それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。
前回は、「エゼキエル書 13〜14章」を紹介しました。 今回は、「エゼキエル書 15〜16章」を紹介したいと思います。その前に、まず「私の祈り」から入りたいと思います。そして、「私の祈り」の中に、紹介したい聖書の章に出てくる「5つのキーワード」(マーカーで印)を含ませておきます。聖書の紹介は、穴埋め問題形式にしますので、正解となる言葉を知りたい時は、「私の祈り」に出てくる「5つのキーワード」の中から探しだしてください。最初にお祈りの言葉を唱えてから、その後で聖書を読んでいくというスタイルは、これまでと一緒ですので、お付き合いの程よろしくお願いします。では、今からお祈りします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖なる神さま。今日もこうして神さまにお祈りし、朝を迎えることができることに感謝します。そして、RAPTさんの「御言葉」から神霊な波長を受けて、神さまの御心に立ち返る機会を与えていただき、本当にありがとうございます。エゼキエルの預言者としての使命は、イスラエルの家の見張り人としての、主の口となることです。そのことを踏まえて、これからエゼキエル書を読み進めて行きたいと思います。今回、私が興味を持ったのは、次の行です。(16章9節)ーーーそれでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。ーーーーーーーーーーこの行は、神様がユダヤ人たちを祝福する証として行われた行為を示します。ユダヤ人たちを成熟した娘として喩え、その娘と契りを結んだ後に出てくる場面ですので、見方によってはエロチックな表現です。しかしその行為は、「洗礼」の起源とも言える神霊なものであったと捉える事が大切でしょう。そこで、「洗礼の由来」について調べてみることにします。(ここから転載)********洗礼の定義T・J・コナントは次のように簡単に述べています。「洗礼に関するギリシャ語『バプティゼイン』という言葉は、実際の浸礼の行為について述べているだけで、それ以上の意味は含まれていない。」(Connant, T.J. The Meaning and Use of Baptizen. NewYork: America Bible Union, P.101)学者たちは、この単語は単純に「浸す」という意味を表し、まさに「全身が水の下に入る」“浸礼”という考えを表しているという見解で一致しています。W・A・ジャレルは述べています。「『バプティゾー』という動詞をつくるギリシャ文字は、それが、洪水に飲み込まれる、あるいは船が沈んだ結果、あるいはその他、どのような手段によるものであっても、とにかく水の中、そして水の下に入ってしまうことを指し示している。」(Jarrel, W.A. Baptizo-Dip-Only. Dallas: The Texas Baptist Book House, 1910,P.101)このギリシャ語の動詞「バプティゾー」が示す、浸礼についての強調点は、浸礼という行為そのものよりも、その結果に置かれています。聖書、あるいは他のギリシャ語の用例を見ると、この動詞は、あらゆる種類の「浸す」という行為に対して用いられています。例えば、美しい染め物の衣類を買おうとする人は、それがどうやって染められたかという方法より、その出来栄えがどうであるかということが重要になります。洗礼についても同じです。その方法はこうである、いやあれが正しいという論争よりも、受洗者が洗礼を受けた結果、その歩みがみことばに従ったものになっているか、主イエスに浸り切った生活をしているかの方が、はるかに重要な意義をもっているのです。デイヴィッド・モッカリーは「新約聖書以外の文献では、『バプテスマ』という単語は、洗礼という外面的な行為だけでなく、その内面的な変化と、その行為がもつ力を示している」と述べています。この説明は、洗礼に関する神の御心を適切に表現していると思います。神は常に、外面的な結果に伴う内面的な変化を求めておられます。それはまた、私たちが実際的に主に従順であることを通して、神が内面的な実質さを与えてくださることにつながるのです。新約時代以前洗礼は、バプテスマのヨハネが始めたわけではありません。それ以前、何世紀もの間、儀式的なきよめの行為として、ユダヤ人の間で行われてきました。ウィリアム・ランプキンは述べています。「洗礼の前身となる例は、ユダヤ人の宗教行為の中に見いだすことができる。東洋のほかの宗教にも儀式的な沐浴はあるが、ユダヤ教では、この、“水を用いてのきよめ”、あるいは“浸礼”は特別な位置を占めている。」(Lammpkin, William. The History of Immersion, Hashiville: BroadmanPress, 1962, P.5)古代のイスラエルの沐浴ミクヴェと呼ばれる水槽にはさまざま形態があった浸礼を用いる最も重要な機会は、恐らく、「(神への)回帰」を表すものでしょう。ランプキンは記しています。「キリスト教の時代以前、ユダヤ人は、一つの生き方から、もう一つ別の生き方への立ち返りを記念するために、あるいは不敬虔な生き方から、真実な礼拝者となるための意思を明らかにするために、沐浴を用いた。」(Lumpkin,P.5)。自発的に神への立ち返りを願う者たちに、浸礼を施すことが適切であるという理解は、当時、確立していたようです。G・R・ビーズレイ・マレイは、以下のように説明しています。「……水による儀式的なきよめは、記録にないほど遠い昔から行われていた。例えその歴史の大部分が忘れ去られても、(現在の教会において)洗礼という形で、力強く生き残っているのである。」(Baesley-Murray, G.R. Baptism in the New Testament. Grand Rapids: Edermans Publishing, 1962 P.1)現代でも、超正統派と呼ばれる熱心なユダヤ教徒は、安息日や祭りの日の前に、ミクヴェ(ユダヤ教できよめの儀式に使われる水槽)に身体を浸すという古い習慣を守っています。また、トーラー(『モーセ五書』)の巻物を書写する書記たちは、仕事に取り掛かる前に、まず自分の体を水に浸してきよめます。(Kolatch, Alfred. The Jewish Book of Why. NewYork: Jonathan David Publishers, 1985, P.123)旧約聖書では、レビ記、民数記に、浸礼による儀式的なきよめについて言及がなされています。トーラーを守る大部分のユダヤ人は、今日でもそれを守っています。ドッケリーは次のように指摘しています。「ユダヤ教におけるきよめの儀式は、主に仕えるために身を清潔にし、神にふさわしい者となる、ということを重点においていた。(レビ記13-17章、民数記19章)」(Dockery, David Baptism in the New Testament, Southwestern Journal of Theology, XLII:2 (Spring2001): 4-16, P.6)新約聖書でも、マルコ伝7章1-5節、ヘブル書9章19-20節において、きよめの水といけにえの血による、儀式的なきよめについて言及しています。しかしそれ以前、水の中に完全に身を浸すという、ユダヤ人が行っていた一般的なきよめの中にも、すでに、“神への個人な立ち返りを証しする”という性質は十分にあったのです。バプテスマのヨハネの洗礼では、バプテスマのヨハネの洗礼は、どこから来たのでしょうか。イエスも同じ質問をなさいましたから(マタイ21:25)、その答えは非常に重要でした。主は、バプテスマのヨハネの洗礼は、天からのものなのか、それとも人間に由来するものなのか、エルサレムの神殿の庭にいた祭司長、長老たちに質問されました(マタイ21:23-27)。どちらか一方、あるいは両方だと言えるでしょうか。ここでイエスははっきりと正解をおっしゃることはせず、聴衆たちへの宿題とされました。それよりもさらに大きな問題は、バプテスマのヨハネは何者だったのか? ということだと思います。1948年、イスラエル建国とほぼ同時に、死海のほとりのクムランの地で発見されたのが「死海写本」でした。これらの聖書の巻物や教典は、新約時代に存在していた「クムラン教団」と呼ばれる、当時のユダヤ教の一派によって書き残されました。彼らが、当時「エッセネ派」として知られていた教派の先駆者であったことを示す、強力な証拠があります。バプテスマのヨハネが、荒野にいたこの教団から強い影響を受けていたことは、ほとんど疑う余地がありません。ビーズレイ・マレイは、洗礼の原型に関する研究の結果として、バプテスマのヨハネについて、深い洞察を提供しています。「ユダヤ教で長年行われてきた儀式的な沐浴の習慣が、裁きとあがないの預言と結び合わされ、イスラエルの救いを待ち望んでいた人々に、ヨハネによって、洗礼という手段で提示された。その手段は、彼が期待した以上の成功をもたらした。すなわち、その手段に救い主(イエス)ご自身が身をお委ねになったことで、(その道に従う)神の国に属する人々に、権力をお与えになったのである。」(Beasley-Murray,P.44)。神は、その無限の知恵によって、人間の歴史の中で御業を進められ、神の預言者であり、しもべであるヨハネを通して、洗礼という手段によって、天と地を結び合わせたのです。********(転載ここまで)このように「洗礼」は、主に仕えるために身を清潔にし、神にふさわしい者となるために、神への個人的な立ち返りを証しする行為だと言えるでしょう。霊肉魂共に清らかな状態を保つことで、神様の霊と繋がりやすくすること。それが「洗礼」の本質であり、そのことを示しているのがエゼキエル書16章9節だと言えるのです。そしてさらに、エゼキエル書16章9節の末尾には、「・・・あなたに油を塗った。」という表現も加わっております。この「油を塗る」という表現に近いものとして、「油を注ぐ」という言葉が、聖書の至る所に出て来る点も、見逃してはなりません。これについても調べてみることにします。(ここから転載)********油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは?油を注ぐという行動は元々羊飼いがする物でした。羊の毛の中にシラミなどの虫が入ってしまう事がしばしばあり、これらの虫は羊の耳に入り込んで羊の死因となる事があるのです。ですから、古代の羊飼いたちは羊の頭に油を注ぎ、虫が油で滑るようにして虫が羊の耳に入る事を予防していました。これから油を注ぐという行動は祝福、守りと力を与える事の象徴となったのです。新約聖書のギリシャ語で油を注ぐという動詞はクリオであり、「油を擦り付ける」という意味があり、また「宗教的役割を与え、とり分ける」というニュアンスがあります。もう一つの単語はアレイフォという物で、これもまた「油を注ぐ」という意味でした。聖書の時代に人々が油を注がれるとそれは神の祝福や召しを示していました(出エジプト29:7; 40:9; II列王記9:6; 伝道者9:8; ヤコブ5:14)。人々は王、預言者や建築家など、特別な役割や目的のために油を注がれたのです。現代に油を注ぐ事は決して間違ってはいませんが、誰かに油を注ぐ際に、その理由が聖書のそれと同じであるように気をつける必要があります。油を注ぐ事は「魔法の薬」のようにみなされるべきではありません。油を注ぐという行動自体には何も力はありませんし、特別な目的のために人に油を注ぐ事ができるのは神のみであり、油を注ぐという行動は神による働きを象徴しているだけなのです。油を注がれた者には「選ばれた者」という意味もあります。聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。キリストはこの世を去ってから、聖霊を下さいました(ヨハネ14:16)。よって全てのキリスト者は神によって油注がれた者であり、御国を建設するという目的をもっているのです(Iヨハネ2:20)。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(IIコリント1:21-22)*******(転載ここまで)以上のことから、「油を注ぐ」=「油を塗る」とは神様から祝福され、守りと力を与えられることの暗喩的表現であることがわかります。元々神様は、ユダヤ人たちに対して「油を注がれた者」として祝福されていたわけです。にも関わらずユダヤ人は、神様に対して反逆の歴史を繰り返すという愚を犯してしまったがために、さばきを受けることになりました。そして、そんなユダヤ人と同じ誤ちを犯し続けて来たのが私たち日本人です。だから今、コロナ騒動で世の中がかき乱され、多くの人々が苦しみに喘いでいるのです。もういい加減に気付くべきです。今のこの事態は、神様の心情を汲み取れなかった私たちの罪から来ているということを…。神様の憤りの歴史に終止符を打つ事ができるように 、私たち自身が変わらなければならないということを…。自分の利得ばかりを追い求め、快楽に溺れ、サタンに魂を売るという堕落した生き方から、おさらばするのです。何事も人間の力だけでやり遂げられるという高慢さを捨て、謙虚な気持ちで神様に立ち返る必要があるのです。そして、神様の心情を汲み取り、神様が喜ばれる道を人類が進んで行くことが何より大切です。神様が望まれる道とは、悪を排除し、神様と義人が統治する世界を築くことです。いつまでも、悪人がのさばっているような世界ではいけないのです。見ざる・言わざる・聞かざるの猿のままではいけないのです。日本人は猿と同等と見られてはいけないのです。日本人のことを「イエロー・モンキー」と差別する発言の中に、実は的を得ている所もあるということを、日本人自身が気付かなければならないのです。闇雲に、彼らが日本人を揶揄し、差別しているわけではないのです。自分の身に不利益が被ることを恐れ、それが悪いことだと知りながら、その悪事に対して目を外らし、お上に対して噛み付く勇気すら萎えてしまっているのが、私たち日本人なのです。只々おとなしく、お上の言う事に聞き従っておれば、全て安泰だという奴隷根性から中々抜け出すことができないのが、私たち日本人の悪い所です。「じゃあ、そんな偉そうなことを言っているお前はどうなの?」と聞かれれば、私自身も、そんな日本人の一人であることを否定しません。今語っていることは、自分自身に対して、自責の念を込めて言っていることでもあるわけです。何とかして、己の勇気の無さ、度胸の無さ、決断力の無さ、行動力の無さから脱皮したいのです。だけど、一歩が踏み出せない…。しかし、ここに至っては、そんな悠長なことを言っていられる場合では無いのです。このままでは、本当に日本が滅んでしまうという危機感が益々募るばかりです。こんな自分でも、今、何か行動を起こさないと後で後悔すると思うのです。そんな気持ちでたどり着いたのが、RAPTさんの「御言葉」です。こんな勇気の無い、情けない自分でも、とりあえず今、できる事があるのだということに気付かせてくれたのがRAPTさんです。人間の力だけではどうにもならない事は、神様に委ね、祈り求めれば良いということを…。祈りの力で、世の中を変革することだってできるのだということを…。私のように危機感を持っている人の中で、居ても立っても居られない、だけど何から始めたら良いか分からないといった人が、きっとおられると思います。そのような人にお勧めしたいのは、RAPTさんの「御言葉」です。是非、今すぐ「御言葉」に触れてみてください。今の自分でも、できる事があるのだという希望と勇気を与えてくれることでしょう。どうか神様。今起こっている戦争に勝たせてください。イルミナティを滅ぼしてください。完全なる勝利だと言えるように勝たせてください。日本だけでなく、世界中の人々が喜びと希望に満ち溢れ、滅びの道ではなく、繁栄の道へと突き進んで行くことができますように、心から祈ります。私たちの祈りをどうか聞き入れてください。一刻も早く、コロナ騒動とワクチン殺戮が終焉し、イルミナティがこれまで犯した数々の罪悪全てが暴露されますことを強く求めます。神様と義人がこの世を統治し、悪人が滅び去って行く世の中となりますよう心より祈ります。地上天国が成就し、神様の憤りの歴史に終止符を打つことができる日が来ることを切に願います。そして、多くの人々が神様と繋がり、神様と愛を成し、完全なる真理を悟ることができますよう導いてください。人々の霊魂を、神様の愛で満たしてください。快楽に溺れることなく、霊性を高め、「空虚なもの」を追い求める人生ではなく、「充実したもの」を獲得できる人生となりますよう心より願います。これから、もっともっと祈りますので、私たちの霊魂の乾きを潤してください。神様の恵みによって、霊肉魂全てが満たされますことを切に願います。そして、どうか神様。中心者RAPTさんをお守りください。RAPTさんが私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。RAPTさんの活動を妨害する工作員や集団ストーカーたちを裁いてください。中国マフィアである李家、創価学会、群馬人脈、イルミナティ・サタンを滅ぼしてください。そして、十二弟子の皆さんや全国の兄弟姉妹たちが天に富を積み、豊かな聖霊で満たされ、多くの人々を救うことのできる者となれますよう心から祈ります。これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それでは次に、「エゼキエル書」に移りましょう。15〜16章を紹介します。(旧約聖書〈新改訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エゼキエル書 15章1 次のような主のことばが私にあった。2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、他の木よりどれだけすぐれているのか。3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。4 見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。5 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、それで何が作れよう。6 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエルサレムの住民を、わたしがたきぎとして火に投げ入れた、森の木立ちの間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう。7 わたしは彼らから顔をそむける。彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう。わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。8 彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。—神である主の御告げ—エゼキエル書 16章1 ついで、私に次のような主のことばがあった。2 「人の子よ。エルサレムにその忌みきらうべきわざをよく知らせて、3 言え。神である主はエルサレムについてこう仰せられる。あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。4 あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。5 だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。6 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。7 わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたはまる裸であった。8 わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。—神である主の御告げ—そして、あなたはわたしのものとなった。9 それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。10 わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。11 それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、12 鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。13 こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。14 その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。—神である主の御告げ—15 ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。16 あなたはまた、自分の衣服のいくらかを取り出して、自分のために、まだらに色どった高き所を造り、その上で姦淫を行った。こんな事はあったことがなく、あってはならないことだ。17 あなたは、わたしが与えた金や銀の美しい品々を取って、自分のために男の像を造り、それと姦淫を行った。18 あなたはまた、あや織りの着物を取って、それをおおい、わたしの油と、わたしの香とをその前にささげた。19 あなたは、わたしが与えたわたしのパンや、あなたに食べさせた上等の小麦粉や、油や、蜜までも、その前にささげてなだめのかおりとした。そうしたのだ。—神である主の御告げ—20 あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像のいけにえとしてささげて食べさせた。あなたの姦淫はささいなことだろうか。21 あなたは、わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。22 あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった。23 あなたはこのすべての悪行の後—ああ、わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ—24 あなたは自分のために小高い家を建て、どこの広場にも高台を造り、25 どこの辻にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて自分の美しさを忌みきらうべきものとした。26 あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねてわたしの怒りを引き起こした。27 見よ。わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎む者、あなたのみだらな行いによってはずかしめを受けたペリシテ人の娘たちの思いのままに、あなたを任せた。28 あなたはそれでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通した。彼らと姦通しても、まだあなたは飽き足らず、29 商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足らなかった。30 なんとあなたの心は、あえいでいることよ。—神である主の御告げ—あつかましい遊女のするようなこれらのことをことごとく行って。31 あなたは、どこの辻にも自分の小高い家を建て、どこの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬をあざけったので、遊女のようではなかった。32 姦婦は、自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。33 遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。34 だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。35 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。36 神である主はこう仰せられる。あなたは、愛人たちや、忌みきらうべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしい所を見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子をささげて血を流したため、37 それゆえ、見よ、わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出し、彼らにあなたの裸をすっかり見せよう。38 わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ。39 わたしは、あなたを彼らの手にゆだねる。彼らはあなたの小高い家をくつがえし、高台をこわし、あなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたをまる裸にしておこう。40 彼らは集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを切り倒そう。41 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの見ている前であなたに を下そう。わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう、報酬を支払わなくなろう。42 わたしは、あなたに対するわたしの を静め、わたしのねたみをあなたから遠のける。わたしは心を休め、二度と怒るまい。43 あなたが、自分の若かった時のことを思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行いを返す。—神である主の御告げ—あなたはすべての忌みきらうべきわざに、みだらな行いを加えることは、もうすまい。44 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いよう。『あの母だから、この娘』と。45 あなたは自分の子どもをきらった母の娘。自分たちの夫や子どもをきらった姉妹があなたの姉妹。あなたがたは母はヘテ人、あなたがたの父はエモリ人であった。46 あなたの姉は、その娘たちといっしょに、あなたの左に住んでいるサマリヤであり、あなたの妹は、その娘たちといっしょにあなたの右に住んでいるソドムである。47 あなたは、ほんのしばらくの間だけ、彼らの道に歩まず、彼らの忌みきらうべきわざをまねなかったが、ついにあなたのすべての道において、彼らよりも してしまった。48 わたしは誓って言うが、—神である主の御告げ—あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。49 だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。50 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。51 サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌みいらうべきことをしたので、あなたのしたすべての忌みきらうべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。52 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥を負え。あなたが彼女たちよりももっと忌みきらうべきことをして罪を犯したため、彼女たちがあなたよりも正しいとされたからだ。あなたもはずかしめを受けよ。あなたの姉妹たちを正しいとしたあなたの恥を負え。53 わたしは彼女たちの を元どおりにする。ソドムとその娘たちの繁栄、サマリヤとその娘たちの繁栄、また彼女たちの中にいるあなたの繁栄を元どおりにする。54 それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである。55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは、もとの所に帰り、サマリヤとその娘たちも、もとの所に帰り、あなたとあなたの娘たちも、もとの所に帰って来る。56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。57 しかしそれは、あなたの悪があばかれる前のことであって、今はアラムの娘たちや、その回りのすべての者、およびあなたを回りから侮るペリシテ人の娘たちのそしりとなっている。58 あなたは、自分のみだらな行いと忌みきらうべきわざの報いを受けている。—主の御告げ—59 まことに、神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った。60 だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。61 わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行いを思い出し、恥じることになろう。62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。63 それは、わたしが、あなたの行ったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。—神である主の御告げ—」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(エゼキエル書 15〜16章より)今日は、ここまで。(2022.2.7)