疑いながら信仰する人は、確信に基づいて行動していないので、その信仰は、まがい物であり罪に値する。
今回は、「ローマの信徒への手紙14章」の内容について考察したいと思います。但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に叶った文章が書けるよう導いてください。神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。前回、このブログで「ローマの信徒への手紙 14章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。「ローマの信徒への手紙14章」では、大きく二つのテーマで書かれています。一つ目は「兄弟を裁いてはならない」、二つ目は「兄弟を罪に誘ってはならない」です。まずパウロは、ユダヤ人と異邦人に対して「兄弟を裁いてはならない」と諭します。(14章1〜12節)・・・1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。・・・・・・・・・・・・上記の聖句は明らかに、ユダヤ教の戒律を意識して書かれたものであることがわかります。ユダヤ教の代表的な戒律は、安息日とカシュルートという食事の戒律です。安息日という戒律はユダヤ人が神の民だという記念日であり、金曜の日没から土曜の夕方までの一日の間、ユダヤ人はいっさいの日常の仕事に従事することを禁じられています。また、カシュルートは清浄な食物とそうでないものを明確にし、食物や調理の規範を示し、食事そのものを聖化することです。異邦人は、そんな戒律を持つユダヤ人を軽蔑してはならないし、また、ユダヤ人の方も、戒律を持たない異邦人を裁いてはならないと、パウロは両者が仲違いすることを戒めているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 (14章3節)神様は、ユダヤ人も異邦人もどちらも受け入れられたのだから、「もういい加減、兄弟喧嘩はやめなさい。両者とも自分の価値観を主張して相手を責めるのではなく、神様のために生きることに意識を向けて、それに専念しなさい。」とパウロは教え諭しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 (14章7〜9節)そして仮に、自分にとって良いと思われることを無理やり相手に強要すれば、その相手を罪に陥らせてしまうことになるから、「兄弟を罪に誘ってはならない」とパウロは注意喚起しています。(14章17〜23節)・・・17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。・・・・・・・・・・・・ここで特に重要なのは、(14章23節)です。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(14章23節)自分にとって良いと思われる生活規範を誘い、無理やり相手に強要すれば、その相手は確信に基づいて行動しているのではなく、疑いながら行動することになってしまうので、それは罪である。だから、相手を罪に陥らせてしまうような誘いや強要は慎むべきだとパウロは警告しているのです。しかしこのことは、食べ物などの生活規範についてだけを述べているわけではないと私は思います。各自の信仰のあり方について述べているのです。「疑いながら食べる人」を「疑いながら信仰する人」と読み替えても良いと思います。疑いながら信仰する人は、確信に基づいて行動していないので、その信仰は、まがい物であり罪に値するということです。各自の信仰が確信に基づいた信仰であるかどうかを問うているのです。自分の信仰が1ミリたりとも疑うことのない信仰であるかどうかを自問自答する必要があるのです。もし、少しでも疑いの気持ちが残っているのであれば、その信仰は、まがい物であり罪に値するということになります。神様のことを1ミリたりとも疑っていないか?聖書に書かれてあることを1ミリたりとも疑っていないか?「御言葉」を1ミリたりとも疑っていないか?中心者RAPTさんを1ミリたりとも疑っていないか?自分の信仰が1ミリたりとも疑うことのない信仰か?これらのことを自問自答することが大切です。すると私は、愕然とするのです。「1ミリたりとも疑うことのない信仰である」と、はっきり表明できない自分が心の中にいるのです。頭では神様を愛し「御言葉」に従うことの重要性を理解しているつもりでも、心の片隅に少しの疑いが混じり混んでいるのに気づくのです。1ミリたりとも疑うことのない信仰には、まだ至っていないことに気づくのです。このままでは、私は罪人となってしまいます。何をするにしても、心の中に「やましさ」を感じるのであれば、それは罪です。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(14章23節)嗚呼、神様。私のこの罪をお許しください。私の心の中の「やましさ」を消滅させてください。何の曇りもない、1ミリたりとも疑うことのない信仰だと表明できるまでに、私の霊魂を成長させてください。神様を一筋の心でまっすぐに愛することができる者となれますよう導いてください。私の信仰が確信に基づいた信仰であると、はっきり表明できるまでに成長させてください。私の心の中の「やましさ」は、サタンから来るものであることはわかっています。私には、サタンを打ち負かすだけの実力が、まだ充分に備わっていないのです。いまだにサタンの価値観に影響され、己の利得のために生きることを優先させてしまう自分がいるのです。神様のために生きる決心が、今にも崩れそうな自分がいるのです。どうか神様、己の心の中に潜むサタンに打ち勝ち、まっすぐな心で信仰できる者となれますことを心から祈ります。ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。○RAPT有料記事782(2023年10月14日)あなたがサタンの体になって働いた分、サタンはこの人なら自分のものにできると思って、あなたに関心を持ち、あなたに執着して離れなくなる。この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。(ここから転載)**********神様とサタンは、常に私たち人間の体の奪い合いをしています。神様は常に私たちの中に真理を入れて、私たちの体を神様のものにしようとしていますし、サタンは常に私たちの中に非真理を入れて、私たちの体をサタンのものにしようとしています。しかし、神様はあくまで私たち人類を愛してそうしているわけですが、サタンは愛など一かけらも持ち合わせていないので、ただただ醜悪な欲望によって私たちを自分のものにしようしているに過ぎません。特に簡単に非真理を受け入れ、いつもサタンの願う通りに悪を働く人を見ると、サタンはこの人なら簡単に自分のものにできそうだと思い、その人に異常な興味と関心を抱いて、その人にぴたりと張り付いて離れなくなります。変態的な性欲をもった人間が、誰かを好きになると、異様なまでの執着心をもって、その人に絶えずつきまとうようになるのと同じことです。逆にサタンがどんなに誘惑したり攻撃したりしても、常に真理だけを受け入れて、神様の願うことを行う人を見ると、サタンはその人を自分のものにすることはできそうもないと思って諦め、いずれその人から離れていきます。そうすると、神様がその人をご自分のものとして使い、その人とともにご自身の御心を成されていかれます。皆さん一人一人が、常に神様の体となり、神様とともに主の御心を成して、サタンとは全く縁のない、祝福された幸福な生を生きられますことを心から祈ります。**********(転載ここまで)この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。聖なる神様。ありがとうございます。聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、疑いながら信仰する人は、確信に基づいて行動していないので、その信仰は、まがい物であり罪に値するということを知りました。そして、私の心の中に「1ミリたりとも疑うことのない信仰である」と、はっきり表明できない自分がいることに気づきました。このままでは、私は罪人となってしまいます。どうか神様、私のこの罪をお許しください。私の心の中の「やましさ」を消滅させてください。何の曇りもない、1ミリたりとも疑うことのない信仰だと表明できるまでに、私の霊魂を成長させてください。神様を一筋の心でまっすぐに愛することができる者となれますよう導いてください。私の信仰が確信に基づいた信仰であると、はっきり表明できるまでに成長させてください。私の心の中の「やましさ」は、サタンから来るものであることはわかっています。私には、サタンを打ち負かすだけの実力が、まだ充分に備わっていないのです。いまだにサタンの価値観に影響され、己の利得のために生きることを優先させてしまう自分がいるのです。神様のために生きる決心が、今にも崩れそうな自分がいるのです。どうか神様、己の心の中に潜むサタンに打ち勝ち、まっすぐな心で信仰できる者となれますことを心から祈ります。先ずは自分の限界を突破しなければなりません。霊肉ともに、サタンの価値観から抜け出せるように懸命にもがきます。そうしていつかきっと、サタンに完全に勝利し、神様のようになり、人間の領域から出てきて、神様の領域に入ることができますことを心から祈ります。私たち一人一人が、常に神様の体となり、神様とともに主の御心を成して、サタンとは全く縁のない、祝福された幸福な生を生きられますことを心から祈ります。多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。私たち一人一人がRAPTさんの「御言葉」を通して、より一層自分の中を真理で充満させ、霊肉ともに成長して、神様の栄光を現す者となれますよう導いてください。そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様に祝福がありますように。(2023.11.18)