比叡山・延暦寺の為の「釈迦八相成道図」 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

2009年から2010年にかけて描き上げた『五大明王』を、余はいずこかの有名且つ由緒ある天台宗の寺院に奉納したいと言う意向を、我が家の菩提寺である天台宗「成願寺」の住職であり我が親友の甘露和尚に伝えた。
すると驚く事に彼は何と「どうせなら総本山の比叡山(延暦寺)に話を進めては如何ですか。」と提案したのである。
余は初めの内は其れは余りにも途方も無い雲を摑む様な話だと思っていたのだが、9月9日に駄目で元々位の覚悟で延暦寺の事務所に自分の事及び成願寺を紹介した処、延暦寺から余に関する詳細な資料を送って貰いたいとの御返事が成願寺に来たので、余は甘露和尚を通して、我が詳細な資料を延暦寺に提出したのである。
11月27日に余は当初、日帰りの予定で京都と大阪にて展覧会と寺院をを見に行っていたのだが、急遽、延暦寺を訪ね高僧と話し合う日程が29日ないしは30日と聞き、其の為美術館で久方振りに再会した大阪の友人の家に泊めてもらい、そこから延暦寺へ行き、成願寺の甘露和尚と落ち合い、延暦寺・総務部長の高僧・小林祖承師に謁見させて頂き、奉納する作品について話し合ったのである。
其の結果、余は最終的に『釈迦八相成道図』(しゃかはっそうじょうどうず)と言う、御釈迦様の生涯を物語る8連作の作品を描かせて頂く事に相成ったのである。
尚、余の原画は後世まで延暦寺の文化財の一環として残していく様にするとの此の上無く有り難き御言葉を総務部長の小林師から頂戴したのである。
余は当初、「延暦寺会館」の中の「飾り物」としての絵が描けるだけも素晴らしいと思っていたのだが、まさか其の様な重要な宗教的な役割を受け賜るとは思ってもいなかった。
Paradisi Gloria(ラテン語で)「至高の栄光」とは正にこの事なのだが、同時に大きな責任が掛かっている事をも自覚しなければならないのである。
成程余は自分の才能、学識そして今までのドイツ(Berlin, Brandenburg)及び日本に於ける業績、名声、地位等には自信を持ってはいるが、何分「仏画」に関してはまだ初心者であるのに、よく天台宗総本山・延暦寺が余を認めて下さった物だと今でも恐れ入っているのである。
此れは同じ天台宗の成願寺の甘露和尚の有り難き紹介と協力の賜物であると存じている。
其の感謝の証として、我が家の菩提寺である成願寺にも『五大明王像』を鳴門市ドイツ館にて展示した後、奉納する事にしているのである。
延暦寺への作品奉納の締切期限は無いのだが、余としては今年の「潅仏会」(かんぶつえ、即ちお釈迦様の誕生日4月8日)までに出来るだけ間に合う様に奉納しようと思っている。
扨、此の『釈迦八相成道図』についてなのだが、色々と参考資料を集めて見た処、以外にも多くの女性が登場するのである。
(例:お釈迦様の生母の摩耶夫人(まやぶにん)とその女官達、苦行にて瀕死のお釈迦様の命を救った地主の娘スジャータ、お釈迦様の修行の邪魔をする3人の魔女達)
2010年12月、取り急ぎ「時代考証」としてお釈迦様の生きておられた時代(紀元前624-544年頃)のインドの風俗を写真資料、文献にて調査、研究を進めた。

2011年の正月三が日に草案(アイデアスケッチ)を描き上げ、延暦寺の方に送付する事が出来た。
当寺院の総務部長、小林師から1月6日に「奥山さんの草案が着くのを楽しみにしています。次回は他の大僧正達の意見もお伝えします。」との有り難き御言葉を頂いた。
偶然にも第一場面『託胎』(摩耶夫人の夢の中で白象が受胎告知する)は1月14日「華芳会」(かほうえ=第三代天台座主、円仁大師の命日)に完成し、更に第二場面『降誕』(シッダールタ王子の誕生)は1月26日「天台宗開設記念日」(西暦806年)に完成すると言う大変縁起の良い日付けになった。
2月になって第三場面『出城』(シッダールタ王子出家の為の旅立ち)が3日の「節分会」に完成した。
余は当初、『託胎』を描き上げるのに1ヶ月を要すると予想していたのだが、1月5日に油絵の本制作に入って以来、僅か一ヶ月以内に3作を完成させた事には、我ながら驚いている。
2月13日、引き続き第四場面『苦行』(シッダールタ王子の修行)も完成した。
そして2月26日、第五場面『降魔』(シッダールタ王子の悪魔、魔女払い)も完成した。

余の友人達や、我が家の菩提寺「成願寺」の住職甘露和尚も「其れは実秋さんの本来の力に、目に見えない力(仏の加護)が作用しているのでしょう。」とも言ってくれている。
又、これ等の作品を見て余の家族、友人達、我が事業所の従業員達も、そして甘露和尚も皆絶賛してくれるのだが、たった一つ大きな問題点が有ったのである。
其れはお釈迦様の母上である摩耶(マヤ)王妃が巨大な乳房を丸出しにしているのを描いていた事である。
「聖なる仏教画に何故そんな事を!」と日本人の方は思われるかも知れないが、実はお釈迦様の生きておられた時代(下記参照)
(1) BC.566年-486年(高楠順次郎説)
(2) BC.565年-485年(衆聖点記説)
(3) BC.564年-484年(金倉圓照説)
(4) BC.466年-386年(宇井伯寿説)
(5) BC.463年-383年(中村 元説)
(6) BC.624年-544年(東南アジア圏にて採用されている説)

当時、古代インドの風俗では庶民はおろか、王侯貴族でさえ腰布(又は褌)と装飾品だけ纏って殆ど裸で生活していたからなのである。

3Yakshi from Mathura ca, A.D.200 

又、古代インドの「仏教美術」では特に女性の体を極端に豊満に表現していた。
其れ故、後世の「釈迦八相成道図」に於いては大抵の場合、摩耶王妃は乳房を露出した姿で描かれているのである。
余は摩耶王妃の姿を想像して描いていたら、無意識の内に余の理想の女性像になってしまった。
奇妙な言い方であるが、彼女は最早「我が愛しの摩耶ちゃん」になってしまった次第である。
(此れではまるでかの有名なギリシャ神話の中のKyprosの王Pygmarionと同じ状況ではないか!)
「延暦寺、釈迦堂の為の宗教画を制作しているのに何故こんな事になったんだ?」
と、摩訶不思議な気持ちなのだが、摩耶王妃の御蔭で歓喜と高揚感が高まり、かくの如く驚異的なペースで傑作を描き上げる事が出来たのであろう。
とは言え、摩耶(マヤ)王妃が其の爆乳を露にしている事に関しては、余の家族、友人達、我が母上の事業所の従業員達も、そして甘露和尚も皆、「延暦寺に常設展示するには妖艶過ぎてかなり問題になるのではないですか。」と指摘してくれたのである。
特に我が母上は「摩耶王妃がまるでストリッパーの様に見える!早く彼女の胸を布で隠しなさい!」と毎日催促して来たのであった。

Buddha from Ahicchatra ca, A.D.200~300 ↑
余としてみれば(ドイツの画家の理念として)、お釈迦様の生きておられた時代の古代インドの風俗を出来るだけ歴史に忠実に描写して、当時の真実を拝観者の方々に伝えたいのであるが、所詮は日本とインドの仏教の間では教義や感覚に大きな隔たりがある。
全く此の様な事で悩まなければならないとは夢にも思わなかった。
結局の所は皆の序言に従い「託胎」「降誕」の絵に描かれている彼女の乳首だけは天衣(襷の様な布)で隠すという修正を施した。
3月3日、第六場面『成道』(シッダールタ王子悟りを開き仏陀となる)が完成した。
3月17日の彼岸、天皇講(天台宗を国教として認定された桓武天皇の御命日)に第七場面『初転宝輪』(お釈迦様による弟子達への最初の説法)が完成した。
4月1日、遂に最後の絵、第八場面『涅槃』(お釈迦様の最期の日々)が完成した。
此れにて我がFantasiemalerei(想像画)の「集大成」が遂に完成したのである!

Queen Maha Maya on buddhistic Relief from Nagarjunakonda ca, A.D.300

扨、此の摩耶王妃なのだが、余がお釈迦様の物語と古代インドの仏教美術を通じて知り得る限りでは、彼女は貴族としての「高貴さ」、キリスト教の聖母Mariaの「純潔」「母性愛」、ギリシャ神話の美と愛の女神Venus及びインド神話の豊穣の女神Yakshiの「美貌」「肉体美」「色気」を兼ね揃えている"Gesamte Göttlichkeit"「総合的な神格性」を持つ女性なのである。
増して余は個人的に色々な国の神話を研究して来たが、彼女に匹敵する女神、聖女等、世界中の神話を探してもいない様に思えるのである。
即ち彼女は(軽率な表現だが)「仏教界のIdol」になるだけの素質を十分過ぎる位有していると言える。
にも拘らず何故彼女が今までそうなれなかったのかと言うと、其の原因は次の通りである。
本来仏教がインドより中国を経由して西暦538年に日本に伝来した事は周知の事実である。
しかし中国人にとって当時のインドの仏教美術は余りにも妖艶過ぎた故、仏達の御姿を自分達の文化や国民性に適合した姿に作り変えたのであった。
詰まり日本の仏教美術は相当中国の影響を受けている為、元来のインド仏教より禁欲的な表現になってしまったのである。
又、嘆かわしき事に最近の日本人は大多数の実家が江戸時代の「檀家制度」以来、仏教寺院の檀家であるにも拘わらず、仏教に殆ど関心や知識の無い者が非常に多いのである。
僧侶以外の一般人にお釈迦様の誕生日や彼の母親の名を聞いても、正しく答えられる者は殆どいない。
其のくせ異教のキリストの誕生日(Christmas)に便乗するし、キリストの母親Mariaの名前を知っているのだから呆れてしまうのである。
此度、天台宗総本山、国宝そしてUNESCO世界遺産である延暦寺に自分の集大成である仏画を奉納する余としては、此の作品を通じて可能な限り多くの人々が仏教に関心と信仰心を持ってくれる様になる事、そして摩耶王妃の著名度、人気が急上昇して、本来彼女に相応しい仏教界のIdol的存在になる事を願うばかりである。

          ~*あとがき*~
「夢物語」を記す様だが、余は少年時代より自分の家が「清和源氏」の流れを汲む家柄である事を親から聞かされていた事もあって、其の頃から「源平合戦」(特に源義仲公)や「戦国大名」(特に武田信玄公)に多大な憧れがあった。
とは言え、今の時代「総大将」として軍勢を率いて京の都に上れる様な立場では無い。
其れでも尚、義仲公や信玄公の様に都を目指して邁進する様な人生を歩みたいと常日頃より願っていた。
そこで余は芸術家として「頂点」に上り詰める事こそが、大名の「天下取り」に相当すると考えた。
先ず1991~95年までUNESCO世界遺産に属する名門校Kunstakademie Dresden(ドレスデン国立芸大)を卒業し、1994年以来Brandenburg州の主要都市にて公共事業としての個展を数々開催し、遂には1997年、2001-02年に首都Berlinに上り、公共事業及び記念事業としての個展を次々と開催し、Berlinから表彰状、感謝状そして名誉勲功章を叙勲し、首都公認の芸術家と成ったのである!

本来此の「釈迦八相成道図」はお釈迦様の誕生日の4月8日までに奉納する予定だったのだが、延暦寺では4月には「潅仏会」のみならず、今回の「東日本大震災」によって壊滅した数件の天台宗の寺院の再建計画、被災地の為の義援金の回収、そして比叡山の地震対策の再検討等の重要事が重なり、最上層部の高僧方は非常に御多忙であった為、余の作品の奉納は5月19日に延期された。
此の日、誠に有り難き事に甘露和尚が自家用車で余を延暦寺まで連れて行ってくれたのである。
午後3時、余達を出迎えて下さったのは、総務部長の高僧小林師のみならず、執行の武師にも御出まし頂いた。
そして余は武執行から御請書と感謝状と記念品(人間国宝・音丸耕堂氏原作の漆器の皿)を頂戴仕った。
此れを以って余は日本で最も崇高なる名刹、天台宗総本山・延暦寺に公認される芸術家と成ったのである!
かつて平安時代から室町時代に至るまで「延暦寺を味方にせずして天下は取れない。」と言われて来た。
余自身としては此れにてドイツでも日本でも芸術家として「頂点」に立てたと確信している。
ドイツでのみ頂点に立つ事だけでも十分に満足しているのに、増して日本でも頂点に立てるとは思っても見なかった。
大袈裟な言い回しだが、御釈迦様、最澄大師、源義仲公、武田信玄公、Preußen国王 Friedrich der Große陛下、哲学者のI.Kant先生, J.G.Fichte先生, 文豪のJ.W.v.Goethe先生, F.Schiller先生方の偉大なる人生、思想そして業績から『希望』と『美徳』と『大願』を受け賜わった。
そして余を認め支持してくれた家族、友人、各美術館、博物館、Protestant教会、天台宗寺院に永遠に心からの感謝を捧げたい。

※「釈迦八相成道図」の画像は我がホームページのKatalog.此嵎教絵画」(katalog4 (xrea.com))にて公開している。
我が経歴、業績に関して詳しくは、当ブログの「プロフィール」 参照

 

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