サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話② ~『栄光の男』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、サザン史を代表する名曲であり、私も大好きな曲である。

そして、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

その『いとしのエリー』の「誕生秘話」を、シリーズで書かせて頂いている。

 

 

1974(昭和49)年、桑田佳祐青山学院大学に入学したが、

この年(1974年)、プロ野球の巨人のスーパースター・長嶋茂雄が現役引退した。

そして、この「長嶋引退」を、桑田はある感慨を持って、見守っていた…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第2話」、

『栄光の男』

をご覧頂こう。

 

<桑田佳祐・原由子の幼少期~長嶋茂雄(立教大学)、王貞治(早稲田実業)が学生野球で大活躍>

 

 

桑田佳祐(くわた・けいすけ)は1956(昭和31)年2月26日、神奈川県茅ケ崎市に生まれ、

原由子(はら・ゆうこ)は1956(昭和31)年12月11日、神奈川県横浜市に生まれた。

これまで述べて来た通り、桑田と原は、学年で言うと1つ違いであり、桑田が原よりも、学年は1つ上である。

そして、桑田と原の幼少期、野球界で大活躍していたのが、長嶋茂雄王貞治だった。

しかも、長嶋と王は、プロ野球に入る前…学生野球の頃から大活躍していた。

 

 

 

長嶋茂雄は1936(昭和11)年2月20日、千葉県佐倉市に生まれ、

王貞治は1940(昭和15)年5月20日、東京都に生まれている。

長嶋と王は、年齢は4つ違いだが、2人とも、学生野球の頃から大活躍していた。

長嶋茂雄は佐倉一高では甲子園に出場する事は叶わなかったが、長嶋は東京六大学野球の立教大学に進学し、長嶋は立教時代、六大学野球のスーパースターとして大活躍した。

1957(昭和32)年秋、長嶋は立教の最終学年(4年生)の最後の試合で、

「東京六大学新記録の通算8号ホームラン」

をかっ飛ばし、超満員の神宮球場の観客を熱狂させた。

一方、王貞治は、この年(1957年)早稲田実業の2年生だったが、同年(1957年)春のセンバツ高校野球で、王は早実のエースとして、早実を初優勝に導き、東京の野球ファンを大喜びさせた。

つまり、桑田佳祐原由子が1歳の頃、長嶋茂雄王貞治は、

「学生野球界のスーパースター」

として、既に大活躍していた。

 

<1958(昭和33)年…長嶋茂雄が巨人に入団し、プロ1年目から大活躍>

 

 

1957(昭和32)年秋、東京六大学野球の立教のスーパースター・長嶋茂雄を巡り、プロ野球の全球団が、凄まじい争奪戦を繰り広げたが、結局、長嶋を獲得したのは巨人だった。

そして、長嶋は巨人に入団し、長嶋は新人ながら、

「背番号『3』」

を背負っている。

それだけ、巨人の長嶋への期待は大きかった。

 

 

こうして、鳴り物入りで巨人に入団した長嶋茂雄であるが、

1958(昭和33)年4月4日、長嶋は後楽園球場で行われた、

「巨人VS国鉄」

の開幕戦で、

「3番・三塁手」

として、スタメン出場し、デビューしたものの、

「ついこの間まで、学生だった選手に打たれるわけにはいかない」

と、燃えに燃えていた、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の大エース・金田正一が、長嶋の前に立ちはだかり、長嶋は金田の前に、

「4打席4三振」

に斬って取られるという、屈辱のデビュー戦となってしまった。

 

 

こうして、デビュー早々、プロ野球の厳しさを嫌というほど、味わってしまった長嶋であるが、

長嶋は、デビュー戦の屈辱を晴らすべく、その後は大活躍し、

この年(1958年)、長嶋茂雄は、

「打率.305 29本塁打 92打点 37盗塁」

と、新人ながら、いきなり本塁打王と打点王を獲得、打率もリーグ2位を記録し、

「ゴールデン・ボーイ」

の名に違わず、期待どおりの大活躍を見せた。

そして、何よりも重要なのは、長嶋の大活躍により、当時、人気絶頂だった東京六大学野球のファンが、ごっそりプロ野球のファンに移ってしまった…という事である。

それだけ、当時の長嶋の人気は凄まじかった。

 

<1959(昭和34)年…王貞治が巨人に入団~プロ2年目の長嶋茂雄、「天覧試合」で劇的なサヨナラホームランを放つ>

 

 

 

前述の通り、1958(昭和33)年、長嶋茂雄はプロ1年目から大活躍したが、

この年(1958年)、早実の3年生だった王貞治は、残念ながら最後の夏の甲子園出場は逃してしまった。

その後、王貞治を巡って、またしてもプロ野球の全球団で激しい争奪戦が繰り広げられているが、

そんな中、同年(1958年)9月1日、長嶋茂雄王貞治は、歴史的な「初対面」を果たしている。

そして、争奪戦の末に、長嶋に続いて巨人が王も射止め、王は巨人に入団する事となった。

巨人に入団した王貞治は、

「背番号『1』」

を背負ったが、巨人は長嶋に続くスター候補生として、王に期待していた。

 

 

こうして、巨人に入団した王であるが、翌1959(昭和34)年、プロ1年目のキャンプで、王は長嶋と「同室」になった。

しかし、王は結構呑気というか、朝はいつまでもグーグー寝ており、

「おい、いつまで寝てるんだ!!早く起きろ!!」

と、毎朝いつも先輩の長嶋が王の事を起こしていたという。

世間一般では、

「長嶋は天真爛漫、王は生真面目」

といったイメージがあるが、実はこういう一面も有った。

 

 

さて、1959(昭和34)年、プロ2年目を迎えても、長嶋は引き続き大活躍したが、

1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇・香淳皇后夫妻が、初めて、プロ野球の公式戦である、

「巨人VS阪神」

を観戦するという、

「天覧試合」

が、後楽園球場で行われたが、この試合で、長嶋茂雄は、後に終生のライバルとなる、阪神タイガースの新人投手・村山実から、

「天覧試合サヨナラホームラン」

を放った。

あまりにも劇的な、

「長嶋の天覧ホームラン」

であるが、この試合で、長嶋の名声は決定的となり、以後、長嶋はプロ野球界ナンバーワンのスーパースターとしての道を歩んで行く事となった。

この年(1959年)長嶋は、

「打率.334 27本塁打 82打点」

で、初の首位打者を獲得し、プロ2年間で、長嶋は早くも本塁打王、打点王、首位打者…という、打撃の主要タイトルを全て獲ってしまった。

 

 

一方、プロ入りを機に、投手から打者に転向した王貞治であるが、

この年(1959年)、巨人入団1年目の王は、開幕戦で、国鉄スワローズの大エース・金田正一の前に手も足も出ず、

「3打数2三振」

に斬って取られてしまい、前年(1958年)の長嶋に続き、金田にプロの厳しさを嫌と言うほど味わわされ、ほろ苦いデビューとなった。

そして、この年(1959年)王は、

「打率.161 7本塁打 25打点」

という、全くの不振に終わってしまった。

しかし、前述の「天覧試合」では、王は起死回生の同点2ラン本塁打を放ち、それが長嶋のサヨナラ本塁打にも繋がり、

「ON(王・長嶋)のアベック本塁打の第1号」

も記録している。

なお、後に、

「ON(王・長嶋)のアベック本塁打」

は、

「通算106回」

も記録される事となった。

 

<1960(昭和35)~1962(昭和37)年…スーパースターとして君臨し続ける長嶋と、苦戦の末に荒川博コーチとの「二人三脚」で「一本足打法」を編み出し、ようやく開花した王貞治~ピアノを習い始めた原由子と、「ガキ大将」となった桑田佳祐>

 

 

さて、長嶋茂雄は順調にスーパースターとしての大活躍を続けて行った。

1960(昭和35)~1961(昭和36)年の長嶋茂雄の打撃成績は、下記の通りである。

 

・1960(昭和35)年…「打率.334 16本塁打 64打点」★首位打者(2年連続2度目)

・1961(昭和36)年…「打率.353 28本塁打 86打点」★首位打者(3年連続3度目)★本塁打王(3年振り2度目)★MVP(初)

 

…という事であるが、長嶋は1958(昭和33)年の巨人入団以来、毎年、何らかの打撃タイトルを獲得し、

巨人の不動の4番打者として大活躍していた。

1961(昭和36)年、川上哲治監督の就任1年目、長嶋は首位打者と本塁打王を獲得する大活躍で、川上巨人の初の「日本一」に大きく貢献し、初のMVPも獲得している。

 

 

一方の王貞治は、長嶋とは対照的に、伸び悩んでいた。

1960(昭和35)~1961(昭和36)年の王貞治の打撃成績は、下記の通りである。

 

・1960(昭和35)年…「打率.270 17本塁打 71打点 101三振」

・1961(昭和36)年…「打率.253 13本塁打 53打点 72三振」

 

…という事で、王の成績は別に悪くもないが、突出して良くもない。

それに、当時の王はとにかく三振の数が多く、打席に入る度に、

「王、王、三振王」

などと、観客から野次られていた。

それに、王の打撃は安定せず、王は年々、自信を失って行った。

 

 

 

当時の王には、致命的な欠陥が有った。

それは何かと言えば、

「王は速球に弱く、速球に振り遅れてしまう」

という事である。

その王の致命的な欠陥に気付いたのが、1962(昭和37)年に巨人の打撃コーチに就任した、荒川博だった。

荒川博は、川上哲治監督から、

「王を一人前にしてやって欲しい」

と頼まれた。

そこで、荒川は王を付きっ切りで指導したが、荒川は王に対し、

「速球に振り遅れるなら、最初から右足を上げて投球を待つようにしよう」

とアドバイスした。

こうして、王と荒川コーチは、二人三脚で、連日連夜、血の滲むような猛特訓を繰り返し、遂に王貞治は、

「一本足打法」

を編み出す事となった。

 

 

この年(1962年)王貞治は、シーズン途中から、

「一本足打法」

で試合に臨むようになると、以後、王の打棒は爆発し、同年(1962年)王貞治は、

「打率.272 38本塁打 85打点」

で、遂に初の本塁打王、打点王のタイトルを獲得した。

こうして、王はプロ入団4年目にして、打撃の才能が開花し、

「世界の王」

としての道を歩み始めた。

 

 

一方、長嶋茂雄は、この年(1962年)はプロ入団以来、初めて打撃不振に苦しみ、

「長嶋、5年目のスランプ」

と言われてしまったが、この年(1962年)の長嶋は、

「打率.288 25本塁打 80打点」

と、プロ5年目にして初めて打率3割を割ってしまい、打撃タイトルも「無冠」に終わっている。

スーパースター・長嶋の初めての挫折だったが、長嶋は捲土重来を期す事となった。

 

 

 

という事で、長嶋と王が、巨人の選手として活躍していた頃、幼少期を過ごしていた桑田佳祐原由子であるが、

桑田は、幼稚園に入る時、

「幼稚園になんか行きたくない!!」

と、ぐずってしまい、母親を困らせていたが、渋々、幼稚園に入った後は、何故か桑田はあっという間に、

「ガキ大将」

になってしまったという。

こうして、桑田佳祐は早くも「人気者」としての道を歩み始めた。

一方、幼少期は、物凄く「お転婆」だった原由子は、幼稚園の時に、

「ピアノ」

という楽器に出逢った。

そして、原由子はピアノを弾いている時だけは大人しかった…という事で、原由子の両親は彼女に本格的にピアノを習わせるようになった。

こうして、期せずして原由子は「音楽の道」を歩み始める事となった。

 

<1963(昭和38)年~「ON砲」が並び立ち、「巨人V9時代」(1965~1973年)のスーパースターとして大活躍~桑田佳祐は「野球少年」として「ON砲」に憧れを抱く~しかし、その後は「音楽」と「ボーリング」に夢中になった桑田佳祐>

 

 

1963(昭和38)年、長嶋茂雄の打棒が復活し、

王貞治長嶋茂雄は、初めて揃って大活躍し、遂に王と長嶋による、

「ON砲」

が完成した。

という事で、この年(1963年)の長嶋と王の打撃成績は、下記の通りである。

 

・長嶋茂雄「打率.341 37本塁打 112打点」★首位打者(2年振り4度目)★打点王(5年振り2度目)★MVP(2年振り2度目)

・王貞治「打率.305 40本塁打 105打点」★本塁打王(2年連続2度目)

 

 

 

 

…という事であるが、

以後、長嶋茂雄王貞治は、毎年、何らかの打撃タイトルを獲り続けた。

そして、その間、川上哲治監督率いる巨人は、

「V9(9年連続日本一)」(1965~1973年)

という、空前絶後の黄金時代を築き上げた。

勿論、「V9時代」の巨人を引っ張ったのは、

「ON砲」

である。

 

 

 

さて、現在もプロ野球は人気スポーツであるが、

1960~1970年代にかけて、

「高度経済成長」

の時代を迎えていた戦後日本にとって、プロ野球は、今とは比較にならないぐらいの、超人気スポーツだった。

何故かと言えば、連日、テレビのゴールデンタイムで、巨人戦がテレビ中継され、全国放送されていたからである。

そのため、巨人と「ON砲」は、テレビ放送を通して、日本国民の圧倒的な人気を得ていた。

つまり、巨人と「ON砲」は、「高度経済成長」の時代の日本の象徴のような存在でもあった。

そして、当時の子供達が皆そうであったように、この時代、桑田佳祐少年も野球に夢中になり、

「野球少年」

として過ごしており、桑田は「ON砲」に憧れを抱いていた。

なお、「余談」だが、桑田は「ON砲」は好きだが、巨人は好きではなく、

「アンチ巨人」

だったという。

 

 

1968(昭和43)年、桑田佳祐は地元・茅ヶ崎一中に進学したが、

桑田は、その茅ヶ崎一中の1年生の頃、後にサザンオールスターズが、

「茅ヶ崎ライブ」

を行なう事となる、茅ヶ崎公園野球場で行われた、中学野球の新人戦で、桑田はエースとして茅ヶ崎一中を新人戦優勝に導いた。

だが、この頃が桑田にとっての「野球熱」のピークであり、以後、桑田の興味の対象は、他の分野に移って行った。

 

 

桑田佳祐は、中学生~高校生の頃、

「音楽」

に目覚め、「音楽」に夢中になると同時に、

当時、大ブームとなっていた、

「ボーリング」

にも夢中になって行った。

そして、中高生の頃の桑田は、「音楽」と「ボーリング」に明け暮れる青春時代を過ごして行く事となった。

高校(鎌倉学園高校)時代、桑田は姉・えり子の影響で、

「ビートルズ」

にハマり、その後はエリック・クラプトンを好きになった…というのは、前回の記事で書いた通りである。

 

<1973(昭和48)年…巨人は「V9」を達成するも、長嶋茂雄は川上哲治監督から「引退勧告」を受ける…その時、長嶋は…?>

 

 

1973(昭和48)年、川上哲治監督率いる巨人は、遂に、

「V9(9年連続日本一)」

を達成した。

この年(1973年)王貞治は、初の「三冠王」を獲得するなど、まさに全盛期を迎えていた。

しかし、この年(1973年)プロ16年目のシーズンを送った長嶋茂雄は、次第に衰えが隠せなくなっていた。

そして、この年(1973年)のシーズン終了後、ある料亭で、川上監督は長嶋に対し、

「お前(※長嶋)はもう限界だ。お前は今年(1973年)限りで引退しろ。そして、来年(1974年)からは巨人の監督をやれ」

と、自らの巨人監督退任を示唆すると同時に、

「長嶋への引退勧告」

を行なった。

だが、この時、長嶋は川上監督に対し土下座し、

「私は、まだ燃え尽きておりません。もう1年、選手をやらせて下さい!!」

と、必死に頼み込んだ。

当初、川上監督は、長嶋の頼みを跳ね除けたが、最後は長嶋の必死の頼みを受け入れた。

こうして、翌1974(昭和49)年、長嶋茂雄はプロ17年目のシーズンを迎える事となった。

 

<1974(昭和49)年…桑田佳祐、青山学院大学に入学~桑田は「AFT」という音楽サークルに入部>

 

 

 

 

 

1974(昭和49)年4月、桑田佳祐青山学院大学に入学した。

この時、桑田の「同学年」として、新潟県出身の関口和之も、青山学院に入学している。

桑田と関口は、当時、青山学院に有った、

「AFT」

という音楽サークルに入り、桑田と関口は、新入生同士として、そこで出逢った。

だが、桑田は、

「AFT」

とは、何の略称なのかがわからず、先輩に聞いてみたところ、

「A(青山)・F(フォーク)・T(出発(たびだち))」

の略称である…と言われ、

「ええっ!?た、旅立ちって…」

と、驚いてしまった。

なお、この時、桑田を「AFT」に勧誘した、美人の女子の先輩は、既にサークル内で彼氏が居る事が判明するなど、

このサークル内には、既に何組ものカップルが居たという。

「女の子にモテたいから」

という動機(?)で、青山学院に入り、音楽活動をしようとしていた桑田としては、

「あれれ…?」

といった心境であった(?)。

 

<1974(昭和49)年…プロ17年目の長嶋茂雄、遂に「現役引退」を表明>

 

 

さて、桑田佳祐青山学院大学に入学した年…1974(昭和49)年、長嶋茂雄は、

「復活」

を期して、もう一度、身体を徹底的に鍛え直し、シーズンに臨んだ。

そして、シーズン当初こそ、長嶋は打撃好調を維持していたものの、やはり長嶋の身体は限界に来ていた。

この年(1974年)、長嶋は、

「打率.244 15本塁打 55打点」

という成績に終わってしまう。

そして、この年(1974年)の巨人は、中日ドラゴンズと激しい優勝争いを繰り広げたものの、遂に中日ドラゴンズの20年振りの優勝を許してしまい、巨人は「V10」を逃した。

長嶋は遂に、自らの限界を悟り、

「現役引退」

を決意した。

「長嶋引退」

のニュースは、日本全国に衝撃を与えたが、それは一つの時代の終わりを意味していたからである。

 

<1974(昭和49)年10月14日…「長嶋の引退試合」をテレビで見ていた桑田佳祐青年は…?>

 

 

さて、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐は、関口和之らと共に、

「温泉あんまももひきバンド」

なる、珍妙な名前のバンドを組み、音楽活動を本格的に開始していた。

だが、桑田の大学生活は、本人の思惑とは違っていた。

当時の桑田は、あまり女の子にもモテず、桑田は鬱々とした日々を送っていたという。

「こんな筈じゃなかった…」

それが、当時の桑田の偽らざる心境だった。

 

 

ちょうど、その頃の事である。

1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場の、

「巨人VS中日」

の試合が行われ、この試合は、

「長嶋茂雄の引退試合」

として行われていた。

その長嶋の引退試合の模様が、テレビ中継されており、当時、鬱々とした日々を送っていた、青山学院の1年生・桑田佳祐は、その長嶋引退試合のテレビ中継を、ソバ屋のテレビで見ていた。

「私は今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!!」

試合後の引退セレモニーで、カクテル光線に照らされた長嶋は、あまりにも有名な「名言」を吐いていた。

「長嶋さん、やっぱり最後まで光り輝いていて、カッコいいなあ…。それに引き換え、俺の学生生活はパッとしないなあ…」

桑田は、かつて憧れていた長嶋の姿を見て、そんな事を思っていたという。

あまりにも光り輝く存在であるスーパースターの姿を見て、あまり冴えない我が身と比べて、ついつい落ち込んでしまう…そんな経験をされた方も多いかもしれないが、この時の桑田は、まさにそんな心境であった。

 

<2014(平成26)年…「長嶋引退」の頃の桑田佳祐の心象風景が、サザンオールスターズ『栄光の男』として結実>

 

 

「栄光の背番号『3』・長嶋茂雄の引退」

は、桑田佳祐の心に、あまりにも大きなインパクトを残した。

そして、この時の事は、桑田の心にずっと残っていたが、

それから40年あまり経った時…2014(平成26)年、桑田佳祐は、サザンオールスターズの楽曲として、

「長嶋引退」

をモチーフとした、ある曲を作った。

 

 

2014(平成26)年、サザンオールスターズは、

『東京VICTORY』

という曲をリリースしたが、そのカップリング曲だったのが、

『栄光の男』

という曲である。

『栄光の男』

は、前述の通り、

「長嶋引退」

の時の桑田佳祐の心象風景がモチーフになっているが、桑田は、この曲を通して、

「人は、誰もが光り輝くスーパースターになれるわけではないし、人生は辛い事の方が多いかもしれない。それでも、人生は捨てたもんじゃないし、頑張って生きて行こう」

というメッセージを込めているように思われる。

かつて、長嶋茂雄というスーパースターと、一介の学生である、冴えない我が身を比べて、落ち込んでいた桑田佳祐であるが、そういう「コンプレックス」をバネにして、桑田はミュージシャンとして大成した。

なので、私は『栄光の男』を聴く度に、

「色々有るけど、それでも前向きに行こう!!」

という事を教えてくれるような気がしているのである。

…という事で、そんな桑田の思いが込められた、

『栄光の男』

の歌詞をご紹介させて頂こう。

 

 

 

『栄光の男』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

ハンカチを振り振り
あの人が引退(さ)るのを
立ち喰いそば屋の
テレビが映してた


シラけた人生で
生まれて初めて
割箸を持つ手が震えてた

 

「永遠に不滅」と
彼は叫んだけど
信じたモノはみんな
メッキが剥がれてく

 

I will never cry.
この世に何を求めて生きている?
叶わない夢など
追いかけるほど野暮じゃない

 

悲しくて泣いたら
幸せが逃げて去っちまう
ひとり寂しい夜
涙こらえてネンネしな

 

ビルは天にそびえ
線路は地下を巡り
現代(いま)この時代(とき)こそ
「未来」と呼ぶのだろう


季節の流れに
俺は立ち眩み
浮かれたあの頃を思い出す

 

もう一度あの日に
帰りたいあの娘(こ)の
若草が萌えてる

艶(いろ)づいた水辺よ

 

生まれ変わってみても

栄光の男にゃなれない
鬼が行き交う世間
渡り切るのが精一杯

 

老いてゆく肉体(からだ)は
愛も知らずに満足かい?
喜びを誰かと
分かち合うのが人生さ

 

優しさをありがとう
キミに惚れちゃったよ
立場があるから
口に出せないけど
居酒屋の小部屋で
酔ったフリしてさ
足が触れたのは故意(わざ)とだよ

 

満月が都会の
ビルの谷間から
「このオッチョコチョイ」と
俺を睨んでいた

 

I will never cry.
この世は弱い者には冷たいね
終わりなき旅路よ
明日天気にしておくれ

 

恋人に出逢えたら
陽の当たる場所へ連れ出そう
命預けるように
可愛いあの娘とネンネしな

 

(つづく)