サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑧ ~『娘心にブルースを』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために作った曲であるが、

現在、当ブログにて、その『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1975(昭和50)年、桑田佳祐原由子は、青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

にて、遂に一緒に音楽活動をする事となり、

「青学ドミノス」

というバンドを結成した。

そして、バンド結成と前後して、桑田佳祐「ソング・ライティング」の才能が開花して行った…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第8話」であり、

桑田佳祐原由子の2人にとって、重要な出来事を描く、

『娘心にブルースを』

を、ご覧頂こう。

 

<1976(昭和51)年4月…あまりにも「音楽」に熱中するあまり、「学業」が疎かになった桑田佳祐、遂に青山学院大学の2年生で「留年」>

 

 

 

1976(昭和51)年4月、本来であれば、

「進級」

の季節であるが、これまで述べて来た通り、当時の桑田佳祐は、

「音楽」

に夢中だった。

従って、桑田は大学では全く、

「学業」

は疎かになってしまった。

そもそも、大学(青山学院大学)には教科書すら持って来ていなかった…というのだから、それも仕方が無い(?)。

そして、その当然の帰結というべきか、1976(昭和51)年4月、桑田佳祐は、

「留年」

をしてしまった…。

こうして、桑田は「ダブリ」をやらかしてしまったために、

「2度目の2年生」

を送る事となった。

一方、原由子の方は至って真面目で、学業の成績も優秀だったので、普通に進級した。

こうして、1976(昭和51)年4月、桑田佳祐原由子は、図らずも青山学院大学「2年生」として、「同学年」になってしまった…。

これには桑田の親も嘆いたかもしれないが、もしかしたら、

「まあ、夢中になれる物が有るだけ、良いか…」

と、思っていたかもしれない。

前回の記事で書いた通り、その頃、桑田は地元・茅ヶ崎スナックを経営する母親のために、スナックで働くホステスさん達を車で「送り迎え」していた。

その頃の桑田は、とにかくバンド活動が忙しく、なおかつ、母親のお店の手伝いもしていたので、なかなか勉強にも身が入らなかった(?)のではないだろうか…。

 

<1976(昭和51)年春…桑田佳祐の友人・宮治淳一、桑田佳祐のバンドを「サザンオールスターズ」と命名!!>

 

 

 

 

さて、その桑田佳祐が率いるバンドであるが、当初、1974(昭和49)年から、桑田佳祐関口和之が結成していたバンドは、

「温泉あんまももひきバンド」

という名前であり、その後、そのバンドは発展的解消(?)をして、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

という新バンドが結成された。

1975(昭和50)年秋、桑田佳祐の熱心な誘いにより、原由子が桑田のバンドに加わり、

「青学ドミノス」

が結成された…という経緯は、既に述べた。

このように、当時の桑田のバンドは、とにかく頻繁に名前を変えていた。

桑田のバンドに原由子が加入した後も、桑田は高校(鎌倉学園高校)時代の友人で、その頃は早稲田大学に通っていた宮治淳一と共に、

「湘南ロックンロール・センター」

を組織して、そこで桑田のバンドは定期的にライブを行なっていた。

しかし、前述の通り、桑田のバンドは、そのライブの度に、とにかくコロコロと名前を変えていた。

例えば、そのバンド名は、

「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」

などなど…とにかく、その場の「ノリ」で、適当に(?)バンド名を決めていた。

 

 

これに頭を抱えていたのが、前述した通り、桑田佳祐の高校時代からの友人であり、その頃は、

「湘南ロックンロール・センター」

で、広報係を務めていた宮治淳一だった。

宮治は、次のライブの告知を出そうにも、桑田が率いるバンドは、しょっちゅう名前が変わるので、告知を出そうにも出せないのである。

「おい桑田、お前ら、今度のライブでは、何ていうバンド名で出るんだよ…」

宮治は毎回、桑田にそんな事を聞いたりしていた。

そして、1976(昭和51)年春の事。

「湘南ロックンロール・センター」

のライブに、桑田のバンドが出る事になったが、いつものように、バンド名は決まっていない。

「どうしようかなあ…」

宮治は考え込んでしまったが、とりあえず彼は風呂に入る事にした。

その時、宮治の頭の中に、ある「考え」が思い浮かんだ。

「あいつらって、『サザン・ロック』が好きだったよな…」

宮治が思い浮かんだ、

「サザン・ロック」

というのは、ブギー(ブギウギ)、ブルース、R&B、カントリー…など、アメリカ南部の、

「黒人音楽」

をルーツとした音楽の事であり、桑田佳祐原由子は、そういった音楽を愛好していた。

 

 

 

 

実は、宮治淳一は、風呂に入る前、次回のライブのポスターのガリ版を作っていた。

その時は、桑田のバンド名が決まっておらず、宮治はポスター作りに行き詰まってしまった(?)ので、とりあえず風呂に入る事にした。

その時、宮治は音楽を聴きながら、ガリ版作りをしていたが、その時に宮治が聴いていたのが、ニール・ヤングの、

『After Gold Rush』

というアルバムだった。

また、宮治が風呂に入っている間、ラジオ(ニッポン放送)を聴いていると、そのラジオ番組で、

「サルサの帝王、『ファニア・オールスターズ』が遂に来日!!」

というニュースを流していた。

その後、宮治が風呂から上がると、先程から聴いていた、ニール・ヤングのアルバム、

『After Gold Rush』

の4曲目として、

『Southern Man』

という曲が流れていた…。

「『ファニア・オールスターズ』と、『サザン・マン』か…。そうだ、あいつらのバンド名は『サザンオールスターズ』にしてしまおう!!」

この時、宮治淳一の頭の中で、桑田佳祐バンド名のアイディアが電流のように(?)閃いたのである。

勿論、前述の通り、そこには、

「桑田達は、『サザン・ロック』が好きだから」

という意味も込められていたであろう。

 

 

 

 

「お前らのバンド名、『サザンオールスターズ』にしといたから。今度のステージは、そのバンド名ね」

宮治淳一は、次に桑田佳祐に会った時、そう告げた。

こうして、1976(昭和51)年4月11日、そう、桑田佳祐「留年」してしまった直後、

「湘南ロックンロール・センター」

の定例ライブにて、

「桑田佳祐とサザンオールスターズ」

というバンド名で、桑田佳祐・原由子らのバンドは、会場の藤沢青少年会館のステージに立った…。

これが、

「サザンオールスターズ」

命名の経緯であるが、原由子は、

「それ以来、私達は、宮治君が付けてくれたバンド名を、今日に至るまで、ずっと名乗っている。宮治君、本当に有り難う!!」

と、後に、宮治淳一に対し、感謝の言葉を述べている。

なお、初期のサザンは、

「ベターデイズ」

の内部で、しょっちゅうメンバーが入れ替わったりしていたので、文字どおりの、

「オールスターズ」

であり、確固たるメンバーは定まっていなかった。

そんな中でも、桑田佳祐・原由子はバンドの「核」であり続けたが、

「サザンオールスターズ」

のメンバーが固まり、サザンがデビューに向けて動き始めるのは、もう少し先の話である。

 

<1976(昭和51)年春…青山学院大学の1号館の屋上にて~桑田佳祐が原由子に『娘心にブルースを』という曲を歌う…>

 

 

さて、1976(昭和51)年春といえば、もう一つ、とても重要な出来事が有った。

それは、桑田佳祐原由子にとって、本当に大切な、そして素敵な出来事だった…。

1976(昭和51)年春の、ある日の事。

原由子が、いつものように、青山学院大学の学食で、仲間達と過ごしていると、そこに桑田佳祐がやって来て、

「原、曲が出来たから、ちょっと聴いてよ…」

と言って、原由子を連れ出した。

そして、桑田は原を青山学院大学の1号館の屋上に連れて行った。

 

 

 

その日は、とても天気が良く、

青山学院大学の1号館の屋上は、ぽかぽかとした陽光に照らされ、風はとても気持ちが良かった。

そして、屋上に原由子を連れて来た桑田佳祐は、おもむろに、ギターを弾きながら歌い始めた。

それが、

『娘心にブルースを』

という曲だった…。

その曲を聴きながら、原由子は、とてもグッと来ていた。

何よりも、

『娘心にブルースを』

というタイトルが、とても素敵だった。

それは、原由子もとても好きな、

「ブルース」

という音楽から取られたタイトルであり、彼女はそれがとても嬉しかった。

 

 

「女だって、ブルースが好きなんだもん。自分でブルースをやるにゃあ、百年早いって言われるかもしれないけど、好きなんだもん。女だってね、顔で笑って心で泣いてる時が有るのさ。ブルースに酔いしれて、思いっきり泣いてみたい時が有るのさ…」

この時、原由子は心の中で、そんな事を思っていたという。

「私のそういう気持ちを、桑田はわかってくれているような気がした。別に、私の事を歌っているわけではなかったと思うが、私は密かに、そして勝手に喜んでいた…」

後に、原由子はこの時の事を、そう振り返っている。

ちなみに、

『娘心にブルースを』

は、アマチュア時代の練習テープにしか残っていないが、曲調は、三拍子のブルースだった。

そして、歌詞も特に決まってはいなかったが、サビの部分の歌詞は、

「I believe my time…(アイ・ビリーブ・マイ・タイム…)」

だった…という事は、原由子も覚えているという。

「桑田が歌ってくれた『娘心にブルースを』を聴きながら、私はこの日、なぜか胸がドキドキしていた…」

原由子はそう語っている。

そう、原由子が語っている通り、

『娘心にブルースを』

によって、桑田佳祐原由子の心の距離は、グッと縮まったのであった…。

 

 

…という事であるが、上記のエピソードは、1998(平成10)年に刊行された原由子の著書、

『娘心にブルースを』

で、原由子によって語られている。

最初、私はこの本を買った時、

「『娘心にブルースを』って…。どうして、そういうタイトルなんだろう?」

と思っていたが、このエピソードを読んで、

「そうか、『娘心にブルース』をというのは、桑田佳祐が初めて原由子のために歌った曲のタイトルだったのか!?」

という事を知った。

つまり、

『娘心にブルースを』

とは、原由子の心に残る、大切な思い出の曲を、本のタイトルにした…という事だったのである。

この本は、そういう素敵なエピソードが沢山出て来るが、中でも、

『娘心にブルースを』

のくだりは、私もとても大好きである。

…こうして、桑田佳祐原由子の心の距離はグッと縮まったが、果たして、この後、桑田と原の2人はどうなって行くのであろうか…?

 

(つづく)