演」~桑田佳祐と原由子、歴史的な「ニアミス」>

 

 

「『神様』エリック・クラプトン、遂に来日!!」

そのニュースは、日本の音楽ファンにも瞬く間に知れ渡り、

「ミュージック・ライフ」

などの音楽雑誌も、こぞって、「神様」エリック・クラプトンの「来日公演」の大特集を組んでいた。

そして、

「ミュージック・ライフ」

の特集では、エリック・クラプトンは全て、

「神様」

という呼称で統一されていた…というのだから、その崇めっぷりは凄まじい。

それだけ、当時のエリック・クラプトンは、日本の音楽ファンにとっても、特別な存在だった…という事であろう。

 

 

 

 

「エリック・クラプトンが日本に来た!!これは是非とも見に行かなければ…」

当時、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐は、なけなしのお金をはたいて、

1974(昭和49)年10月31日、日本武道館で行われた、エリック・クラプトンの「来日公演」を見に行った。

しかし…。

どうにも、この日(1974/10/31)のエリック・クラプトンは、どうも調子が悪かったようである。

その時のエリックのライブについて、後に桑田佳祐は、

「どうも、1曲目から声が小さくて(汗)。しかも、『神様』は、のっけから酔っ払っている様子で、目はうつろ。観客を楽しませようという気概もあまり感じられず、たまにギターのミス・トーンはするは、皆が期待していた『ブルース』も殆んどやらない…」

…といった様子だったと語っている。

おまけに、皆が聴きた違っていた、エリック・クラプトンの大ヒット曲、

『いとしのレイラ』

も、歌ってくれなかったという…。

という事で、桑田が見に行った時は、

「あれれ?」

といった、残念なライブになってしまったようである。

しかし、兎にも角にも、桑田は初めてエリック・クラプトンを目の当たりにした。

 

 

一方、原由子は…。

桑田が初めてエリック・クラプトンの「来日公演」を見た翌日、

1974(昭和49)年11月1日、当時、フェリス女学院高校3年生だった原由子は、従姉妹と共に、日本武道館にエリック・クラプトンの「来日公演」第2夜を見に行った。

朝から、エリック・クラプトンのアルバムを聴き、テンション上がりまくりだった原由子であるが、会場の日本武道館に着いた時、彼女は極度の興奮状態だった。

そして、午後7時ジャスト、遂にエリック・クラプトンは日本武道館のステージに姿を現した。

この時、原由子と従姉妹は、写真で見るよりも、ずっとカッコ良かったクラプトンの姿を見て、

「来て良かったよー!!」

と、感激のあまり、ひしと抱き合った。

そして、目眩く内にライブは進行し、最後のアンコールで、エリック・クラプトンは、

『いとしのレイラ』

を歌った(※前日は歌わなかったが、やはり『いとしのレイラ』を歌って欲しいという要望が多かったので、それに応えた…という事かもしれない)。

「レーイラー!!」

武道館の観客は総立ち状態で、原由子も叫んでいた。

彼女にとって、初めての総立ち経験だったが、興奮してステージに懸け上がり、クラプトンに抱き着く人も居たりして、とにかく、原由子は悔しがったり泣いたり笑ったり…とにかく大騒ぎだった。

『いとしのレイラ』

が終わり、クラプトンがステージから去っても、武道館の大歓声は鳴り止まず、ライターの火を高くかざす人も沢山居た(※当時は、ペンライトなども無かったので、こういう事をする観客も沢山居た)。

「まるで、武道館に星が出たようだった。生まれて初めての、抑えようのない感動の波が、私を包んでいた」

その時の感動を、後に原由子はそう語っている。

 

 

さて、その翌日の事…。

1974(昭和49)年11月2日、原由子はフェリス女学院高校の文化祭の受付を務めていた。

その日(1974/11/2)は、何と、エリック・クラプトンの「来日公演」の「追加公演」が行われるという。

原由子は、文化祭の合間を縫って、日本武道館に電話してみると、若い男の人が電話に出て、

「昨日来たの?良かったよね!?」

と言い、更に彼は、

「当日券、有りますよ!!」

と言っていた。

大喜びした原由子は、すぐさまチケットを取り、前日(1974/11/1)はお兄さんと共にクラプトンのライブを見に行っていたという、親友の「モリ」を誘い、原由子と「モリ」は再び、武道館へと向かった。

 

 

そして、この日(1974/11/2)、原由子と「モリ」の席は、日本武道館の北スタンド…つまり、クラプトンが歌う真後ろステージの真後ろの席だった。

そして、この日(1974/11/2)もクラプトンのライブは大盛り上がりのまま進行し、最後にクラプトンは、

『いとしのレイラ』

を歌った。

この時、原由子は、もはや興奮のあまり暴徒と化していたが、普段は大人しい「モリ」が、椅子の上に立ち上がり、拳を振り回していた。

「へっ?モリ!?…に、似合わない…」

原由子はそう思ったが、

「あだしだってー!!」

と、彼女も負けじと椅子の上に立ち上がり、歓声を上げた…。

なお、今ではライブ中に椅子の上に立ち上がるのは絶対に禁止なので、絶対にやらないで下さい…と、原由子は語っている(※そういう事をやってしまうと、退場させられたり、酷い時はライブが中止になってしまう場合も有るとの事である)。

まあ、それだけ、当時の原由子と「モリ」は、興奮しきっていた…という事であった。

とにかく、このように、「ライブ」の素晴らしさは、行ってみないとわからない。

だからこそ、是非とも音楽の「ライブ」には行ってみる事を、私も強くお勧めする。

なお、この日(1974/11/2)のクラプトンは、またしてもお酒を飲み過ぎており、観客に向かって、

「シャラップ!!」

という悪態をついていたそうだが、

「そんな事は、おめでたい私達は全く気付かなかった。気付かなくて良かったけど」

と、後に原由子は語っている。

 

 

…という事であるが、これまで述べて来た通り、

1974(昭和49)年のエリック・クラプトンの「来日公演」の当時、

桑田佳祐大学(青山学院大学)1年生であり、

原由子高校(フェリス女学院高校)3年生だった…。

つまり、この時点で、この2人はまだ出会っていない。

桑田と原が、青山学院大学で「運命の出逢い」をするのは、これから約半年後の事である。

つまり、1974(昭和49)年のクラプトンの「来日公演」は、桑田佳祐原由子の、

「歴史的ニアミス」

だった。

誠に、歴史の綾というものは、面白いものである。

 

<エリック・クラプトン『いとしのレイラ』について~ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンとパティ・ボイドを巡る物語>

 

 

さて、今回の記事の締めくくりとして、エリック・クラプトンの名曲、

『いとしのレイラ』

が誕生した経緯について書く。

『いとしのレイラ』

誕生にとって、最も重要なキーパーソンこそ、パティ・ボイドという女性である。

 

 

 

パティ・ボイドは、モデルや写真家として活躍していたが、

1964(昭和39)年、パティ・ボイドは当時20歳の時に、当時、人気絶頂だったビートルズが主演した映画、

『A HARD DAY'S NIGHT(ビートルズがやってくる!ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』

に出演した。

私は、高校生の時、この映画がテレビ放送された時に初めて見たが、その時、「ゲスト出演」していた、このパティ・ボイドなる女性を見て、

「うわ、すげー可愛い子だなあ…」

と思ったものであるが、それは1964(昭和39)年当時のビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンも全く同じであった。

ジョージも、このパティに忽ち「一目惚れ」をしてしまった。

 

 

ジョージ・ハリスンパティ・ボイドは、熱烈な恋に落ちた。

そして、1966(昭和41)年、ジョージとパティは結婚したが、

この時、ジョージ・ハリスンは23歳、パティ・ボイドは22歳だった。

まさに、

「美男美女のカップル」

だったが、傍目で見ても、ジョージとパティは、とても仲睦まじい関係だった。

 

 

さて、1960年代後半、ビートルズの活動の後期、ビートルズのメンバー間の関係は、少しずつギクシャクするようになっていた。

そんな中、ジョージ・ハリスンは、ビートルズ以外のミュージシャンと積極的に交流するようになっていたが、

ジョージは、エリック・クラプトンと意気投合し、ジョージとクラプトンは、しばしば、一緒にセッションなどを行なうようになっていた。

だが、この時、クラプトンは、

「禁断の恋」

に落ちてしまう。

何と、クラプトンは、ジョージの妻、パティ・ボイドの事を好きになってしまったのである。

 

 

しかし、そうは言っても、パティは「人妻」である。

いくらクラプトンが好きになったとて、どうにもならないが、クラプトンは、パティへの気持ちを抑えられなくなっていた。

そして、1971(昭和46)年、クラプトンはパティへ捧げるための曲を書いた。

その曲こそが、

『いとしのレイラ』

という曲であった。

なお、エリック・クラプトンは、イスラム教に改宗した、彼の友人から聞いたという物語…結婚を禁じられた月の王女ライラと、彼女に恋をしてしまった若者ラジュヌーンの物語に、自身のパティへの思いを重ねて、

『いとしのレイラ』

という曲を作ったという。

つまり、パティ・ボイドこそ、エリック・クラプトンにとっての、音楽のミューズ(女神)であった…。

 

 

そして、その後、どうなったのかと言うと…。

1970年代前半、ジョージ・ハリスンパティ・ボイドの関係は、段々と上手く行かなくなっていた。

その頃、エリック・クラプトンは、パティに「アタック」していたが、パティにはあまり相手にされておらず、クラプトンは酒浸りになり、荒れていた…。

クラプトンが「来日」したのは、ちょうどその頃であった。

結局、ジョージとパティは1973(昭和48)年に離婚してしまったが、その後、クラプトンとパティは急接近し、紆余曲折を経て、1979(昭和54)年、遂にエリック・クラプトンパティ・ボイドは結婚した。

それは、

『いとしのレイラ』

がリリースされてから、8年後の事であった。

 

 

という事で、結果として見れば、エリック・クラプトンは、ジョージ・ハリスンの妻、パティ・ボイドを奪ってしまった…ような形になってしまったが、その後も、ジョージとクラプトンの関係は続き、この2人は一緒に音楽活動をしたりしていた。

それだけ、ジョージとクラプトンは仲が良かったという事でもあるが、何とも不思議な関係ではある。

その後、クラプトンは「アル中」「ヤク中」が治らず、それにパティが愛想を尽かし、クラプトンとパティも結局は「破局」してしまい、1989(平成元)年、クラプトンとパティは離婚している。

 

 

…という事であるが、以上の経緯を念頭に置き、

エリック・クラプトンの代表曲、

『いとしのレイラ』

を聴いてみると、何とも味わい深いものが有る。

この曲は、イントロからして、とても有名であり、聴いてみると、

「ああ、あの曲か…」

と、思い当たる人も多い筈である。

というわけで、

『いとしのレイラ』

の歌詞をご紹介させて頂こう。

 

 

『Layla(いとしのレイラ)』

作詞・作曲:エリック・クラプトン/ジム・ゴードン

唄:エリック・クラプトン

 

What will you do when you get lonely
And nobody’s waiting by your side
You’ve been running and hiding much too long
You know it’s just your foolish pride

 

寂しくなったとき、君はどうする
誰も君のそばにいなかったとしたら
君はあまりに長く逃げ隠れし過ぎたんじゃないかな
ただのつまらない見栄からだよね

 

Layla,
You’ve got me on my knees, Layla
I’m begging, darling please, Layla
Darling won’t you ease my worried mind

 

レイラ、
君にひざまづくよ、レイラ
頼む、お願いだよ、レイラ
俺の不安を和らげてくれよ

 

I tried to give you consolation
When your old man had let you down
Like a fool, I fell in love with you
Turned my whole world upside down

 

君を慰めようとしたんだ
君の男が君を失望させたときだよ
馬鹿な俺は君に恋してしまったんだ
俺の人生はひっくり返ってしまったよ

 

Layla,
You’ve got me on my knees, Layla
I’m begging, darling please, Layla
Darling won’t you ease my worried mind

 

レイラ、
君にひざまづくよ、レイラ
頼む、お願いだよ、レイラ
俺の不安を和らげてくれよ

 

Let’s make the best of the situation
Before I finally go insane
Please don’t say we’ll never find a way
And tell me all my love’s in vain

 

この状態を出来るだけいいものにしようよ
俺がとうとうおかしくなってしまう前に
言わないでくれ、俺たち二人には未来がないとか
俺の愛は全部無駄だとか

 

Layla,
You’ve got me on my knees, Layla
I’m begging, darling please, Layla
Darling won’t you ease my worried mind

 

レイラ、
君にひざまづくよ、レイラ
頼む、お願いだよ、レイラ
俺の不安を和らげてくれよ

 

(つづく)

私が大好きな、サザンオールスターズ桑田佳祐の楽曲の歌詞を題材にして、私が「小説」を書くという、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズは、今まで「31本」を書いて来ている。

そして、今は、源義経の愛人・静御前「語り手」を務める、

「新・鎌倉4部作」

を連載中である。

 

 

という事で、私が今まで書いて来た、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズの「31本」のタイトルは、下記の通りである。

 

①『死体置場でロマンスを』(1985)

②『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)

③『マチルダBABY』(1983)

④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)

⑤『私はピアノ』(1980)

⑥『夢に消えたジュリア』(2004)

⑦『栞(しおり)のテーマ』(1981)

⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)

⑨『真夜中のダンディー』(1993)

⑩『彩 ~Aja~』(2004)

⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

⑫『流れる雲を追いかけて』(1982)(※【4部作ー①】)

⑬『かしの樹の下で』(1983)(※【4部作ー②】)

⑭『孤独の太陽』(1994)(※【4部作ー③】)

⑮『JOURNEY』(1994)(※【4部作ー④】)

⑯『通りゃんせ』(2000)(※【3部作ー①】)

⑰『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)(※【3部作ー②】)

⑱『鎌倉物語』(1985)(※【3部作ー③】)

⑲『夕陽に別れを告げて』(1985)

⑳『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(2008)

㉑『お願いD.J.』(1979)

㉒『恋するレスポール』(2005)

㉓『悲しい気持ち(Just a man in love)』(1987)

㉔『Moon Light Lover』(1996)

㉕『NUMBER WONDA GIRL ~恋するワンダ~』(2007)

㉖『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』(1998)

㉗『ハートせつなく』(1991)

㉘『ポカンポカンと雨が降る(レイニーナイトインブルー)』(1992)

㉙『あじさいのうた』(1988)~新・鎌倉4部作①~

㉚『想い出のリボン』(1991)~新・鎌倉4部作②~

㉛『ネオ・ブラボー!!』(1991)~新・鎌倉4部作③~

 

 

…という事であるが、

以前、私が書いた「鎌倉3部作」は、現代の鎌倉の男子高校生が、時を超える不思議な女(ひと)に出逢う…という物語だった。

その「鎌倉3部作」のタイトルは、下記の3本である。

 

・『通りゃんせ』(2000)

・『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)

・『鎌倉物語』(1985)

 

…そして、「鎌倉3部作」に登場した不思議な女(ひと)…その正体は、あの源義経の愛人・静御前だった…というわけだが、

今回は、その静御前「語り手」を務める、

「新・鎌倉4部作」

を書いており、静御前源義経のラブストーリーと、静御前が如何にして「時を超える存在」になったのか…という物語を書いている。

 

 

という事で、

「新・鎌倉4部作」

の、これまでの「3本」のタイトルは、下記の通りである。

 

・『あじさいのうた』(1988)静御前源義経の出逢いの物語

・『想い出のリボン』(1991)静御前源義経の別れの物語

・『ネオ・ブラボー!!』(1991)静御前「時を超える女」になった経緯を描く物語

 

 

そして、今回、私が「サザン小説」の題材に選んだのは、

2022(令和4)年10月19日にリリースされた原由子のソロ・アルバム、

『婦人の肖像(Portrait of a Lady)』

に収録されていた、

『鎌倉 On The Beach』

という曲である。

『鎌倉 On The Beach』

は、作詞は桑田佳祐原由子の「合作」で、作曲は原由子が単独で行なった楽曲であり、その原由子がメイン・ボーカルを務めている。

なお、この曲について原由子は、

「『鎌倉物語』(1985年に発表したサザンの曲)の頃、恋をしていた世代にとっての続編のような気持ちで。鎌倉は子供の頃から色々とご縁があり大好きな街」

と、コメントしている。

つまり、『鎌倉 On The Beach』(2022)とは『鎌倉物語』(1985)「続編」のような曲であり、まさに「新・鎌倉4部作」の「最終回」に相応しい曲ではないか…と私は思い、「サザン小説」の題材として選ばせて頂いた。

それでは、「前置き」はそれぐらいにして、

「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」の「第32弾」、そして「新・鎌倉4部作」の「第4話(最終回)」、

『鎌倉 On The Beach』(原案:桑田佳祐・原由子)

をご覧頂こう。

 

<序章・『あの人が居ない海』>

 

 

「あの人」を失ってから、私(わたくし)という人間は、全てが変わってしまいました。

私の「想い人」…私の最愛の人、源義経様が亡くなった後、「抜け殻」のようになってしまった私は、自分が生きて行く意味を見出せず、遂に自ら命を絶ってしまいました。

しかし、どういうわけだか、私は、

「時を超える女」

になってしまいました…。

死んだ筈だった私は、私の師匠で、「恩人」でもあった「白菊様」を介して、義経様の剣術の先生だった鬼一法眼先生に、不思議な力を授かり、

「時を超える女」

になった…という事は、これまでお話して来た通りでございます。

しかし…だからと言って、私が最も逢いたかった方…義経様にお逢い出来るわけではございません。

むしろ、最愛の人に逢えないまま、「魂」だけが「この世」を彷徨ってしまう…考えてみれば、そんな残酷な事は無いでしょう…。

私は、そんな事を思いながら、「あの人」が居なくなってしまった、朝靄漂う鎌倉の海辺に、独り虚しく佇んでいました…。

 

<第1章・『大銀杏』>

 

 

私の最愛の人…源義経様を「死」に追いやった後、義経様のお兄様・源頼朝様は、権力の基盤を固め、

武士によって日本という国を治める、初の武家政権、

「鎌倉幕府」

を作られました。

しかし、それから程なくして頼朝様も亡くなってしまい、その後は「鎌倉幕府」の内部で、身内同士による、血で血を洗う悲惨な争いが起こりました。

そして…亡き頼朝様の遺児で、3代目となる、

「鎌倉殿」

の座に就いたのは源実朝様でしたが、その実朝様も非業の死を遂げられました。

あれは、私が源頼朝様・北条政子様のご夫妻の前で、

「白拍子」

を舞ったのと同じ場所…鎌倉の鶴岡八幡宮に大雪が降った、或る夜の事です。

源実朝様は、鶴岡八幡宮での参拝を終えられ、雪が降りしきる中、鶴岡八幡宮の大階段を降りようとされていました。

その時…鶴岡八幡宮の階段の下の方にある、

「大銀杏」

の木の陰に一人の男が隠れていたのでございます。

 

 

その男…即ち、頼朝様の嫡男で、2代目の「鎌倉殿」だった源頼家様の次男、公暁様は、

「大銀杏」

の陰に隠れ、実朝様が来られるのを、じっと待ち構えていました。

そして、実朝様が「大銀杏」の側まで来られた時…公暁様は「大銀杏」の陰から飛び出し、いきなり実朝様を斬り殺してしまいました…。

「何て事を…」

私は、すぐ側で、その一部始終を見ておりましたが、あまりの悲惨さに言葉を失いました。

これで、源氏の嫡流は途絶えてしまい、以後、「鎌倉幕府」は北条氏の天下になりましたが、義経様が平家と戦い、そして平家を倒し…やがてその義経様も亡くなってしまいましたが…ここに至るまで、どれだけ多くの血が流れた事か…。

「鎌倉」

というのは、本当に血塗られた忌まわしい所だと、私は思いました…。

 

<第2章・『盂蘭盆会(うらぼんえ)』>

 

 

人間というものは、本当に愚かな存在です。

「時を超える女」

になってしまった私ですが…私は幽玄の存在として、人間社会を見て来ましたが、

いつの世も、人間は人間同士で争ったり、殺し合いをしたりと、いつまで経っても、そういう愚かな事ばかりを繰り返していました。

そもそも、義経様も、お身内の頼朝様によって追い詰められ、命を落とされました。

「何で、人間ってそういう愚かな事ばかりを繰り返すのかしら…」

私はすっかり、人間という存在に絶望していました。

そして、いつまでも義経様に捉われれしまっている、私自身にも…。

先程、私は、

「鎌倉は血塗られた忌まわしい所」

と申しましたが、それでもなお、私は何故か、

「鎌倉」

という所から離れ難く、気が付けば長い時代(とき)を、「鎌倉」の地で過ごしていました。

それは、かつて義経様が過ごしていた所…という以上の「何か」が、ここ「鎌倉」には有るような気がしていたからかもしれません。

ところで、

「盂蘭盆会(うらぼんえ)」

という行事がございますが、俗に「お盆」と言われる季節には、死者の魂が「この世」に帰って来ると言われています。

現に、この私も「そういう存在」ではございますが…。

 

 

しかし、この私も、

「盂蘭盆会」

の参道に立ってみても、遂に義経様とお逢い出来る事はありませんでした。

「義経様!?」

ある時、そう思い、ハッとして振り返ってみると、そこにはただ、一陣のつむじ風が吹いているばかりでございました…。

その度に、私はガッカリしてしまいましたが、「鎌倉」は、「この世」と「あの世」の境目にあるような不思議な感じがして、私はいつまでも「鎌倉」に留まっていたのかもしれません。

「私、いつまで義経様に捉われているのかしら…」

私は自分で自分の事が情けなくなりました。

「人間とは愚かな存在だ」

と、私は申しましたが、この私自身も、そんな愚かな人間の一人だったのです。

いや、私はもう「人間」ではないのですが…。

 

<第3章・『夏の日の物語』>

 

 

「時を超える女」

になってしまった後…私には色々な出来事がございました。

そのお話は、また別の機会にでもさせて頂く事と致しまして…。

或る夏の、「鎌倉」での出来事について、お話したいと思います。

先程、申し上げた通り…私は常に、義経様の幻影を追い、気が付けばとても長い時間(とき)が過ぎてしまいましたが、

或る夏の日、鶴岡八幡宮で、私は一人の男の子と出逢いました。

その男の子は、よく鶴岡八幡宮に来ていましたが、その男の子はよく、

「歌」

を歌っていました。

それは、ほんの小さな歌声ではありましたが、その歌声は私にはハッキリと聴こえました。

そうです、私はとても「耳」が良いので…ほんの小声でも、よく聴こえてしまいます…。

私は、まずその「歌声」に惹かれました。

それは、何の歌なのか、私にはわかりませんでしたが、暫く様子を見ている内に、どうやら、その男の子が自分で作った歌らしい…という事が、何となくわかって来ました。

そして、その歌声の主を見た時…私はとても驚きました。

「義経様…」

その男の子は、あの義経様に、とても良く似ていました(※少なくとも、私にはそう見えました)。

 

 

「義経様の再来だわ…」

私は勝手に、そう思ってしまいました。

一度、そう思ってしまうと、私にはその男の子が、もはや義経様にしか見えなくなりました…。

それは、多分、

「他人の空似」

だったのでしょうけれど、私は、

「義経様の生き写し」

とも思える、その男の子に釘付けになってしまったのです。

季節は夏、鶴岡八幡宮の上空の青い空には、白い雲が浮かんでいました。

そして、空には鳥のさえずりが聴こえ、辺りには爽やかな風が吹き、あの大銀杏の枝は、何処までも高く、青い空に向かって伸びていました…。

ちなみに、「この世」の人には、通常、私の姿は見えません。

私が、自分の「意思」で、「この世」の人の前に姿を現さない限りは…。

その男の子は、どうやら鶴岡八幡宮がとても「お気に入り」の場所のようで、よく来ていましたが、

彼は、現代の「鎌倉」の高校生の男の子…のようでした。

「この人の前に、姿を現してみたい…」

私は次第に、その気持ちが抑えられなくなっていました…。

 

<第4章・『舞姫』>

 

 

そんなある日の夜の事…。

私は遂に、あの男の子の前に姿を現しました。

その日、彼はいつものように、鶴岡八幡宮へと姿を現しました。

彼は、お友達と一緒に居ましたが、彼がお友達と別れた後…私は、私の力を使い、彼を「幽玄」の世界に導いたのです。

その時、彼は恐らく、私と出逢った事を、

「夢」「幻」

のように思ったかもしれませんが、「この世」の人である人を「幽玄」の世界に導いた時…「この世」の人は、それを「夢」か「幻」か、それとも「現(うつつ)」か…判然とはしなくなってしまうのです。

「ここは何処…?」

彼は、呆然としているようでしたが、私は彼の前で、

「白拍子」

の舞を踊りました。

「しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな…」

そうです、私がかつて、鶴岡八幡宮の舞台で、源頼朝様・北条政子様ご夫妻の前で、最愛の人・源義経様の事を想って歌った歌を、ここでも披露致しました…。

その時は、私自身も、これからどうしたいのか、よくわかっていませんでした。

しかし、一つわかっていたのは、私もその男の子に惹かれていた…という事でございます…。

 

<第5章・『Mr.Moonlight(ミスター・ムーンライト)』>

 

 

その後、暫く経ってから…ある満月の夜、何処でどう聞いたのかはわかりませんでしたが、

あの男の子は何やら「不思議な言葉」を唱えていました。

私は、その「不思議な言葉」に導かれるようにして、再び、彼の前に姿を現しました。

そして、私達は夜の七里ガ浜の海で、ひと時を過ごしました。

その時、私は彼に対し、いつまでも戦いや争い事を繰り返す、人間の愚かさについて、嘆いてしまいました。

「人間って、いつまで経っても、馬鹿ばっかりよ…。戦(いくさ)をしたり、罪を犯したりね…。どうして、いつの世になっても、人間って、馬鹿な事ばかりを繰り返すの?」

最初は、私も努めて冷静に話そうとしていました。

しかし、私は次第に感情が昂ぶり、

「私、ずっと時の流れを見て来たけど…。あまりにも人間が成長しないから、本当にガッカリしてるの…。いつまで経っても、同じ事の繰り返し。どんな時代になってもね。私の大切な人も、戦(いくさ)で亡くなったわ…。それなのに…」

と言って、泣いてしまいました…。

私は、どんなに時代(とき)が経っても、義経様を失った痛手から立ち直ってはいなかったのです。

その時…彼は黙って、私の言葉を聞いていましたが、彼は私に、こんな事を言いました。

「…それでも、生きて行くのが人間ってものじゃないの?確かに、あまり成長しないかもしれないけど、みんな一生懸命に生きてると思うけどな…」

彼の言葉を聞いて、私はハッとしました。

確かに…そうかもしれないな…と、私は思いました。

ふと見ると、夜空の満月の光が彼を照らしていましたが、彼の姿は満月によく映えていました。

「素敵な人ね…」

私は、心の中でそう思っていました。

でも…彼は「この世」の人であり、私とは住む世界が違います。

だから、どんなに惹かれたとしても、私は彼とは一緒には過ごしてはいけない身なのです。

私の胸には切なさが込み上げていました…。

 

<第6章・『決意』>

 

 

本当は、いけない事だとはわかっていました。

しかし、私はある「決意」を固めていました。

それは、何かと言うと…。

「彼を、私の世界に連れて行く」

という事です。

私は幽玄の身ですから、本来であれば、「この世」の人と共に過ごす事は出来ません。

しかし、私が「その気」になれば、「この世」の人を、私の世界に連れて行く事は出来るのです。

私は、もうどうしようもなく、彼に惹かれていました…だから、今度、彼と逢った時に、それを実行に移そうと思っていました。

そして、あの夜の七里ガ浜で過ごしてから、幾日かが過ぎた後…私は、彼が唱える、

「不思議な言葉」

に導かれるようにして、再び彼の前に姿を現しました。

その時、私はちょっとした「イタズラ心」を出して、現代風の恰好…麦わら帽子を被り、白いワンピースを着て、彼の前に姿を現しました。

私の出で立ちを見て、彼は面食らっていましたが…。

その時、彼は私に、ある「贈り物」を渡してくれました。

それは、お化粧道具で…爪に塗る「マニキュア」でした。

「私にくれるの?有り難う…」

私は、彼に贈り物をもらったのがとても嬉しくて、特に深くは考えずに、そのマニキュアを塗ってみました。

その後、彼は私に、現在(いま)の鎌倉の街を、色々と案内してくれました。

それは、とても楽しいひと時でした。

「こんな風に、あの方と楽しく過ごした事も有ったな…」

私の脳裏には、ふと義経様の事が蘇っていました…。

でも、今、目の前に居る彼も、とても素敵な人でした。

「やっぱり、この人と一緒に過ごして行きたい…」

私は、もはや自分の気持ちを抑えられなくなっていたのでございます…。

 

<第7章・『鎌倉 On The Beach』>

 

 

その後…私は彼と一緒に、

「江ノ電」

という電車に乗りました。

「江ノ電」

とは、鎌倉と藤沢の間を走る電車で、湘南の海沿いを走る電車ですが、私にとって色々と縁のある場所を走る電車でもあります。

この時、私は彼に導かれ、初めて「江ノ電」に乗りました。

そして、江ノ島の手前…そこは、義経様がお兄様に頼朝様に手紙を書いたものの、拒絶されてしまった、

「腰越」

という所でしたが、私は義経様の事を思い出し、とても胸が苦しくなってしまいました…。

私は、いつまでも義経様に捉われてはいけないと思い、そのためにも、彼と一緒に居たい…と、思っていたのかもしれません。

そして、「江ノ電」江ノ島の駅に到着しました。

 

 

私は、彼と一緒に、江ノ島が見えるビーチに行きました。

ビーチに着くと、私はサンダルを脱ぎ、思わず駆け出していました。

私は、海がとても好きです。

でも、たった独りで来る海よりも、こうして誰かと来る海は、本当に楽しい…と思いました。

私が本当に楽しそうにしていたからか…彼は目を丸くしてビックリしていました。

その時…少し大きな波が来て、私は思わず悲鳴を上げ、彼に抱き着いてしまいました。

「危ない!!気を付けろよ…」

そう言って、彼は私を抱きとめてくれました。

それがとても嬉しく、私は、

「連れて来てくれて、有り難うね…」

と、彼に言いました。

そして、私は思わず、

「ねえ、私…。もっと早く貴方と出逢えていたら…」

と、言ってしまいました。

しかし、私はハッとして口を噤みました。

そんな事を言っても、仕方がありません。

だって、そもそも私は彼とは住む世界が違います…だから、それは叶わぬ願いでした。

「だから、私はこの人を、私の世界に連れて行こうとしている…」

私は心の中で、そう思いましたが、勿論、そんな事は口には出しません。

「ごめんなさい…。余計な事を言ったわ…。行きましょう」

私は彼を促し、ビーチを後にしました。

気が付くと、江ノ島には今まさに夕陽が落ちようとしており、夕陽がビーチを照らしていました…。

 

<終章・『幽玄の風』>

 

 

私と彼は、二人して、夜の「江ノ電」の「江ノ島駅」のホームのベンチに座っていました。

その時、私は自分の「力」を使い、他の人が誰も来ないようにして…彼と二人きりになっていました。

その時、私は彼に対し、私が彼に逢いに来た目的を告げました。

「貴方は、私の『想い人』に、面影がとても良く似ているわ…」

私は彼に、彼が義経様にとてもよく似ている…という事を仄めかしました。

「だから、何度でも逢いたくなっちゃって…」

それは、私の「本音」でございました…。

「あの方は…私とお別れする時…最後に口づけをしてくれたわ…。私、それが忘れられなくて…」

私は彼に、そう言いました。

私は目を閉じ、彼の「口づけ」を待っていました。

もし、これで彼が私に「口づけ」をしてくれたら…彼はもう、私からは逃れられず、私の世界に連れて行く事が出来るのです…。

彼は私の手を握り、そして、彼の顔が、私の顔に近付き、彼の唇が私の唇に触れようとした、その時です。

彼は、我に返ったように、私から離れ、私にこう言いました。

「ここで、別れよう。僕達は、もう会っちゃいけないと思う。それに…僕は、君の想い人じゃないから」

彼はハッキリと、私にそう言ったのです。

その時、私は気が付いていました。

「あのマニキュアのせいね…」

彼が私に贈り物としてくれた、あの「マニキュア」…どうやら、その「マニキュア」には、彼が「この世」に留まれるような、何か不思議な力が有るのに違いない…と、私は察したのです。

彼は私の手を握っていましたから…私の爪に塗った、あの「マニキュア」が、彼を「正気」に戻したに相違ありませんでした…。

 

 

その時、辺りに一陣の風…「幽玄の風」が吹き、私の耳元で、こんな「声」が聴こえたような気がしました。

「静。こんな事をしてはいけないわ…」

そうです、それは私の師匠…「白菊様」の声でした。

恐らく、彼には聴こえていなかったでしょうけれど、私にはハッキリと聴こえました。

私は、生まれつき「耳」がとても良いのです…。

そして、私も「理性」を取り戻しました。

「わかったわ…。ここでお別れしましょう」

私は、彼にそう告げました。

本当は、彼をそのまま「江ノ電」に乗せ、彼を私の世界に連れて行くつもりでした。

けれども、私はそれは諦め、

「貴方は、ここに残って。これに乗ったら、貴方はもう、この世には戻れなくなるわ…」

言い、彼に私が被っていた麦わら帽子を渡しました。

「今まで、本当に有り難う。さよなら…」

私は彼に「別れ」を告げ、そのまま「江ノ電」に乗り、その場を後にしたのでございます…。

「白菊様…。これで良かったのですよね…?」

私は、他に誰も居ない「江ノ電」に乗り、そう呟きました。

やはり、住む世界が違う「この世」の人を、連れて来てしまう事は良くないと、私は思いました。

ですが、そう簡単に彼の事を忘れる事も出来ないと、私は思っていました。

いつの間にか、私は彼の事を、とても愛してしまっていたのでした…。

事ほど左様に、

「愛」

とは、とても不思議なものでございます…。

それは、人間が持っている、とても大切な感情であるのと同時に、大変恐ろしいものでもあります。

「愛」とは一体、何なのか…それを解き明かすために、私の長い旅路はまだまだ続いて行くのであろう…と、私は思いました。

そして、これをお読み頂いた皆様が、

「鎌倉」

にいらっしゃった時…少しでも、私の事を思い出してくれたら…これに優る幸せはございません…。

 

(『サザンの楽曲・勝手に小説化』シリーズ~『新・鎌倉4部作』・完」)

 

 

 

『鎌倉 On The Beach』

作詞:桑田佳祐原由子

作曲:原由子

唄:原由子

 

朝靄漂う モノクロームの海辺で

裸足の指に絡む 砂が冷たい

 

風さえまだ無く 潮騒だけが響く

角のとれたガラスを 拾い集めてた

 

濡れたサンダルを脱いで 茜色に染まり始めた

東の空 手を合わせて

 

ほら幽玄の風 鳴いて ヒューララ Oh Oh

生かされて私は ここで幻想(ゆめ)を見る

 

盂蘭盆会の参道(みち)すれ違うのは誰?

思わず 振り返れば 人影のつむじ風

 

山の端さやかに 夏が両手を広げた

飛び交う鳥の声に 心さすらう

 

鶴岡八幡宮(じんじゃ)の向こうに 白い雲が沸き立ち

銀杏が天に蒼き 枝を伸ばしてる

 

街のざわめきの中 不意に募る切なさは何故

遠い記憶 呼び覚ますの?

 

今 悠久の舞 静やかなる季節(とき)

儚くも 美しい 白い花びらよ

 

星月の郷 呼びかけるは 誰?

糾(あざな)う糸のように 幸せは巡り来る

 

ほら幽玄の風 鳴いて ヒューララ Oh Oh

生かされて私は 一人歩き出す

 

盂蘭盆会の参道(みち)すれ違うのは誰?

思わず 振り返れば 人影のつむじ風

想い人よ何処へ

夏の日の物語