只今臨終と臨終只今とは、全く違う…! | 現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代社会は、科学の発達により利便性が向上しました。しかし、生活面の向上が精神面の向上に必ずしもつながっていないと思います。鎌倉時代の混乱期に、人々を絶対に幸福にしたいと願い行動した日蓮大聖人の言葉と精神を、平易な言葉で伝えていきます。

 

「ただいま」とよく言ったり、聞いたりするけれど…⁉

 子供の頃に、学校に行く時は「行ってきます」、学校から帰ってくると「ただいま」とよく言いました。大人になってからは、あまり言っていないような気もしますね。反省する次第ですけど。ところで、この「ただいま」という言葉ですが、何も考えずに、とりあえず習慣として使っていますね。子供だったら尚更でしょう。この”ただいま”は、おそらく「只今帰りました」の文が短縮されて、「只今(ただいま)」となっていったのでしょう。言葉は生き物ですから、どんどん使い方の方法や意味合いが代わっていったりします。言葉によっては、いつの間にかに真逆の意味で使われるようになったものもあります。不思議ですね。「只今」を国語辞典で調べてみますと、「今」「只今」「現在」「目下」の意味で使い分けされているようです。もう少し詳しく紹介します。 

① 「今」は、前後の近接した時間を含んで、「今すぐ行きます」「今にわかるだろう」「今さっき出かけました」のように、近     い将来、または近い過去をさしてもいう。また、「今は便利な世の中になった」のように、以前とくらべた現代の意味でも使われる。また、「今ひとつ元気がない」「今少し大きいほうがよい」のように、さらに、その上にの意でも用いられる。 

② 「只今」は、「今」を強調した言い方。丁寧な言い方の中で用いられることが多い。今帰ったという意味の挨拶(あいさつ)の言葉としても使われる。

③ 「今」「現在」は、「今のご時世」「現在の国際状態」のように比較的長い時間をさして言うこともできる。

④ 「現在」は、「今」と異なり、近い将来、または近い過去をさしていうことはない。また、「正午現在の体温」のように、そ  の時点で変化しつつある状況を報告する場合にも用いられる。

⑤ 「目下」は、なお継続中であるという意味を強く表わした語。また、「危険が目下に迫っている」のように、目前の意でも使われる、 ということです。また、特別な使い方として、次のようなものもあります。例えば、”問屋の只今”は、「ただいま送ります」と言いながらなかなか品物を送らないところから、約束の期日が当てにならないことのたとえとして使われています。さらに”医者の只今”は、医者は往診の時、すぐ行くと言っても、なかなか来ないところから、あてにならないことのたとえとして使われています。これは、時を表す使い方というより、”時間があてにならない”という、譬え話の意味合いで使われています。同じように”仏教の只今”というのもあります。それは、「思惑や損得を捨て去り、無心になる。一生懸命に生きる」という意味の使い方です。結果に執着すれば、今がおろそかになり、今を精一杯生きれば、結果は後からついていくものといういわれです。今、この瞬間は二度と戻ってこない、だから、一瞬一瞬を貴重な時間だと思い、過ごしていきなさいという教訓の言葉だと思います。

 

日蓮大聖人は、「臨終只今」と説かれている!

 日蓮大聖人も「只今」という言葉を使われているのを御書の中に見られます。「生死一大事血脈抄」に「詮ずるところ、臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為』と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。法華不信の者は『「その人は命終して、阿鼻獄に入らん』と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わんずらん。浅まし、浅まし。十王は裁断し、俱生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ…」とあります。この「臨終只今」に関して、昨年亡くなられた池田名誉会長が、師匠の戸田二代会長から聞かれた話があります。…あるとき、戸田先生は言われた。「『臨終只今にあり』というが、この臨終は、どなたの臨終かわかるかね。仏様の臨終だよ。仏様がいらっしゃらなくなったとしたら、どんなに心細いだろう。どんなにか悲しいことだろう。仏様に今、お別れしなければならないのだと思って、信心することだよ」 この言葉を漫然と聞いていた人は、戸田先生が亡くなったあと、先生が生きておられるうちに、ああすればよかった、もっと戦って喜んでいただきたかったと後悔したのです。「臨終只今」とは、師匠の臨終が只今と思って、猛然と広宣流布へ戦っていきなさいということです。師匠に見守ってもらって戦えるなんて幸せなことなのです。それがわからない弟子は失格です。師匠が生きているうちに、そう気づいて頑張るのが「本心を失っていない子ども」に当たる。気づかないのが「毒気深入」で本心を失った子どもです。…ということです。「臨終只今」とは、単に今死に向かう瞬間という、先ほどの国語辞典の②の使い方で言っているわけではありません。ましてや「只今臨終」というよに「医学的に只今亡くなりました」という意味では全くありません。「臨終只今にありと解りて」ということは、単に肚を決めるというのではないく、「解りて」とあるように、事実がそのとおりであることを前提にし、この生命の真実の姿を見極めるという意味であります。誰しも、まだまだ、自分の人生は先があると思っています。しかし、いつ死がおそってくるかは、誰も知りません。一瞬の後には死んでいるかもしれないのです。これが、生命の真実の姿です。ましてや、仮にまだ二十年、三十年、あるいは五十年と寿命のあることが確かであるにしても、永遠からみれば瞬時であると言わざるをえないでありましょう。これもまた「臨終只今」です。そこには、「師匠の死」そして「自らの死」もあるでしょう。その死に臨んでも、”何の迷いも後悔もないくらい、一瞬一瞬を大切にし、南無妙法蓮華経と唱え、仏道に励みなさい”ということでしょう。

 

結論:「生死一大事血脈抄」では、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれていると教えられています。何とすごいことでしょう。一仏でもすごいのに千仏が、臨終のときには自分を迎えに来てくれるというのです。これならば、何も怖くありません。ましてや、”三世の生命”という生命観に立てば、「死は夜寝るのと同じ。次の朝はまた、元気に起きて活動することができ」ということです。 この事実を理解した時、いま生きて妙法を受持していることの重みを、感ぜずにはいられないでしょう。今生の名聞名利は問題ではなく、永劫の未来のため、死してなお消えることのない福運を積むため、真実の人生の目的を凝視しながら、南無妙法蓮華経と心より唱えていく。それが、「臨終只今にあり」と解った生き方であります。瞬間瞬間、この決意の持続に生きていく時「千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」となるのです。逆に、妙法を、そして妙法を持つ人を非難・中傷し、乖離していく人には、「只今臨終」の時に、「定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わん」と断言されているのです。必ず、地獄の獄卒が迎えに来るとは、何と恐ろしいことでしょう!只今臨終の時、自分にはどっちが迎えに来るのだろうか…⁉「知らぬが仏」ですね。