前回は、『新約聖書』に掲載されている「ローマの信徒への手紙2章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「ローマの信徒への手紙3章」の本文を紹介したいと思います。

 

本書簡の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いです。

 

パウロは、ユダヤ人にも異邦人にも己の驕り高ぶりを戒め、イエス様の教えに立ち返るように求め、人が義と決定させられるのは,神様の恩寵のみによることを力説しています。

 

以下は、「ローマの信徒への手紙3章」の本文のみを掲載することに留め、3章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(旧約聖書続編〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ローマの信徒への手紙 3

1では、ユダヤ人の優れた点は何か。

割礼の利益は何か。

2それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。

まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 

3それはいったいどういうことか。

彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 

4決してそうではない。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

5しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。

人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。 

6決してそうではない。

もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。 

7またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 

8それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。

わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

 

正しい者は一人もいない

9では、どうなのか。

わたしたちには優れた点があるのでしょうか。

全くありません。

既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 

10次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。

一人もいない。

11悟る者もなく、神を探し求める者もいない。

12皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。

ただの一人もいない。

13彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。

14口は、呪いと苦味で満ち、15足は血を流すのに速く、16その道には破壊と悲惨がある。

17彼らは平和の道を知らない。

18彼らの目には神への畏れがない。」

19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。

それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 

20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 

信仰による義

21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 

22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

そこには何の差別もありません。 

23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 

25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。

それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 

26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

27では、人の誇りはどこにあるのか。

それは取り除かれました。

どんな法則によってか。

行いの法則によるのか。

そうではない。

信仰の法則によってです。 

28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 

29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。

異邦人の神でもないのですか。

そうです。

異邦人の神でもあります。 

30実に、神は唯一だからです。

この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 

31それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。

決してそうではない。

むしろ、律法を確立するのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ローマの信徒への手紙3章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2023.8.18)