強き祈りで満足の人生を! | 現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代社会は、科学の発達により利便性が向上しました。しかし、生活面の向上が精神面の向上に必ずしもつながっていないと思います。鎌倉時代の混乱期に、人々を絶対に幸福にしたいと願い行動した日蓮大聖人の言葉と精神を、平易な言葉で伝えていきます。

 

祈りとは何…⁉

 2024年に入って、早や4か月が経ちました。今年の幕明けは、1月1日の能登半島地震という、衝撃的なニュースから始まりました。翌日には、羽田空港での航空機同士の大事故。しかも、その1機は能登地震の救援に向かう海上保安庁の飛行機。災難には、災難が重なるものだなと、思い知らされました。能登の皆様方の早い復興と、今後このような凄惨な事故や事件そして戦争や災害が起こらないことを、強く心に”祈る”次第です。祈りといえば、この4月には晴れて念願がかなって新しい学校、大学、職場等に合格して、新生活を送り始めた方もいるでしょう。また、祈りによって、病気やけがを克服した人もいるでしょう。なかには宝くじ、いや、そこまでいかないまでも、年賀ハガキの1等や2等にあたった人もいるかもしれません。そして、願っていたような、良い住宅や車、そして良縁を得た人もいることでしょう。それはまさに「願ったり、叶ったり」です。願いを叶えるために、神社仏閣にお参りした人もいるかもしれません。安全祈願のために、お祓いを受けた人もいるかもしれません。良縁を求めて、占いやおみくじ等を利用した人もいると思います。これらの行為は、今も昔も変わりません。それこそ古今東西、世界中で、”祈り“、”祈願“、”祈祷“、”禊“、”除魔”、“奉納”等々の形で、天に、神に、仏に、大地に、海に、山に、空に、湖に、川に、天体に等々に祈りを捧げてきました。でも、一方で、よく考えてみると、こんなに種類も形態も対象物も違うものに、祈りを捧げているのも、何だか不思議です。それでは、それらに一体どんなご利益があるのか、即効性はあるのか、どれに祈るのが一番願いが叶うのか、お礼のお返しはしなくていいのか…⁉ 「祈り」とは、他の生物はしない人間だけの行為です。恐らく人間に一番近く高い知能もつ猿やチンパンジーなどもしていないでしょう。「祈り」とはまことに不思議な行為だと思います。しかし、だからこそよく考える必要があるのではないかとも思います。しかし一方では、「祈り」を学び、科学するような場面も機会も無いことが現状です。知らなければ、知らないですんでしまう。何も困るころはない。でも、逆に「知らぬが仏」という諺が示すように、知れば知るほど驚きと恐怖を感じることもあるかもしれません。日蓮大聖人は、祈祷(祈り)に関してどのような考えをされていたのでしょう…⁉

 

祈り方で、結果も変わる…!

 日蓮大聖人は、祈りとその効力、結果についていいろいろな場面で、言及されています。祈りとは、宗教の本質にかかわる問題です。そして、何を祈る対象(本尊)にするのか、どんな教えであるのか、そしてそれが道理にかなっているのか(理証)、それを裏付ける文証(教義・経典・文献)があるのか、そして実際に祈って結果が出ているのか(現証)が大切であると言われています。この文・理・現の三証がすべて揃っていなければ、それは宗教の体裁はなしておらず、信じるに足らないものであり、祈りは叶わないばかりか、逆にのめり込めばのめり込むほど、不幸へと貶めていくと断言されています。この三証を基準にして、”四箇の格言”を生み出したのです。それは「念仏無間、真言亡国、禅天魔、律国賊」という言葉です。立正安国論でも、幕府・朝廷がこれらの間違った宗教を保護し、供養していけば、世は乱れ不幸な出来事が起こると警鐘を鳴らしました。特に、国内では同士打ちが起こり、外国からの侵略も受けるだろうと、自らの命をかけて幕府に諫言したのです。しかし、幕府はこれを無視した結果、結局は二月騒動(北条時輔の乱)が起き、二度の蒙古襲来に見舞われました。現証として誰の目にもはっきりと示されたのです。そして、仏教典最高の経典である法華経にもとづいた正しき経文に基づき、そして唯一の実践方法として、ただ「南無妙法蓮華経を唱える」ことのみを教え弘めました。また、祈りの結果としての現れ方にも4種類あることも示されています。「道妙禅門御書」の中で「祈祷においては、顕祈顕応、顕祈冥応、冥祈冥応、冥祈顕応の祈祷有りといえども、ただ肝要は、この経の信心を致し給い候わば、現当の所願、まんぞくあるべく候」と書かれています。要約すると、”祈りの現れ方には、顕祈顕応、顕祈冥応、冥祈冥応、冥祈顕応の四種類がある。ただ肝心なことは、この法華経を信じていくならば現在と未来の願いは必ず叶いますよ”ということです。この御書は、道妙禅門という人への手紙です。その縁者が自身の父親の病気平癒を大聖人に願ったことに対する返書と言われています。その中で大聖人は病気平癒の祈念を約束されるとともに、「ご本尊に強盛に祈っていけば、現在から未来に渡って、あらゆる願いが叶いますよ」と、言われています。ここで、4種類の祈りについて簡単に触れます。「顕祈顕応」とは、何か物事に直面した時に真剣に祈り、その結果解決の方法が早く見つかることです。「顕祈冥応」とは、祈った結果は直ぐに顕れなくとも、祈る行為により、生命に福運がついていくことです。「冥祈冥応」とは、日々の地道な唱題の功徳で、自然に生命が綺麗になっていき、結果的に所願満足になっていくことです。「冥祈顕応」とは、常日頃たゆまぬ唱題の功徳が、いざと言う時に具体的な事実として明確に表われるというです。いずれにしても、大聖人は「ただ肝要は、この経の信心を致し給い候わば、現当の所願、満足あるべく候」と言われています。祈りがすぐにかなう場合もあれば、はっきりとした結果が現れない場合もあるでしょう。しかし、たゆまず地道に唱題を続けていけば、必ず所願満足の結果が得られると、断言されているのです。一方で、御書には極楽寺良観との「祈雨」の対決に関して、こんな記述があります。「この年は大旱魃(かんばつ)で春から初夏の六月まで干天が続き、一滴の雨も降らなかったといいます。旱魃は飢饉となり、それは人心の不安を生むことになります。幕府は諸社に奉幣し寺院にも雨乞いの祈祷をおこなわせました。しかし、効験がなく最後に幕府は、良観房に請雨の祈祷を命じることになります。それは、祈雨の祈祷は良観側から申し出たといいます。祈雨の祈祷は6月18日から24日までの七日間のうちに雨を降らすことでした。そこで日蓮大聖人は、良観に雨乞いの法力対決を申し込みます。これは法華経と真言律の対決です。『下山御消息』によると、日蓮大聖人は良観に、「七日が間にもし一雨も下(ふ)らば、御弟子となりて二百五十戒具(つぶ)さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし」と、法力に敗けた方が改宗するという内容でした。これを三度も使いを遣わして確認させたのです。良観は、自分の息のかかった120余名の祈祷僧を集めます。自身は中央の壇に登り、120名の僧侶達は八面に列座して祈祷を始めます。場所は鎌倉の西を護る極楽寺。生身の弁財天が御座し、五頭龍は盤石となって江の島を守り、その龍神の口元(龍の口)から喉元にあたるところが極楽寺です。ところが、雨乞いの霊験は、その日も次の日も現れませんでした。良観の祈雨は七日間を経ても効をしめしませんでした。さらに泉ヶ谷の多宝寺から200名の僧を助行に頼み雨経を読ませます。日蓮大聖人に祈祷期限延長を申し入れて、七日間の修法をしましたが一滴の雨も降りませんでした。かえって、25日目より熱風がふきあれ、目を開けていれないほど土埃が吹きあがったといいます。それが二週間も続きました。結果として雨は一滴も降らなかったのです。この後日蓮大聖人が祈雨をしてた時には、慈雨の雨が降ったということです。良観は事実上、祈雨の対決に負けたのでした。日蓮大聖人は、「間違った宗教でいくら祈っても良い結果は得られずかえって悪くなる。妙法による祈りが正しいことが証明された」と宣言されたのです。結局負けた良観達は、大聖人の弟子になるどころか、逆恨みをして幕府に讒言し、それが元で竜の口の法難という”首の座”に至ったのです。良観は、幕府の権力の威を借りて大聖人を処刑しようしました。でも、結局は日蓮大聖人は処刑の瞬間に現れて”光もの”に助けられて、斬首刑は中止されたのです。この事実を見ても、宗教の正邪、祈りとその結果が実証されているのです。後日談になりますが、結局、良観の住んでいた広大で荘厳だった極楽寺も火事によって焼失した。これは現罰ともいえる結果でしょう。

 

結論:祈りや、祈祷、祈願をすることは、人間の奥底から湧く本能のなせる業だと思います。つまり、自然な行為と言えます。しかし、大事なのは、祈る対象(本尊)であり、祈り方であると大聖人は説かれています。「一生成仏抄」には「衆生と云うも仏と云うも 亦此くの如し迷う時は衆生と名け 悟る時をば仏と名けたり譬えば闇鏡も 磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は 磨かざる鏡なり 是を磨かば 必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して 日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを 是をみがくとは云うなり」とあります。訳しますと「衆生といっても仏といっても、また(穢土と浄土と同様に)人には、二つの隔てがあるわけではない。迷っている時には衆生と名づけ、覚った時には仏と名づけるのである。たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。今の(私たち凡夫の)無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の覚りの智慧の明鏡となるのである。深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、怠ることなく自身の命を磨くべきである。では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである。」と説かれています。1度お参りしたからどうにかなるという様な、甘い修行は無いのです。そして、日夜朝暮に題目を唱えた結果はどうなるのかというと、「たとえ大地をさして外れることがあっても、大空をつないで結びつける人があっても、また、潮の満ち引きがなくなったとしても、太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華経の行者』(妙法を実践する人)の祈りが叶わないことは、絶対にない」と「祈祷抄」はかかれています。太陽は必ず東から昇る。それ以上の確かさで、題目をあげた結果の祈りは叶う。それが宇宙の法則だからです。だから、大切なのは、こちらが「法華経の行者」であるかどうか、本当に実践しているかどうかにかかっているのです。祈る人の姿勢が問題となるのです。「釣鐘を、楊枝でたたくのと、箸でたたくのと、撞木(鐘を鳴らす棒)でつくのとでは、音が違う。同じ釣鐘だが、強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く。御本尊も同じだ。こちらの信力(信じる力)・行力(行じる力)の強弱によって、功徳に違いがあるのだ」と言われています。

 諸天を揺るがすように強く祈れば、必ず祈りは叶うと断言されています。それを信じてやるかやらないのかは、自分次第です。そして、その結果も当然自分が負うことになります。