初の比叡山・滋賀院門跡に於ける大僧正猊下との謁見 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

     奧山実秋作 『滋賀院門跡』・通用門  ↑ 

      奧山実秋作 『滋賀院門跡』・庫裡と大玄関 

 

今月の8日、余は滋賀県大津市坂本に新たな主題の天台寺院の取材及び参拝に出向いて来た。
流石に当地は総本山・比叡山延暦寺の御膝下だけに、約50件もの天台寺院が集中的に建っている。
今回は其の中でも特に重要な、『聖衆来迎寺』、『生源寺』、『律院』、『滋賀院門跡』、其の他「養光寿庵」、「公人屋敷」、「日吉御田神社」、「大将軍神社」、「寿量院」、「実蔵坊」「恵実院」(慈眼堂)を訪ねて来た。

先ず、『聖衆来迎寺』(しょうじゅらいごうじ)は延暦九年(790)、最澄大師によって「地蔵教院」として開基され、長保三年(1001)に源信和尚(恵心僧都)が当地に於いて紫雲に乗った阿弥陀如来が25人の聖衆(菩薩)を連れて善人の魂を迎えに来るのを見た事に因んで、当寺を「紫雲山・聖衆来迎寺」と名付けた。
境内の重要文化財に指定される主な御堂として、本堂、客殿、開山堂がある。
本堂には本尊の「阿弥陀」、「釈迦」、「薬師」の三如来を始め、多数の文化財に指定されている仏像がある。
当寺の数ある寺宝の中でも鎌倉時代に描かれた「六道絵」は特に有名である。
堂内の拝観は事前に予約しておかねばならないにも拘わらず、親切にも御住職の奥様が特別に数多くの重要文化財を安置する本堂に案内してくれた。

次に『生源寺』は日本天台宗の開祖・最澄大師が神護景雲元年(767)御誕生の折、産湯を取った井戸がある事で名高く、後に大師御自らによって開基されたと伝えられる。
当寺は比叡山延暦寺・西塔の総里坊格の寺で、近世には本山の寺務を総括した故、「叡山文庫」には多くの「生源寺記録」が所蔵されている。
又、最澄大師の誕生寺と云う理由から特別な霊地として崇められ、毎年当寺では大師の御誕生日(旧暦の)8月18日を祝う式典が盛大に行われる。 ここでも職員の方と色々と良きお話をする事が出来た。

最後に『滋賀院門跡』についてだが、元和元年(1615)天海大僧正が後陽成上皇より京都・御所の高閣を受け賜った物を現地に移築し、明暦元年(1655)に御水尾上皇(ごみずのおじょうこう)より「滋賀院」の称号を受け賜った。
約1万平方メートルに及ぶ境内には、勅使門、通用門、内仏殿、宸殿、二階書院、庫裡、台所、6棟の土蔵、そして庭園があり、外部は「穴太衆積み」(あのうしゅうづみ)様式の石垣の上に土塀が張り巡らされている。
『比叡山延暦寺・滋賀院門跡』の名が示す通り、総本山・延暦寺と直結の天台座主の御座所でもあるので、京都にある『天台宗五大門跡寺院』(妙法院、青蓮院、曼殊院、三千院、出雲寺)よりも更に格が高い。 
地元では別名「滋賀院御殿」とも呼ばれる。

そしてここで我が身に御仏と最澄大師の御導きとも思える奇跡的な事が起きたのであった!
余が当寺院の取材、拝観を終えて引き上げる直前に大玄関をふと見つめた時、同時に玄関の扉が開き一人の御坊様が御出ましになられ、初対面であったにも拘わらず色々と話が進み、御坊様は「良かったら上がりませんか。」と仰せられ、余を客間へと御通して下さったのであった。
改めて御互いの自己紹介をした処、余は此の御坊様がここ『滋賀院門跡』の門主・大僧正・小林隆彰 猊下(げいか)である事を知り狼狽する程驚いたのである!
本来、大僧正猊下には地方の同宗派の僧侶ですら、容易に御目通りは出来ない。
まして一般人等は尚更の事である。
一般では「門跡寺院」の寺格について認知している者が希である故、注釈を付けるのだが、かつての「帝政時代」までは門跡寺院の門主の役職には、皇族か御摂家(公家の筆頭格)の御出身でなければ就く事は出来なかった。
大僧正・小林猊下は天台宗務庁総務室長、延暦寺代表役員執行、叡山学院学長、延暦寺学問所所長を御歴任され、昭和62年8月以来継続される『比叡山宗教サミット』と称する、世界各国の宗教の代表者達を招待して、皆で一緒に世界平和やそれぞれの宗教 の意義、美徳、其の他について語り合う国際的な宗教行事の創案者であり運営責任者なのである。 
猊下は此の『比叡山宗教サミット』を計画し実現されるまで、当時どれだけの御思案、御尽力をなさられたかを生き生きと余に語って下さったのである。
尚、此の宗教行事は今日に至るまで28回も定期的に行われている。
更に小林猊下は余の今までのドイツ及び日本に於ける芸術家としての業績(延暦寺に18点の絵画作品を奉納し、横川中堂にて展示されている事も含む)、並びに在家でありながら天台仏教を良く学んでいる事に大層感心され、度々御褒めの言葉を下さり、更には天台宗に功績のあった者に贈与される、猊下御直筆の「為に生きる」と記された色紙まで頂戴仕ったのである!


此の御言葉には深き意味が秘められており、即ち「己の為のみに生きる者は最も小さく、身内の為のみに生きる者は平凡にて、普く世の為人の為に生きる者は最も偉大である。」と余は解釈させて頂いている。
小林猊下は御自分が総本山の大僧正であられても、目下の者を威圧する事無く、相手の位置まで降りて接して下さる大変慈悲深き御人柄には、余は誠に感服致したのである。
小林猊下の寛大な御心に甘え、分もわきまえず2時間程も御話をさせて頂き、帰り際にも猊下から「これからも度々来てや!」との有り難き御言葉まで頂戴した。
そして余は猊下に自分の2011年以来手掛けている「天台寺院」の作品の写真、及び余の芸術活動に纏わる資料を御送りする事を約束した。
そして寺院の職員の方に比叡山坂本駅まで送迎して頂いて、喜びと幸せに満ちた心持で坂本を後にしたのである。

かつて15世紀~19世紀のヨーロッパで、芸術家の最高の立身出世とは王侯貴族や大僧正や大都市の自治体に公認される地位にある事であった。
そう言う意味では余は(銭儲けに縁こそ無いが)首都Berlin、Brandenburg大聖堂、鳴門市、比叡山延暦寺に公認されているのであるから、自分なりには頂点まで登れたと自負している。
此度、小林猊下の智慧多く慈悲深くとも素朴な御人柄に接して、余も慢心する事無く、猊下の御心と御評価に添える芸術家として謙虚な心を持って精進して行く事を決心した次第である!

それから間も無く5月10日、鳴門市ドイツ館から今年の個展の要請があり、我が個展の概要として題名は『ドイツの教会と日本の天台寺院』とし、開催期間は10月8日(土)~11月27日(日)と決めさせてもらい、準備を進めて行く事になった。
幸い今年出品予定の作品(約44点)は既に全て描き上がっているので、かなり余裕をもって取り組む事が出来る。
大部分の日本人の鑑賞者にとっては、今までの展示して来たドイツの文化財、風景、物語の絵は、「異国の文化」としての珍しさはあっても、親しみは感じなかったであろうが、今回の日本の天台寺院ならば親しみないしは思い出のある方もいるのではないかと思われる。

5月11日、小林猊下にお届けする我が書簡、並びに資料が整ったので、早速近所の郵便局より送付して来た。
此れにて最初の大僧正猊下との大事な約束を果たせたと安堵している。
余は小林猊下から御返事を頂き、再び御目通りさせて頂き有り難く尊き御話をさせて頂く事を心待ちにしている。


追伸:
6月になって小林猊下の御執筆された書籍「とらわれをなくすと、悩みが消える」(発行:PHP研究所)を購入して読ませて頂いた。

猊下は一般人でも分かり易い平易な表現で、大変多くの人生の教訓になる事を、御自分の長年に亘る御経験を踏まえて綴っておられた。
其の中でも特に余が感服したのは、小林猊下はたとえ相手が下層社会で失敗した者でも、軽蔑したり切り捨てたりせず、一度頼られると必ず救いの手立てを差し伸べて下さると云う慈悲深さである!
上流階級や支配階級のみならず、一般人でも軽視する様な者でも、救える限り救ってやると云う御考えなのである。
正にお釈迦様の御教えの根本「智慧と慈悲」「世の為人の為の善行」を実践されている、あたかもドラマ「水戸黄門」の御老公をも彷彿させる様な御人柄なのである。
自惚れ屋で高慢な余にとって、小林猊下と謁見させて頂き、更に御執筆の本を読ませて頂き、改めて我が心は清められ、御仏の光で照らされる様な思いであった!

同ブログの記事: 『比叡山延暦寺の為の「釈迦八相成道図」』          『我が作品集『比叡山延暦寺十景」奉納、及び我が家に来た不動明王像』も同様に参照されたし。

 

 

※注意:
ブログのアクセス解析を見ると、当記事をキーワード検索してまで探して読んでいる人達が何人もいる。
本来有り難い事ではあるが、如何に大僧正小林猊下に関心を持っても、所詮一般人如きでは御目通りは叶わない。
何故なら猊下は御身分もさる事ながら、天台宗総本山の仏事、宗務、執筆、講演、社会福祉法人、等の御勤めにて毎日御多忙だからである。
軽々に滋賀院門跡や延暦寺に電話をしたり、訪ねる等の行いは重々慎むべし!

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