原作ファンでトンペンが観た「黄金を抱いて翔べ」映画と原作徹底比較② | 東方の神が起き上がる瞬間

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さて、映画と原作、抱き合わせて「黄金を抱いて翔べ」ワールドに浸ってしまおうという自分企画、2本目~。


前回は、原作を読んでいないと見落としがちな浅田忠信さん演じる「北川」に焦点をあてて考えて見ましたが、今回は作品の人間関係を中心に考えたいと思います。


というか、この人間関係、原作を読んでいてさえ整理するのが大変なのに、映画しか見ていなかったら「???」な部分になるのではないかと、一番気になった部分です。


という訳で、人間関係をざっと整理してみます^^


1 モモと末永(鶴見辰吾)、山岸(青銅社)


モモ(チャンミン)は、北朝鮮出身の工作員で、表向きは大阪工大の大学院生。得意なのは爆弾製造。日本で秘密裡に潜伏して活動していく内に、北側の情報が、敵対する日本の公安や、韓国側につつぬけになっていることに気づく。


調べていく内に、末永(鶴見辰吾)という二重スパイの存在がわかるんだけど、一足早く、末永によって、モモこそが二重スパイなのだ、という罠にはめられ、母国の北朝鮮からも、南の韓国からも、日本の公安からも追われるようになってしまう。


末永(鶴見辰吾)は、南側や公安にモモが万が一捕獲されれば自分の身の上も危ないので、いち早くモモを殺害しようと狙っているし、その意味では裏切り者としてモモを抹殺したい北と利益が一致するので、行動をともにしています。


原作では、モモが、北が送ってきた刺客が実の兄だと知り、殺さなければ殺されるという予感におびえる所まで、みっちり書かれています。


「なあ、幸田さん。あんた、兄弟はいるのか?」

「妹がいる。俺は養子に行ったから、もう長いこと会ってない」

「俺は三人いる。兄一人と妹二人。昨日は・・・その兄を見かけた」

「大阪で?」

「ああ。兄貴は俺を見ていた・・・・」

(略)

幸田は目を逸せた。だんだん苛立ってきた。親兄弟の話を聞かされるために、自分は汗だくで走ってきたってのか。

「兄貴は俺を見ていた・・・・」

モモは繰り返した。さらに低く、小さな声になっていた。

「話はしなかったのか?」と幸田は訊ねた。

モモは首を一つ縦に振り、「今度会ったら、おしまいだ」とつぶやいた。

おしまい?                                (P57L3)



では、モモと幸田はいつからそんなに親しくなったのか?


モモと幸田の出会いは偶然が大きいものの、背後に「青銅社」という共産主義運動を続ける過激なマルクス主義者・山岸が関係してきます。


この過激派山岸との関係は、大学時代まで遡り、北川・幸田ともに同じ大学にいたことに起因。


学生運動を続けながら、その後も筋がねいりのマルクス主義者として組織を作り、地下活動を続けながら、北朝鮮とつながろうとする山岸は、北川にとっても幸田にとっても白けた存在でしかない。


山岸を、結局は己の信じる思想を集団の暴力で通そうとするのは、彼らが嫌う国家権力と同じだ、と軽蔑しながらも、何も信じない幸田は何度か青銅社の依頼を受けて、盗みを請け負ったことがあるという間柄。



青銅社の山岸が、モモを欲しがる理由は、モモを裏切者として処刑したがっている北朝鮮にひきわたすことで、思想を同じくする北朝鮮の共産党幹部とのつながりが欲しいから。


だから北朝鮮側の刺客よりも、北朝鮮の側に一見立っているように見えて、南とも日本の公安とも手を組んでいる末永(鶴見辰吾)よりも、早くにモモを手に入れたかったんですね。


モモが一度東京で幸田を尾行するのも(これがモモと幸田の最初の出会い)、青銅社の依頼を受けて仕事をしたことがある幸田が、自分を狙う青銅社側の人間ではないか、と疑ったから。



大阪で再会したのは偶然だったけれど、幸田がモモに惹かれ、モモが幸田に惹かれつつも、どこか緊張感があるのは、お互いの正体が不明で、モモにとっては自分を売ろうとしている人間なのではないか?という不安がぬぐいきれないから。


原作では、けっして慣れ合わないくせに、それでもなぜか惹かれていく自分たちの関係を、こんな風に幸田が語っています。


モモと自分をつないでいる糸は、幸田には初めから見えていた。決して興味も関心もあるわけではなかったが、偶然から始まった関係は、生きるための本能的な駆け引きのように、はっきりと自分の整理を刺激していた。犬が、よそ者の臭いを本能的に求め、嗅ぎつけ、闘争の環境を作り出すように、幸田はモモの臭いを嗅ぎつけたのだ。


一方、モモがどのように考えているのかは、一向に不明だった。不明のまま、一か月もすると、ちょっと親しい感じも生まれた。≪似た者どうし≫という言葉を、モモは一度使ったことがある。幸田は、それには同意出来なかったが、理由はどうでもよかった。必要も目的もいらなかった。朝起きて歯を磨くように幸田はモモに会い、時々歯磨きをサボるように、会わなかったりした。

                                             (P51L2)


<犬>のような嗅覚で、相手をかぎつけながら、お互いの正体を見極めようと、円を描きながら相手との距離をつかもうと、見つめ合うイメージ。

こいつは敵なのか、それとも同胞なのか。


その内そんな区分けがどうでもよくなっていき、いつの間にか側にいる。そんな感じ。


自分のことを話さない関係から、モモが断片的に兄の話をしたり、ついには、兄を殺してしまったことを告白する相手に幸田を選ぶのは、モモが本能的に、どこにも居場所を求めない幸田に、自分と似た匂いを感じるからでしょう。


国家や思想、自分が所属する社会といったものを信じることができない幸田と、


国家や思想の為に、個人としての人生を抹消される悲しみを背負ったモモは、

一見、正反対のように見えて、どこか似ていて、何かが同じだから。




あの、映画での兄を殺す場面は原作には書かれていないのだけど、優しく、甘く、切なくつぶやかれる、モモ(チャンミン)の「ヒョン」と言う言葉は、あの映画の中でも、胸をえぐるシーンの一つです。


「祖国統一、万歳」といって国家の為に弟を殺そうとし、死んでいく兄。


強張った「祖国統一、万歳」と叫ぶ<自分>を失った声と、国家や思想ではなく、ただ一人の人間として、兄を撃たねばならない苦しみに満ちた、悲しい「ヒョン」という声。


チャンミンの「ヒョン」という声の演技が、最高に光っている場面でした。(ええ私、あそこでもう泣いていました(笑))


原作にはないあの場面こそ、映画の見所のキモの一つだと思います。←声を大にして言っちゃうww



2 モモが北川・幸田の「仲間」になる理由


北川から、黄金強奪には爆弾のプロがいると聞かされて、幸田がモモを思い浮かべるのは、東京にいた時、かつて自分尾行していたモモが、その後、偶然、秋葉原で物品を物色しているのを見かけて、その内容から、爆弾製造のプロだと直感していたから。


それでも、大阪で再会した後、モモから兄殺しを告白された幸田は、「人殺し」を仲間に加えることはできない、と一旦は関係を拒みます。


しかし、モモの能力を信頼する北川に押し切られ、モモをかくまうことになっていく内に、原作ではモモを守る為に、幸田も人を殺してしまうのですが・・・。



このあたり、映画だけ見ていると、なかなか見えにくい糸ですよね^^;いや、原作を読んでいても、複雑な人間関係を頭に入れるのは、一度読んだくらいじゃ無理かも・・・てか、私は無理でした(笑)



3 北川の弟春樹(溝端淳平)、暴走族上がりのサク、山岸の関係


北川の弟春樹は、映画ではリストカットしながらギャンブルにふける、自虐的な若者として描かれていますが、原作の春樹もまた、自分ではどうしようもない荒ぶる孤独な魂を抱えた若者として描かれています。


原作の春樹は、幸田さんと関係まで持っちゃうのですが(笑)、映画ではそこまではなし。


春樹と暴走族上がりのサクとの因縁は、個人的なものだったのに、そこに目を付けた山岸は、サクを使って春樹を誘拐し、モモをおびき出そうとします。


実際には、山岸自身が幸田と北川に捕獲され、黄金の分け前をもらうことでチャラになるのですが、春樹と暴走族上がりのサクとの因縁が、やがてサクの北川の妻子への報復につながってしまいます。


思いがけず、兄を苦しめ、罪のない兄嫁と幼い甥を殺された春樹は、バイクで単身サクの元に殴り込み、自分も瀕死の重体となりながらサクを殺す。


映画では、血まみれの現場にかけつけた北川が、人を押し分け、救急車に無理やり乗り込もうとして、静止されると「俺の弟なんです!」と叫ぶ。

その声が聞こえた瞬間だけ、目に力が戻る春樹。


ああ、ここにも家族の絆に飢えた若者が1人・・・と思わされる、溝端君の目の演技が光る場面でした。



4 ジィちゃんとモモ、末永をつなぐ糸


さて、居場所を失ったモモ(チャンミン)を、安全であろうと、ジィちゃん(西田敏行)の所に連れて行く幸田と北川ですが、実はジィちゃんもまた、カネのためならどんな情報も売る無頼な男であったがゆえに、モモの居場所が末永に漏れてしまいます


原作では、ジィちゃんは刑務所から出所後、神父ではなく、普通の労働者として働き、労働団体の幹部まで勤めながらも、やがて転向(思想を曲げること)。


多くの仲間を売り、自分のように裏切り行為を働く二重スパイとして、末永(鶴見辰吾すらも転向させた張本人だということになっています。


信じた神からの<転向>、信じた思想からの<転向>。


ジィちゃん(西田敏行)の人生は、二重の裏切りの果てに積み上げられた、陰惨で、醜悪で、それでいてどこか悲しい色に満ちています。


モモの情報を売り、裏切者であることを明かしたジィちゃんに、幸田が吐き捨てる一言。

「そのうち、金貨を投げ捨てて首を吊る時が来る。≪血の畑≫に埋められる時が来る。聖書にそう書いてある。」      (P268L12)



映画では、不気味な託宣のように、無表情に告げる幸田役の妻夫木君の演技が光る所ですが、この予言は、聖書の中にある、自分を売って金を手に入れ、のちにぶどう畑で首を吊る、裏切り者の弟子、「ユダ」のことを指しています。


そして映画のクライマックス、原作ともに、最後は、その言葉をなぞるように、首を吊って死ぬジィちゃん。


側に置かれた聖書と、若き日のカソック服(神父が着る服)を着たジィちゃんと、自分の母親、幼い日の自分の写真で、全てを悟る幸田。

その瞬間の妻夫木君の、悲痛な表情。


原作での幸田は、苦々しい悲しみを抱えて、ジィちゃんの最後を看取るのですが、映画での幸田は、純粋に悲しんでいる。


ずっと誰にも言えずにきた、幼い日の悲しみ。放火の罪を神父さまであり父である人になすりつけたという罪の意識。


それらを誰にも言えず、母親からも引き離されて、どこにも居場所を求めないまま、「人間のいない土地」を探し続けてきた自分。


一方で、両親の関係が背徳的なものであったからこそ、父親であるジィちゃんに家庭も母親も「父」も奪われてきた自分。


かけがえのないモモですらも、ジィちゃんによって、失った自分。


それらすべてを吐き出し、悲しんでいる。ひたすら、悲しんでいる。


そのすべての原因となった、父である人の、裏切者としての死にざま、彼がそうせざる得なかった大本に、ささやかで小さな、女への愛を感じて。


やりきれない悲しさを吐き出した後の幸田の、憑き物が落ちたように穏やかな表情も含めて、俳優・妻夫木聡の、怪物めいた演技が光るクライマックス!


映画を見終わってもまだ、まざまざと残る、人生における全ての悪と善意、罰と救済を見たかのような、あの壮絶な表情。


あの表情こそが、彼が長年抑えつけてきたものが解放された瞬間であり、北川の「俺はお前が、やっと訪ねてきてくれたって気がするんだ」という気持ちにつながっているのだと思います。


・・・・・・・・・

さて、ここまで人間関係を中心に、映画と原作を抱き合わせながらストーリーを追ってみました。

次回は、我らがチャンミン演じるモモと幸田の、最後の教会の場面、それからこの作品全編にただようミソジニー(女性嫌悪)について考えてみたいと思います。


【関連過去記事】


1高村薫 「黄金を抱いて翔べ」考察 (原作を考察した硬い文章)


2原作ファンでトンペンが観た「黄金を抱いて翔べ」映画と原作徹底比較①

(北川に焦点をあてたもの)


○いつも長文を、ここまで読んでくださってありがとうございます^^