現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神 -3ページ目

現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代社会は、科学の発達により利便性が向上しました。しかし、生活面の向上が精神面の向上に必ずしもつながっていないと思います。鎌倉時代の混乱期に、人々を絶対に幸福にしたいと願い行動した日蓮大聖人の言葉と精神を、平易な言葉で伝えていきます。

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「ただいま」とよく言ったり、聞いたりするけれど…⁉

 子供の頃に、学校に行く時は「行ってきます」、学校から帰ってくると「ただいま」とよく言いました。大人になってからは、あまり言っていないような気もしますね。反省する次第ですけど。ところで、この「ただいま」という言葉ですが、何も考えずに、とりあえず習慣として使っていますね。子供だったら尚更でしょう。この”ただいま”は、おそらく「只今帰りました」の文が短縮されて、「只今(ただいま)」となっていったのでしょう。言葉は生き物ですから、どんどん使い方の方法や意味合いが代わっていったりします。言葉によっては、いつの間にかに真逆の意味で使われるようになったものもあります。不思議ですね。「只今」を国語辞典で調べてみますと、「今」「只今」「現在」「目下」の意味で使い分けされているようです。もう少し詳しく紹介します。 

① 「今」は、前後の近接した時間を含んで、「今すぐ行きます」「今にわかるだろう」「今さっき出かけました」のように、近     い将来、または近い過去をさしてもいう。また、「今は便利な世の中になった」のように、以前とくらべた現代の意味でも使われる。また、「今ひとつ元気がない」「今少し大きいほうがよい」のように、さらに、その上にの意でも用いられる。 

② 「只今」は、「今」を強調した言い方。丁寧な言い方の中で用いられることが多い。今帰ったという意味の挨拶(あいさつ)の言葉としても使われる。

③ 「今」「現在」は、「今のご時世」「現在の国際状態」のように比較的長い時間をさして言うこともできる。

④ 「現在」は、「今」と異なり、近い将来、または近い過去をさしていうことはない。また、「正午現在の体温」のように、そ  の時点で変化しつつある状況を報告する場合にも用いられる。

⑤ 「目下」は、なお継続中であるという意味を強く表わした語。また、「危険が目下に迫っている」のように、目前の意でも使われる、 ということです。また、特別な使い方として、次のようなものもあります。例えば、”問屋の只今”は、「ただいま送ります」と言いながらなかなか品物を送らないところから、約束の期日が当てにならないことのたとえとして使われています。さらに”医者の只今”は、医者は往診の時、すぐ行くと言っても、なかなか来ないところから、あてにならないことのたとえとして使われています。これは、時を表す使い方というより、”時間があてにならない”という、譬え話の意味合いで使われています。同じように”仏教の只今”というのもあります。それは、「思惑や損得を捨て去り、無心になる。一生懸命に生きる」という意味の使い方です。結果に執着すれば、今がおろそかになり、今を精一杯生きれば、結果は後からついていくものといういわれです。今、この瞬間は二度と戻ってこない、だから、一瞬一瞬を貴重な時間だと思い、過ごしていきなさいという教訓の言葉だと思います。

 

日蓮大聖人は、「臨終只今」と説かれている!

 日蓮大聖人も「只今」という言葉を使われているのを御書の中に見られます。「生死一大事血脈抄」に「詮ずるところ、臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為』と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。法華不信の者は『「その人は命終して、阿鼻獄に入らん』と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わんずらん。浅まし、浅まし。十王は裁断し、俱生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ…」とあります。この「臨終只今」に関して、昨年亡くなられた池田名誉会長が、師匠の戸田二代会長から聞かれた話があります。…あるとき、戸田先生は言われた。「『臨終只今にあり』というが、この臨終は、どなたの臨終かわかるかね。仏様の臨終だよ。仏様がいらっしゃらなくなったとしたら、どんなに心細いだろう。どんなにか悲しいことだろう。仏様に今、お別れしなければならないのだと思って、信心することだよ」 この言葉を漫然と聞いていた人は、戸田先生が亡くなったあと、先生が生きておられるうちに、ああすればよかった、もっと戦って喜んでいただきたかったと後悔したのです。「臨終只今」とは、師匠の臨終が只今と思って、猛然と広宣流布へ戦っていきなさいということです。師匠に見守ってもらって戦えるなんて幸せなことなのです。それがわからない弟子は失格です。師匠が生きているうちに、そう気づいて頑張るのが「本心を失っていない子ども」に当たる。気づかないのが「毒気深入」で本心を失った子どもです。…ということです。「臨終只今」とは、単に今死に向かう瞬間という、先ほどの国語辞典の②の使い方で言っているわけではありません。ましてや「只今臨終」というよに「医学的に只今亡くなりました」という意味では全くありません。「臨終只今にありと解りて」ということは、単に肚を決めるというのではないく、「解りて」とあるように、事実がそのとおりであることを前提にし、この生命の真実の姿を見極めるという意味であります。誰しも、まだまだ、自分の人生は先があると思っています。しかし、いつ死がおそってくるかは、誰も知りません。一瞬の後には死んでいるかもしれないのです。これが、生命の真実の姿です。ましてや、仮にまだ二十年、三十年、あるいは五十年と寿命のあることが確かであるにしても、永遠からみれば瞬時であると言わざるをえないでありましょう。これもまた「臨終只今」です。そこには、「師匠の死」そして「自らの死」もあるでしょう。その死に臨んでも、”何の迷いも後悔もないくらい、一瞬一瞬を大切にし、南無妙法蓮華経と唱え、仏道に励みなさい”ということでしょう。

 

結論:「生死一大事血脈抄」では、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれていると教えられています。何とすごいことでしょう。一仏でもすごいのに千仏が、臨終のときには自分を迎えに来てくれるというのです。これならば、何も怖くありません。ましてや、”三世の生命”という生命観に立てば、「死は夜寝るのと同じ。次の朝はまた、元気に起きて活動することができ」ということです。 この事実を理解した時、いま生きて妙法を受持していることの重みを、感ぜずにはいられないでしょう。今生の名聞名利は問題ではなく、永劫の未来のため、死してなお消えることのない福運を積むため、真実の人生の目的を凝視しながら、南無妙法蓮華経と心より唱えていく。それが、「臨終只今にあり」と解った生き方であります。瞬間瞬間、この決意の持続に生きていく時「千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」となるのです。逆に、妙法を、そして妙法を持つ人を非難・中傷し、乖離していく人には、「只今臨終」の時に、「定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わん」と断言されているのです。必ず、地獄の獄卒が迎えに来るとは、何と恐ろしいことでしょう!只今臨終の時、自分にはどっちが迎えに来るのだろうか…⁉「知らぬが仏」ですね。

 

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​​​​英雄の条件は、何か…⁉

 私は、歴史小説が大好きで、日本で言えば戦国時代、中国で言えば古代中国の英雄伝を読むことが多いです。そこには、勇敢に戦い、領地・領土を拡大していった武将や皇帝の話もあります。逆に、外からの侵略者から領地・領民を守り、文化の華を咲かせた人の話もあります。幾年もの長い人質や入牢、流罪等の過酷な生活に耐えて、最後には大きな仕事をなしとげた話もあります。また、自分では、支配者の立場にはならないけれども、知恵や策略をめぐらして、自分の主君の統治や政治を補佐した人の例もよくあります。どの本を読んでも、作家や著者の思いが熱く込められて、ただただ惹きつけられ、時のたつのも忘れて本を読み進めることもあります。どのパターンの人物の物語もある意味では「英雄」です。とても、普通の人にはまねができないと思います。でも、本当に「英雄」と呼ばれるには、”何か条件がある”のでしょうか。ある時、聖教新聞の「名字の言」と欄に、次のような記事が載っていました。それを読んだときに、”ふ~ん、なるほどな”と思ったので紹介します。…デンマークの哲学者キルケゴールは、著作『現代の批判』の中で、”情熱のない時代は、ねたみが傑出する人の足を引っ張り、人々を否定的に水平化する”と述べ、それを打破するには一人一人が「不動の宗教性を獲得するしかない」(桝田啓三郎訳)と強調した。この思想が世界で注目されたのは、彼が42歳の若さで世を去ってから半世紀も後だった。なぜ、これほど深く時代を洞察できたのかー。池田先生は語った。「彼が自身の寿命が短いことを自覚し、その短い生涯のうちに、なすべきことをなそうと戦ったからです」 先生自身もまた、1日を1カ月分にも充実させる思いで戦った。いつ倒れても悔いはないとの覚悟で生き抜いた。それは恩師が描く広布の構想を実現し、弟子の模範を後世永遠に残すためであった。誰もが今世の命には限りがある。だからこそ「今」を全力で生きる意味や価値を自覚できる。先生は論じた。「『英雄』とは、『自分にできることを、すべてやった人間』であります。凡人とは、自分にできないことを夢見ながら、自分にできることをやろうとしない人間であります」と。自身が定めた広布の使命を、時を逃さず果たしていく。その人こそ、真の英雄である。…以上です。自分に振り返って考えると、まさに凡人の道を歩んでいると、情けなく思い反省する次第です。 

 

なすべきことをなすとは…!

 今、最も勢いのある野球選手といえば、大谷翔平選手でしょう。アメリカのメジャーリーグで大活躍し、世界中の野球ファンのあこがれの的です。以前あるテレビ番組で大谷選手の特集をしている番組を見ました。そこで、特に目を引いたのは、彼が高校時代につけた「人生設計シート」です。このシートは大谷翔平選手が将来なにをしているか(目標など)を年齢別(18歳~70歳)に書いた、まさに自分の人生を設計するためのシートです。10代後半の高校生の時に、明確な目標を立てて、その目標実現のために、しっかりと継続して実際に取り組み、そして一歩一歩夢を叶え、現実のものとしていったのです。そのシートは、9×9のマス目で、シートにど真ん中には「ドラ1 8球団」とい大目標が書かれていました。そしてそれを実現するためには、体力づくり、コントロール、キレ、スピードといった技術的な観点と、人間性、メンタルといった精神面をも高めるためには何が必要か、そのためにどうするか等の必要項目が書かれていました。例えば「コントロール」に関して言えば、軸をブラさない→体幹の強化→インステップの改善→体を開かないなど、また「運」では、道具を大切に使う→ごみを拾う→部屋をきれいにする→あいさつ等々、要点・要素をまとめて書き出し、そして実践していったようです。そのおかげで実力が付きめきめきと頭角を現していきました。高校生の時に掲げた目標は、もちろん年を追うごとにアップグレードされたとは思いますが、プロになっても、その目標に向かって、練習・鍛錬等を継続し持続していったところに、大谷選手の凄さがあります。それは、食事に関してもストイックです。徹底した食事管理を自分でしています。(結婚するまでは)自分で作ることが多く、調味料も過度には使わず、油も極力控えていました。例えば、とんかつは衣を除いて食べる、ドレッシングはかけない、低脂肪高蛋白質で卵は食事の度にゆで卵3個、食事は1日5~6回等々、自分の夢を実現するためのパフォーマンスを最大に発揮できるための体作り、体調管理に気を遣っているのです。そのおかげもあり、既に「WBC日本代表MVP」は達成し、世界制覇も成し遂げています。更に全米記録も次々と塗り替えて、一つ一つ目標を達成していっています。“人生が夢をつくるんじゃない、夢が人生をつくるんだ”という中央に書かれている言葉が深いですね!高校生でここまで明確な目標を持っていた大谷翔平選手が本当にすごいですね。そして、それらが現在進行形であるのも凄いことです。彼は世界中から愛され、現代の野球界の英雄でしょう。まさに“自分のできることをすべてやっている人間”と言えます。

 

日蓮大聖人も、目標に向かって走っていった…‼

 日蓮大聖人も、「自分のできることを全てやった、真の英雄」言えます。それは、何故かというと、子供の頃に自分の周りに「南無妙法蓮華経」と唱えている人がいて、自分も出家してそれを修学して、遂に悟りを開いたというわけではないからです。つまり、誰かの進んだ道を辿っていった結果として悟りが開けたといことではなく、道なき道を突き進んでいった結果として妙法の境地にたどり着いたということです。そこでここでは、まず簡単に日蓮大聖人の御生涯を振り返る必要があります。…日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(千葉県鴨川市)という漁村で誕生されたと伝えられています。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。自らも「旋陀羅(せんだら=貧しい身分)が子」と自称されています。12歳から安房の清澄寺で、就学のために親元を離れて、教育を受けられました。そして、まだまだ出家前のころ、今で言えば中学生の年頃に、大聖人は「日本第一の智者となし給え」と清澄寺の虚空蔵菩薩の前で願いを立てられました。父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越えるための仏法の智慧を得ようとされたのです。これが”日蓮大聖人の根本の誓願”だったのです。そして、大聖人は、仏法を究めるために、高校生の年代の16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。この頃に「明星のごとくなる智慧の宝珠」を得られたと述べられています。このことは「善無畏三蔵抄」に書かれています。それは、仏法の根底というべき「妙法」についての智慧を感じ取ったということかもしれません。そして、もっと深い確信を得るために、大聖人は、鎌倉・京都・奈良など各地を遊学し、比叡山延暦寺をはじめ諸大寺を巡って、諸経典を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握されていきました。一切経を読破し、そこで初めて仏法(仏教典)には高低浅深があること、低い教えでは、民衆を幸せどころか不幸にしてしまうということを確信したのです。その結論として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が覚った「南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要」であり、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そして南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として広める使命を自覚されたのです。しかし、ここには大聖人にとって大きな問題がはだかります。それは、法華経に書き示されていることです。つまり、法華経を弘めようとする行者には、棒で打たれたり、石を投げつけられたり、人々に罵られたり、刀で命を狙われたり島流しにあったりという大きな困難が必ず来る、しかしそれらを恐れて法華経を弘めなければ、生前は何も起こらなくても、死して後堕地獄して閻魔大王の責めに遇って苦しむということです。結局、どうせ同じ苦しみを味わうならば、子供の頃に誓った「人々を苦しみから救うために法華経を弘める」という道を選んだのです。そして、遂に、建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、清澄寺で、末法の民衆を救済する唯一の正しい法であると宣言され、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えました。これが「立宗宣言」です。立宗とは、宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。そして、自ら「日蓮」と名乗られたのです。名前の由来に関しては、自身でも言われていますが、富士山とも関係があります。富士山の別名は「大日蓮華山」です。富士山のように、勇壮で、唯一絶対で、日本の中心に、泰然としてそびえ立つ存在という意味もあったということです。しかし、法華経の予言通りに、この立宗宣言の直後から、大難が次々と起こってきました。安房では、念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)の東条景信が、念仏の強信者であったために、激しく憤り危害を加えしました。大聖人はかろうじて、その難を免れました。その後、大聖人は、当時の政治の中心であった鎌倉に出られ、名越あたり(松葉ケ谷と伝承)に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗や禅宗の誤りを破折しながら、南無妙法蓮華経の題目を唱え、広められました。大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じるという謗法(正法を謗ること)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の教えにあると指摘されました。そのために、幕府や幕府に連なる高僧たちの反発にあいました。幕府要人は、大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)。翌年には、幕府は大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。さらに、弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれますがが、文永元年(1264年)11月11日、大聖人一行が、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。この後も、竜の口(江ノ島)で夜中に刑場に引き立てられ斬首されようとする直前まで行きました(竜の口の法難)。しかし、斬首は免れたものの、約3年の極寒の地の佐渡流罪という法難に遭われたのです。寒さと飢えとそして暗殺者から命をねらわれるなど、大変な困難を味わいました。でもその間、この佐渡の地では、大聖人は自分の考えを著した重要な御書を書きました。たくさん弟子にそして後世の人々のためにと残されました。赦免されて、鎌倉に戻った後も鎌倉での立場は、変わらず厳しいものがありました。そこで、身延の地に入られ、後世のために重要な書を書き残したり、弟子に講義したりし弟子の育成をしました。だんだん、民衆の間に南無妙法蓮華経の題目が広がっていく一方で、幕府の大弾圧も起こりました。「熱原の法難」です。これは、大聖人が直接に受けた法難ではなく、弟子や弟子によって教化された農民たちが弾圧されたのです。稲泥棒の嫌疑をかけられて捕らえられた20名位の農民たちは、鎌倉に送られました。もともと稲泥棒の嫌疑ではなく、「南無妙法蓮華経を捨てれば開放する」という条件で拷問にかけられたのです。それでも、その中で誰一人として信心を捨てる人はいませんでした。結局は、中心者とされた農民三名が斬首刑に処せられました。しかし、この法難は、大聖人にとって意味が大きかったのです。つまり、自分ではなく、自分に会ったことも無い農民たちが、南無妙法蓮華経を唱え抜いたことで、いよいよこの題目が民衆に広まってきたことを覚知されたのです。そして、遂に、日蓮大聖人の出世の本懐たる「南無妙法蓮華経」の御本尊を、曼荼羅に書き著されたのです。この時、弘安二年10月12日で、58歳でした。十代で「日本第一の智者となし給え」と清澄寺の虚空蔵菩薩の前で願いを立てられ、父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越えるための仏法の智慧を得ようとされた、その”日蓮大聖人の根本の誓願”が結実した瞬間でした。それまでは、心に念じて「南無妙法蓮華経」と唱えるだけでした。しかし、これによって、「南無妙法蓮華経」の御本尊が眼前にありそれに向かって唱えれば、老若男女、貴賤、民族、人種、問わず、誰しもが、自分の中にある仏の境涯を開くことができ、悪しき宿命を転換し、幸せの方向へと転換し、歩んでいけるという、道を開いたのです。大聖人も、さすがにその時ばかりは、興奮されて、真の英雄とは、「自分のできることを全てやった人間だ…‼」と雄たけびを上げたかもしれませんね。

 

結論:「聖人御難事」に「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」とあります。意味は「日蓮は、去る建長五年の四月二十八日、安房の国(千葉県)長狭郡のうち東条の郷、今は郡となっているが、そこは右大将源頼朝が創建した天照太神の日本第二の御厨(みくりや)がある。今は日本第一である。この御厨のある東条の郡のなかに清澄寺という寺があり、その寺内の諸仏坊の持仏堂の南面で、正午の時に、この法門を唱えはじめて以来、今弘安二年まで二十七年を経過している。

釈迦は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の後に、それぞれ出世の本懐を遂げられた。その本懐を遂げられるまでの間の大難は、それぞれに言いつくせないほどであり、今まで、しばしば述べてきたとおりである。日蓮は、二十七年である。その間の大難は、すでに各々がよく御存知の通りである。」とあります。仏や各聖人が、悟りを開き出世の本懐を果たすまでの、年数が書かれています。誓いを立てること、夢を見ること、持つことは、重要です。また誰もがそれらをもつ権利があります。

 しかし、それをいつまでも持ち続けて、それに向かって努力し続け、そして本懐を果たすということは、なかなかできるものではありません。大谷選手を始め、オリンピックに出るような人は、その経験を積んできた人でしょう。芸術家、音楽家、医師や弁護士など、その目標が高ければ高いほど、難関になればなるほど、その敷居は高く、成し遂げた時の達成感は計り知れないものがあるでしょう。ましてや、日蓮大聖人のように、人類の幸福、世界の平和、現世安穏、後生善処などを叶えるような、それまでになかった画期的な本尊を御図顕されるという様な事は、何千年に一人しかなしえない大事業です。私たちは、当然そのようなことは不可能です。しかし、そこまではいかなくても、日蓮大聖人の御図顕された御本尊に題目を唱え、小さな願い事でも叶え、スモールステップで成功体験を積んでいくだけでも十分に可能です。そして、それだけでも十分に英雄と言えます。

 

 


 

 

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勝負には勝ち負けはつきもの

 スポーツは勿論、あらゆるものに”勝ち負け”が求められ、そして付いて回ります。勝ち負けの決着を求めていなくても、そして望んでもいないのにです。ある面では、それぞれの人生そのものまでが、”勝ち組”、”負け組”と判断されレッテルを貼られてしまうことさえあります。ですから、勝負に臨んだ経験から、古の人々より、「勝って兜の緒を締めよ」「負けるが勝ちよ」「勝負は時の運」「絶対に絶対はない」「強い人が勝つのではなく、最後に勝った人が強い」等々のことわざや名言が生まれてきました。どれもそれぞれに深い意味を感じます。また戦いに臨むにあたっては「負けじ魂」という言葉もよく聞きます。そこからは、強く結果へのこだわり、執念、信念等を感じます。1月から2月に開催された、アジアカップサッカー選手権、少し前になりますが、まだ記憶に残っている人もいると思います。また、つい先日までU23のサッカー・オリンピック予選も行われました。最近では、アジア各国のサッカーのレベルが上がってきて、グループリーグでも5点以上の差がつくような試合は滅多にありません。どの試合も僅差の勝負です。日本もまたグループリーグで苦戦しました。そして、グループリーグの勝ち抜けが決まるような一線では、それこそ熾烈な戦いを展開しました。決勝トーナメントになると、また更にさらに戦いが7激化しました。時には両チームで数枚のイエローカードが出たり、退場者を出した試合もありました。負けていたチームが、後半のロスタイムでギリギリ追いつき、延長戦、PK戦までいって勝ちあがったという試合もありました。時には、前後半、延長戦を1-1で迎え、延長戦のアデッショナルタイムで執念の一点をもぎ取って勝利を収めたというゲームもありました。そして、長いアデッショナルタイムの後、ゲームが終わった後には、勝ったチームも負けたチームも、選手がグランドに倒れこむシーンが見られました。本当に死力を尽くし精魂を使い果たしたという姿です。視点を変えPK戦に関して言えば、ネットで調べたところによると、チェコのアマチュアリーグで、PK戦が世界最長となる両チーム合計52本目までもつれる試合があったということです。それはSKバトフ1930とFCフリスタークによる同国5部リーグの試合で、3-3で迎えたPK戦をバトフが22-21で制した。チェコ南東部の小都市に拠点を構える両チームのPK戦では、4-4、11-11、14-14の場面で後攻のフリスタークに3度の勝機が訪れたが、いずれも選手がシュートを外した。そして迎えた26人目のキッカーの場面で、バトフ側がPKを成功させ、フリスターク側のシュートは失敗に終わると、148人の観客からは安堵(あんど)の拍手が起き、「やっと終わった!」と声を上げる人もいた。最後のキッカーとなったフリスタークの選手は、PKを失敗したことでチームメートから批判されることはなかったと明かしており、「家に帰れるから彼らは喜んでいたよ」と話していたそうです。日本で見れば、冬の風物詩の高校サッカー。そのPK戦記録で、19年1月2日の全国選手権2回戦で帝京長岡(新潟)-旭川実(北海道)の17-16が大会記録となっています。2-2のままPK戦に突入し、延べ38人が蹴った。選手権の予選では21-20という記録があり、10年度の福岡県大会決勝で九州国際大付が東福岡と22人ずつ、延べ44人が蹴って決着は2巡目のGK対決だったそうです。ここまでくると、サッカーの力の差はほとんど変わりありません。違といううとすれば、「絶対に勝つ」執念と精神的持久力だと思います。それを”負けじ魂”を名付けるならば、その”負けじ魂”が、チームの一人ひとりにどれだけ深く植え付けられていたかでしょう。大谷選手を要したWBCの栗山JAPANも、逆転に次ぐ逆転で優勝を勝ち取りました。ハラハラドキドキで、感動的な優勝でした。だから結果的に、「強い人が勝つのではなく、最後に勝った人が強い」ということになるのでしょう。

 

仏法は勝負を先とする…!

 時代も次元も違いますが、鎌倉時代に四条金吾という日蓮大聖人の門下がいました。金吾は、謹厳実直で医術にも精通していた

武士でした。曲がったこと、道理にかなわないことが大嫌いで、正論を通していくために、そのために同僚や兄弟からも、疎まれ憎まれることがありました。日蓮大聖人から法華経の正しさを学ぶと、間違った宗教をしている主君に、法華経に改宗すること勧めました。しかし、それがきっかけで、主君から疎まれ、領地減らされたり、辺鄙な領地に替えられたりしました。これは、武士にとっては大きな死活問題でした。さらに同僚からは讒言されたり、命を狙われたりしました。そのために、生活にも支障をきたし苦しい状況が続きました。しかし、大聖人の指導・助言の下に、短気な性格を見直し、外出にも単独行動を控えました。経済的に苦しい中でも身延におられる大聖人にご供養をお届けし、大聖人門下や同志が苦境に立たされている時には支援しました。そして、何よりも、一時は疎まれていても主君が病気で苦しんでいた時には医術を施し、見事に病気を治しました。それにより主君の信頼を回復し、かっての3倍の領地を賜ったのです。更には、大聖人が鎌倉の江の島の竜の口で処刑されようとしたときは、処刑場まで、大聖人の乗られた馬の口にすがりついて同行し、もし処刑されたならば「自分も一緒に切腹して殉死する」という覚悟も示しました。この時、大聖人は、処刑されることはなかったのですが、佐渡に流されました。そして、極寒の地の佐渡までも師を求めて行きました。結局、四条金吾は、日蓮大聖人の教えと指導を基に、自分自身に降りかかる宿命と闘い、法のため、同志のため、不退転の精神、「負けじ魂」で勝利をつかんだのです。そして、佐渡から鎌倉へ帰る際には、日蓮大聖人の人本尊開顕の書と言われる重書の「開目抄」を、門下一同を代表して授けられました。それほどまだに、愚直に、大聖人を求め、妙法を胸に、腐らず、諦めず、怠らず愚直に信心に励み、一切の苦難・避難・宿命を退け、大勝利の人生を歩み通しました。そしてまた、彼の師であられる日蓮大聖人も、命を狙われる松葉が谷、小松原等の二度の法難、竜の口の首の座、そして伊豆と佐渡と二度の流罪に遭いました。更に弟子の中には、所領を没収されたり、土牢に入れられたり、切り殺されたりする門下もいましました。それでも、末法民衆を苦悩から救済し、社会の平和と自己の幸福の実現のためには「南無妙法蓮華経」を弘めることだという、強い信念と使命と誓願とで、生涯を邁進しました。まさに”負けじ魂”の典型的な見本を示されたのです。結局、大聖人を散々にいじめた平左衛門尉頼綱は、失脚し最後には処刑され一族もろとも抹殺されました。また、頼綱に迎合し結びついて利権を得、権勢を誇り、大聖人を讒言し、龍ノ口の法難の原因をつくった律宗僧侶の良観は、財力と権勢の象徴として建てた極楽寺が大火によって焼失してしまいました。結局、正義は最後には、勝たなければ正義とはならないのです。”負けじ魂”の証明は、経過ではなく結果も大事です。

 

結論:「四条金吾ご返事(世雄御書)」には「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」とあります。同僚の讒言や、幕府や主君からの圧力により、苦境に陥って苦しんでいる四条金吾を激励するために、送られたお手紙です。〝仏法は勝負〟ということは、仏法は、人間の本源的な生命の力を重んじ、それをより強めていくことです。”勝負”といっても、仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることです。〝さき〟とは、前後の〝前〟ではなく、〝本〟ということです。「妙法を根本にして」ということです。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことがあっては本末転倒です。また、四条金吾に対して「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。『諸余の怨敵は、みな摧滅す』の金言むなしかるべからず。兵法・剣形の大事もこの妙法より出でたり。」とも、指導されました。

 『法華経』は、あらゆる人々の中に仏と等しい最高の生命境涯がそなわっていることを説いた経典です。ですから、南無妙法蓮華経を唱えることによって、その無限の力を開くことができる、しかし、一般的な兵法や剣術は、その力を引き出す法則を部分的に解き明かしたに過ぎず、『法華経』の信仰を根本にしてこそ、世間にある具体的な方法を生かしていけると言われています。実際に、四条金吾も妙法を唱えきることによって、すべてを乗り切ることができ、この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を得るという結果で証明されたのです。

 もし、妙法を持った人が負け続けたら、日蓮大聖人の正義も、正当性も脆くも崩れ去ることになります。だからこそ、”負けじ魂”で、力強く前進することが大事なのです。

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祈りとは何…⁉

 2024年に入って、早や4か月が経ちました。今年の幕明けは、1月1日の能登半島地震という、衝撃的なニュースから始まりました。翌日には、羽田空港での航空機同士の大事故。しかも、その1機は能登地震の救援に向かう海上保安庁の飛行機。災難には、災難が重なるものだなと、思い知らされました。能登の皆様方の早い復興と、今後このような凄惨な事故や事件そして戦争や災害が起こらないことを、強く心に”祈る”次第です。祈りといえば、この4月には晴れて念願がかなって新しい学校、大学、職場等に合格して、新生活を送り始めた方もいるでしょう。また、祈りによって、病気やけがを克服した人もいるでしょう。なかには宝くじ、いや、そこまでいかないまでも、年賀ハガキの1等や2等にあたった人もいるかもしれません。そして、願っていたような、良い住宅や車、そして良縁を得た人もいることでしょう。それはまさに「願ったり、叶ったり」です。願いを叶えるために、神社仏閣にお参りした人もいるかもしれません。安全祈願のために、お祓いを受けた人もいるかもしれません。良縁を求めて、占いやおみくじ等を利用した人もいると思います。これらの行為は、今も昔も変わりません。それこそ古今東西、世界中で、”祈り“、”祈願“、”祈祷“、”禊“、”除魔”、“奉納”等々の形で、天に、神に、仏に、大地に、海に、山に、空に、湖に、川に、天体に等々に祈りを捧げてきました。でも、一方で、よく考えてみると、こんなに種類も形態も対象物も違うものに、祈りを捧げているのも、何だか不思議です。それでは、それらに一体どんなご利益があるのか、即効性はあるのか、どれに祈るのが一番願いが叶うのか、お礼のお返しはしなくていいのか…⁉ 「祈り」とは、他の生物はしない人間だけの行為です。恐らく人間に一番近く高い知能もつ猿やチンパンジーなどもしていないでしょう。「祈り」とはまことに不思議な行為だと思います。しかし、だからこそよく考える必要があるのではないかとも思います。しかし一方では、「祈り」を学び、科学するような場面も機会も無いことが現状です。知らなければ、知らないですんでしまう。何も困るころはない。でも、逆に「知らぬが仏」という諺が示すように、知れば知るほど驚きと恐怖を感じることもあるかもしれません。日蓮大聖人は、祈祷(祈り)に関してどのような考えをされていたのでしょう…⁉

 

祈り方で、結果も変わる…!

 日蓮大聖人は、祈りとその効力、結果についていいろいろな場面で、言及されています。祈りとは、宗教の本質にかかわる問題です。そして、何を祈る対象(本尊)にするのか、どんな教えであるのか、そしてそれが道理にかなっているのか(理証)、それを裏付ける文証(教義・経典・文献)があるのか、そして実際に祈って結果が出ているのか(現証)が大切であると言われています。この文・理・現の三証がすべて揃っていなければ、それは宗教の体裁はなしておらず、信じるに足らないものであり、祈りは叶わないばかりか、逆にのめり込めばのめり込むほど、不幸へと貶めていくと断言されています。この三証を基準にして、”四箇の格言”を生み出したのです。それは「念仏無間、真言亡国、禅天魔、律国賊」という言葉です。立正安国論でも、幕府・朝廷がこれらの間違った宗教を保護し、供養していけば、世は乱れ不幸な出来事が起こると警鐘を鳴らしました。特に、国内では同士打ちが起こり、外国からの侵略も受けるだろうと、自らの命をかけて幕府に諫言したのです。しかし、幕府はこれを無視した結果、結局は二月騒動(北条時輔の乱)が起き、二度の蒙古襲来に見舞われました。現証として誰の目にもはっきりと示されたのです。そして、仏教典最高の経典である法華経にもとづいた正しき経文に基づき、そして唯一の実践方法として、ただ「南無妙法蓮華経を唱える」ことのみを教え弘めました。また、祈りの結果としての現れ方にも4種類あることも示されています。「道妙禅門御書」の中で「祈祷においては、顕祈顕応、顕祈冥応、冥祈冥応、冥祈顕応の祈祷有りといえども、ただ肝要は、この経の信心を致し給い候わば、現当の所願、まんぞくあるべく候」と書かれています。要約すると、”祈りの現れ方には、顕祈顕応、顕祈冥応、冥祈冥応、冥祈顕応の四種類がある。ただ肝心なことは、この法華経を信じていくならば現在と未来の願いは必ず叶いますよ”ということです。この御書は、道妙禅門という人への手紙です。その縁者が自身の父親の病気平癒を大聖人に願ったことに対する返書と言われています。その中で大聖人は病気平癒の祈念を約束されるとともに、「ご本尊に強盛に祈っていけば、現在から未来に渡って、あらゆる願いが叶いますよ」と、言われています。ここで、4種類の祈りについて簡単に触れます。「顕祈顕応」とは、何か物事に直面した時に真剣に祈り、その結果解決の方法が早く見つかることです。「顕祈冥応」とは、祈った結果は直ぐに顕れなくとも、祈る行為により、生命に福運がついていくことです。「冥祈冥応」とは、日々の地道な唱題の功徳で、自然に生命が綺麗になっていき、結果的に所願満足になっていくことです。「冥祈顕応」とは、常日頃たゆまぬ唱題の功徳が、いざと言う時に具体的な事実として明確に表われるというです。いずれにしても、大聖人は「ただ肝要は、この経の信心を致し給い候わば、現当の所願、満足あるべく候」と言われています。祈りがすぐにかなう場合もあれば、はっきりとした結果が現れない場合もあるでしょう。しかし、たゆまず地道に唱題を続けていけば、必ず所願満足の結果が得られると、断言されているのです。一方で、御書には極楽寺良観との「祈雨」の対決に関して、こんな記述があります。「この年は大旱魃(かんばつ)で春から初夏の六月まで干天が続き、一滴の雨も降らなかったといいます。旱魃は飢饉となり、それは人心の不安を生むことになります。幕府は諸社に奉幣し寺院にも雨乞いの祈祷をおこなわせました。しかし、効験がなく最後に幕府は、良観房に請雨の祈祷を命じることになります。それは、祈雨の祈祷は良観側から申し出たといいます。祈雨の祈祷は6月18日から24日までの七日間のうちに雨を降らすことでした。そこで日蓮大聖人は、良観に雨乞いの法力対決を申し込みます。これは法華経と真言律の対決です。『下山御消息』によると、日蓮大聖人は良観に、「七日が間にもし一雨も下(ふ)らば、御弟子となりて二百五十戒具(つぶ)さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし」と、法力に敗けた方が改宗するという内容でした。これを三度も使いを遣わして確認させたのです。良観は、自分の息のかかった120余名の祈祷僧を集めます。自身は中央の壇に登り、120名の僧侶達は八面に列座して祈祷を始めます。場所は鎌倉の西を護る極楽寺。生身の弁財天が御座し、五頭龍は盤石となって江の島を守り、その龍神の口元(龍の口)から喉元にあたるところが極楽寺です。ところが、雨乞いの霊験は、その日も次の日も現れませんでした。良観の祈雨は七日間を経ても効をしめしませんでした。さらに泉ヶ谷の多宝寺から200名の僧を助行に頼み雨経を読ませます。日蓮大聖人に祈祷期限延長を申し入れて、七日間の修法をしましたが一滴の雨も降りませんでした。かえって、25日目より熱風がふきあれ、目を開けていれないほど土埃が吹きあがったといいます。それが二週間も続きました。結果として雨は一滴も降らなかったのです。この後日蓮大聖人が祈雨をしてた時には、慈雨の雨が降ったということです。良観は事実上、祈雨の対決に負けたのでした。日蓮大聖人は、「間違った宗教でいくら祈っても良い結果は得られずかえって悪くなる。妙法による祈りが正しいことが証明された」と宣言されたのです。結局負けた良観達は、大聖人の弟子になるどころか、逆恨みをして幕府に讒言し、それが元で竜の口の法難という”首の座”に至ったのです。良観は、幕府の権力の威を借りて大聖人を処刑しようしました。でも、結局は日蓮大聖人は処刑の瞬間に現れて”光もの”に助けられて、斬首刑は中止されたのです。この事実を見ても、宗教の正邪、祈りとその結果が実証されているのです。後日談になりますが、結局、良観の住んでいた広大で荘厳だった極楽寺も火事によって焼失した。これは現罰ともいえる結果でしょう。

 

結論:祈りや、祈祷、祈願をすることは、人間の奥底から湧く本能のなせる業だと思います。つまり、自然な行為と言えます。しかし、大事なのは、祈る対象(本尊)であり、祈り方であると大聖人は説かれています。「一生成仏抄」には「衆生と云うも仏と云うも 亦此くの如し迷う時は衆生と名け 悟る時をば仏と名けたり譬えば闇鏡も 磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は 磨かざる鏡なり 是を磨かば 必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して 日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを 是をみがくとは云うなり」とあります。訳しますと「衆生といっても仏といっても、また(穢土と浄土と同様に)人には、二つの隔てがあるわけではない。迷っている時には衆生と名づけ、覚った時には仏と名づけるのである。たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。今の(私たち凡夫の)無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の覚りの智慧の明鏡となるのである。深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、怠ることなく自身の命を磨くべきである。では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである。」と説かれています。1度お参りしたからどうにかなるという様な、甘い修行は無いのです。そして、日夜朝暮に題目を唱えた結果はどうなるのかというと、「たとえ大地をさして外れることがあっても、大空をつないで結びつける人があっても、また、潮の満ち引きがなくなったとしても、太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華経の行者』(妙法を実践する人)の祈りが叶わないことは、絶対にない」と「祈祷抄」はかかれています。太陽は必ず東から昇る。それ以上の確かさで、題目をあげた結果の祈りは叶う。それが宇宙の法則だからです。だから、大切なのは、こちらが「法華経の行者」であるかどうか、本当に実践しているかどうかにかかっているのです。祈る人の姿勢が問題となるのです。「釣鐘を、楊枝でたたくのと、箸でたたくのと、撞木(鐘を鳴らす棒)でつくのとでは、音が違う。同じ釣鐘だが、強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く。御本尊も同じだ。こちらの信力(信じる力)・行力(行じる力)の強弱によって、功徳に違いがあるのだ」と言われています。

 諸天を揺るがすように強く祈れば、必ず祈りは叶うと断言されています。それを信じてやるかやらないのかは、自分次第です。そして、その結果も当然自分が負うことになります。

 

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「人間は、世の中の波にもまれて成長していく…!」

 2023年の暮れの聖教新聞に、同年11月に亡くなられた池田名誉会長が寄稿していた「HEROES(ヒーローズ)」という記事が載っていました。それは、ルーシー・モード・モンゴメリー女史の記事でした。そうです。世界中で子供たちに愛されている「赤毛のアン」の作者です。私も、「赤毛のアン」の小説が大好きで読みました。アンが成長してからの「アンの青春」やその後のシリーズも読みました。どれも味があって興味深く読みました。主人公のアンは、孤児院から引き取られた少女でしたが、彼女が逆境を乗り越えながら成長していく姿が、面白おかしく書かれていて、ついアンを応援したくなります。アンは実在の少女ではありませんが、モンゴメリーさんの生い立ちと重なるものがあります。つまり、自分の生い立ちをモチーフにアンの物語を書いたと言えます。モンゴメリーさんは、赤毛のアンの舞台と同じ、カナダのプリンスエドワード島で1874年に生まれました。彼女は、2歳になる前に母親と死別し、父親の仕事の関係で、祖父母の家に預けられました。これが彼女の運命を変えることになりました。文筆に長じた祖父、詩人の大叔父、物語の話し上手な大叔母達に接し作家になることを夢見ました。小さいころから読み書きを覚え、文章を書き続けていました。そして、自分の作品を新聞社や雑誌社に何度も投稿し続けました。時に詩や散文が新聞に載ることはあっても、原稿は送り返される日々。それでも、くじけず書き続けました。進学して教員免許を取得し、教壇に立ちながらもたくさんの作品を投稿し続けました。働きながら作家として活動する苦労は難くありません。時には、早起きして出勤前に執筆したり、時には、寒い冬にかじかむ手で懸命にペンをふるったりと。机に向かえないほど疲労に襲われた日もあったと言います。しかし、「どんなに失望しても決してあきらめない」「いつか目的を達成することができる」と自分を信じて書き続けました。「勝ちとることがむずかしければむずかしいほど、勝利はいっそう甘味であり、永久だと、私は信じている」という強い信念をもって、出版社から原稿を突き返されても、文壇の道で地位を確立するために、寸暇を惜しんで執筆に挑みました。1902年に故郷のプリンスエドワード島に戻ると文筆活動に没頭しました。長編小説にも取り組みました。そんな中で、1年半かけて書き上げたのが「赤毛のアン」です。プリンスエドワード島を舞台に、孤児院から引き取られた少女アンの成長を描き、世界中から愛された小説。しかし、当初は、5つの出版社に原稿を持ち込んだけれど、どこからも採用されませんでした。逆に「この作品を出版する十分な理由が見いだせない」との評価を受けました。モンゴメリーは深く落ち込み、目に入らないようにその原稿を家の箱の中にしまい込んでしまうほどでした。それから2年ほどしたある日、忘れていたその原稿を見つけ出し、読み返し、そして内容は悪くないと確信し、別の出版社へ原稿を送りました。その結果原稿が採用され出版されることになったのです。完成から3年後のことでした。出版後は、瞬く間にベストセラーになり、一躍大人気作家の仲間入りを果たすことができました。しかし、その後家族との死別や出版社との長い法廷闘争などにも直面しました。裁判に関しては、世間からは勝訴は難しいと言われながらも、「不正とごまかしに対して黙ってはいられない」「私は闘争心を盛り上げて、彼らの脅しなどには目もくれず、とことんまで闘う決意をしたのです」と、10年の歳月を闘い勝利をつかみ取ったのです。モンゴメリーは自叙伝の「険しい道」で、「長い長い苦労と努力の末、私はついに『険しい道』を登り詰めたのです。たやすい登攀(とうはん)ではありませんでした。しかし、一番苦しい闘いの最中といえども、高峰を踏破しようとするものにだけ体験できる喜びと痛快な瞬間があるのです」「私と同じように、うんざりするような人生という道程を苦しもながら今もなお歩き続けている人々を励ますことができるかもしれない。私もその苦しい道程を歩き抜いて、今日の私があるのだから」とあります。あの不憫な中にも、元気よく明るく、常に夢をもってはつらつと前に進んでいくアンの姿には、そのような筆者の苦しい道程に裏打ちされていたのだ考えると、感慨深いものがありますね。

 

大きな障害は、勝利の前兆だ…!

 池田大作創価学会名誉会長は、度々モンゴメリーや彼女の作品に光を当ててきました。そして自分のスピーチやエッセイにも取り上げています。例えば、2003年9月5日海外代表協議会でのスピーチでは、「アンの言葉」と通して、このようにスピーチをしています。「『わたしはね、小さな障害は、笑いの種だと思い、大きな障害は、勝利の前兆だと考えられるようになった』 大きな障害は勝利の前兆ーーいい言葉である。状況が厳しければ厳しいほど、強きで人生を行きぬいて行くことだ。勇気をもって、断固として前へ、また前へ、突き進んでいくことだ。御書には『わざわいも転じて幸いとなるべし』と仰せである。皆様には『祈りとして叶わざるなし』の妙法がある」と。また、2006年2月14日の女子部・婦人部合同協議会では、「『どんな子にも何かしらいいところがあるのよ』『教師のつとめは、その長所を見つけて、伸ばしてあげることよ』 人材育成において大切なのは、一人ひとりの長所を見つけ、それをほめ讃えて行くことだ。伸ばしていくことである。『アンの青春』の中で、アンが歌う詩の一節に、こうあった。『朝ごとに、すべては新しく始まり 朝ごとに、世界は新しく生まれ変わる』 また、この続きには『今日は新しく生まれ変わる好機』とある。どうか皆さまは、同志とともに、一日また一日、生まれ変わっていくように、新鮮な息吹で前進していただきたい。人と比較する必要はない。あくまでも、自分らしく、粘り強く進めばよい。また、途中の姿で一喜一憂することはない。最後に勝てばよいのである。そして、絶対勝っていけるのが、妙法である」と述べられました。さらに「誓いの青年に贈る」と題した随筆では、モンゴメリーの『人間は成長しなくちゃ』『人間は世の中の波にもまれて成長していくんだもの』という言葉を引用し、次のように青年たちを鼓舞しました。「私は深く信じる。艱難に負けず、創価の旗を掲げ成長してゆく、君たち、貴女(あなた)たちがいれば、この地球は、もっともっと美しくなると。誓いの青年(きみ)よ!最愛の弟子たちよ!断じて、勝利又勝利の歴史を飾りゆけ!」と。モンゴメリーの不撓不屈の闘い、そして尽きることのない創作意欲からほとばしった”魂の言葉”は、100年後の現代の人々をも鼓舞してくれています。80年前の日蓮大聖人の御聖訓もまた同様に、現代の私達に、否、末法未来万年の人々に勇気と希望と絶対幸福をもたらす言葉が散りばめられています。

 

結論:『逆境を乗り越えてきた英雄たち』といえば、日本では日蓮大聖人もそうであります。

このブログでも書きましたが、内村鑑三の著書「代表的日本人」の中の5人のうちの一人に挙げられているほどです。日蓮大聖人は、自身の高名として、二度の法難と二度の流罪を上げられています。しかもそれは、世間の法を犯したからではなく、日本の苦しんでいる民衆を救わんとして、妙法を弘めたためです。また、自身が厳しい法難に遭っていた時には、その弟子や門下も同様に厳しい状態に追いやられたことも事実です。自身が伊豆や佐渡に流されたときに門下も厳しい弾圧あっているだろうと思いやり、門下に励ましや鼓舞するような手紙や書簡を送って、激励しました。例えば、佐渡の地で著された「開目抄」では、「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と、門下一同を強く、戒めまた鼓舞しました。自身が監視下の下命をも狙われ飢えにも苦しむ様な中で、門下に対して、「今は厳しい状態に置かれているかもしれない。でも、必ず現状は改善され、良い方向に向かって行くことは間違いない妙法を信じて疑ってはいけない。」と力強く励まされています。

「佐渡御書」では、「鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。…後生の三悪を脱れんずるなるべし。」 鉄は真っ赤に焼き鍛え打てば、鉄の鋼となり、やがては鋭く光り輝く真剣に生まれ変わる。それと同様に、立派な人は、人にいろいろと悪口を言われ罵られても、それをバネに人格が磨かれ、鍛え抜かれ、みんなから仰がれるような人になると教えられています。”楽して儲けよう”、”勉強しないでよい成績を取ろう”、”自分は泥をかぶらないで、偉そうにおもわれよう”などという、夢のような話はあり得ません。過去の偉人たちの多くは、正義のために逮捕されたり、拘留されたりという、人権を無視されるような経験を積んでいます。何の苦労もしないで、トップになった人はいません。もしいたとしても、そのような坊ちゃん育ちの苦労知らずの人は、後でしっぺ返しが来て、苦労することは間違いありません。同じ苦労をするなら、大聖人が門下の四条金吾に与えた手紙のように「ただ世間の留難来るとも とりあえ給うべからず。 賢人・聖人もこのことはのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなえ給え。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて 南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。」と泰然としても、苦労や困難に立ち向かってい行きたいものです。どうせ逃れられない苦難困難であれば、ある意味開き直り、時には女房と酒を飲みながら、苦しい時には苦しいと楽しい時には楽しいと、悲しい時には悲しいと、素直にその思いを全てぶつけ、南無妙法蓮華経と御本尊に向かって唱えていきなさい。そうすれば必ず難局は乗り越えられ、それこそが一番の喜びになるのです。何とありがたい大聖人の励ましか‼

 

 

 

 

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不老長寿と不老不死

 少し前に115歳で日本人男性最高齢亡くなったというニュースを耳にしました。そういえば昔、鹿児島県徳之島町の泉重千代さんという方が、120歳で世界ギネスに認定されて話題になったことがありました。2007年のことです。そして、2022年4月には119歳の田中力子さんが亡くなられたことがニュースになりました。存命中の最高齢者として世界ギネス認定されています。泉さんの方は、記録が不明確な可能性もあるということでしょうか⁉ 尚、2017年ギネスに世界高齢公式記録は、122歳のフランス人がジャンヌ・ルイーズさんが持っています。いずれにしても大した記録です。周囲の人以上に、本人の方が驚きだったのではなかったかと思います。ある学者の統計によりますと、野生の猿やネアンデルタール人などは平均が40歳。ですから、40歳以上の人生は、”おまけのようなもの”と言われています。振り返ってみると約100年程前までは、50年生きればよい方でした。戦争があった時には、平均寿命はもっと短かったのです。それが、科学技術の発展、医療の進歩、食糧事情の改善、環境の整備等によって日本人の寿命は延びてきたのです。ある面では、嬉しいことであります。しかし、一方では喜んでいられないこともあります。長く生き続けるための心臓は、強くなってきましたが、それをコントロールする為の脳の方が、それに付随して長持ちしくれればよいのですが、逆に錆びついてきて機能不全になり、認知症を発症し、長生きするにつれて自分が自分で無くなっていく事です。それこそ、AI技術が進歩し、脳の機能を補ってくれるようになければ、今度は自分の存在意義さえ?になり兼ねます。しかし、そうはいっても誰もが「長生きをしたい」というのは、本音であり願望でありと思います。 ところで、”不老不死”で思い出すのは、秦の始皇帝の話です。強大な独裁者となった始皇帝は、不老不死を強く願望しました。あるとき、徐福(または徐市・じょふつ)という者が、「東方の海に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という神山があり、そこに行けば不老不死の神薬が求められる」と申し出ました。始皇帝は童男、童女数千人を集め、巨万の富と多数の船を用意させて、徐福を東方に出発させました。このことは、今から2千年も前の紀元前、「史記」という中国の歴史書に書かれています。東方を目指した徐福だが、ついに帰国することはありませんでした。日本列島のどこかに上陸して、そこに住んだのではないかとか、または始皇帝の命令による不老不死の神薬が得られなかったので、皇帝の怒りを恐れ、仲間を集めて巧みに亡命したのではないかとする話もあります。しかし、いずれにしても徐福が向かったのは、東方の日本列島と伝えられています。結果的には、大金をつぎ込んで、家来、従者をたくさん使って不老不死の妙薬を探し求めさせたけど、始皇帝は”妙薬”を得ることなく死んだのです。一説によると、不老不死の薬だとして水銀を服用し、水銀中毒で亡くなったという説もあります。

 

本当の不老不死の良薬とは…!

 鎌倉時代は、天候不順・天変地異多発・疫病流行等で食糧事情も衛生環境も最悪でした。そんな折、日蓮大聖人は門下達が病気の時に、いろいろと相談を受けたり、激励をされたりしました。ある時、富士方面に住む女性信徒で、夫が長い間病気を患っていた妙心尼に対して、「仏と申せし人はこれにはにるべくもなきいみじきくすしなり、この仏・不死の薬をとかせ給へり・今の妙法蓮華経の五字是なり、しかも・この五字をば閻浮提人病之良薬とこそ・とかれて候へ。」と手紙を書いて激励されています。要約すると、「仏と申される人は、すぐれた医者です。この仏は、不死の薬を説かれたのです。今の妙法蓮華経の五字がこれです。しかもこの五字をば万人の病の良薬と説かれているのです」と激励されました。日蓮大聖人は、手紙の冒頭で、妙法蓮華経は「不死の薬」であることを強調されます。生死の問題を解決しなければ「病」も「老」も根本的な解決はできません。この生老病死という根源の苦悩を唯一、解決できるのは妙法です。大聖人は、仏とは、中国やインドの伝説的な名医よりもはるかに偉大な医師であると述べられています。そして、仏を医師に譬えられているのは、仏が「不死の薬」を説いているからです。「不死」とは、もちろん、この肉体が永久に続くという意味ではありません。私たちの生命が、”生死を超えて、三世永遠に悠々と進みゆくことができる”妙薬(甘露)ということです。無始無終の永遠の法と一体となった究極の安らぎの境地を指します。大聖人は「甘露とは南無妙法蓮華経なり」と言われています。つまり、”不老不死”とは、妙法を根本とした揺るぎない幸福境涯です。そもそも、生老病死は誰人も免れることはできません。病気との闘いは、ある意味で避けられない自然の摂理とも言えます。むしろ、信心をしてきた人が病気になることは、必ず深い意味があるのです。そのことを大聖人は続けて妙心尼に教えられています。それが「このやまひは仏の御はからひか」との一節です。病気になったこと自体が「仏の御計らい」と仰せです。それは病気になることによって、仏法を求める心が起きるからです。病を契機に、人々は仏法への理解が一歩深まり、仏は、衆生が抱える根源的な病は何かを教えるのです。ゆえに「病によりて道心はをこりて候なり」です。病気になることで、かえって、自分を見つめ、宿命を知り、仏法を心の底から求めることができるのです。すなわち、病気を機に真剣に仏道を求めていった時に、一人一人にとって、病気の持つ意味が転換していきます。信仰には、病気をはじめ、あらゆる苦悩の意味を、深く捉えなおしていく力があります。すなわち「宿命を使命に変える」生き方です。”不老不死とは死なないことではなく宿命転換”のことで、始皇帝が求めた結論に他なりません。

 

結論:薬王品第二十三に「此(こ)の経は則(すなわ)ち為(こ)れ閻浮提(えんぶだい)の人の病(やまい)の良薬(ろうやく)なり。若(も)し人病(やまい)有らんに、是(こ)の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」とあります。そして仏典には「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」とあります。「不死の境地」とは、仏が覚った「最上の真理」です。 まさに「不死」こそ、仏法の主題です。大聖人は、ここで「不死」をもたらす「薬」とは、「妙法蓮華経の五字」であるといわれています。しかも、この妙法蓮華経の五字こそ、法華経に説かれる「閻浮提の人の病の良薬」にほかならないと示されます。「閻浮提の人の病」とは、貧り、瞋り、癡などの煩悩であり、その根源は無明です。この「不死の薬」である南無妙法蓮華経を信じ唱えること、それがこの「良薬」を服することです。毎日題目を唱えることは、実は、三世の生命を覚知し、「不死不死の境地」を得ているのです。 

 「伝御義口」という御書に「 若(もし)人とは上(かみ)・仏果より下(しも)・地獄の罪人まで之を摂(せっ)す可(べ)きなり、病とは三毒の煩悩・仏菩薩に於ても亦(また)之れ有るなり、不老は釈尊 不死は地涌の類(たぐい)たり、是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。」とあります。意味は、「上は仏界から下は地獄の罪人にいたるまで、十界すべて病はある。病とは貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろか)の三毒の煩悩が原因であって、これは、仏や菩薩においても、あるのである。不老不死とは、不老は釈尊、不死は地涌の菩薩に約す。すなわち、己心の仏界、己心の地涌の菩薩を涌現し、永遠に崩れざる金剛不壊(こんごうふえ)の境涯を会得(えとく)することができるのである。したがって、病とは、いま一歩端的にいえば、謗法である。この三大秘法の御本尊を受持する者は、経文のごとく、病がたちまち消滅することは疑いない。いま、日蓮大聖人の弟子となって、南無妙法蓮華経と唱える者は、謗法の病を消滅し、わが己心の仏界を涌現して、絶対的幸福の生活となっていくのである。」ということです。不老不死は、”年を取らないで死なない”ということではなく、”生老病死”の苦悩の鉄鎖から解き放されることです。そのための”秘薬”が”南無妙法蓮華経”であると教えられているのです。     このことを知らなければ、たとえ何百年生きたとしても苦悩の病に沈み、これを知れば、たとえ短い生涯であったとしても、三世の生命観に立てば長延の生命を覚知したことになります。これこそが”不老不治の妙薬”であるということを始皇帝が知ったとしたら、どんなにか喜んだことでしょう。

 

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宝となった会友さんの言葉!

 昨年暮れの聖教新聞に、読者の投稿の”声”という欄がありました。そこに浜松市のY.のり子さんの投稿が面白いなと思い、紹介したいと思います。そのタイトルは、「私の会友さんの言葉」というタイトルでした。会友というのは、創価学会員ではない友人のことです。…座談会の椅子にちょこんと座る、ベリーショートの”まさ子”さん。女性部の先輩の中学校からの友人で、会友さんです。お二人の信頼関係はとても深く、うらやましくなることも、しばしば。ある時、先輩がまさ子さんと行った友人の集まりで、AI(人工知能)の話題になった時のことを話してくれました。「『これからは、AIに負けちゃうし、仕事も取られちゃうね』って話してたの。そしたら、まさ子さんがね”AIはお題目を唱えられないよね”って、私に言ったの」。愉快そうに語る先輩、私はびっくり仰天。とともに、「お題目ってすごいよね、まさ子さん」と共感しました。そして、”南無妙法蓮華経は宇宙と生命を貫く根源の法この大確信に立て!”との池田先生の講義がよみがえりました。病と闘っていたまさ子さんは今夏、霊仙へ。学会の友人葬で送りました。まさ子さんが妙法の福徳に包まれますように、題目を送っていきます。題目の大切さを教えてくださった、この言葉は、私の宝物です。…以上です。会友のまさ子さんは、普段から題目を唱えていたわけではないと思います。長い間、そのお友達から”お題目はすごいわよ”と言い聞かされ、そして友人の人となりから判断して、”お題目はすごいかも⁉”と実感していたのでしょう。この記事を読んで、”AIはお題目を唱えられないよね”というAIの話を通して、自分なりに二つのとらえ方をしました。一つ目は、AIは、機械だから自分でスイッチを入れてお題目を唱えることはできないという、人間的な自発的行動性はないだろうということです。二つ目は、AIは、人間から仕事を取り上げていくけれど、”まさかAIは、人間からお題目を唱えて幸せになっていく権利まで取り上げていく”ことはないでしょうねという、人権的な立場でのとらえ方です。いずれの意味で、この会友のまさ子さんが言われたのかは、本人に聞くしかありません。しかし、霊山に旅立たれた後では、確認の使用もありません。でも、結局は未入会ではあったけれども、みんなのお題目の中で、送られていったまさ子さんは、来世は、日蓮大聖人のもとに生まれ来て、きっと成仏されることでしょう。妙法の功徳や力は、私たちには見えないけれども、大聖人の御書にはそう書かれていることは確かです。

 

南無妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く根源の法!

 先ほどの、AIの話に戻りますが、「南無妙法蓮華経の題目を唱えればその功徳は、自分の生命に福徳となって蓄積されます。そして、過去世の宿業を断ち切ることができます。そして本来自分にも備わっている仏の生命を湧現することができます。」と日蓮大聖人は教えられています。南無妙法蓮華経の功徳とは、南無妙法蓮華経と唱えることによって得られる功徳のことです。功徳とは何かについては、「御義口伝」に以下のように書かれています。『悪を滅するを功と云い、善を生ずるを徳と云うなり』とは実に明快なお言葉かと思います。 『功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るな り、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり』と。言葉は、難しいですが、題目を唱えれば、身も心も清められ、大きな福運に包まれていきますよということを言われています。しかし、三世の生命を持たない機械のAIには、いくらスピーカーを通して題目の声を出しても機械自体には福運を積むこともできないし、宿命転換をする力も喜びもAI自体は、感じることは出来ないでしょう。やはり、題目を唱えて、福運を積み感じていくのは、生命そして仏性をもつ人間以外にはないのです。そして、その生命変革のダイナミックを感じて、報恩感謝の題目を唱えることができるのも人間だけです。さらには、自分以外の他人の幸福を祈り、また過去世の先祖の回向をして成仏を祈り、世界の平和を祈ることができます。そして、その祈った分だけの福運は、全て自分に還ってくるのです。それは、題目をあげる人の特権であります。その特権さえも、仕事と同様にAIにとって代わられたのでは、人間としての価値がなくなるということになります。仏法では”三世の生命”を説いています。現世だけの生命ではないということです。こういう言葉があります。「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」と。これは、有名な開目抄の言葉です。「今の自分の姿を見れば、過去にどんな行いをしてきたが分かる。来世でどのような姿になるかは、現在の行いによって決まる」という意味です。すべてはつながっていて、一回限りの現世主義ではないということです。生命活動を業と言い、良い悪い行いが全て生命に刻み込まれ、その結果が次の生命に受け継がれるということです。ですからAIがいくら題目を唱えたとしても、生命そのものが無いので、良いも悪いも、業は蓄積されません。また、AIに題目を唱えてもらって、良い業だけを自分に刻み付けて来世に持ち込もうとしても、そんなインチキは通用しません。代行は効かないのです。やはり自分の真心こめて唱えた題目だけが、自分に生命に刻み込まれ、また、祈りや願いとして叶い、回向として届くのです。会友のまさ子さんが、”AIはお題目を唱えられないよね”と言った言葉には、実は深い意味合いがあると思いました。そして、”お題目を讃嘆”した未入会のまさ子さんは、友人たちのお題目に送られて、きっと安生として旅立たれたことでしょう。良かったですね。

 

結論:「月水御書」にこう書いてあります。「或は又一期の間に只一度となへ、或は又一期の間に只唱うるを聞いて随喜し、或は又随喜する声を聞いて随喜し…凡夫の此の功徳をしり候いなんや」と。これは「あるいはまた一生の間にただ一度(題目を)唱える、あるいはまた一生の間にただ一遍、唱える声を聞いて随喜する、あるいはまたその随喜する声を聞いて随喜し…その凡夫がその功徳を知ることができようか」ということです。題目の声を聞いて、他の人まで「随喜」する。そのような、さわやかな唱題の声でありたいし、妙法を唱える声、また確信の声に触れて、あの人は素晴らしいな、すごいな、元気が出てくるな、と聞いた人も随喜すると、そう思える人にも計り知れない題目の功徳が行き渡るとは、何とすごい御書でしょうか。驚きます。この会友のまさ子さんは、きっと友達の学会員さんご婦人を見て、血色もよく、いい顔をしているな、いい笑顔だな、輝いているな、と常々思っていたことでしょう。このように、目に見える姿は大切です。諸法実相という言葉があります。それは、諸法=すべての現象の姿は、即、実相=生命の真実の姿であるということです。こうした随喜の姿は、まさに「会友」の方々も同じ姿といえます。信心している友の随喜からそれを見ていたまさ子さんも随喜する─「会友」運動の方程式です。

 『「釈尊は、さまざまな修行を積み、仏にりました。それを因行果徳(いんぎょうかとく)といいますが、その功徳、福運は無量無辺です。その功徳は、御本尊に題目を唱える中に、全部、含まれています。それほど偉大な御本尊であり、題目なのです。したがって、御本尊に対しては、本当に強盛(ごうじょう)な祈りで題目をあげることです。何があっても題目を唱えれば、理論が分かっても分からなくても、教学があってもなくても、功徳は同じです。どのような立場の人であっても、題目に変わりはないし、功徳に変わりはないのです。それは、例えば「お財布の中にお金がある。お財布がどんなものでも、中身が大事です。ロウソクに火をつける時も、誰がつけても火は同じです。同じように、題目の功徳は、誰が唱えても功徳を受けることができるんです」ということです。このように、本人は気が付かなくても、思わなくても、その功徳と同等の功徳を、きっと、まさ子さんも頂いたのです。素晴らしいことです。

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自分を植物に例えるなら…⁉

 一言で植物と言っても、何千何万種類の草木があります。そして、それぞれに、自分たちが成長するのに好む環境があります。日当たりを好むもの、日当たりが強すぎるのはに苦手なもの、水辺が好きなもの苦手なもの、暑いところでも平気なもの苦手なもの、極寒にも耐えられるもの耐えられないもの、日照時間が短くなると花を咲かせるもの、高い山の上が好きなもの、水の中が好きなもの等々と限りがありません。ある面では人間や動物と同じです。人間や動物にもそれぞれの性格や特徴があるように、やはり植物にもあります。ある企業の採用試験の面接の際に「あなたを植物に譬えるならば、何ですか?」と問われたこともあるそうです。また、インターネットで見ていたら、AETHER(エーテル)という会社が「フラワーイメージ診断」というのをしていました。男性というより女性に対してのアンケートといった方がよいでしょう。参考までに、紹介いたします。…色、カタチ、香り、コトバ。知れば知るほど、花の多種多様な魅力には驚かされます。一つとして同じものがない個性は、私たち人間も同じ。今回、「あなたを花に例えたら?」という診断をご用意しました。8つの質問の答えから、あなたらしい花を導き出します。ぜひ気軽に遊んでみてくださいね。<あてはまるものをA~Dから選ぶ> Q1.今年の自分のテーマカラーは?​​​​​​Q2.数量限定のケーキがあなたの直前で売り切れてしまいました。​​​​​​Q3.スマホがない…!あなたの取る行動は? ​​​​​​Q4.ファッションで一番大切にしたいのは? ​​​​​Q5.実は〇〇だと思う Q6.久々の休日。何をする? ​​​​​​​​​​​​​​Q7.自分に向いているかも!と思う仕事は? ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​Q8.あなたが得意なことは? ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​A~Dの数を数えて、結果を発表します◇Aが多いあなたはサクラタイプ。美的感覚に優れ、美しい物や風景を見ることが好きなサクラタイプさん。このタイプに多いのは、知的で品のある仕草や、抜群のファッションセンス。でもそれは、日々の自分磨きやメイク・ファッション研究など、自分自身の努力の賜物です。「自分に厳しく、他人に優しく」を地で行くタイプで、周りからの信頼・評判も高め。サクラの花のように凛とした印象です。 ◇Bが多いあなたはピオニータイプ(*ピオニーは芍薬のこと)。色彩感覚に優れ、トレンドにも詳しいおしゃれなピオニータイプさん。このタイプに多いのは、芸術肌でしっかり者の方。一見完璧主義者に見えますが、ちょっぴりわがままでおっちょこちょいなところもあり、そのギャップがいじらしい愛されキャラです。感受性が豊かで、相談を受けると自分のことのように喜んだり悲しんだり…情に厚く、頼りになるお姉さんタイプ。ピオニーの花のように華やかな印象です。◇Cが多いあなたはバラタイプ。共感能力に優れ、世渡り上手なバラタイプさん。このタイプに多いのは、クールで落ち着いている方。常に冷静で、自分だけでなく相手の考えもきちんと理解しようとするリーダー的感覚の持ち主です。大人っぽく見えますが、実はぬいぐるみが好きだったり、プリンセスに憧れていたり…。バラの花のように繊細でロマンティックな一面も併せ持っています。 ◇Dが多いあなたはミモザタイプ。行動能力に優れ、好奇心旺盛なミモザタイプさん。このタイプに多いのは、まじめで愛嬌のある方。何事にも一生懸命で、人を喜ばせることが大好きなエンターテイナー的感覚の持ち主です。新しいことや、自分の知らないことには興味津々。なんでも楽しそうに話すので、このタイプの方の周りは常に笑顔で溢れています。ミモザの花のように明るい印象です。…以上です。 このように、性格や思考や行動パターンによって4種類の植物に自分を例えることができるとしています。そして、このエーテルでは4種類のパターンの人に、それぞれの色柄の商品を提案するというものです。ここで4種類の花に例えたのが一つのポイントですね。それぞれに、色、柄、匂い等に個性があり、それを人間に置き換えて考えていくことに面白みがあります。実際にアンケート結果と自分の傾向と好みが、エーテルの提案する商品と上手くマッチしたかは分かりませんが…⁉実は、仏法も、植物に例える思考をしています。

 

「南無妙法蓮華経」を植物に例えるなら…⁉

 たとえば、「南無妙法蓮華経」を植物に例えると何?ということです。仏法を知らなくても感の良い人は分かってしまうかもしれません。それは、南無妙法蓮華経の中に答えが書いてあるからです。植物名は、南無でもなく、妙法でもない。経でもないとすれば、残りは「蓮華」となります。そういえば、大仏様や仏像が蓮の花の上に乗っかっているのをよく見ます。あれを蓮華台と言います。ですから、仏教と蓮華、釈迦と蓮華には深い関係があると想像できますね。先ず、蓮華(ハス)とはどんな植物なのか簡単におさらいしましょう。ウィキペディアによりますと、「原産地はインドとその周辺。日本では帰化植物として、北海道から九州に分布し、池や沼などに自生する。多年草で、春に地中の地下茎から芽を出して茎を伸ばし、水面に葉を出す。草高は約1メートル、茎に通気のための穴が通っている。はじめは浮葉になるが、のちに長い葉柄をもって水面よりも高く出る葉もある。葉は直径40 ~ 50cm の円形で、葉柄が中央につき、撥水性があって水玉ができる。沼や池の沿岸部に沿って多く自生する。花期は夏で、葉柄よりも長い花茎を水上に出して、白またはピンク色の1輪の花を咲かせる。早朝に咲き昼には閉じる。花後は、花床の穴の中で、実を結ぶ」とあります。清流ではなく、泥池の中にピンクの花が綺麗に咲いているイメージがとても強いですね。実は、このハスの生態そのものが、妙法の働きと似ていると言われているのです。大きく分けて2つあります。一つ目は、泥水の中で清廉な花を咲かせる”泥中不染”ということです。これは、蓮華は、泥沼に生えても、泥水に染まらず、清らかで香り高い花を咲かせます。それは、妙法を信じ実践する人は、苦悩渦巻く現実世界に生きながら、清らかな心と行動をたもち、人々に自分の勝利の実証を示し、そして、他の人にも妙法へと教え導くことを思い浮かばせるということです。二つ目は、蓮華は、他の花とは違って、つぼみの段階でも花びらの中に果実である蓮台があり、花びらと実が同時に生長し、花が開いて実が現れた時も花びらがあります。原因である花と結果である実が同時です。これは、まだ仏の境涯(仏界)が開き顕されていない凡夫の段階でも、仏の境涯は見えないけれども厳然と具わっていること、さらに、仏となっても凡夫の生命境涯が失われないということを示します。妙法に則して言えば、誰もが心に南無妙法蓮華経という仏性(因)をもっています。しかし、誰もが自分が仏性をもっている仏であるとは気がついていないのです。しかし、この妙法の話を聞き発心して御本尊を受持し題目を唱えた瞬間に仏(果)と開けるということを言われています。つまり”因果倶時”のことです。それまでの仏道修行は、長くて苦しい仏道修行(因)と踏んで、それを乗り越えた人だけが成仏(果)出来るというもので、因果即時とはかけ離れていたのです。ですから特定の人しか成仏ができない、ましてや二乗といって、自分の考えややり方に強く執着する人々や女性は、成仏は許されていなかったのです。このように、仏教に疎い人々に、妙法の偉大さや力用を伝えるために、蓮華という植物に例えたところはとても分かりやすく素晴らしいと思いました。

 

結論:大きな公園やお寺の庭園に池が造られていることがあります。そして、そこに睡蓮がある光景を時に目にします。そして、夏には本当に清々しいほどの花を咲かせます。因みに、睡蓮の睡は”眠る”です。午後からは、眠ってしまうということで、観賞するには早朝から午前がベストです。ところで「御講聞書」という御書には、蓮に例えた御書があります。「一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事 仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無妙法蓮華経是なり」と。これは、日蓮大聖人が弟子たちに法華経を講義したものを、弟子が書き残したのもです。

これを要約しますと、「大聖人がいうには、蓮が泥中にあっても泥水で汚れることが無いように、妙法を持ったものは俗世間の汚れに染まることはない。世俗の名誉欲や出世欲などの欲に染まることはない。蓮華は水から離れては成長も生育もできない。しかしてその水とは、”南無妙法蓮華経”のことである。」ということです。”桜のように、散り際よく命をすてよ”ともてはやして、幾百万の尊い命を死に向かわせた誤った指導者に扇動された時代もありました。

全く悲惨としか言いようがありません。一方で日蓮大聖人は、末法の世の辛く厳しい娑婆世界にあって、妙法を持って”泥中の蓮”のように、

強く逞しく清廉に生きよと教えられています。  桜や蓮には何の責任もありません。只、それを例えとして、「人をどのように方向に向かわしめるのか?」。末法万年先の衆生の幸福まで考えていた、日蓮大聖人の偉大な指導力と思想がそこにあると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             



 

 

     

 

 

 

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驚愕の新年の幕明けだった、2024年…‼

 2024年が始まって早や一か月が経ちました。今年は、元旦から信じられないような天災や事故の映像が目に飛び込んできて、「何という幕開けだろう。日本沈没か…⁉」と思わせるようなオープニングでした。能登半島の大地震。マグニチュードは、阪神淡路大震災を上回るほどの大きさでした。数分の間に地盤が4mも隆起するほどの途方もないエネルギーで、地殻変動が起きたのです。真冬の中でライフラインも長期間寸断され、道路も山河も大きく変形し崩壊しました。輪島の町は燃え尽きて、港湾も隆起して使い物にならず。今後の生活の見通しは全く立たない状態です。かといって自分が何の力になれないもどかしさ…。今後の早い復興を祈るのみです。更に、翌日には羽田空港での飛行機事故。これは確実に人災です。現代ではコンピューターで制御され、飛行機の位置や離陸・着陸の状況等が航空管制画面で一目瞭然になっています。もし見逃してもアラームで事前に異常を警告するシステムもあります。機械の故障もありませんでした。それなのに起こってしまった事故。ただ、大事故にも関わらず、多数の犠牲者が出なかったのことがせめてもの救いです。それでも、貴重な海上保安庁の方々が犠牲になられたのは、とても残念です。3日には北九州の商店街が大火災。これは、天ぷらを火にかけたまま目を離したとのこと。他人事とは言えないような失火で、火元の方は、後悔は先に立たないでしょう。いずれにしても、近年において元旦早々にこのような大災害が続けて起きたのは記憶にありません。思い返せば、あの阪神淡路大震災も1月の17日でした。東日本大震災もまだまだ寒さ厳しい3月11日でした。このような寒さ厳しい中で、家は倒壊し、家財は波に流されて、気力も体力も削がれてしまった状況の皆様方に、深く同苦するとともに、早期の状況改善を祈るばかりです。実は、私も福島県いわき市の出身です。横浜に住んでいますが、東日本大震災には、自分の実家が、自身や原発事故の影響で大変な状況に追い込まれたという経験があります。実家の家族は、一時的に千葉の兄の家に非難しました。その時に、横浜から千葉に向かうにも、高速は途中まで、一般道路は液状化で通れず。物流が途絶えガソリンは不足気味で、スーパーには物資がほとんどないという状況で、陣中見舞いも満足には出来ませんでした。複雑に入り組んだプレートの上に位置する日本は、地震や噴火等の災害などを免れることはできません。これは、ある意味で、このような国土世間に存在するという、日本の宿命といえるでしょう。

 

震災をバネに力強い復興を願う…!

 日本は、古来より地震多発国です。過去にも、巨大地震や大津波に何度も何度も見舞われています。これは、過去の文献にも多く残っています。具体的な数値を測る術がなかったので、大きさの程度は分かりません。しかし、地層・断層の痕から、年代や規模が推定される様です。日蓮大聖人の御在世にも「前代未聞」と言われる”正嘉の大地震(1257年)”がありました。「吾妻鏡」という鎌倉時代の歴史書には、「午後八時頃(戌の刻とは午後七時から九時までの間)、大地震が起きた。音が鳴った。神社・仏閣で無事なものは一つもなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水がわき出した。中下馬橋のあたりでは、地割れから炎が燃え上がった。色は青かったという。」と記載されています。この時には、鎌倉の八幡宮やその他の大きな寺院や鳥居などが倒壊し、多数の被災者を出したようです。この他にも鎌倉時代には巨大地震が頻発しました。地震や津波の起こるメカニズムも分からなかったから、当然のことですが、神仏の怒りに触れて、超自然的な何らかの力によって鉄槌をくらわせられたという考えに至ったと思います。この正嘉の地震の時には、日蓮大聖人は、人々の悲嘆に胸を痛められました。しかも、台風や日照り、飢饉等々の大災害の連続の中での大地震。「何が原因で、どうしたら災害や苦難を乗り越え、人々を救うことができるのか」ということを仏典に求め、経堂に籠って一切経を読破し、その根源を突き止めました。そして、「立正安国論」を認(したた)め幕府に提出したという経緯があります。そして、人々の幸福の為に「妙法」という正義と平和の旗を、厳として打ち立てたのです。因みに、「現在露出している鎌倉の大仏も、元々は大仏殿の中には安置されていたけど、『明応四年. 八月十五日(1495 年 9 月 3 日)津波』によって流された」とのことです。驚きですね。このように計り知れない巨大なエネルギーの地震でした。耐震の設計も地震対策もあまりなかった時代で、全てが木造であり、燃えやすく、崩れやすい材料・資材で作られていました。ですから恐らく、統計や記録ができないほど、甚大な被害が出ていたことでしょう。その上、更に環境悪化のために、伝染病が蔓延して、人物のみならず、牛馬までも、道端に斃れ、骸骨が満ち溢れ、川には死骸で橋ができるほどであったと、立正安国論の冒頭にも書かれています。今回の地震でもそうですが、多くの方が方々が、不幸にもこの災害で亡くなられています。大聖人は、「大悪をこ(起)れば大善きたる」と御断言になられました。「長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがあり、順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではないのです。では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるのか。それを、日蓮大聖人は教えられています。つまり、仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれています。「信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これが大聖人の大確信です。これは、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子です。だから、苦難を恐れず、敢然と立ち向かっていくことです。”人は、窮地に陥ったから不幸なのではない。絶望し、悲観することによって不幸になるのです。”不幸を幸福に変え、乗り越えていく、そのために南無妙法蓮華経を唱えていくのです」と大聖人は明快に説かれました。昨年逝去された池田名誉会長の「新人間革命」という著書の中で、秋田の大水害の折に、次のような励ましのメッセージを述べられたのを読んだことがあります。「大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実は、そのための苦難なんです。」と。イギリスの作家ホール・ケインは、「苦しみを甘んじて受け、耐え忍んで強くなってきた人間こそ、この世でいちばん強い人間なのだ」と断言しています。苦難に屈しない人こそが師子王であると励まされました。この度の大地震で一瞬にして、夢も希望も、家族も、財産も無くされた方も多くいたことでしょう。何もかも無くした方々に、「残された物は、これから強く行きぬく忍耐と勇気だ」と、励まされていると思います。必ず、再び立ち上がって、復興のに向けた希望の前進をして欲しいと深く願う次第です。

 

<結論>この度の地震で、信心をしていても、自己や災害で、犠牲になられた方もいると思います。「何で信心していたのに…⁉」と不信や疑問をもった方もいるかもしれません。しかし、「信心を貫き通してきたならば、過去遠遠劫(おんのんごう)からの罪障を消滅し、一生成仏することができる」と大聖人は言われています。経文にも「悪い象に殺されても、地獄に堕ちることはない」とあります。その理由は「悪象等は、唯能く身を破りて心を破ること能わず」と、「唱法華題目抄」に述べられています。つまり、ここで言う悪象とは、不慮の事故や災害です。それらに遭って不幸にも命を失うことがあっても、地獄の苦しみを味わうことはない。何故なら、法華経を憎んでいたわけではなかったからです。ですから、身は壊れても、心は破られてはいない。三世の生命観からみれば、来世は必ず幸せになりますと言われているのです。「崇峻天皇御書」には、蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは、心の財をつませ給うべし。」とあります。財産や才能に恵まれていても、それが原因で道を踏み外したり、誰かを傷つけたりしては、かえって不幸といわざるをえません。信心は「心の財」です。信心で築く「仏の生命の輝き」「生命の福徳」は、永遠にして最高の幸福の源泉です。「心の財」を根本とした時、「蔵の財」や「身の財」もその価値を正しく発揮することができます。何があっても、自分自身が“心の財第一”で前進し、成長し続ける中に真の勝利があるとの教えです。信心をしている人は一層の信心を、信心をしていない人には、自分の信心の功力を真心で送って祈ってあげることこそ、共々に困難を乗り越える力となります。どうか励まし合って乗り越えてください。

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「聴く」ことと「聞く」ことは違う…⁉

  昨年の2月頃の聖教新聞に「対話できない時代」と題して、臨床心理士の東畑開人さんのインタビューが掲載されていました。なるほどと共感を覚える部分がありましたので、抜粋して紹介します。聞き手:東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技術』 です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。東畑:以前から私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じていました。社会にさまざまな対立が生まれました。それは単に政治の世界の対立ではなく、友人や家族の間で、もめることすらあります。「対話をしなさい」と言っても、けんかして、傷つけあうだけです。対話を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。ここで言っているのは、「聴く」ではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れること。「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聴く」よりも「聞く」の方がずっと難しいのです。例えば「ちゃんと聞いてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知ってほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。あるいは「愛している」と言われて、「この人は何が目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たちは、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた」と言われて、とっさに「でも、君にも問題が…」と相手の言葉をはねかえしてしまうこともあります。相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされる機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。「聞く」ことができなくなっている理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっていること。給料が上がらなかったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人は周りの話を聞けなくなります。二つ目は、価値観があまりに多様化し、相対化していること。”正しさは人それぞれ”という相対主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、根源的な難しさがあります。自分が思う”正しさ”に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果「聞く」ことができなくなるのだと思います。不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、何とかして自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状態はもはや「社会」とは呼びにくいものかもしれません。聞き手:「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから始めようと提案されています。東畑:「聞く」ことを再起動させるには、自分の中の荷物を、誰かに「預かってもらう」ことが必要で、それが「聞いてもらう」ということです。聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に”余白”が生まれる。すると、今度は自分が人の話を聞けるようになるのだと思います。(中略)「聞いてもらう」ことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで重たいものが取れていきます。聞いてもらうことには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」とい実感があり、それが人に安心感を与えるということを、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。まだまだ続きますが、以上のような内容でした。「聴く」ことではなく、「聞く」ことは、ありのままに聞いてあげることで、大切なことですね。

 

日蓮大聖人も「聞く」ことを実践していた‼

 上記の理論で言うならば、人の痛みや苦しみ等を「聴く」ことは、相手の奥底を推測して打算で物事を考えることに通ずると言えますね。段々には初めから打算ありきで接触してくる「オレオレ詐欺」的な接し方にもつながっていくのではないでしょうか。純粋に相手の痛みや苦しみを受け取るという「聞く」ことが大事なのでしょうね。このインタビューの中ほどには、ある医師の話が出ていました。ー医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンさんは、全身やけどを負った少女に事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを伴いましたが、クライマンマンは、その痛みを和らげるために手立てが何もないことに、絶望しました。しかし、彼がとっさに少女の手をつかみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができたと。人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分を分かってくれる人はいないと感じることかもしれません。そう考えると、「聞く」ことには、現実を直ぐに変える力はなくとも、孤独の痛みや癒す力があるのだと思います。ーと書いてありました。ということは「聞く」ことこそ、相手の苦しみを除き、勇気を与え、生きる力を漲(みなぎ)らせる力をもっていると言えます。日蓮大聖人も、弟子・門下・信者等の話をよく「聞く」実践をしていました。「聞く」と言っても、言葉だけでは消えてしまって鎌倉時代の声が今に残っているはずがありません。実際に残っているのは”手紙”です。手紙でのやり取りが、今に残っていて「日蓮大聖人御書全集」に収録されています。その中には、いろいろな身分や立場、境遇の人からの手紙があり、相談も受けそれに対して助言や激励をしているというものがほとんどです。幕府の御家人ではあるけれど、信心をして、恨まれてたり、貶められたり、所領を没収された人もいます。病気の母や妻を抱えながら地域の信者の面倒を見ていた人もいます。夫と死別したり、離縁したりして、経済的に窮地に立った婦人もいます。遠く佐渡から老夫を身延へ送り込んできた夫人もいます。逆に、鎌倉から大聖人を求めて母娘二人で佐渡へ訪れた人もいます。更には、親に勘当されながらも兄弟で信心を捨てずに励んだ人もいます。それらの人々には、それぞれの悩みや苦しみがあったはずです。しかも、常に命に関わるような切羽詰まったような状況だったと思われます。そのように、誰にも言えない様な、悩みや苦しみの全てを日蓮大聖人に手紙に認めたことでしょう。大聖人は、それらを全て「聞き」入れ同苦して、そして全ての人に信心を通して激励をしました。例えば、佐渡流罪の時に、幕府の監視下の大聖人を必死に外護した阿仏房夫妻。大聖人が身延に入られた時には、老夫を身延まで度々送り出しました。その阿仏房が亡くなった後に、大聖人は悲しみに沈む千日尼夫人に手紙で次のように激励しています。「散った花もまた咲きました。落ちた実もまた成りました。(中略)どうして阿仏房が亡くなったということだけが元に戻らないのでしょう」と残された家族に同苦しています。しかし、息子の藤九郎が阿仏房の遺骨を抱いて身延を訪れた姿を見て、頼もしき後継の「法華経の行者」と称賛され、「阿仏房は必ず成仏していますよ」と激励されています。日蓮大聖人は、「聞く」ことによって、まさに「抜苦与楽」の行動を示されています。

 

結論:”きく”ことは誰にでもできます。しかし

全てをありのままに受け止めるという「聞く」ことは、簡単ではないですね。日蓮大聖人の弟子に六老僧の高僧がいました。日蓮大聖人は日興上人、相承書を書いて第二代目としました。しかし、他の五老僧は次第に離反し、大聖人の教えも自分勝手な解釈をして後世に伝えてしまいました。当時のその混乱した状況を見て、日興上人は、「富士一跡存知の事」や「五人所破抄」そして「日興遺誡置文」を書き残して、後世に日蓮大聖人の清流を流し、五人の邪義を知らしめようとしました。その「五人所破抄」の中には、次のようなことが書いてあります。五老僧は、「日蓮大聖人は、弟子や門下にかな文字の手紙をたくさん残しているが、漢文体で書いていないのは、”先師の恥”であるとして、手紙や書簡を再び紙に漉き直したり、燃やしたりしてしまった。…」と。しかし、日興上人は、仮名で書いたのは、文字を読めない人への配慮である。漢文体か否かということは問題ではない。そこに書かれている内容が大事なので破棄するなどもってのほかとして、散逸した手紙や書簡を必死に集め御書として後世に残そうとしたのです。それが現代にも残されて「日蓮大聖人御書全集」として発刊されているのです。日蓮大聖人の言葉をしっかりと「聞く」ことができたのが日興上人です。大聖人の声は聴いていたけど、その中身を「聞き」漏らして、邪推をもって「聴く」しかできなかったのが五老僧と言えます。同じ弟子で同じ講義を聞いても「きき方」によって大きな違いと結果が生まれてしまいます。大聖人の嘆きはいかばかりでしょうか。今回「聞く」と「聴く」とには違いがあることを知っただけでも、大きな意味があったと自分でも思いました。先ずは、相手に対して先入観念をもたずに相手の話を「聞く」ことを実践していきたいと思います。