サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑦~『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲でもある。

現在、当ブログでは、そんな『いとしのエリー』誕生秘話を連載している。

 

 

1975(昭和50)年、桑田佳祐の1年後輩として、原由子青山学院大学に入学し、桑田と原は、青山学院の音楽サークルで出逢った。

そして、紆余曲折を経て誕生した、

「ベターデイズ」

という音楽サークルで、桑田佳祐原由子は、お互いの音楽の才能に惹かれ合い、同年(1975年)10月、桑田と原は、

「青学ドミノス」

というバンドを結成するに至った…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第7話」、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

を、ご覧頂こう。

 

<桑田佳祐の破天荒な(?)学生生活~「貰いタバコの王者」「時間にルーズ」で、「ベターデイズ」のメンバー間でも有名(?)だった桑田佳祐>

 

 

1975(昭和50)年10月、桑田佳祐は、自らが率いるバンドに、ピアノやキーボードに天才的な才能を発揮していた原由子を引き入れ、

「青学ドミノス」

というバンドを結成した。

そして、桑田はバンド活動に夢中になり過ぎてしまい、「学業」はすっかり疎かになってしまったようだが、何しろ、桑田は大学には一切、教科書などは持って来なかったという。

そして、楽器も持ち歩かず、常に他の人の楽器を借りて演奏したりしていたようである。

また、桑田は、

「貰いタバコの王者」「時間にルーズ」

として、

「ベターデイズ」

のメンバー間でも有名(?)だった。

そんな破天荒な(?)学生生活を送っていた桑田だったが、後輩の馬鹿な行動にも率先して付き合うような所もあり、何処か憎めない人柄で、桑田は常に「人気者」でもあった。

桑田の行く所には、常に人が集まり、当時から桑田には、

「カリスマ性」

が有ったようである。

こうして、桑田は気の合う仲間達と共に、「音楽」に明け暮れる楽しい学生生活を送っていた。

 

<1975(昭和50)年頃から、次々に「オリジナル曲」を作曲して行った桑田佳祐~桑田の「ソング・ライティング」の才能が開花>

 

 

そんな風に、自由気儘な(?)学生生活を送って行く中で、桑田佳祐のミュージシャンとしての才能が開花して行った。

1975(昭和50)年、桑田佳祐が大学2年生の頃、桑田が初めて、

『茅ヶ崎に背を向けて』

というオリジナル曲を作曲した…という話は、既に以前の記事で書いた通りだが、桑田はその他にも、

『ニグロの気持ち(湘南ニグロ節)』

という曲や、当時、桑田のバンドでドラムを叩いていた、「イケダ」という男の事を歌った、

『池田の子守歌』

といったオリジナル曲も作った。

また、当初は、

『ボサノバ69』

というタイトルであり、後には、

『別れ話は最後に』

というタイトルになった、バラード曲も作った。

このように、桑田は既に、様々な曲調のオリジナル曲を作る才能を発揮し始めたのである。

「桑田さん、凄いっすね!!」

「桑田さん、僕にも曲を作って下さいよ!!」

桑田の作った曲は、

「ベターデイズ」

の後輩達…後に、サザンのサポート・メンバーになる、斎藤誠らに熱烈に支持された。

こうして、後輩達に乗せられて行く内に、桑田は気分良く、次々に「新曲」を書いて行った…。

「天才ミュージシャン・桑田佳祐」

の才能がいよいよ開花し、桑田は「大器」の片鱗を見せ始めたのであった。

当時、原由子もそんな桑田佳祐の事を側で見ていて、

「桑田さんって、凄いなあ…」

と、思っていたであろう。

 

<大森隆志の仲間達①~大森の幼馴染で、宮崎から上京して来たドラマー・松田弘~松田は上京してすぐに桑田佳祐と出逢う>

 

 

さて、1975(昭和50)年4月、原由子と「同学年」で、青山学院大学に入学した、

「ギター少年」

大森隆志は、当初、原と一緒に、

「AFT」

に入部したが、その後は「AFT」の活動には参加していなかった。

しかし、その後も大森は、

「ベターデイズ」

の集まりには、ちょくちょく顔を出しており、桑田達とも顔馴染みになっていた。

大森隆志は、とても人懐っこかったので、

「ベターデイズ」

のメンバー達とも関係は良好だった。

 

 

 

1975(昭和50)年冬、大森隆志とは地元・宮崎県で幼馴染だった、松田弘というドラマーが、その大森を頼って上京した。

当時、松田弘は、地元・宮崎で既にバンド活動を行なっていたが、

「日本一のドラマーになる」

という大志を抱き、一念発起して上京したという。

松田が上京した時、東京はとても寒かったが、松田はアフロ・ヘアだったので、

「アフロにしてて、助かった…」

と思ったという。

そして、松田弘は上京してすぐに、大森隆志の紹介で、桑田佳祐と出逢っている。

「僕は上京してすぐに、桑田と出逢った。今思えば、運命でしたね…」

と、後に松田弘は語っている。

ちなみに、大森と松田の生年月日は、

 

・大森隆志…1956(昭和31)年12月12日

・松田弘…1956(昭和31)年4月4日

 

…という事で、1956(昭和31)年12月12日生まれの原由子ともども、「同い年」であり、

大森隆志・松田弘・原由子の3人は、桑田佳祐から見れば、学年は1つ下である。

 

<大森隆志の仲間達②~大森のバイト先のライブハウス「ロフト」で、「ロフトのダニ」と言われていた「セミプロ」の野沢秀行~「毛ガニ」という愛称で知られていた野沢~実は日大の「ニセ学生」だった!?>

 

 

 

そして、当時の大森隆志の交友関係の中で、もう一人、とても「面白い」人物が居た。

それが、当時、大森のバイト先だった、下北沢の、

「ロフト」

というライブハウスに出入りしていた、野沢秀行という男である。

この野沢秀行という男は、当時、

「ロフトのダニ」

という、有り難くない呼び名(?)が有った。

何しろ、野沢は大森を「小僧」扱いして、

「おい、ター坊(※大森)。焼きソバ」

などと注文しては、全くお金も払わず、

「おい、ター坊。このタバコ、貰っていいかな。このレコード借りて行くから…」

などと言って、大森を良いように利用(?)し、「ロフト」に入り浸っては、お金も払わずに、料理を食べたり、タバコを拝借したり、レコードを借りて行ったり…と、とにかく「やりたい放題」だったという。

 

 

では何故、野沢がそんなに「やりたい放題」だったのかと言えば、

当時の野沢は、パーカッションとして、南佳孝のバック・バンドで活動していた、

「セミプロ」

であり、野沢は何となく、「セミプロ」として、皆に一目置かれていた(?)からでもあった。

また、野沢秀行には、

「毛ガニ」

という愛称もあり、当時の音楽仲間達からは、

「毛ガニ」「毛ガニさん」

と呼ばれる、ちょっとした有名人(?)でもあった。

だからこそ、当時の野沢から見れば、一介のアルバイト学生である大森など、

「鼻たれ小僧」(?)

ぐらいにしか見えなかった…としても、不思議ではない。

ちなみに、野沢秀行は1954(昭和29)年10月19日生まれで、大森よりは2歳年長だったが、その正体(?)は、

「日大のニセ学生」

であり、野沢は日大の学生のフリをして(?)、日大の音楽サークルにも参加したりしていたという。

この何とも怪しい男…「毛ガニ」こと野沢秀行も、後にサザンに関わって来る事となるのである。

 

<「ベターデイズ」の個性的な面々~「原宿のジャニス」夏美との愉快な(?)エピソード!?>

 

 

さて、桑田佳祐・原由子らが結成した、

「ベターデイズ」

は、大学から認可されてはいなかったので、部室が無かった。

そのため、

「ベターデイズ」

のメンバー達は、青山学院大学の学食の片隅を溜まり場にしていた…という事は、既に述べたが、

その「ベターデイズ」の溜まり場での、ちょっと愉快な(?)エピソードを、一つご紹介させて頂く。

当時、桑田達は学食の「溜まり場」で集まっては、自由に音楽を語り合っていたが、ある時から、

「謎の女」

が、この「溜まり場」にやって来るようになっていた。

「ベターデイズ」

には、男も女も、実に個性的な面々が居たのだが、その中のある男が、いつも「彼女」と腕を組んでやって来ていた。

桑田から見れば、

「その男の方が、女の方に『捕獲された』ように見えた」

との事だが…。

その女は、桑田達が「音楽談議」をしていると、必ず割り込んで来て、音楽に関する「蘊蓄(うんちく)」を垂れていたという。

「誰なんだ、この女は…?」

当初、「ベターデイズ」のメンバー達も訝しんでいたが、やがて、彼女が夏美という名前で、桑田よりも1学年下の女子であるという事を知った。

 

 

その女…夏美は、常に「上から目線」で、桑田達の音楽の事を辛辣に評したり、自らの交友関係の広さなどを、滔々と語ったりしていた。

そして、夏美は、

「私は、『原宿のジャニス(※ジャニス・ジョプリン)』って言われてるの」

などと「自称」していたという…。

そんな、

「原宿のジャニス」

こと夏美は、どうやら音楽に関する知識も豊富で、とても弁が立つので、

「この子、ひょっとしたら凄い子なんじゃないか…」

と、桑田達も、何処か身構えていた。

何しろ、夏美と来たら、

「アンタ達のやってる事なんて、私から見ればレベルが低いのよ…」

といった態度だったという。

しかし、そんな夏美には、悪気も無さそうだし、案外、イイ子なんじゃないか…という所もあり、桑田達も、夏美とは何となく交流を続けていた。

さて、そんな夏美を巡って、ある時、ちょっとした「事件」が起こった。

「ベターデイズ」

では、毎週土曜日に、「発表会」を行ない、メンバー達が、それぞれの練習の成果を見せたりしていた。

基本的には、和気藹々とした会だったが、そんな中、あの夏美は、例の彼氏に頭をもたせ掛けながら、「ベターデイズ」の発表会の音楽を聴いていたかと思うと、夏美は、次々に、その発表会に出た「出演者」達の音楽の出来栄えを辛辣にダメ出ししまくり、「酷評」してしまった。

流石に、部内で不穏な空気が流れ、険悪な雰囲気になったが、ちょっとカチンと来たらしい、「ベターデイズ」の後輩の女の子が、そんな夏美に対し、

「夏美さんは、いつ発表会で歌うんですか?早く聴かせてもらいたいなあ…」

と言った。

そう、夏美は色々と偉そうな事を言っていた(?)割には、まだ一度も、皆の前で、その歌声を披露した事は無かった。

「あ、いつかね。でも、このサークルには、私のボーカルに合うバンドが居ないから…」

夏美は、遠い目をして答えたという…。

その後も、夏美は、

「喉の調子が悪い」「マイクを忘れた」

など、様々な理由を付けては、皆の前で歌う事は無かった。

 

 

しかし、遂に「その時」は訪れた。

少し先の話になるが、1977(昭和52)年暮れ、

「ベターデイズ卒業生発表会」

が開かれる事となった。

そして、遂に、夏美が歌うというのである。

ネルシャツやTシャツを着た部員達の出番が終わり、遂に夏美の出番が回って来た。

夏美は、いつもよりお洒落な出で立ちをしていた。

「それでは、歌います。ユーミンの『翳りゆく部屋』…」

夏美が自ら曲紹介したが、桑田が見ると、夏美がマイクを持つ手は小刻みに震えていた。

そう、夏美は明らかに緊張していた…。

「ベターデイズ」

のメンバー達も、固唾を飲んで夏美の様子を見守っていたが、歌が始まった途端、初めて夏美の歌を聴いた「ベターデイズ」のメンバー達は、思わず、

「力が抜けてしまった…」

という。

何と言うか…夏美「歌」は、よもやという予想や期待とは大きく違ったが、思いの外(ほか)、実直で不器用さが滲み出るような「歌」だった…。

そして、夏美は歌い終わると、バツが悪そうにしていたが、

「先輩達、本当に有り難う!!私はこんなんだけど、皆さんと会えて本当に幸せでした!!」

と言うと、更に夏美は、

「〇〇くーん(※彼氏の名前)、サイコー!!」

と、マイクで絶叫した…。

「ああ、あの日に帰りたい…」

桑田は、そんな愉快な思い出話(?)を、そんな言葉で締めくくっている…。

 

<平塚でスナックを経営していた桑田佳祐の母・昌子~母親のスナックで働くホステスさん達を車で「送り迎え」していた桑田佳祐は…?>

 

 

さてさて、桑田佳祐が生まれ育った地元・茅ヶ崎の家庭であるが、

桑田の母・昌子は、平塚でスナックを経営しており、桑田の父・久司は茅ヶ崎で映画館の「雇われ館長」を務めていた。

そんな家庭だったので、桑田の両親は不在がちだったが、

「ビートルズ狂い」

だった桑田の姉・えり子は、桑田に対し、ビートルズの素晴らしさを教えてくれていた。

その桑田の姉・えり子は、19歳か20歳の頃、若くして結婚してしまい、家を出てしまったが、その後も桑田は実家で暮らし、桑田は青山学院大学に入った後も、茅ヶ崎の実家から大学に通っていた。

「茅ヶ崎から渋谷の大学に通うのは、凄く遠かったんだけど、自分の場合、東京に下宿したりしなくて良かった。何故なら、もしも東京で下宿なんかしていたら、ただただ呑んだくれて、他に何もせずに、自堕落な生活を送っていたに違いない」

…と、後に桑田は語っている。

桑田にとって、生活が乱れないようにするためにも、茅ヶ崎から大学に通う事は必要だったという。

そして、桑田の母・昌子は、桑田が大学に入った後も、スナック経営を続けていた。

 

 

そして、当時の桑田は車を運転し、バンド仲間のために楽器を運んだりしていた…という事は、以前の記事でも書いたが、

桑田は、その他にも、母親のスナックで働いていたホステスさん達「送り迎え」をしていた。

当時、桑田の母親のお店では、複数の女の子達がホステスとして働いていたが、当時の茅ヶ崎、平塚、大磯辺りは、夜中の交通機関も乏しく、そのため、毎晩、お店で働いていた女の子達を車に乗せて、彼女達の自宅に送り届けるのが、桑田の役割だった。

「俺は、車を運転するのも好きだったし、酔っ払ったホステスさん達の話を聞くのも、なかなか刺激が有ってね(笑)」

…と、後に桑田は語っている。

「彼女達は、たいそう陽気なご帰還の日もあれば、何が有ったか、泣き通しの夜もある。酒を呑み過ぎたら、水を飲ませたり。田んぼの畦道で背中をさすったりして、何だか彼女達と居る時の方が、大学に居る時よりも『人生がリアル』に感じた」

桑田は、当時の思い出を、そのようにも振り返っているが、桑田が車を運転していると、後ろからホステスさんに肩を突つかれ、

「ねえ、黙ってると、お互い疲れるからさあ、何か話してよぉ…」

などと、甘いトーンで言われ、桑田とホステスさんが他愛もない話をしたり…そういった事も有った。

こうして、桑田は「艶っぽい大人の世界」を垣間見た…というより、

「等身大の彼女達に触れる事が、何か良かったんだよなあ…」

と語っている。

 

 

さて、そんなある日の事。

桑田が車で送り迎えをするホステスさんの中で、

「あやこさん」

という、小柄で色っぽくて、とても人懐っこい笑顔の人が居た。

良く言えば、女優の山本陽子さんにも似た感じの、とても魅力的な人で、そんな彼女はお客さん達からも人気が有った。

その「あやこさん」が、ある時、桑田に対し、

「佳祐さんって、何か大人しいけど…。普段、何やってるの?そう言えば、ママに聞いたらバンドやってるんだって?」

と、聞いて来た。

普段の「大人しい」桑田しか知らない「あやこさん」は、バンド活動をしている桑田の姿など想像もつかないという。

「あやこさん」に聞かれた桑田は、自分のバンド活動の事を、あれこれ説明した。

「へー!私、一度聴いてみたいな!!」

彼女が、自分のバンド活動に興味を持ってくれたのが嬉しく、桑田は、

「今度、藤沢でやりますよ!!よ、良かったら来ます??」

と、自分のライブに「あやこさん」を誘った。

当時、桑田のバンドは、桑田の友人・宮治淳一が主宰する、

「湘南ロックンロール・センター」

のライブに、定期的に出演していたが、そのライブに、桑田は「あやこさん」を招待したのである。

 

 

そして…。

ライブの当日、ライブ会場の藤沢青少年会館に、彼女…「あやこさん」が姿を現した。

昼間の「あやこさん」は、地味ながらも、とても落ち着いた大人の雰囲気を漂わせていた。

彼女は、とても熱心に、桑田のバンドのライブを見てくれていた。

そして、その日の夜の事…。

お店が終わり、桑田がいつものように車で「あやこさん」を迎えに行くと、「あやこさん」は車に乗り込むなり、桑田に対し、

「ねえ、佳祐さん、凄く良かったよ!!私、ビックリした!!声が凄く素敵だね!!」

と、大絶賛してくれたのである。

そこまで褒めてくれた人は、桑田がバンドを始めて以来、「あやこさん」が初めてだった。

「え、ホント…?有り難う…」

まさに、天にも昇る気持ちとは、まさにこの事だ…と、桑田は思ったという。

それ以降も、桑田は「あやこさん」の送り迎えを続けたが、年齢も「26歳」という彼女に対し(※「女性に年齢は無い」とも、桑田は言っている)、

「こちとら、そんな大人な女性に対して、手も足も出やしない。モヤモヤした気持ちは、行き着く先も無かった…」

と、桑田は、そんな甘酸っぱい思い出について、振り返っている。

こうして、桑田は「音楽」を通し、様々な経験を積み重ねて行ったが、それが桑田の「創作」の源となっていたに違いない。

 

<ビートルズ『In My Life』の詞に「青春の思い出」を重ね合わせる桑田佳祐>

 

 

というわけで、上記の「夏美」「あやこさん」…に関するエピソードは、

桑田佳祐の著書、

『ポップス歌手の耐えられない軽さ』

で、桑田が語っていた事であるが、その著書で桑田は、ビートルズの、

『In My Life』

という楽曲の歌詞と、自らの「青春の思い出」を重ね合わせて語っている。

そして、上記の桑田の著書の「あやこさん」の思い出を語った章には、桑田佳祐「和訳」したと思しき、

『In My Life』

の歌詞が有るので、ここで「引用」させて頂く。

 

 

『In My Life』

作詞・作曲:ジョン・レノン/ポール・マッカートニー

唄:ザ・ビートルズ

訳:桑田佳祐

 

There are place I'll remember

All my life though some have cahged

Some, forever, not for better

Some have gone and some remain

All that place have their moments

With lovers and friends I still can recall

Some are dead and some are living

In my life I've loved them all

 

「生涯忘れ得ぬ いくつかの場所がある

今はもう無い場所や 

昔のままに残る場所

そうしたいろんな場所で

恋人や友達と一緒に

時を過ごした

今は亡き人 元気でいる人

みんな僕が

人生で愛した人たちだ…」

 

<桑田佳祐の学生時代の「想い出」を歌ったサザンの名曲『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』>

 

 

…という事であるが、

1982(昭和57)年、サザンオールスターズがリリースした、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

は、桑田佳祐の学生時代の「想い出」を歌った名曲であり、歌詞の中には、

「ベターデイズ」

も登場する。

というわけで、桑田の「青春の想い出」が凝縮された、

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

胸に残る いとしい人よ

飲み明かしてた なつかしい時

 

Oh, Oh, 秋が恋をせつなくすれば

ひとり身のキャンパス 涙のチャペル

 

ああ、もう あの頃のことは夢の中へ

知らぬ間に遠く Years goes by

 

※Sugar, Sugar, Ya Ya petit choux

美しすぎるほど

Pleasre, Pleasure, la la voulez vous

忘られぬ日々よ

 

互いにGuitar 鳴らすだけで

わかり合えてた 奴もいたよ

 

Oh, Oh, Oh, 戻れるなら In my life again

目に浮かぶのは Better days

 

とびきりステキな恋などもしたと思う

帰らぬ思い出 Time goes by

 

Sugar, Sugar, Ya Ya petit choux

もう一度だけ逢えたら

Pleasre, Pleasure, la la voulez vous

いつの日にかまた

 

※Repeat

 

(つづく)