最近の制作状況と公共事業継続の難しさについて | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

Personale Ausstellung 2009-10

Personale Ausstellung 2010-11

Personale Ausstellung 2011-12

Personale Ausstellung 2012

Personale Ausstellung 2016

 

久方振りの我が作品の制作に関する報告であるが、先ず(縁起を担いで)今年の元日より着手した「滋賀院門跡・勅使門」の絵を2月7日なってようやく完成させた。
更に同じ大津市・坂本にある「律院・不動堂」の絵を3月10日に(一応)完成させた。
とは言え、此の御堂を余が参拝し撮影した折には、前にテントが張ってあった為、其の一部が隠れていた。
余は意図的にテントを撤去した日常の状態で描いているので、今年の4月に当院を再度参拝して撮影して、其の写真を元に最初に見えなかった部分を描き足す所存である。

そして現在再び「滋賀院門跡」の「宸殿」の絵を描いている。
予定としては、桜の満開となる4月8日の「灌仏会」(御釈迦様の誕生日)までには完成させたい処である。
何故なら此の時期に余は滋賀院門跡を再び参拝して、大僧正・小林隆彰猊下と3度目の謁見をさせて頂く約束になっているからである。
其の際には余が昨年描き上げた「滋賀院門跡」及び「生源寺」の絵合わせて5点を小林猊下に御覧頂く事になっている。 

(今から此の事が大層名誉であり楽しみでならない!)
参照の為の同ブログの記事:
「初の比叡山・滋賀院門跡に於ける大僧正猊下との謁見」

「我が個展と製作の進行状況、そして大僧正猊下との2度目の謁見」

 

昨年の12月以来、我が母上の事業所の手伝い其の他の雑用で、多少の製作時間が失われて来ているが、何とか今まで合理的に全てを無難に処理して来た。
本日も午前中から、母上と共に我が家のボロ別荘の庭で育っているエンドウの為に柵と網を設置して来た。


町のど真ん中に館(実家)のある我々にとっては、こうして郊外の田舎のボロ別荘で野良仕事をすると、良き気分転換になるのである。
我が親類の助言によると、エンドウ等の「マメ科」の植物は毎年同じ場所で連作はしない方が良いらしく、同じ場所で栽培するのなら、3年程は間を開けるのが理想的らしい。
にも拘わらず、余は庭に雑草を茂らせたくないのを理由に、毎年エンドウが終わると瓜とメロンを栽培しては収穫している。

流石に理に反して毎年連作しているだけに、エンドウの収穫量も少しずつ減少して来ている。


其れに引き換え、我が個展はマンネリ事業にも拘わらず、どう云う訳か年毎に入場者が増加しているのである!
同ブログの記事:「我が個展の結果・新たなる大勝利と外れた三つの思惑」参照)

2008年以来、鳴門市ドイツ館にて毎年恒例の公共事業となっている我が個展は今年開催(既に当館の要請を承諾)すると、日独両国で通算20回目となる。(鳴門市ドイツ館だけで通算10回目となる。)
20回とはある意味良き節目となるのだが、我ながら1994年のデビュー以来、よくぞ今まで続けて来られたものだと感心している。


因みに我が精神の故郷Königreich Preußen(プロイセン王国1701~1870年)の国王FriedrichⅡ世陛下の御制定された国家最高勲章 "Pour le Mérite"はDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国1871~1918年)が存続した第一次世界大戦(1914~18年)まで存在し、当時は空中戦で1人で敵機を20機以上撃墜すれば、絶対に授与される勲章であった。


余が如何に此の勲章に憧れても、最早Preußen王国もドイツ帝国も存在しないので、叙勲する事は出来ない。
それでも日独両国で通算20回も公共事業としての個展を開催している余の功績は、此の勲章に十分値すると自負している。
(自己満足の様だが、此の勲章の完全レプリカだけは購入して、1993年にPotsdam市の映画会社DEFAで余の為に特別に仕立てて貰った、FriedrichⅡ世陛下時代のPreußen軍のDragoner(龍騎兵)将校の完全レプリカの軍服の首に掛けている。)


とは言え余は今日までに以下の通りの授与歴を持っている。
✠1997年 Berlin-Wedding (ベルリン・ヴェディング区)より賞状
✠1998年 Berlin-Wedding (ベルリン・ヴェディング区)より名誉勲功章と感謝状
✠1999年 Brandenburg/H(ブランデンブルク市)大聖堂財団よりメダルと感謝状
✠2001年 Berliner Heimat u,Partnerschaft Verein (ベルリン郷土、交流協会)より記念プレート
✠2011年 天台宗総本山、比叡山延暦寺より感謝状と記念品
✠更に2016年5月には延暦寺・大僧正・小林隆彰猊下より御直筆の色紙を頂戴している。(同ブログのプロフィール参照)

 

一般人には殆ど知られていない事だが、実は芸術家の活動が官・民両方から認定され評価される事は大変難しい事なのである。
先ず、特定の自治体から公共事業として相応しいと評価、認定されて、初めて公共施設にて開催出来る。
しかし、其の事業が民間で期待する程の人気、利益が出なければ、3年以上継続するのは大抵不可能なのである。
よくある全国の文化事業の事例として、1年目は「物珍しさ」に人々が集まり、2年目には来場者数が最高に達し、3年目には落ち目になり、4年目には遂に廃止されるのである。
即ち公共事業としての芸術活動とは、作者個人の意思だけでは到底続ける事は出来ない。
やはり官・民両方に認められ評価されてこそ末永く存続出来るのである。
(本音を言えば)前回の個展を以って、鳴門市での展覧会を終了したいと思っていたのだが、其の事への感謝の念を持って、此れからも我が芸術活動を続けて行かねばなるまい。

4月の追伸:
滋賀院門跡・宸殿」の絵の製作は快調なペースで進み、予想より早く4月1日に完成した。
引き続き「天台宗務庁」の絵を制作している。

(思いの外時間がかかり、5月12日にようやく完成)


同月5日にボロ別荘の敷地と東側の田んぼとの境に生えている多くの水仙の中で、50kg程の石の下から生えている花を一輪見つけた。
一見か弱く見える、そして盛りの短い花が大きな石の下敷きになっても、敢えて花を咲かせているのは何とも感動的であった。
余は直ぐに此の石を(軽々と)持ち上げて花の上から取り除いておいた。
すると其の下から、5センチ程の葉っぱが2枚伸びているのである。
余は此れを見て、水仙の重荷(苦しみ)を取り除いてやれたと、何とも清々しき思いであった。
そして同時にこう思ったのである。
「こんなか弱い花でさえ、大きな石の下敷きになっても耐えて生きている。
其れに引き換え余は天賦の才能、多くの知識、そして健康で美しい体と剛力に恵まれているにも拘わらず、「完全主義」「理想主義」を追求するが為、些細な問題事が起きれば、直ぐ怒ったり、悩んだり、憂鬱になってしまうのである。
此の花を見習って、多少の困難や苦悩や不満があっても、耐えてこれ等を克服しなければならないのだ。
因みに水仙の花言葉の「自惚れ」「自己愛」は、ギリシャ神話の中で、水鏡に映った自分の姿に恋をして水仙に変身してしまった美少年Narcissusの伝説に由来している。
Narzisst (自惚れ屋)の余が自分を象徴する花言葉を有する水仙から、此の様なInspiration(霊感)を得るのも不思議な縁である。

又、余の人生の師と仰ぐJ.W.v.Goethe先生の御言葉>Wie kann man lustig zu leben, also nicht immer sich bereuen, nicht leicht sich ärgern, niemals andere hassen, jetzt diese Zeit lustig leben und die Zukunft zum Gott übergeben.<「人生を楽しく生きるには、いつまでも後悔しない事、簡単に怒らない事、決して他人を憎まない事、今此の時を楽しく生きる事、そして未来を神に委ねる事。」を思い出した。
並びに、かつて余が編集した「世界の幸福に関する格言、名言集」の中にも記載している、夏目漱石先生の言葉「錦を着て憂える者もいれば、水を飲みて喜ぶ者もいる。」(幸福の感じ方は人様々だ。 自分は多分に幸せなのに、其の幸せの中に小さな不幸を見つけては不機嫌になる人。 大して幸せでもないのに、其の中に小さな幸せを見つけては喜ぶ人。)も思い出された。

余は断然前者なので、時々後者の如く小さな幸せを見つけて喜べる人間が羨ましく、又は立派に思えるのである。
心理学的理論では人間の性格は大抵の場合、半分がGebürtiger Faktor(先天性因子)残り半分がNachgebürtiger Faktor(後天性因子)に依って形成されるので、生まれつきの性格は根底から変える事は出来ない。
しかし、其の考え方を自らの意思で変える事は可能なのである。
余も自分の人生をより安楽にしたいと望むなら、時には考え方を後者の様に変える事も必要だと思えるのである。

小さな成功を積み重ねる事によって、大きな成功を築き上げられる様に、同様に小さな幸せを積み重ねる事によって、大きな幸せを作り出せるのではなかろうか。

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