現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神 -2ページ目

現代にも活きる日蓮大聖人の言葉と精神

現代社会は、科学の発達により利便性が向上しました。しかし、生活面の向上が精神面の向上に必ずしもつながっていないと思います。鎌倉時代の混乱期に、人々を絶対に幸福にしたいと願い行動した日蓮大聖人の言葉と精神を、平易な言葉で伝えていきます。

 

「ただいま」とよく言ったり、聞いたりするけれど…⁉

 子供の頃に、学校に行く時は「行ってきます」、学校から帰ってくると「ただいま」とよく言いました。大人になってからは、あまり言っていないような気もしますね。反省する次第ですけど。ところで、この「ただいま」という言葉ですが、何も考えずに、とりあえず習慣として使っていますね。子供だったら尚更でしょう。この”ただいま”は、おそらく「只今帰りました」の文が短縮されて、「只今(ただいま)」となっていったのでしょう。言葉は生き物ですから、どんどん使い方の方法や意味合いが代わっていったりします。言葉によっては、いつの間にかに真逆の意味で使われるようになったものもあります。不思議ですね。「只今」を国語辞典で調べてみますと、「今」「只今」「現在」「目下」の意味で使い分けされているようです。もう少し詳しく紹介します。 

① 「今」は、前後の近接した時間を含んで、「今すぐ行きます」「今にわかるだろう」「今さっき出かけました」のように、近     い将来、または近い過去をさしてもいう。また、「今は便利な世の中になった」のように、以前とくらべた現代の意味でも使われる。また、「今ひとつ元気がない」「今少し大きいほうがよい」のように、さらに、その上にの意でも用いられる。 

② 「只今」は、「今」を強調した言い方。丁寧な言い方の中で用いられることが多い。今帰ったという意味の挨拶(あいさつ)の言葉としても使われる。

③ 「今」「現在」は、「今のご時世」「現在の国際状態」のように比較的長い時間をさして言うこともできる。

④ 「現在」は、「今」と異なり、近い将来、または近い過去をさしていうことはない。また、「正午現在の体温」のように、そ  の時点で変化しつつある状況を報告する場合にも用いられる。

⑤ 「目下」は、なお継続中であるという意味を強く表わした語。また、「危険が目下に迫っている」のように、目前の意でも使われる、 ということです。また、特別な使い方として、次のようなものもあります。例えば、”問屋の只今”は、「ただいま送ります」と言いながらなかなか品物を送らないところから、約束の期日が当てにならないことのたとえとして使われています。さらに”医者の只今”は、医者は往診の時、すぐ行くと言っても、なかなか来ないところから、あてにならないことのたとえとして使われています。これは、時を表す使い方というより、”時間があてにならない”という、譬え話の意味合いで使われています。同じように”仏教の只今”というのもあります。それは、「思惑や損得を捨て去り、無心になる。一生懸命に生きる」という意味の使い方です。結果に執着すれば、今がおろそかになり、今を精一杯生きれば、結果は後からついていくものといういわれです。今、この瞬間は二度と戻ってこない、だから、一瞬一瞬を貴重な時間だと思い、過ごしていきなさいという教訓の言葉だと思います。

 

日蓮大聖人は、「臨終只今」と説かれている!

 日蓮大聖人も「只今」という言葉を使われているのを御書の中に見られます。「生死一大事血脈抄」に「詮ずるところ、臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為』と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。法華不信の者は『「その人は命終して、阿鼻獄に入らん』と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わんずらん。浅まし、浅まし。十王は裁断し、俱生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ…」とあります。この「臨終只今」に関して、昨年亡くなられた池田名誉会長が、師匠の戸田二代会長から聞かれた話があります。…あるとき、戸田先生は言われた。「『臨終只今にあり』というが、この臨終は、どなたの臨終かわかるかね。仏様の臨終だよ。仏様がいらっしゃらなくなったとしたら、どんなに心細いだろう。どんなにか悲しいことだろう。仏様に今、お別れしなければならないのだと思って、信心することだよ」 この言葉を漫然と聞いていた人は、戸田先生が亡くなったあと、先生が生きておられるうちに、ああすればよかった、もっと戦って喜んでいただきたかったと後悔したのです。「臨終只今」とは、師匠の臨終が只今と思って、猛然と広宣流布へ戦っていきなさいということです。師匠に見守ってもらって戦えるなんて幸せなことなのです。それがわからない弟子は失格です。師匠が生きているうちに、そう気づいて頑張るのが「本心を失っていない子ども」に当たる。気づかないのが「毒気深入」で本心を失った子どもです。…ということです。「臨終只今」とは、単に今死に向かう瞬間という、先ほどの国語辞典の②の使い方で言っているわけではありません。ましてや「只今臨終」というよに「医学的に只今亡くなりました」という意味では全くありません。「臨終只今にありと解りて」ということは、単に肚を決めるというのではないく、「解りて」とあるように、事実がそのとおりであることを前提にし、この生命の真実の姿を見極めるという意味であります。誰しも、まだまだ、自分の人生は先があると思っています。しかし、いつ死がおそってくるかは、誰も知りません。一瞬の後には死んでいるかもしれないのです。これが、生命の真実の姿です。ましてや、仮にまだ二十年、三十年、あるいは五十年と寿命のあることが確かであるにしても、永遠からみれば瞬時であると言わざるをえないでありましょう。これもまた「臨終只今」です。そこには、「師匠の死」そして「自らの死」もあるでしょう。その死に臨んでも、”何の迷いも後悔もないくらい、一瞬一瞬を大切にし、南無妙法蓮華経と唱え、仏道に励みなさい”ということでしょう。

 

結論:「生死一大事血脈抄」では、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれていると教えられています。何とすごいことでしょう。一仏でもすごいのに千仏が、臨終のときには自分を迎えに来てくれるというのです。これならば、何も怖くありません。ましてや、”三世の生命”という生命観に立てば、「死は夜寝るのと同じ。次の朝はまた、元気に起きて活動することができ」ということです。 この事実を理解した時、いま生きて妙法を受持していることの重みを、感ぜずにはいられないでしょう。今生の名聞名利は問題ではなく、永劫の未来のため、死してなお消えることのない福運を積むため、真実の人生の目的を凝視しながら、南無妙法蓮華経と心より唱えていく。それが、「臨終只今にあり」と解った生き方であります。瞬間瞬間、この決意の持続に生きていく時「千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」となるのです。逆に、妙法を、そして妙法を持つ人を非難・中傷し、乖離していく人には、「只今臨終」の時に、「定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わん」と断言されているのです。必ず、地獄の獄卒が迎えに来るとは、何と恐ろしいことでしょう!只今臨終の時、自分にはどっちが迎えに来るのだろうか…⁉「知らぬが仏」ですね。

 

 

​​​​英雄の条件は、何か…⁉

 私は、歴史小説が大好きで、日本で言えば戦国時代、中国で言えば古代中国の英雄伝を読むことが多いです。そこには、勇敢に戦い、領地・領土を拡大していった武将や皇帝の話もあります。逆に、外からの侵略者から領地・領民を守り、文化の華を咲かせた人の話もあります。幾年もの長い人質や入牢、流罪等の過酷な生活に耐えて、最後には大きな仕事をなしとげた話もあります。また、自分では、支配者の立場にはならないけれども、知恵や策略をめぐらして、自分の主君の統治や政治を補佐した人の例もよくあります。どの本を読んでも、作家や著者の思いが熱く込められて、ただただ惹きつけられ、時のたつのも忘れて本を読み進めることもあります。どのパターンの人物の物語もある意味では「英雄」です。とても、普通の人にはまねができないと思います。でも、本当に「英雄」と呼ばれるには、”何か条件がある”のでしょうか。ある時、聖教新聞の「名字の言」と欄に、次のような記事が載っていました。それを読んだときに、”ふ~ん、なるほどな”と思ったので紹介します。…デンマークの哲学者キルケゴールは、著作『現代の批判』の中で、”情熱のない時代は、ねたみが傑出する人の足を引っ張り、人々を否定的に水平化する”と述べ、それを打破するには一人一人が「不動の宗教性を獲得するしかない」(桝田啓三郎訳)と強調した。この思想が世界で注目されたのは、彼が42歳の若さで世を去ってから半世紀も後だった。なぜ、これほど深く時代を洞察できたのかー。池田先生は語った。「彼が自身の寿命が短いことを自覚し、その短い生涯のうちに、なすべきことをなそうと戦ったからです」 先生自身もまた、1日を1カ月分にも充実させる思いで戦った。いつ倒れても悔いはないとの覚悟で生き抜いた。それは恩師が描く広布の構想を実現し、弟子の模範を後世永遠に残すためであった。誰もが今世の命には限りがある。だからこそ「今」を全力で生きる意味や価値を自覚できる。先生は論じた。「『英雄』とは、『自分にできることを、すべてやった人間』であります。凡人とは、自分にできないことを夢見ながら、自分にできることをやろうとしない人間であります」と。自身が定めた広布の使命を、時を逃さず果たしていく。その人こそ、真の英雄である。…以上です。自分に振り返って考えると、まさに凡人の道を歩んでいると、情けなく思い反省する次第です。 

 

なすべきことをなすとは…!

 今、最も勢いのある野球選手といえば、大谷翔平選手でしょう。アメリカのメジャーリーグで大活躍し、世界中の野球ファンのあこがれの的です。以前あるテレビ番組で大谷選手の特集をしている番組を見ました。そこで、特に目を引いたのは、彼が高校時代につけた「人生設計シート」です。このシートは大谷翔平選手が将来なにをしているか(目標など)を年齢別(18歳~70歳)に書いた、まさに自分の人生を設計するためのシートです。10代後半の高校生の時に、明確な目標を立てて、その目標実現のために、しっかりと継続して実際に取り組み、そして一歩一歩夢を叶え、現実のものとしていったのです。そのシートは、9×9のマス目で、シートにど真ん中には「ドラ1 8球団」とい大目標が書かれていました。そしてそれを実現するためには、体力づくり、コントロール、キレ、スピードといった技術的な観点と、人間性、メンタルといった精神面をも高めるためには何が必要か、そのためにどうするか等の必要項目が書かれていました。例えば「コントロール」に関して言えば、軸をブラさない→体幹の強化→インステップの改善→体を開かないなど、また「運」では、道具を大切に使う→ごみを拾う→部屋をきれいにする→あいさつ等々、要点・要素をまとめて書き出し、そして実践していったようです。そのおかげで実力が付きめきめきと頭角を現していきました。高校生の時に掲げた目標は、もちろん年を追うごとにアップグレードされたとは思いますが、プロになっても、その目標に向かって、練習・鍛錬等を継続し持続していったところに、大谷選手の凄さがあります。それは、食事に関してもストイックです。徹底した食事管理を自分でしています。(結婚するまでは)自分で作ることが多く、調味料も過度には使わず、油も極力控えていました。例えば、とんかつは衣を除いて食べる、ドレッシングはかけない、低脂肪高蛋白質で卵は食事の度にゆで卵3個、食事は1日5~6回等々、自分の夢を実現するためのパフォーマンスを最大に発揮できるための体作り、体調管理に気を遣っているのです。そのおかげもあり、既に「WBC日本代表MVP」は達成し、世界制覇も成し遂げています。更に全米記録も次々と塗り替えて、一つ一つ目標を達成していっています。“人生が夢をつくるんじゃない、夢が人生をつくるんだ”という中央に書かれている言葉が深いですね!高校生でここまで明確な目標を持っていた大谷翔平選手が本当にすごいですね。そして、それらが現在進行形であるのも凄いことです。彼は世界中から愛され、現代の野球界の英雄でしょう。まさに“自分のできることをすべてやっている人間”と言えます。

 

日蓮大聖人も、目標に向かって走っていった…‼

 日蓮大聖人も、「自分のできることを全てやった、真の英雄」言えます。それは、何故かというと、子供の頃に自分の周りに「南無妙法蓮華経」と唱えている人がいて、自分も出家してそれを修学して、遂に悟りを開いたというわけではないからです。つまり、誰かの進んだ道を辿っていった結果として悟りが開けたといことではなく、道なき道を突き進んでいった結果として妙法の境地にたどり着いたということです。そこでここでは、まず簡単に日蓮大聖人の御生涯を振り返る必要があります。…日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(千葉県鴨川市)という漁村で誕生されたと伝えられています。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。自らも「旋陀羅(せんだら=貧しい身分)が子」と自称されています。12歳から安房の清澄寺で、就学のために親元を離れて、教育を受けられました。そして、まだまだ出家前のころ、今で言えば中学生の年頃に、大聖人は「日本第一の智者となし給え」と清澄寺の虚空蔵菩薩の前で願いを立てられました。父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越えるための仏法の智慧を得ようとされたのです。これが”日蓮大聖人の根本の誓願”だったのです。そして、大聖人は、仏法を究めるために、高校生の年代の16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。この頃に「明星のごとくなる智慧の宝珠」を得られたと述べられています。このことは「善無畏三蔵抄」に書かれています。それは、仏法の根底というべき「妙法」についての智慧を感じ取ったということかもしれません。そして、もっと深い確信を得るために、大聖人は、鎌倉・京都・奈良など各地を遊学し、比叡山延暦寺をはじめ諸大寺を巡って、諸経典を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握されていきました。一切経を読破し、そこで初めて仏法(仏教典)には高低浅深があること、低い教えでは、民衆を幸せどころか不幸にしてしまうということを確信したのです。その結論として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が覚った「南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要」であり、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そして南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として広める使命を自覚されたのです。しかし、ここには大聖人にとって大きな問題がはだかります。それは、法華経に書き示されていることです。つまり、法華経を弘めようとする行者には、棒で打たれたり、石を投げつけられたり、人々に罵られたり、刀で命を狙われたり島流しにあったりという大きな困難が必ず来る、しかしそれらを恐れて法華経を弘めなければ、生前は何も起こらなくても、死して後堕地獄して閻魔大王の責めに遇って苦しむということです。結局、どうせ同じ苦しみを味わうならば、子供の頃に誓った「人々を苦しみから救うために法華経を弘める」という道を選んだのです。そして、遂に、建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、清澄寺で、末法の民衆を救済する唯一の正しい法であると宣言され、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えました。これが「立宗宣言」です。立宗とは、宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。そして、自ら「日蓮」と名乗られたのです。名前の由来に関しては、自身でも言われていますが、富士山とも関係があります。富士山の別名は「大日蓮華山」です。富士山のように、勇壮で、唯一絶対で、日本の中心に、泰然としてそびえ立つ存在という意味もあったということです。しかし、法華経の予言通りに、この立宗宣言の直後から、大難が次々と起こってきました。安房では、念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)の東条景信が、念仏の強信者であったために、激しく憤り危害を加えしました。大聖人はかろうじて、その難を免れました。その後、大聖人は、当時の政治の中心であった鎌倉に出られ、名越あたり(松葉ケ谷と伝承)に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗や禅宗の誤りを破折しながら、南無妙法蓮華経の題目を唱え、広められました。大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じるという謗法(正法を謗ること)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の教えにあると指摘されました。そのために、幕府や幕府に連なる高僧たちの反発にあいました。幕府要人は、大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)。翌年には、幕府は大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。さらに、弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれますがが、文永元年(1264年)11月11日、大聖人一行が、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。この後も、竜の口(江ノ島)で夜中に刑場に引き立てられ斬首されようとする直前まで行きました(竜の口の法難)。しかし、斬首は免れたものの、約3年の極寒の地の佐渡流罪という法難に遭われたのです。寒さと飢えとそして暗殺者から命をねらわれるなど、大変な困難を味わいました。でもその間、この佐渡の地では、大聖人は自分の考えを著した重要な御書を書きました。たくさん弟子にそして後世の人々のためにと残されました。赦免されて、鎌倉に戻った後も鎌倉での立場は、変わらず厳しいものがありました。そこで、身延の地に入られ、後世のために重要な書を書き残したり、弟子に講義したりし弟子の育成をしました。だんだん、民衆の間に南無妙法蓮華経の題目が広がっていく一方で、幕府の大弾圧も起こりました。「熱原の法難」です。これは、大聖人が直接に受けた法難ではなく、弟子や弟子によって教化された農民たちが弾圧されたのです。稲泥棒の嫌疑をかけられて捕らえられた20名位の農民たちは、鎌倉に送られました。もともと稲泥棒の嫌疑ではなく、「南無妙法蓮華経を捨てれば開放する」という条件で拷問にかけられたのです。それでも、その中で誰一人として信心を捨てる人はいませんでした。結局は、中心者とされた農民三名が斬首刑に処せられました。しかし、この法難は、大聖人にとって意味が大きかったのです。つまり、自分ではなく、自分に会ったことも無い農民たちが、南無妙法蓮華経を唱え抜いたことで、いよいよこの題目が民衆に広まってきたことを覚知されたのです。そして、遂に、日蓮大聖人の出世の本懐たる「南無妙法蓮華経」の御本尊を、曼荼羅に書き著されたのです。この時、弘安二年10月12日で、58歳でした。十代で「日本第一の智者となし給え」と清澄寺の虚空蔵菩薩の前で願いを立てられ、父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越えるための仏法の智慧を得ようとされた、その”日蓮大聖人の根本の誓願”が結実した瞬間でした。それまでは、心に念じて「南無妙法蓮華経」と唱えるだけでした。しかし、これによって、「南無妙法蓮華経」の御本尊が眼前にありそれに向かって唱えれば、老若男女、貴賤、民族、人種、問わず、誰しもが、自分の中にある仏の境涯を開くことができ、悪しき宿命を転換し、幸せの方向へと転換し、歩んでいけるという、道を開いたのです。大聖人も、さすがにその時ばかりは、興奮されて、真の英雄とは、「自分のできることを全てやった人間だ…‼」と雄たけびを上げたかもしれませんね。

 

結論:「聖人御難事」に「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」とあります。意味は「日蓮は、去る建長五年の四月二十八日、安房の国(千葉県)長狭郡のうち東条の郷、今は郡となっているが、そこは右大将源頼朝が創建した天照太神の日本第二の御厨(みくりや)がある。今は日本第一である。この御厨のある東条の郡のなかに清澄寺という寺があり、その寺内の諸仏坊の持仏堂の南面で、正午の時に、この法門を唱えはじめて以来、今弘安二年まで二十七年を経過している。

釈迦は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の後に、それぞれ出世の本懐を遂げられた。その本懐を遂げられるまでの間の大難は、それぞれに言いつくせないほどであり、今まで、しばしば述べてきたとおりである。日蓮は、二十七年である。その間の大難は、すでに各々がよく御存知の通りである。」とあります。仏や各聖人が、悟りを開き出世の本懐を果たすまでの、年数が書かれています。誓いを立てること、夢を見ること、持つことは、重要です。また誰もがそれらをもつ権利があります。

 しかし、それをいつまでも持ち続けて、それに向かって努力し続け、そして本懐を果たすということは、なかなかできるものではありません。大谷選手を始め、オリンピックに出るような人は、その経験を積んできた人でしょう。芸術家、音楽家、医師や弁護士など、その目標が高ければ高いほど、難関になればなるほど、その敷居は高く、成し遂げた時の達成感は計り知れないものがあるでしょう。ましてや、日蓮大聖人のように、人類の幸福、世界の平和、現世安穏、後生善処などを叶えるような、それまでになかった画期的な本尊を御図顕されるという様な事は、何千年に一人しかなしえない大事業です。私たちは、当然そのようなことは不可能です。しかし、そこまではいかなくても、日蓮大聖人の御図顕された御本尊に題目を唱え、小さな願い事でも叶え、スモールステップで成功体験を積んでいくだけでも十分に可能です。そして、それだけでも十分に英雄と言えます。

 

 


 

 

 

勝負には勝ち負けはつきもの

 スポーツは勿論、あらゆるものに”勝ち負け”が求められ、そして付いて回ります。勝ち負けの決着を求めていなくても、そして望んでもいないのにです。ある面では、それぞれの人生そのものまでが、”勝ち組”、”負け組”と判断されレッテルを貼られてしまうことさえあります。ですから、勝負に臨んだ経験から、古の人々より、「勝って兜の緒を締めよ」「負けるが勝ちよ」「勝負は時の運」「絶対に絶対はない」「強い人が勝つのではなく、最後に勝った人が強い」等々のことわざや名言が生まれてきました。どれもそれぞれに深い意味を感じます。また戦いに臨むにあたっては「負けじ魂」という言葉もよく聞きます。そこからは、強く結果へのこだわり、執念、信念等を感じます。1月から2月に開催された、アジアカップサッカー選手権、少し前になりますが、まだ記憶に残っている人もいると思います。また、つい先日までU23のサッカー・オリンピック予選も行われました。最近では、アジア各国のサッカーのレベルが上がってきて、グループリーグでも5点以上の差がつくような試合は滅多にありません。どの試合も僅差の勝負です。日本もまたグループリーグで苦戦しました。そして、グループリーグの勝ち抜けが決まるような一線では、それこそ熾烈な戦いを展開しました。決勝トーナメントになると、また更にさらに戦いが7激化しました。時には両チームで数枚のイエローカードが出たり、退場者を出した試合もありました。負けていたチームが、後半のロスタイムでギリギリ追いつき、延長戦、PK戦までいって勝ちあがったという試合もありました。時には、前後半、延長戦を1-1で迎え、延長戦のアデッショナルタイムで執念の一点をもぎ取って勝利を収めたというゲームもありました。そして、長いアデッショナルタイムの後、ゲームが終わった後には、勝ったチームも負けたチームも、選手がグランドに倒れこむシーンが見られました。本当に死力を尽くし精魂を使い果たしたという姿です。視点を変えPK戦に関して言えば、ネットで調べたところによると、チェコのアマチュアリーグで、PK戦が世界最長となる両チーム合計52本目までもつれる試合があったということです。それはSKバトフ1930とFCフリスタークによる同国5部リーグの試合で、3-3で迎えたPK戦をバトフが22-21で制した。チェコ南東部の小都市に拠点を構える両チームのPK戦では、4-4、11-11、14-14の場面で後攻のフリスタークに3度の勝機が訪れたが、いずれも選手がシュートを外した。そして迎えた26人目のキッカーの場面で、バトフ側がPKを成功させ、フリスターク側のシュートは失敗に終わると、148人の観客からは安堵(あんど)の拍手が起き、「やっと終わった!」と声を上げる人もいた。最後のキッカーとなったフリスタークの選手は、PKを失敗したことでチームメートから批判されることはなかったと明かしており、「家に帰れるから彼らは喜んでいたよ」と話していたそうです。日本で見れば、冬の風物詩の高校サッカー。そのPK戦記録で、19年1月2日の全国選手権2回戦で帝京長岡(新潟)-旭川実(北海道)の17-16が大会記録となっています。2-2のままPK戦に突入し、延べ38人が蹴った。選手権の予選では21-20という記録があり、10年度の福岡県大会決勝で九州国際大付が東福岡と22人ずつ、延べ44人が蹴って決着は2巡目のGK対決だったそうです。ここまでくると、サッカーの力の差はほとんど変わりありません。違といううとすれば、「絶対に勝つ」執念と精神的持久力だと思います。それを”負けじ魂”を名付けるならば、その”負けじ魂”が、チームの一人ひとりにどれだけ深く植え付けられていたかでしょう。大谷選手を要したWBCの栗山JAPANも、逆転に次ぐ逆転で優勝を勝ち取りました。ハラハラドキドキで、感動的な優勝でした。だから結果的に、「強い人が勝つのではなく、最後に勝った人が強い」ということになるのでしょう。

 

仏法は勝負を先とする…!

 時代も次元も違いますが、鎌倉時代に四条金吾という日蓮大聖人の門下がいました。金吾は、謹厳実直で医術にも精通していた

武士でした。曲がったこと、道理にかなわないことが大嫌いで、正論を通していくために、そのために同僚や兄弟からも、疎まれ憎まれることがありました。日蓮大聖人から法華経の正しさを学ぶと、間違った宗教をしている主君に、法華経に改宗すること勧めました。しかし、それがきっかけで、主君から疎まれ、領地減らされたり、辺鄙な領地に替えられたりしました。これは、武士にとっては大きな死活問題でした。さらに同僚からは讒言されたり、命を狙われたりしました。そのために、生活にも支障をきたし苦しい状況が続きました。しかし、大聖人の指導・助言の下に、短気な性格を見直し、外出にも単独行動を控えました。経済的に苦しい中でも身延におられる大聖人にご供養をお届けし、大聖人門下や同志が苦境に立たされている時には支援しました。そして、何よりも、一時は疎まれていても主君が病気で苦しんでいた時には医術を施し、見事に病気を治しました。それにより主君の信頼を回復し、かっての3倍の領地を賜ったのです。更には、大聖人が鎌倉の江の島の竜の口で処刑されようとしたときは、処刑場まで、大聖人の乗られた馬の口にすがりついて同行し、もし処刑されたならば「自分も一緒に切腹して殉死する」という覚悟も示しました。この時、大聖人は、処刑されることはなかったのですが、佐渡に流されました。そして、極寒の地の佐渡までも師を求めて行きました。結局、四条金吾は、日蓮大聖人の教えと指導を基に、自分自身に降りかかる宿命と闘い、法のため、同志のため、不退転の精神、「負けじ魂」で勝利をつかんだのです。そして、佐渡から鎌倉へ帰る際には、日蓮大聖人の人本尊開顕の書と言われる重書の「開目抄」を、門下一同を代表して授けられました。それほどまだに、愚直に、大聖人を求め、妙法を胸に、腐らず、諦めず、怠らず愚直に信心に励み、一切の苦難・避難・宿命を退け、大勝利の人生を歩み通しました。そしてまた、彼の師であられる日蓮大聖人も、命を狙われる松葉が谷、小松原等の二度の法難、竜の口の首の座、そして伊豆と佐渡と二度の流罪に遭いました。更に弟子の中には、所領を没収されたり、土牢に入れられたり、切り殺されたりする門下もいましました。それでも、末法民衆を苦悩から救済し、社会の平和と自己の幸福の実現のためには「南無妙法蓮華経」を弘めることだという、強い信念と使命と誓願とで、生涯を邁進しました。まさに”負けじ魂”の典型的な見本を示されたのです。結局、大聖人を散々にいじめた平左衛門尉頼綱は、失脚し最後には処刑され一族もろとも抹殺されました。また、頼綱に迎合し結びついて利権を得、権勢を誇り、大聖人を讒言し、龍ノ口の法難の原因をつくった律宗僧侶の良観は、財力と権勢の象徴として建てた極楽寺が大火によって焼失してしまいました。結局、正義は最後には、勝たなければ正義とはならないのです。”負けじ魂”の証明は、経過ではなく結果も大事です。

 

結論:「四条金吾ご返事(世雄御書)」には「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」とあります。同僚の讒言や、幕府や主君からの圧力により、苦境に陥って苦しんでいる四条金吾を激励するために、送られたお手紙です。〝仏法は勝負〟ということは、仏法は、人間の本源的な生命の力を重んじ、それをより強めていくことです。”勝負”といっても、仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることです。〝さき〟とは、前後の〝前〟ではなく、〝本〟ということです。「妙法を根本にして」ということです。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことがあっては本末転倒です。また、四条金吾に対して「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。『諸余の怨敵は、みな摧滅す』の金言むなしかるべからず。兵法・剣形の大事もこの妙法より出でたり。」とも、指導されました。

 『法華経』は、あらゆる人々の中に仏と等しい最高の生命境涯がそなわっていることを説いた経典です。ですから、南無妙法蓮華経を唱えることによって、その無限の力を開くことができる、しかし、一般的な兵法や剣術は、その力を引き出す法則を部分的に解き明かしたに過ぎず、『法華経』の信仰を根本にしてこそ、世間にある具体的な方法を生かしていけると言われています。実際に、四条金吾も妙法を唱えきることによって、すべてを乗り切ることができ、この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を得るという結果で証明されたのです。

 もし、妙法を持った人が負け続けたら、日蓮大聖人の正義も、正当性も脆くも崩れ去ることになります。だからこそ、”負けじ魂”で、力強く前進することが大事なのです。