動物愛護の為に(其の弐) | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

昨年の夏頃からどう云う訳か、余は矢鱈に難儀をしている動物に遭遇しては、其の都度救い出してやっている。
先ず昨年の夏には、余がいつもの様に田舎の我がボロ別荘にてウェイトトレーニングをしていると、勝手口の方で何やら紙かナイロンフィルムが軋むような音がするので、行って見たが誰も来てはいなかった。
再びウェイトトレーニングを続けていると、又もや同じ音がするのでもう一度行って見ると、何と青大将(アオダイショウ)の子供が勝手口の扉に貼ってあるセロハンテープに張り付いて身動き出来なくなっているのである。
「此れは捨て置けぬ事也!」と余は早速割り箸を使って、子蛇の体を傷付けない様に気を付けて丁寧にセロハンテープから剥がしてやった。
すると子蛇は縁の下へ入って行ったのであった。
今回の出来事で初めて気付いたのだが、どうやら我がボロ別荘には40年以上に亘って住み着いている縞蛇の家族意外にも青大将の家族も住み着いている様である。
(当ブログの記事「歴史と文化の中の蛇について」参照:

蛇達にとっては我がボロ別荘は、縁の下や物置にて暑さ寒さをしのげるし、周囲には彼らの餌になる蛙が沢山生息しているし、人間に駆除される事も無く、天敵に襲われる脅威も無いので、非常に快適な住処となっているのだろう。

今年の6月下旬には、余が我がボロ別荘の近所に住む親族の家を訪ねた時、其の家敷内にある枇杷の木に掛けている網に鵯(ヒヨドリ)が体を絡ませて身動きが取れなくなっているのを見つけ、すぐに網から外してやろうとしたが、複雑に絡んでいるので素手だけでは出来なかった。
鵯は余が助けようとしている間、全く暴れる事無くおとなしくしてくれていた。
人間の言葉が理解出来なくても、余が善意で助けようとしている意図が分かったのだろうか。
それからすぐに自動車から鋏を取り出して、絡み付いている網を切ってようやく助け出してやった。
すると鵯は何とも嬉しそうな澄み切った声をあげて元気に飛び立って行った。
其の後で親族から聞いたのだが、鵯は時々畑に現れては苺、みかん、林檎、キャベツ、ブロッコリー等の農作物を食い荒らすので、農家にとっては厄介な害鳥らしい。

今度は7月の3日には、我が家の事業所の入口に子蟹が迷い込んで来ているのを見つけた。
蟹は水の無い所では生命維持が出来ないので、すぐ捕まえて水のある他の蟹達が生活している溝に放してやった。
子蟹はすぐに逃げたりはせず、暫く余の足元でじっとして、それから溝へと這入って行った。
此の蟹を見て余は少年時代にザリガニを長い間飼っていた事と、2005年には当時の台風で砂浜から川に流されていた浜蟹を我が家族が拾って来たのを飼っていたのを思い出した。
故に過去の思い出からこの子蟹を我が家で飼って、其の成長する様を見てみたいとも思ったが、人間の身勝手で子蟹を親蟹から引き離し、其の上自由を剥奪する事はするべきではないと思い、外へ放してやったのである。

又、此のブログにて公開している様に相変わらず山鳩の番にも毎日米を与えている。(「歴史と文化の中の鳩について」参照)

今ではすっかり懐いてくれて、余の目の前で米を食べてくれるのである。
よく観察すると動物でも鳥でも個々の性格があるもので、此の山鳩は今まで我が家に来ていた山鳩の中でも特に几帳面で、米を食べる時も先ず周りに散らかった米から食べ、そして真ん中に固まった米を食べるのである。
其の上、米を食べに来る時間もとても正確で、周りにも常に気を配っていて全く隙が無いのである。
又、外見でも嘴と足が平均以上に強靭で、可愛らしい中にもどことなく凛とした処があるのである。
これ等の特徴を踏まえて余は気付いたのである。
「此の雄の山鳩もしや昨年9月8日に我が家の駐車場の欅の木の上で生まれた鄙が舞い戻って来たのではないか!」
(迷信染みた馬鹿気た事を書く様だが)、西洋のAstrologie「星座占い」では「乙女座」の典型的な性格として几帳面、丁寧、完全主義、忠実、冷静沈着が挙げられるのだが、この山鳩の性格に全て当てはまるし、外見の特徴も鄙の頃と共通しているのである。
(※自他共に認めている事だが、余にもこれ等の「乙女座」の典型的な性格は全て該当する。)
しかも鳩は鳥類の中でも特に「帰巣本能」が強い事から推測しても、此の雄の山鳩はまず間違いなく、かつて我が家の駐車場の欅の木の上で生まれた鄙ではなかろうか。
そう思うと此の山鳩を毎日見る度に、自分の家族の一員の様に思えるのである。

当然の事だが、動物は助けてやったからと言って、御礼を言う事も出来ないし、「日本昔話」の様に恩返しをしに来るわけでもない。
余は元来そんな事はどうでも良く、「動物愛護」「自然保護」を提唱する者としての立場から、動物の難儀を見かけたら、必ず助ける様に心掛けているのである。
又、現代では人間の繁栄の為に余りにも多くの動物、其の他の自然環境までもが犠牲になっているのを知って、余は其の都度心痛の思いに駆られるのである。
故に今や「自然の敵」にまで成り下がった人間の中にも、余の如き者が存在する事に意義があるのではないかと感じている。
其れどころか是より将来は、此の様な考え方の出来る人間が増えて行かなければ、結果的に人類は動物や自然を蝕むのみならず、最終的には地球上の自分達の生活環境まで滅ぼす羽目に陥る事までが危惧されるのである。
人間で自分の利益しか考えない打算的で利己的な輩には、この様な無報酬、無所得の慈善行為は到底出来ないであろう。
そしてその様な輩は人間社会に於いても、たとえ一時的な支持や成功や利益を得たとしても、最後にこやつらに来るのは没落、敗北ないしは破滅であろう。

釈尊(お釈迦様)や伝教大師(最澄様)御教えに倣って言うなら、「自分の利益になる人のみに親切なのは誠の慈悲にあらず。誠の慈悲とは己の利益を度外視して(他者に)与えられる物也。」
又、仏教及び儒教の思想に「陰徳」と云うのがある。
其れはたとえ自分が善行や偉業を成し遂げても、其れを自慢したり、ひけらかしたりしない、所謂「謙譲の美徳」の一種である。
余自らがこの様な事を書き記すのだから、自分の芸術家としての業績や成功話を書いたり、この様に動物を助けた事を一般公開するのは矛盾しているのではないかと思われる御仁もいるであろう。
しかしながら、余は自分が正しいと確信している思想や行いに出来るだけ多くの人達が共感、賛同を得て、自らの人生の参考してくれれば良いと思って書き記しているのである。 
(とは言え余の美術及び文学作品が如何程、世の為人の為になっているかは正確に把握出来ないのだが・・・・・)

人間であろうと動物であろうと同じ地球上で生活している「生き物」である事には何の違いも無い。
それ故に人間は「利己主義」に奔走する事無く、人間同様に他の生き物の命や存在も慈しまなければならないのである!
そして我々人間が自然や他の動物達から多大な「恩恵」を受けている事、それでいて人間は其の文明維持の為に多くの自然や他の動物達を犠牲にしている事も決して忘れてはいけない。
余は思うに「人間を中心とした世の中」はもういい加減に終わりを告げるべきであると考える。
そうではなくて『地球を中心とした世の中』にするべきなのである!
それが本質的な『自然と人間の共存』なのである!

(当ブログの記事「動物愛護の為に」(其の壱)参照)


8月4日の追伸:
此の日我が家の最寄りの駅にて余が久方ぶりに乗る電車を待っていると、何とも珍しき事にプラットホームの際に赤手蟹が這っているではないか!
此の蟹は電車が来る寸前まで下の線路に落ちる際でうろついていたので、「此れは危うし!」と思い余は手で蟹を安全なプラットホームの後ろまで誘導してやった。
所詮、余一人如きでは全ての生き物を危険から救ってやる事等到底不可能だが、其れでも余は自分が見かけた危険や難儀に遭っている生き物は進んで助け出してやる様に心掛けているのである。

2015年6月26日の追伸:
夜中に調理場に行って見ると、壁にアシダカグモの雌が円盤状の繭を腹の下に抱えてじっとしていた。
余が近寄ってじっと見つめていても、アシダカグモは微動だにしなかった。
あくる朝もう一度見ると、約40匹程の子蜘蛛達がうまれて、繭の周りでじっとしていた。
此のアシダカグモは我が家にずっと昔から棲み付いているので、余は幼少の頃より慣れ親しんでいるので、彼らに危害を全く加える事無くそっとしておいてやるので、我が家のアシダカグモは其れが分かっているのだろうか、余を見ても全く逃げようともしない。
長年此の蜘蛛を見て来たが、調理場の壁で産卵するのを見るのは今回が初めてである!
ウェブサイトで調べて見た処、アシダカグモは家庭に生息する無毒の大型の蜘蛛で、ゴキブリ、ハエ等の害虫を捕食してくれる。
然も普通の蜘蛛の様に巣を張る事も無いので、衛生的にも問題は無い。
即ち言うなれば人間にとって「益虫」なのである。
ところが、其の容姿が余りに気味悪き故、人間(特に女性)に忌み嫌われるて、駆除される事もあるので損な役をしている。
余はそんなアシダカグモや其の他の蜘蛛の事を気の毒に思い、実家でもボロ別荘でも蜘蛛を見つけても、「益虫」としてそっとしておいてやるのである。

因みに此のアシダカグモは動き素早く、次々と害虫共を捕食する事から、一部の人達から(重宝して且つ面白半分に)「アシダカ軍曹」と呼ばれているらしい。
全くのこじ付けの様だが、余は個人的に蜘蛛の生態に「人間が成功する為の要素」を以下の通り見出したのである。

1. 蜘蛛は努力家である。: 

あの様に糸を一本ずつ紡いで巣を作る作業は、決して容易な事ではない。それどころか大変な手間暇がかかる。 人間も其の才能を開発して成功を獲得する為には、「努力」は必須条件である。

2.蜘蛛は忍耐強い。: 

巣を張り終わると、蜘蛛は辛抱強く獲物が掛かるまでじっと待っている。 人間も其の人生で大きな好機が来るのを辛抱強く待たねばならない。 そして物事を継続する為には「忍耐」が必要である。

3.蜘蛛は堅実である。: 

蜘蛛は自分の巣にカマキリやスズメバチ等の危険な虫が掛かった場合、近寄らずに其の周りの糸を切って、巣から外すのである。 諺の「君子危うきに近寄らず」の如く、人間も其の人生を破滅させない為には危うきを避けるべきである。

4.蜘蛛は人に有益である。: 

蜘蛛は様々な害虫共を捕食する事によって、人の為になっている。 人間も成功する為には、何よりも先ず世の為、人の為に有益な事をしなければならない。

5.蜘蛛を外見だけで判断するべからず。: 

蜘蛛は其の姿は成程気味悪いが、本来益虫なので簡単に忌み嫌って駆除してはならない。 人間も同じで外見、容姿だけで其の者の価値を判断すると、とんだ間違い、失敗をする事になる。 

大事なのは外見、容姿ではなく、「本質」である。
 
平安時代初期の歌人・書道家であった小野道風が極度の不振に陥って、雨の日散歩に出掛けた時、蛙が柳の枝に飛びつこうと何度も試みているのを見ていると、突然風が吹いて柳がしなり、蛙はそこへ飛び移る事が出来た。
此れを見た道風は「蛙ですら懸命に努力して目的を達成したのだから、自分も同じ様に努力をして行かなければならない。」と悟り、大変な努力をして行ったと言う有名な逸話と似ている。

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