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無ではないもの

あきびん空きビン空き瓶

液体の内容物が入ってない瓶の呼び方ですよね。
空のビンって、なーんか軽く惹かれるものがあります。

昨晩の仕事の打ち上げ会場は、いろんな種類のベルギービールを出すお店。
中身よりも瓶に興味をもった私は、持ち帰り可であることを確認して、お店の人に瓶を下げないように頼み、皆が飲み終わったビール瓶を回収しました。
素敵なデザインのラベルもなかなか良いけど、微妙に異なる形や高さの瓶がさりげなく個性的。
せっかく買ったのに、まだ1回しか出番のないエコバックに、入るだけビール瓶を詰め込み、電車の中でカチャカチャ音がする度に周囲を気にしながら持ち帰りました。

軽く洗って瓶を並べて、しばし観察。

空き瓶っていうくらいだから、中身は「空(から)」なわけですが、「無」ではないんですよね。
なんとなく惹かれるのは、その辺かな。

空き瓶は、絵のモチーフに。

これって、リユースでしょうか(^▽^;)?
ちょっと描いてみようかなと思ってますアート


エポケーとクォンタム

epokhe(エポケー)とquantum(クォンタム)
何やらギリシャ神話の神様の名前のようですが、最近読んだ本でみつけて、意味は十分理解できてないですが、気に入ったので、ひろってみました。

epokhe(エポケー)=「判断停止」ってのは、現象学の言葉で、いろんな事柄やモノに接した際に「こういうもんだ」って決めつけないで、それらを受け止めるために「こういうもんだ」ナシで本質を観ましょうってことらしいです(たぶん)。
なんか口半分あけて、焦点のずれた眼でぽーっとしてる感じをイメージしてしまいましたσ(^_^;)。

一方、quantum(クォンタム)=「量子」ってのは、理系の方は何をいまさらでしょうが、理系じゃない私(何系なんだろ?美術系?)にはなじみが薄い言葉です。
一言で説明することなんてできないのですが、下記が量子力学の一番興味持った部分。
「物質は、空間的な広がりをもって確率的に存在する」
「物質の状態は、観測されることによって変化する」(「ようこそ量子」丸善ライブラリーより)
これらは、キュビズムや機械派が、あらゆるベクトルから捉えようとしたり、時間の概念を作品にたたみ込もうとしたのと似てるなぁと思いました。

エポケーにしても、クォンタムな考え方にしても、考えてみれば古今東西のアーティストが、これまでやってきたモノの観方や考え方かもしれません。
東洋哲学や仏教はもっとずーっと前からそうなんだし。
あぁ、これもやっぱりいまさらだなぁ…天使


勝負!

今日は、月に一度の「S画廊人物デッサン会」(勝手に命名)の日でした。

前回よりも慣れてきたのですが、サクサク描いていた頃に比べると線も色ももたもたしてます。
こんな時、ムクムクと「ほめてほめて」が起きてきます。
誰かに認めてもらいたい(=ほめてほめて)ってのは、思いっきりはずしてもないんだけど、自分の作品を十分認め切れてなくて、その足りない部分を誰かに埋めてもらいたいんですね。

でも、「自分のつくったものがどうなのか」っていうのは、自分が一番よくわかってるから、それを誰かにどんなにほめそやしてもらっても、作品が変わらない限り、結局は満足できないんですがねぇ…┐( ̄ヘ ̄)┌。

人物がいい感じで描けるときは、集中して一気に描き上げられます。
まるで、モデルさんと向き合って、真剣勝負に挑んでいるような緊張感で、終わったらヘトヘト…(*´Д`)=з。
そんな時は、後から「5分や10分でどうやってこれを描いたんだろう?」と不思議に思うし、良くても良くなくても自分で納得できてるので、誰かにほめてもらう必要も感じません。

要は、人物描くのに、まだまだ気合いと真剣味が足りないんですね。
来月は鉢巻きでもまいていくかなぁ柔道


きわ

「面で形をとらえなさい」
デッサンの指導を受けたことがある方は、このようなアドバイスをされたことがあるのでは?

花を鉛筆などで描くときに、花の「形」を線で表した場合、この時に描いた「線」というのは、実際に目の前にある花に「線」があるわけではなく、三次元の物を二次元で表す際に便宜的に「線」を用いているわけです。
この「線」は別の角度から見たら「面」であり、しかも、その「面」は平らではなく複雑な形状をしています。さらに細かくしていくと「面」は限りなく「点の集合体」に近くなります。

そもそも「形」を認識するときに、どこからがそのもので、どこからがそのものでないのか…というのは、すごく微妙なものだと思うのです。それは「色」「明るさ」についても同様。
また、上記の「線」「面」「点」というのは物体=モノよりの観方ですが、本来物体が物体単独として存在することはなく、モノのまわりには空間が存在します。まわりの空間やとそのモノとの境目=きわ、という観方をすると空間とモノとの「きわ」がどこなのか…、頭で考えるととてもとても悩ましい問題。

空間とモノがつくり出す光と陰の境が「きわ」なんだと思うのですが、たぶんそこは凝縮されたような強い感じがあって、それをスケッチなどでは「線」として表してるんだろうなと思います。線を使わないときは、色や明度の明確な変化になります。

実際に描いているときは、そんなこと考えて無くて(*゚ー゚)ゞ、光と陰と全体のバランスをひたすら追って、それが結果的に紙の上に「形」や「色」「明るさ」が表れる。そして、いったん離れてみて、バランスを整えます。

この「バランスを取る」というのは、結局は自分にとっての「きわ」を目立たせて、自分で「こう見えた方が心地良い」ように調整しているだけかもしれません。
いまさらですが、「絵を描く」というのは「自分がどんな風に『観た』のか」っていうのを確認する作業だなぁと思うのでした。ホントにホントにいまさらだけど…カメ


行ったり来たり

会社を午後半休して、多摩美術大学生涯学習講座「表現された『死』 対談・横尾忠則×中沢新一」を聞いてきました。
憧れの中沢さんと天下の奇才横尾さんを、初めて生で見、話を聞くことができるとあって、ずいぶん前から楽しみにしてきた講座です。

壇上にお二人が登場し、いよいよと身構えたところで、「僕ら軽いんですよ。ねっ」。
「ありっ?」とかわされた感じで始まりました(^^;)。

まぁ何をもって軽いというかは置いといてσ(^_^;)、対談のテーマを変に重々しく深刻に話さないという意味での「軽さ」だったと思います。
20代から死をテーマとして作品をつくってきた横尾忠則さんが、そのテーマを表現する背景として、「幼児期の環境や戦争体験があったのではないか」という話などをひとしきりした後、横尾さんが解説しながらご自分の作品をスライドで映し出し、中沢さんが質問したり突っ込んだりしながら対談は進みました。

印象に残った内容をいくつか…
「現代人の多くが、『死』をできるだけ見ないように表に出さないように避けて、心と身体を別物として分けてしまっているから、かえって簡単に『死』にいっちゃうんじゃないか…」
「簡単に『死』にいっちゃう」っていうのは、当然ですが自然死ではなく「自殺」「他殺」のこと。
この話題で、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」で時々みかける「自分の命は、自分だけのものなんだろうか?」っていうフレーズを思い出しました。
命というか存在というかそんなものが、奥底(たぶん無意識の領域)でつながっているっていう感覚があれば、「命を断つ」という行為は、自殺の場合は他の人の命も損ねるし、他殺は自らの命も損ねるってこと…?なんでしょうかね。

奥底っていうのは、限りなく「あっち側」(私たちが現実に生きている世界を「こっち側」とした場合)に近く、その「あっち側」を「死」と言っているのだろうなと解釈しますが、横尾さんの作品やアーティストしての横尾忠則本人は、「あっち」と「こっち」を自在に行き来している…という感じを受けました。
作品の方は、「あっち」の比率がかなり高く、ところどころに「こっち」が見え隠れするって感じ。
横尾さんもどきの絵はたくさんありますが、その辺で何が違うかっていうと、本当に「あっち」を表しているかどうかってことだと思います。それがないと嘘っぽい感じの似非シュールにしかなり得ないわけです。

「表現された『死』」というテーマにおける「軽さ」っていうのは、「あっち」を特別視して忌み嫌ったり、勝手に祀りあげたりしないからこそできる業。
確かに一見軽いトーク風のまとめ方でしたが、奥は深かったと思います。

会場の出口で「ちっ、しまったぁ!o(;△;)o」と後悔したことが一つ。
今朝出がけに一瞬迷った後、バックに入れる本を新書にしてしまったのです。中沢さんの「対称性人類学」の方を入れていたら、迷わず私もサインを求める列に並んだのに…。
これだけが心残りでしたしょぼん



アフリカの痕跡

今年から通い始めたアフリカンダンスのクラスでは、ラパというアフリカのシンプルな綿素材の巻きスカートをつけて踊りますγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ 
クラスにおじゃましたばかりの1月は、まだ買うことができなくて、他の人のラパを指をくわえて見ていました。
2月に入り、柳田先生が持ってきてくださった在庫からお気に入りのものを1つ購入し、昨日また、アフリカ直輸入のものの中から、ブラウス(のようなもの)とセットになったラパをGET。
身につけて鏡をのぞき込み、「なかなか良いんでないの?」とご満悦。
縫製は…、「えぇっ、これでいいの?!」というくらい大らかです(  ゚ ▽ ゚ ;)。

購入の際に、いくつものデザインを見せてもらいましたが、よくアジアの民芸品を売ってるお店で見かけるインドや東南アジアの布に似ています。
アジアのものとの違いは、思いっきりがいいというか、大胆なところ。
すこーんと抜けたような、迷いのない絵柄とはっきりした色がアフリカらしさでしょうか。

「原」って感じがします。

以前書いた楽しみにしている会社の回章資料に「文化のルーツもアフリカ?」(中日新聞・夕刊:06.10/3)という切り抜きをみつけました。
ホモ・サピエンス・サピエンスは約10万年前のアフリカで発生し、そこから世界各地に散り、これらの初期人類の最初の芸術は、南ヨーロッパの3~2万年前の洞窟壁画というのが、これまでの説。
最近、南アフリカのブロンボスという洞窟でみつかった装身具や模様は、この南ヨーロッパの洞窟壁画をはるかに遡る7万7千年前の「人類最古の芸術では?」というのが、記事の内容です。

「芸術の創造には抽象的思考が必要であり『人間らしい行動』の大事な指標と考えられる」

という文章を読んで一考( ・(ェ)・)。
「思考」そのものは残らないけど、その痕跡として人類は「芸術的な行為」を残してきたってことなんでしょうかね。
ラパの上に揺れるアフリカの痕跡…。うん、いい感じかも女の子男の子




服のあるなし

人物描いてきました。
昨年は,風景と花を描くので手一杯だったので,もう1年以上描いていなかったかもしれません。

久しぶりのモデルさんを前にして,最初はなかなか身体の流れがつかめず,「せっかくの人物なのに、今日はダメかなぁ」とあきらめムードで筆を進め,少し慣れたかなぁと思ったところで時間終了(´_`。)。
モデルさんを頼む場合,ヌードはずっとヌード,着衣はずっと着衣というケースが多いのですが,今回入れていただいたグループでは,毎回、前半2/3がヌード,残りは着衣というスケジュールでポーズしてもらうのだそうです。
ヌードと着衣を同じ日に描いたことがなかったのですが,両方描いてみてヌードの難しさを改めて感じました。

ヌードの人物は、少しでもくるいがあると非常に不自然な感じを与えるので、デッサン力の有無がはっきり出る題材。
もちろん、多くのアーティストの絵はデフォルメ(意図的に形を変えること)されていますが、元々デッサンがくるっているものと、あえて形を変えたものは、観る人に「何となーく違う」感じを与えます。

着衣モデルの場合、デッサンが多少曖昧でも、服のしわやたるみでごまかしがきくので気楽なのかなぁ(^^;)。線にあんまり迷いが出ませんでした。
ヌードを描くときは,全体の動きやフォルムがおそろかになってしまうため、できるだけ描きたくない顔も,着衣の時は、驚くほど自然に描けてしまうことにびつくり(ノ゚ο゚)ノ。

人物を描く勘を取り戻せるように、これから月1回、この会に参加させてもらうことにしましたハチ






聖獣の息吹

人間の美意識の源になる部分は、5000年の時を経てもほとんど変わらないものかもしれない…。
中国国家博物館名品展「悠久の美」展で、約5000~1000年前に、おもに祭祀に用いられるためにつくられた様々な展示物を観て感じました。

展示品は神への捧げ物などを入れる器が多く、それらは羊・牛・龍・鳥・魚・亀・虎・犀…などのさまざまな聖獣で装飾され、さらに獣自体や間を埋めるのは抽象的な線や模様。
これらの模様は、1万年以上も前の日本の縄文土器の模様や、アイヌやケルトの模様、そして丁度隣の展示室で行われていたニュージーランドのマオリ族の道具や装飾品に描かれた模様と非常に似ています。
神話のテーマに世界各地で共通なものがあるように、これらの模様も人の無意識の奥底にしっかりと刻まれたものなのかもしれません。

今回の展示物で一番感動したのは「四羊尊」。
白川静さんと梅原猛さんの対談「呪の思想」(漢字の起源の裏話みたいでとっても面白い!ヽ(゚◇゚ )ノ)の中に、この「四羊尊」の写真が出ていて「『美』の元になった羊だぁ」と記憶していたのですが、本物を観ることができるなんて思ってませんでした。
紀元前13-11世紀(約3200-3100年前)のもので、四頭の羊の前面が四隅になっていて、羊の間に小さな龍。そして、全面細かい渦や線が刻まれています。
羊の頭が器の天地中央あたりで立体的に四方に出っ張っているのですが、羊頭の骨格がきちんと捉えられていて、具象と抽象の感覚がとてもバランスよく構成され、まさに完璧な羊「美」。

各器等に刻まれた抽象的な模様は、まるで聖獣の息吹のよう…。
それらをいっぱいに浴びて会場をあとにしました台風



アースダイバーごっこ

版画の第一段階下地作りが終わった後、「動物」というテーマを設定していたのに、ちょっと道に迷ったような日々が続いていました。

時間は確保してあるのに、進められない。
なぜ?
気は急くのに、原因がわからない…(x_x;)。
こんな時は、いったん外に出てみるに限ります。

まだマイブーム真っ只中の中沢新一さんの「アースダイバー」によると、東京タワーや浄土宗大本山増上寺がある芝のあたりというのは、江戸よりも遙か昔、岬の先端で、前方後円墳をはじめいくつもの古墳がある場所だったとか…。
面白そうなので、行き先は芝に決定。
浜松町から増上寺の参道を通って、まっすぐ増上寺へ。
丁度読経の時間だったらしく、お寺の建物に入ると何人ものお坊さんが奥から出てきてお経をあげ始めました。
何だか響きの良い男性コーラスを聴いているような感じで(^^;)、しばしお堂の中でお経に耳を傾けた後、梅の香る芝公園に向かい、公園内を散策。
表示によると、かなり損傷を受けているものの貝塚や古墳があるのだとか。

古い神社やお寺は、元々古代の人たちの古墳や貝塚などの跡に建てられ、古代宗教の信仰の対象であった石棒などを、お稲荷さんなどにして祀ってあるケースが多いそうです。
ここにもしっかりお稲荷さんがありました。
赤い小さな鳥居をくぐって、手を合わせて、ふと横を見ると、そばには「丸山古墳」と刻まれた石があり、鳥居の両側に据えてある狐の像ではない石の狐が何体かころがっています。
それぞれ一部が欠けたり壊れたりしているので、横に追いやられてしまったのかもしれませんが、狐のポーズがそれぞれ個性があって、何とも自然で、そこだけ昔話の世界のような不思議な空間でした。

帰ってきて、ようやく少し描け始めました。
私が表そうとしていたのは、動物園の動物ではなく、神話やおとぎ話に出てきたり、漢字の起源になった動物なので、やはりそういうものに触れないとインスピレーションが湧かないのかもしれません。
来週は、うっかり見逃しそうになっていた、国立博物館の「悠久の美」展を観に行くことにしました。
たぶん、美や善の元になった羊を使った像や、漢字の起源になった様々な動物に会えるはずですヒツジ

一番のお気に入りは…

「人間国宝 松井康成の全貌」(日本橋三越2/11まで)を観てきました。

松井康成さんの作品は、17~18年前から2~3年に一度観る機会があったのですが、今回のような大規模な展覧会は初めて。
単に、「美しい」とか「素晴らしい」だけではない、個々の作品から発せられるものが合わさって、圧倒されるような気に満ちた会場を体験すると、ただただ「すごい…」という言葉しか浮かびませんでした。

松井康成さんと言えば練り上げ(土自体に色を付けて模様を表す技法)ですが、土や手法、色・模様の違いにより、「練り上げ」の魅力をいくつもの面で見せてくれ、後から後から湧いてくる感じが会場のダイナミックな空気の源となっていたようです。
晩年は、光沢のある作品に落ち着いたようですが、私は1980年代の嘯裂という土のざらっとした感覚と鮮やかな色の手法のシリーズの作品が好きです。

茨城県笠間の月崇寺の住職でもあった方ですが、図録を読んでいると、「松井康生さんにとって、宗教性の追求と芸術は、まさに一体の物であった」というような記述がありました。
「人間が『心』持った時に生まれた『芸術』の世界は、起源を『宗教』と同じくする」というのは、いくつかの本で読みましたが、まさに、その神髄を生きられた方なのでしょう。
また、「『今までで一番気に入った作品はなんですか?』と質問を受けたとき、『次の作品』と答えた」とか。
…すごい…\(゜□゜)/。

息子さんの松井康陽さんの個展も2/11まで日本橋三越の6階で行われています。
康成さんの作品が「動」だとすると、私は、康陽さんの作品に「静」を感じます。
一代で「練り上げ」技法を極められたお父さんの様々なものを引き継いで、これからどのように深め、変化していくのかが楽しみですカエル