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Dance Dance Dance .........

バレエ、モダンダンス、ジャザサイズ、ビオダンサ…。
これらは私の踊りの履歴です。
私が生まれた大洲という小さな町に1カ所だけあった小さなバレエ教室。ここが私の踊りのスタート地点でした。
その教室は、今「おはなはん通り」という観光スポットになっている場所の古い土蔵の2階にありました。
たまに田舎に帰ると、白壁がはげかかった土蔵を「風情がある」と見上げる観光客を横目で見ながら、「ふふふ…、以前ここで子どもたちがバーレッスンをしていたとは思うまい(^^)」と、一人ほくそ笑んだりしています。
その頃の一番の楽しみは、やはり発表会。
田舎に置くのがもったいないほどオリジナリティにあふれた今村先生は、ジャングル大帝(富田勲さん作曲のダイナミックなシンフォニー)やチキチキバンバンなどの曲を振り付けて、発表会用の作品に仕上げていました。
発表会で、フリルやチュールがヒラヒラ、スパンコールがキラキラした衣装を付け、目が1.5倍くらいに大きく見えるえぐいお化粧を施してもらうことは、私の顕示欲を十分に満足させてくれました。

長崎県の引っ越した先でのバレエの先生は、オーソドックスにくるみ割り人形などを発表会の題材にする方でした。
バレエそのものは楽しかったのですが、周りの友達の間では少年合唱団が流行だったので私も入団を希望し、「赤ずきんちゃん」を最後の舞台として、合唱団と稽古日が同じだったバレエをやめました。

それからしばらくは踊りから遠ざかり(ピンクレディのまねはしてましたが(^^;))、大学でモダンダンスサークルに入部。ここで、踊りを再開。
社会に出てからもちょろちょろモダンダンスの教室に通ったり、ソーシャルダンスにトライしてみましたが、何となくしっくりこなかったところに知ったのがジャザサイズ。
ジャズダンスとエアロビをミックスしたもので、アメリカで流行のテンポの速い曲がどんどん切り替わり、それに合わせて振りもどんどん変わっていきます。ステップなどがそんなに複雑でなく、順番を覚えなくてよいので、簡単に「踊った!」という満足感が得られるところが売り。
これには結構はまっていて、足かけ4年くらいはやっていたんじゃないかな。
ただし、自分の表現としての「踊り」ではないので、どこかで物足りなさを感じていました。

そして出会ったのがビオダンサ(Biodanza)。南米の心理学者がつくったダンスワークショップシステムで、人に見せるのが目的ではない、自分自身のために自分の表現をするためのダンスです。
1年半か2年ほど、夢中になってどっぷりはまりましたが、ちょっとしたきっかけでBiodanzaから離れることに…。その後の4年弱ほどの年月は、もしかすると私にとって、一番の大きな深い変化の時期だったように思います。
そして、先週末と昨日、久しぶりにBiodanzaを体験しました。
Biodanzaは、身体だけでなく、心というか感情というかそういう部分を踊らせるダンスなので、その影響は、踊ったときよりもその後にあるように思います。今日、これまで自分の感情を頭で押さえ込んで、ため込んでいるものがあったことに気づきました。
もちろん、社会生活をする上において、時には…もとい、しばしば理性で感情を抑えることが必要です。でも、抑えてしまって、その感情に注意を払わないと、結局後から増幅されて味わい、辛い目に…(;_;)。
きちんと自分の感情を、その都度ケアすること。これが私には重要です。ダンスでの自己表現は、それを少し助ける役目を担ってくれるような気がします音譜

プロのお言葉「楽しんで学べ」

ふと、テレビをつけたら、茂木健一郎さんの「プロフェッショナル仕事の流儀」(NHK)がちょうど始まったところ。
今回のプロは、島根の公立中学校の英語教師 田尻悟郎先生。
私が今、難儀しながら学んでいる「英語」の先生とあって、そのまま最後まで番組を見ました。

田尻先生の英語の授業は、とてもとてもアクティブで、きちんとお行儀よく前を向いて板書を写し取ったりするシーンは、ほとんど出てきませんでした。しかも、テンポが速くざわざわ…。
先生曰く、教師=エンターテイナーだそうで、小道具満載のとことん楽しませる演出を考えられた授業です。
中には白ける生徒もいますが、授業の中で1対1のチャンスをつくり、きちんとその子と向き合う。間合いもきちんと図りながら、その子のペースで楽しめるまで「これでもか」と関わってくれる。
すごいパワーを感じました。それを自分も楽しんでいるところが、またいい感じ。こんな先生と出会えたら、子どもたちも幸せでしょうね。
ただ、先生のそんな姿も「暗黒の10年」という挫折を乗り越えてコツコツ培われたもの。やはり、地道な努力に裏打ちされたものは違います。見習わなくちゃね。

私の方の英語の学習は、とても同じレベルで語れる代物ではないけど、紆余曲折を経て、スタイルが固まってきました。
私が通っているスクールは、マンツーマンが売りのところ(^^;)。ネットで時間と先生を選んで予約することができます。
最初は、できるだけいろんな先生のレッスンを受けてみようと、時間ごとに変えていました。
そうしているうちに一通り制覇して(^^;)、慣れてきたら、今度は先生よりもテキストが気になります。
このテキストを、私はどうしても好きになれない…(__;)。
そこで、「私は私の話したいことを話せるようになりたい!」と一念発起し、「自分でその日のレッスンの元になる文章を書いていき、添削してもらって、それについて語る」というプランを立てました。

このプランを伝えるのに、また四苦八苦して、ようやく日本語のある程度わかる女性の先生にたどりつき、一安心。
その先生にずっとついてもよかったのですが、ある時、なかなかその方の予約が取れなくて、別の人を予約しました。
これが、今の先生のMatt。
奥さんが日本人という笑顔のやさしいオーストラリア人の男性で、ハリウッドで映画関係の仕事をしてたこともあり、学生時代の専攻は哲学という、なかなかのインテリです。
私が持参するテーマに結構興味を示してくれるので、なんとなく会話してるような気分にさせてくれ、私も彼が興味を持ちそうな題材を準備していったりして、レッスンを楽しめるようになりました。

英会話が身に付いたとは言えませんが、むちゃくちゃな英語でも話すことや、書くことに対する抵抗は減ってきたかも。
到達点までは遠いけど、少なくともその途中の道のりを楽しめるようになった。そんなところですおにぎり

せつなさ…かな…

なんなんでしょうね。
もの悲しいって感じかな。
ちょっとだけ泣いてみようか…なんて汗



















































































































































































































































































































































































































切ないぶどうと、いとおしいりんご

そろそろメンデルのぶどうが実をつけているかも…、ニュートンのりんごはどうなったかな…と気になり、ぶどうとりんごの様子を見に、小石川植物園に行って来ました。

真っ先にぶどうのところに向かうと、葉がところどころ黄色くなって、しかもたくさん虫に食われており、なんともしょぼい感じ…。
実は?と捜すと、やっとデラウェアよりも小さな青い実の房をみつけました。
何だか「切ない」という表現が似合い、早々と秋の風情を醸し出しています。

ぶどうの隣にあるニュートンのりんごはどうかと見ると、葉が茂っていてこちらは元気そう。
6月にみつけたりんごは…とさがしましたが、ない。
カラスに食べられたのか、すでに落ちてしまったのか…、「あら、そう…ないのね…」と再び切なさが…。
でも、一種の感動をもって見上げた小さな青いりんごは、もう自分の絵の中にしか存在しないのだなぁと思うと、目の前から消えてしまったりんごが、とてもいとおしく思えました。

このニュートンのりんごの絵は、次の個展で展示することになります。
これから、メンデルのぶどうも絵の中に記憶させたいと思いますリンゴぶどう

Personal Growth

昨日書いた記事から、ふと、またユング心理学に関する本を読み返してみようかな…と思っています。

私がブログにも何度か書いて気になっている
「絵を描く行為」
「絵の魅力」
「男女の性差」
これらを「無意識」の観点から見直すと、何か新たなものが見えてくるかもしれません。
「男女の性差」に関しては、ジェンダーにこだわってきましたが、こだわった結果、私としては「外からの刷り込み」だけでは説明できない「生まれ持った性差(優劣とは違います。念のため)」があるように思います。
ユング心理学では、夢の中の登場人物や物などを、元型(アーキタイプ)や象徴(シンボル)に当てはめて診断しますが、この「元型」が「生まれ持った性差」の謎を解いてくれるような気がするのです。
元型とは、シャドウ、ペルソナ、アニマ、アニムス、グレート・マザー、老賢人の6つ。
○アニマ…男性が無意識の中に持っている女性原理で、感情や情緒などに関わる役割を持つと言われています。男性の夢の中に女性が登場すると、だいたいアニマと考えます。
○アニムス…女性が無意識の中に持っている男性原理。知性や理念などに関わる役割を持つと言われています。女性の夢の中に男性が登場すると、だいたいアニムスと考えます。
自分の中のアニマやアニムスをうまく成長させて、バランスよくつきあっていくことで個人的な成長が実現できるようです。ちなみに女性の成長の究極的な目標がグレート・マザー(文字通り偉大な母)で、男性の究極目標は、老賢人(社会的な権威を超える仙人みたいな人)。

「絵を描く行為」に関しては、私の場合、どうやら絵を描くということ自体が「無意識」の表現というか出口につながっているようです。
絵を描かなくなった頃に、印象的な夢もいくつも見て、夢日記をつけはじめたのですが、悩み多い時期ほど、記録してある夢の数が多くなっています。

約20年ぶりに絵を描き出す1年前ほどには、非常に印象的なパワーのある夢を見ました。
  一人でジープを運転(実際には私はペーパードライバー)して、片側が斜面の未舗装の細い道を走っています。
  突然、斜面(かなり急勾配)をジープで駆け上り始めます。落ちるんじゃないかと非常に不安。
  斜面の上には柵があって、高速道路が通っています。
  私はジープのまま柵を乗り越え、高速道路にのります。ケガもなくあぁよかった。というところで終わり。
いま勝手な解釈をすると、再び描き出すパワーが斜面を駆け上るような勢いで無意識下に湧き上がっていたのかもしれません。
よく夢をみるという方、もしかすると無意識が出口を求めて、ドアをノックしているのかもしれませんよ。または、夢に意識を向けると無意識が夢を通して語りかけようとしてくるかもしれません。
夢にちょっとだけ関心もって、自分の心を見つめてみませんか?


描きだしたら、夢をあまりみなくなりましたが、もう一度私も興味向け始めたら、面白い深い夢*をみるようになれるかなぁ…(@ ̄ρ ̄@)zzzzぐぅぐぅ
*=夢には浅い夢、深い夢があると思ってます。深い夢の方が面白い!

いまを受け入れる

「いまを生きる」というロビン・ウィリアムス主演の映画があります。
全寮制エリート男子校に赴任してきた型破りな教師が、多感な生徒たちに「いまを生きる」ことを教え、生徒たちが生き生きと変化していく青春映画です。途中悲しい事件もあるのですが、全体的にはさわやかな作品。

先々週から、日曜の朝日新聞に精神科医の香山リカさんが連載してる「仕事力-あいまいも悪くない」という文章が気になっていて、2回目までを読んで浮かんだ言葉が「いまを生きる」ならぬ「いまを受け入れる」。
求人のページに書かれているので、主旨としては「『何が何でも自分の理想の仕事を見つけなきゃいけない』『誰かが自分の隠れた素質や才能をきっと見いだしてくれる』という幻想にとらわれずに、もう少し肩の力を抜いて仕事してみない?」というものですが、その中の「やりたいことは明確に意識できない」という見出しが気に入りました。

「意識」に対しては「無意識」という言葉がありますが、以前はまっていたユング心理学では、「意識」っていうのは氷山の一角で、その下に巨大な氷山である「無意識」が層を成しており、夜みる夢は、この無意識がみせる業なのだという考えをするようです。
「やりたいことは明確に意識できない」っていうのは、「自分でわかったつもりになっていたことなんか、本当はほんの一部分で、もっともっと広く深いものがあるんだよ」ということなんだろうと思います。

いろいろな体験を通して、少しずつ少しずつ自分の心の状態をさぐりながら生きていくことでしか、「無意識」に触れる術はないのかもしれません。

また、「失敗してしまうのは、心が失敗したいから?」という見出しも気になりました。
いやだいやだと思っていたけど、結局落ち着いてしまった「いま」は、本当のところは自分の無意識の部分で望んでいた「結果」だよ、ということ。

私の作品は、決して強烈な個性を放つエッジの効いたかっこいいものではありません。その結果を「自分で望んでいたんだな」と、その都度受け入れる。
そしてまた、次の作品に取りかかる。
意識の上では「近道して一番乗り!」「一瞬のうちに多くの人の目を奪う作品」がかっこいいと思っているけど、本当は地味にコツコツを無意識に欲しているのかもしれないなぁ…カメ

おんなへん

ひさびさの書き込みです。この土日は、両日ともに7時間近くにわたる会議でヘロヘロに疲れました。
何だかリズムが狂うとダメですね。これも婆になったからかなぁ(^^;)。

さて、以前から気になっていて、話題にしようと思っていたものを今日はお題にします。
あんまりいい印象を受けない漢字に「女へん」のものが多いのはどうしてだろうという疑問と、夏休み中に読んだジェンダー(文化的社会的につくられた性差)に関係があるのではないか…という推測をたて、漢和辞典を開きました。

まず、マイナスイメージのものから
「妨」
さまたげるですよね。この字使うたびに、何だかいやな気持ちがしてましたが、「邪悪な霊を祓うおまじないとして、聖なる場所を守ること」なんだそうです。邪魔なものを入れないようにすることで、私が思っていたイメージとは逆に守る方の意味なんだ…とわかって、イメージ変わりました(^.^)。
「女」って漢字自体が、神様に仕える女の人の姿を表しているので、女へんの字は神事に関わる意味を持つものが多そうです。ちなみに「男」は、見たまんまの田に力で、耕作とか農地の管理者のこと。

次に、「娼」
しょうですね。歌い舞う人(=あそびめ)なんだそうです。ショーガールなんつって(^^;)。要は芸能人のことじゃないですか。

「媚」
こびるの「び」ですね。以前に「見る」ことは精神的に相手に関わる意味があると書きましたが、眉に飾りを付けた巫女さんを「媚」というんだそうです。今使っている意味とかけ離れてて驚き。

別にマイナスイメージではないけど、気になる漢字
「姓」
名字という意味のせいですね。古くは母系による血縁社会であったので、親族一同をこのように呼んだのだそうです。

「婿」
むこ。何で男なのに女へん?というはかねてよりの疑問です。右側の部分だけで夫という意味があるらしいのですが、「字の構造の意味は知りがたい」と書いてありました。えっ?わかんないって投げちゃっていいの?と、別の驚き( ̄□ ̄;)。

「安」
あんですね。祖先の霊を祀る場所の屋根がうかんむりで、その中に女の人がお参りしている状態なんだそうです。

おまけで「婆」(^^;)
ばですね。女の人が舞う姿を婆娑といって、どうやら楽しんでる女の人のことのようです。以前に大河ドラマに佐々木道誉が出てきてたときに、「婆娑羅大名」って言葉を初めて知ったのですが、斬新なこと派手なことをして楽しむことが「婆娑羅」の気風のようです。「波に乗る女」と言った人がいたけど、結構あたってるかも。婆って素敵(・∀・)/。

簡単ですが振り返ってみると、漢字ができた頃のジェンダーは、女は神に仕えるもの、男は力仕事をするものってものだったようですね。
私が「女へんにろくな漢字がない」と思いこんでいたのは、私が刷り込みで持っていた「女」という今のジェンダー感から来ていたのかもしれません。
ジェンダーは変わる、ジェンダーは動く。
大事なのは、男女関係なく、その人自身が何を求め、どう行動しているか。

ただし、人間は社会的な動物なので、その時代のジェンダー感と大きくずれていると、摩擦が大きくなるのは免れないってところで、このお題は締めましょう。
お後がよろしいようでサーフィン

Yell

個展の案内をいただきました。
故郷での5月の個展の際に「また来た!」「自分も水彩描くのよ。描き方あなたと違うけどね」と、にこやかに話かけてきて、3回も顔を出してくださった方からです。

以前、描かなかった時期に個展の葉書をもらうと、それが誰であれ嫉妬を感じてました。
「描けること」「描いてる」ということが、どうしようもなく羨ましかった。と同時に描かない自分を責め、描かない自分をもてあましていたから。
今は「おっ、やりますね。がんばって(^.^)!」とエールを送る気持ちで個展の案内を見ることができます。本気で描いてる人、深いところの自分を表現しようとしている人を「仲間」というような意識で見ることができ、「私もがんばろっ」といい刺激になります。
素晴らしいと思う作品からは、真摯に学ぼうと思えます。

案内葉書に掲載された作品はボタニカルアート(植物細密画)のような雰囲気。開催時期に帰省できず、実物を観られないことがとても残念です。

もし、お近くの方いらっしゃったら下記の個展お立ち寄りくださいハチ

・関上泰達展
 2006年9月13日(水)~19日(火) 9:00-17:00 大洲赤レンガ館本館(愛媛県大洲市)

しゅわっ

休み明けのリハビリの一日。
炭酸のきいた飲み物がうれしい…。

ジェンダーに関しての追伸。
自分の中にある違和感に気づき、かっこわるいけどそれを表現して、こだわりから少し解き放たれたら、逆に自分の中の女性性みたいなものを素直に受け入れられ、表せるようになった気がします。
また、他者に対しても、ほんの少しだけど、そのままの状況を受け入れられるようになったかなぁ…なんてカクテルグラス


















































































































































































































































































































































































































読書感想文

さて、夏休みの定番読書感想文です(^^;)。

9月末に出版女性集会で斎藤美奈子さん(文芸評論家)の講演を聴くことになったため著書を読み始め、その関連で計5冊の本(ともにジェンダー(社会的文化的につくられた性差)がテーマ)を読みました。
・斎藤美奈子…「冠婚葬祭のひみつ」「戦下のレシピ」「男女という制度」ともに岩波書店
・瀬地山角…「お笑いジェンダー論」勁草書房 *東大助教授、専門ジェンダー論

・若桑みどり…「お姫様とジェンダー」筑摩書房 *千葉大名誉教授、川村学園女子大教授、専門西洋美術史だけど最近ジェンダー関係の活動多し
上記お二人は世代が同じ、卒論で「女流画家列伝」を参考にさせていただいた若桑さんは年齢的には大先輩。ともに立場も視点も異なる内容で面白かったです。

一番共感できたのは、やはり斎藤さんの本。「おっ、そうきましたか」という独自の視点と軽妙な文章で、自然と気づきを促す「うまいねぇ!」と膝を打ちたくなる本ばかりです。真っ向から主張を掲げたりしてないところも好感がもてます。
また、「冠婚葬祭のひみつ」「戦下のレシピ」は、ジェンダーという視点とは別に、一般人が持つ歴史的な資料としても役に立つと思いました。
「男女という制度」は斎藤さんが編集し、他9名の方の文章で構成されているのですが、ここでは佐々木由香さん(男性)の文章が強烈に印象に残りました。佐々木さんはネカマ(ネット上で女性になりすます男性)になることを通して、ご自分の男性性を認識されたそうです。ネットで男性をおちょくる愉快犯といったところだと思いますが、「なるほどっ。勉強になりますm(..)m」というのが率直な感想。

瀬地山さんは、学者さんだけあって主張が明確でわかりやすかったです。男性的な視点なのでしょうか「そうかここにこだわるのね」という部分があり、興味深かったです。

若桑さんは、気持ちはとても共感できる部分はありました。が、まだ実践的にジェンダーによるなんらかの不都合や違和感を感じてない学生さんを丸腰にして、新たな武器(?)も与えずに社会に出すことになるのではないかと心配です。
川村学園女子大の学生さんたち大丈夫でしょうか?卒業後の追跡調査してあげてくださいm(..)m。


さて、読み終わってみて、改めて思うのは、結局結論は自分で出すしかないんですよね、というもの。あたりまえだけど。
私の描かなかった20年は、恋愛とか結婚とか、仕事とか様々な場面で自分の中のジェンダーとどうつきあって行って良いのかわからず、振り回されてくたびれてました。描かなかったのは、それがすべての理由ではないけど、大きな理由の一つではあると思います。
描き始めた今は、「女性とか男性とかいう以前の、より深い部分の『自分』」とコンタクトをとりつつ生きていきたいなと思っていますかお