成約時代には、成約時代に相応しい信仰の模範となる人物が求められる。
今回は、「ローマの信徒への手紙4章」の内容について考察したいと思います。前回、このブログで「ローマの信徒への手紙 4章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。「ローマの信徒への手紙4章」では、大きく二つの事柄について書かれています。一つは「アブラハムの模範」について、そしてもう一つは「信仰によって実現される約束」についてです。ここでは、「アブラハムの模範」に焦点を絞って考察していきたいと思います。まずパウロは、4章の冒頭からアブラハムを引き合いに出して「信仰による義」について語り始めます。(4章1〜3節)・・・1では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。2もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。3聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。・・・・・・・・・・神様がアブラハムを義とされたのは、「行い」によってではなく、「神を信じた」からだということです。「行い」は、目に見える形でハッキリと表に現れる行為です。対して「信仰」は、神様と信仰者本人との間で交わされる愛に基づいた疎通行為です。それは、第三者が知ることも立ち入ることもできない、神様と信仰者だけの関係性を築くことです。以前このブログで述べたように、「信仰」とは神様を信じ、神様の愛に報いるように生きることです。それは、偽善者のように、人前で自分が信仰者であることを、わざわざ派手にアピールする必要はありません。むしろ神様は、人の見ていない所でも、如何に神様を一筋の心で愛しているかをご覧になられる方です。よって、いくら人前で良いことを行なっても、「信仰」がなければ神様に何の感動も与えません。逆に、少々「行い」に問題があったとしても、誰よりも一筋に「神を信じた」のであれば、義人として迎え入れられるということです。ハッキリとは書かれていませんが、パウロはアブラハムのことを完璧な「行い」ができた人物だったとは述べていません。むしろ、彼の「行い」に、いくつかの問題があったことが、下記の文章から垣間見えてきます。(4章4〜8節)・・・4ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。5しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。6同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。7「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。8主から罪があると見なされない人は、幸いである。」・・・・・・・・・・・つまり、アブラハムの「行い」に多少の問題があっても、神様を信じるという点においては、誰よりも模範的であったので、彼は「不法が赦され、罪を覆い隠された人」であり、主から罪があると見なされることは無く、幸いな人だと述べているのです。そして、そのようなアブラハムを信じる人も、その信仰が義と認められると述べているのです。では、アブラハムが信仰においては誰よりも模範的な人物であったことを知るには、どこを探せば良いでしょう?例えば、「創世記」(12章1〜4節)を見てみましょう。「創世記」(12章1〜4節)・・・1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。・・・・・・・・・・・・・・・アブラハムが神様の神託を受けて、生まれ故郷ハランを離れ、神様が示す地へ向かったのは七十五歳の時です。おそらく当時の彼は、生まれ故郷で放牧を生業とし、それなりに幸せな生活を送っていたと想像できます。いくら神様の信託だとはいえ、それに素直に従うことが誰にでもできることでしょうか?いくら移り住む先で祝福があると告げられたとはいえ、猜疑心を抱くことも無く、素直に実行に移せるでしょうか?もし今の私なら、現在の安定した生活から離れ、神様が示された新天地へと潔く向かうことは、おそらくできないと思います。これは相当勇気と覚悟のいる決断だと思うのです。その決断ができるということは、それだけ彼の神様への信仰が確かなものである証拠と言えるでしょう。神様が言われることは、何が何でも一番に聞き従うという姿勢がそこに見られます。逆に、それができない今の私は、まだまだ心の底から神様を信じてはいないという証拠になるでしょう。そして、私とアブラハムとの決定的な違いは、彼と神様との関係が半端なく濃密であり、いとも簡単に彼は神様と疎通できてしまうことです。聖書を読むと、アブラハムの傍には、いつも神様がおられるような感覚で彼は神様と会話を交わしています。そして、神様の方も必要な時には即座にアブラハムの所へ降りてこられ、様々な啓示を彼に示されるのですから、第三者では計り知れないような信頼関係が結ばれていたのだと思います。また、「創世記」(22章2節)では、次のような神託をアブラハムは受けます。「創世記」(22章2節)・・・2神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」・・・・・・・・・・・・・・アブラハムと正妻サラとの間にできた一人息子であるイサクを、事もあろうか「焼き尽くす献げ物」、つまり生贄としてささげなさいと神様はアブラハムに命じられたのです。私からすれば、なんと無慈悲なことを神様は要求されるのかと、むしろ怒りの感情が込み上げてくるところだと思います。ひょっとしたら彼の心の中にも、何らかの葛藤があったのかもしれません。しかし、聖書を読む限り、アブラハムは私のような反発心を持つこともなく、神様の命じられたことを淡々と実行しようとするのです。薪の上に載せられたイサクにいざ手をかけようとしたその瞬間、次のような神の御使い(天使?)の声が彼は聞こえてきたのです。「創世記」(22章12節)・・・12御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」・・・・・・・・・・・・・・・ここにおいても、アブラハムの信仰が、どれほど深いものであるかを窺い知ることができます。神様に感動を与える程の信仰を彼は持ち合わせていたということです。神様を何の疑いもなく真っ直ぐに信じ続けること。神様の言われることは100%正しいと信じられること。その信仰の強さは、誰にも勝る偉大なものであったということです。なので、パウロがアブラハムを信仰の模範として引き合いに出したのも頷けます。そして、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受ける前だったことから、割礼を受けていない人にとってもアブラハムは信仰の模範となる存在だとパウロは述べるのです。このことは、2023年に生きる私たちにとっても当てはまります。つまり、旧約時代のアブラハムを信仰の模範となる人物であることを、今の時代に生きる私たちも忘れてはならないということです。但し、旧約時代と成約時代とでは、あまりにも時代がかけ離れ過ぎていて、いくらアブラハムが信仰の模範だと言われても、今一つ現実味のある話として現代人の心に響いて来ません。どこか馴染めない、どこか遠い国のおとぎ話的な人物に捉えてしまうのは、私だけでしょうか?現代に生きる私たちの心にも届くような信仰の模範となる人物が必要ではないでしょうか?成約時代には、成約時代に相応しい信仰の模範となる人物が求められるのではないでしょうか?幸いなことに、そのような人物がこの日本におられます。信仰の模範となる方が、この日本に実際におられるのです。お察しの通り、それは中心者RAPTさんのことです。RAPTさんは、私たちが目指すべき信仰の基準を身を持って体現されている方であり、私たち信仰者にとって模範となる方です。RAPTさんは、私たちが想像もできないような祝福と恵みを神様から受け取っておられます。もちろん、そこに至るまでの道のりは、たいへん険しいものがあったと思います。そこに至るまでには、様々なもがきが必要であったと、ご自身も述べられています。どんなにサタンや悪人から攻撃を受けても、決して屈することなく、それどころか逆に「御言葉」の力によって敵を打ち負かしてしまうほどのパワーの持ち主です。言うまでもなく、そこには神様の御力が働いていることは疑いの余地はありません。RAPTさんの「御言葉」によって、ご自身の体験談を私たちにわかり易く伝えてくださっています。まさにRAPTさんは、現代に生きる私たちにとって信仰の模範となる存在であり、決しておとぎ話に登場するような夢物語ではなく、リアルな体験を語ってくださっています。どうしたら神様と疎通することができ、どうすれば神様を第一に愛することができるのか。どうしたら神様の祝福と恵みを授かることができるのか。どうしたら非真理に惑わされることなく、真理で充満させることができるのか。どうしたら、神様の御心を成すことができ、地上天国を成就することができるのか。等々、神様の壮大な歴史を紐解きながら、懇切丁寧に語ってくださっています。ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。○RAPT有料記事771(2023年9月2日)神様が遣わした使命者の次元を正確に把握してこそ、使命者と同じもがきをして、使命者と同じ次元に到達し、使命者と同じ祝福を受けられる。この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。(ここから転載)**********神様はこれまで各時代に使命者を送って、神様の歴史を成してこられましたが、今、この時代に、神様は聖書の締めくくりを成す最後の使命者を送ってくださいました。その使命者が生まれた時代と、同じ時代に生きる人たちはとても幸いな人たちです。その人たちは、人類がこれまで誰も受けることのできなかった祝福と恵みを受けて生きられるからです。後世の人たちも、使命者の伝えた御言葉に聞き従うことで、様々な祝福と恵みを豊かに受けることができますが、彼らは中心者と直接話をしたり、中心者を直接見たり、中心者と直接何かやりとりすることはできず、そこから受ける祝福と恵みを受けることができません。そして、この違いはとても大きな違いです。イエス様の生きていた時代に、イエス様に直接出会い、直接イエス様から話を聞いたり、何かをしてもらったりする恵みと、ただイエス様の言葉に聞き従って受ける恵みは全く違います。ですから、今の時代も、使命者と同じ時代に生きている人たちが本当に幸いな人だと言えますし、同時にとても大きな責任を負っているとも言えます。その人たちが、中心者から直接学んだことを後世の人たちに述べ伝えていかなければならないからです。使命者と同じ時代に生きる皆さんが、使命者のことを正しく理解し、使命者から受けるべき全ての祝福と恵みを受けて、この世の多くの人々にそれら全てを余すことなく述べ伝え、神様の歴史を大きく広げることができますことを心から祈ります。**********(転載ここまで)この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。聖なる神様。ありがとうございます。聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、成約時代には、成約時代に相応しい信仰の模範となる人物が求められることを悟りました。そして、その人物こそ中心者RAPTさんであることを「御言葉」を通して確信するようになりました。旧約時代において、アブラハムが信仰の模範となる人物であったように、成約時代においては、RAPTさんこそが私たち信仰者にとっての模範であり、目指すべき基準となられる方です。どうか神様。私も含め多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。神様と聖霊様が用意して下さった救いと祝福を余すことなく受けることができるように、「御言葉」を悟らせてください。全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。私たち一人一人がRAPTさんの「御言葉」を通して、より一層自分の中を真理で充満させ、霊肉ともに成長するために、いつかRAPTさんから直接学ぶ機会が得られますことを心から祈ります。そして一刻も早く、私たち一人ひとりの祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様に祝福がありますように。(2023.9.3)