「後でね…」の行動が、後悔につながることもある…!
自分が今ピンチに直面した場合に、ちょっと「手を貸して」とか「教えて」と言った時に、「いいよ」とか「OK」とかの返事をもらい、手助けやアドバイスをもらって、窮地を脱した時にはとても嬉しいものです。時と場合によっては、頼んだ相手の人が”神”に見えることさえあります。しかし、逆に「後でね」といわれた時には、「何でケチ」とか「人の気持ちも知らないで…」などと、相手には相手の事情があるとは分かりながらも、相手を恨めしく思えるようなこともあります。でもやはりドラえもんのポケットではないですけど、本当に困ったときに、咄嗟に必要なものや行為を受けられることは、有り難いですよね。2024年3月の「名字の言」にさだまさしさんのエピソードが載っていました。「今」の大切さがわかる記事だったので紹介いたします。……歌手のさだまさしさんがディナーショーを行た日のこと。会場のホテルにチェックインすると、声をかけられた。「頼みたいことがあるんだ。今、少し時間あるかい?」相手は漫画家の手塚治虫氏だった。 ▼さださんはリハーサルの直前 。「30分ほど後でよろしければ、時間はたくさんあります」と返したが、手塚氏との都合が合わない。やむなくその場で氏を見送った。ところが1カ月半後、さださんは後悔に襲われる。闘病中だった氏が世を去ったのだ ▼「頼みたいこと」とは何だったのだろう。すぐに話を伺えばよかったーー。さださんは「この時以後、『後でね』を自分に禁じた」と、自戒の念をつづる(『さだの辞書』岩波文庫) ▼激しい法難の渦中にも、日蓮大聖人は門下との交流を最優先された。「病が治ったことを、きょう聞きました。これ以上うれしいことはありません」ー即座の対応に、日頃から門下の幸福を願う、深きご慈愛があふれている ▼私たちの周囲にも、今まさに苦境と戦う人がいる。その声に耳を傾け、共に一歩を踏み出すのは「今」をおいてほかにない。日々、縁する友の幸せを祈り、試練の時には真っ先に駆け付ける人でありたい(値)……以上です。手塚治虫さんは、自分の死期が近いことを知っていたのでしょうか。そして、自分の制作した映画に、さだまさしさんの曲を提供して欲しかったのでしょうか。今となっては、知る由もありません。30分ほど「後でね」の対応が、一生取り返しのつかない機会を逃してしまったのかもしれません。「今すぐOK」としていれば、手塚治虫とさだまさしさんとのコラボによる不朽の名作が、もしかすると完成されていたかもしれません。その30分のズレが、運命を変えてしまったのかもしれませんね。何事にも”時が大事”、そしてなかでも”今”が一番大事な瞬間ということですね。
過去も、現在も、未来も「今」の連続である…!
過去・現在・未来へと続く時の流れは、悠久であり測り知れないほどの長さです。それこそ、算数や数学で習った一、十、百、千と進んでいくと兆(1012)、京(1016)という数字になります。更に進んでいくと、恒河沙(ごうがしゃ1052)、阿僧祇(あそぎ1056)、不可思議(ふかしぎ1060)、無量大数(むりょうたいすう1068)という、星の数か人間の細胞の数のような数えきれない途方もない数量になります。実は、これらは、仏教典に出てくる数字です。この無限大と思われるこの数字を、無量無辺といいます。そしてこれは、仏の智慧の表し、仏の寿命を表し、そしてなんと私たちの生命の長さをも表します。最近長寿社会になってきました。百歳を越える方は日本だけでも1万人は超えます。しかし高々現世は”百年”程度と思えるかもしれません。織田信長は「人生五十年…」という舞を、桶狭間の戦いの前に舞って出陣したというエピソードがあります。「人間五十年 化天(げてん)の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」というものです。実は、この五十年は、当時の平均寿命と考えられることが多いです。しかし、実際には、ここで言う”五十年”はその意味とは違っているようです。化天(げてん)という世界は、一日が人間界の800年にあたり、8000年の寿命があると言われます。つまり化天の寿命は人間の世界でいうと約23億年ということになります。
「化天の長さに比べたら、吹けば飛ぶ夢幻のような儚いものである」と、信長はこの舞を舞いながら、人間の命の儚さ、人生の儚さをしみじみかみしめていたのではないでしょうか。「儚い人生、ぼやぼや生きている時間はない!」という思いが人並み外れた行動力を生み、天下統一に大きく前進し、驀進していったのだといえます。日本の平均寿命は八十数歳で世界でも有数の長寿国ですが、平均寿命がどれだけ延びたといってもせいぜい百年です。”三世の生命”を説く仏法から見れば、人生は”一瞬”です。でも、だからといって、その一瞬を”無駄に過ごす”ことはできないと教えています。なぜかならば、その生命は連続しているからです。
映画のひとコマと同じです。一コマ一コマは、写真のように一瞬を捉えた写真のようです。しかし、それを無数に繋げていくと、壮大なドラマが出来上がります。その一コマには、どれをとっても無駄はありません。しかも、人生は、映画のコマのように、人為的に編集はできないのです。できるとすれば、”自分だけ”です。自分のために、あの人のために、社会のために、将来のために等々、「今この瞬間を頑張ろう」「今やらねばいつやるの」「後悔先にたたず」「人の振り見て我が振り直せ」などの思いから、わが身を振り返り、奮い立たせることです。織田信長ではありませんが、「儚い人生、ぼやぼや生きている時間はない!」のです。確かに、自分に対して、自身を失い、腐ることもあるでしょう。しかし、「一瞬」を大事にすれば”転換”のチャンスは大いにあるのです。それを日蓮大聖人は、「受持即観心」といって、「南無妙法蓮華経を受けたもち唱える」ことによって、すべてが良い方向へ向かい、三世の生命を現世安穏・後生善処でわたることができる、つまり「宿命転換」できると教えられています。「後でね」とか「いつかやるよ」とか「必要になったらやるよ」という後ろ向きな行動には「奈落の落とし穴」が待っているのです。
結論:サッカーの記事を見ていたら、遠藤保仁さんの面白い言葉が出ていました。それは、「明日やろうは、馬鹿野郎」です。ワールドカップにも出場し、Jリーガーとしても偉大な結果と功績を残した遠藤選手。心技体を極めるために、普段の努力は大変なものだったと思います。一瞬でも気を抜けば、進歩が途絶え、後輩にも抜かれ、生き残ることはできなかったと思います。そのためには、「今」や「一瞬」の大事さを切に感じ取ったからこその、自分の気持ちが溢れ出て来た言葉だと思います。一方、仏法では、一瞬の生命に、永劫の過去と未来を内包した宇宙生命としての「妙法」が姿をあらわし、「瞬間」はそのまま「永遠」となるという考え方があります。つまり、「瞬間」のなかに「永遠」が立ちあらわれてくるということです。空間的にいえば、宇宙大に広がり、時間からすれば、未来永劫にわたるものであるといえます。仏法の言葉には、「一念三千」という言葉があります。人間の生命は、瞬間瞬間に状態が目まぐるしく変化します。その中で、私たちの生命は、善の方向にも悪の方向にも、また幸福にも不幸にも向かう、さまざまな可能性を持っています。苦悩の底に沈むこともあれば、欲望や本能に駆り立てられることもあります。人間らしく穏やかでいることもあれば、苦しんでいる他者に手を差し伸べることもあります。仏法は、さまざまな生命の可能性を探究し、そこに十界という十種の境涯が存在することを明らかにしました。これれを「十界の生命」といいます。この十界のうちで尊極の可能性を開いた最高の境涯を仏界といいます。日蓮大聖人は、生命と宇宙を貫く大法を「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、題目を唱えることによって、あらゆる人々が事実として仏界を開いていく方途を確立しました。つまり、私たちの生き方は、過去に根ざしながらも、過去に生きるのではない。未来に想いを馳せるあまり、現在の瞬間をおろそかにするのでもない。未来に偉大な目標を定め、それに向かって決意し、未来を見つめながら、進んでいく方法を示してくれました。常に「今」「ここ」が大事な起点となり、誓願を起こすこと、それが未来の一切の勝利を開く因となることを教えてくれています。