きわ
「面で形をとらえなさい」
デッサンの指導を受けたことがある方は、このようなアドバイスをされたことがあるのでは?
花を鉛筆などで描くときに、花の「形」を線で表した場合、この時に描いた「線」というのは、実際に目の前にある花に「線」があるわけではなく、三次元の物を二次元で表す際に便宜的に「線」を用いているわけです。
この「線」は別の角度から見たら「面」であり、しかも、その「面」は平らではなく複雑な形状をしています。さらに細かくしていくと「面」は限りなく「点の集合体」に近くなります。
そもそも「形」を認識するときに、どこからがそのもので、どこからがそのものでないのか…というのは、すごく微妙なものだと思うのです。それは「色」「明るさ」についても同様。
また、上記の「線」「面」「点」というのは物体=モノよりの観方ですが、本来物体が物体単独として存在することはなく、モノのまわりには空間が存在します。まわりの空間やとそのモノとの境目=きわ、という観方をすると空間とモノとの「きわ」がどこなのか…、頭で考えるととてもとても悩ましい問題。
空間とモノがつくり出す光と陰の境が「きわ」なんだと思うのですが、たぶんそこは凝縮されたような強い感じがあって、それをスケッチなどでは「線」として表してるんだろうなと思います。線を使わないときは、色や明度の明確な変化になります。
実際に描いているときは、そんなこと考えて無くて(*゚ー゚)ゞ、光と陰と全体のバランスをひたすら追って、それが結果的に紙の上に「形」や「色」「明るさ」が表れる。そして、いったん離れてみて、バランスを整えます。
この「バランスを取る」というのは、結局は自分にとっての「きわ」を目立たせて、自分で「こう見えた方が心地良い」ように調整しているだけかもしれません。
いまさらですが、「絵を描く」というのは「自分がどんな風に『観た』のか」っていうのを確認する作業だなぁと思うのでした。ホントにホントにいまさらだけど…
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デッサンの指導を受けたことがある方は、このようなアドバイスをされたことがあるのでは?
花を鉛筆などで描くときに、花の「形」を線で表した場合、この時に描いた「線」というのは、実際に目の前にある花に「線」があるわけではなく、三次元の物を二次元で表す際に便宜的に「線」を用いているわけです。
この「線」は別の角度から見たら「面」であり、しかも、その「面」は平らではなく複雑な形状をしています。さらに細かくしていくと「面」は限りなく「点の集合体」に近くなります。
そもそも「形」を認識するときに、どこからがそのもので、どこからがそのものでないのか…というのは、すごく微妙なものだと思うのです。それは「色」「明るさ」についても同様。
また、上記の「線」「面」「点」というのは物体=モノよりの観方ですが、本来物体が物体単独として存在することはなく、モノのまわりには空間が存在します。まわりの空間やとそのモノとの境目=きわ、という観方をすると空間とモノとの「きわ」がどこなのか…、頭で考えるととてもとても悩ましい問題。
空間とモノがつくり出す光と陰の境が「きわ」なんだと思うのですが、たぶんそこは凝縮されたような強い感じがあって、それをスケッチなどでは「線」として表してるんだろうなと思います。線を使わないときは、色や明度の明確な変化になります。
実際に描いているときは、そんなこと考えて無くて(*゚ー゚)ゞ、光と陰と全体のバランスをひたすら追って、それが結果的に紙の上に「形」や「色」「明るさ」が表れる。そして、いったん離れてみて、バランスを整えます。
この「バランスを取る」というのは、結局は自分にとっての「きわ」を目立たせて、自分で「こう見えた方が心地良い」ように調整しているだけかもしれません。
いまさらですが、「絵を描く」というのは「自分がどんな風に『観た』のか」っていうのを確認する作業だなぁと思うのでした。ホントにホントにいまさらだけど…
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