夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

以前同じ内容で記事を書いたがアタッチメントについての新しい情報をえてあらためて書いておく。さきに書いた時は反発した人もあったので、手短に要点のみ書くことにする。

人が大人になって、自立して社会生活を軋轢なく送れるようになるには幼い時に心満たされた生活を送る必要がある。然るに統一原理にもとづく教育ではただ親の言うこと、メシアの言うことに素直に従う事のみが求められる。それはただ組織に忠実なロボットとしての人間性が求められるということ。そこには子供の心に配慮するという考えは微塵もない。勿論アタッチメントの重要さなど一顧だにない。


何度もブログで書いた事だが、親が幼い子供を家におきざりにしてみ旨に励んだ結果子供の言語能力が劣ってしまったという問題がかつて浮上したことがある。これなどアタッチメントの欠如そのものと言える。


また、マスコミがよく取り上げる二世が恋愛禁止されて悩んでいる例。恋愛禁止は親の言うことひいてはメシアの言うことに従順であるか否かのバロメーターだ。これに譲歩したら原理根幹が崩れる。まあ、組織としては何れ禁止措置は緩和するだろうけど。というのは教団にとって原理というのは絶対に守らなければならない真理ではないからだ。メシアに心を向けさせ組織の中心に忠誠を促す手段でしかない。都合によっていくらでも改変できる屁理屈だから。

神のひとり子ということばは聖書にもあるが神のひとり娘等と言う言葉は聞いたら事がない。独生女と言ったかな、そんな概念原理の何処にも存在しないが、原理を改ざんしてでも作り出す。このように教義にたいしてはご都合主義的解釈がいつでも可能な姿勢をもっているから、恋愛は親の事後承認でも構わないとか言うかも知れないし、ほかの妥協を図るかもしれない、兎に角組織に対する忠誠の形を残せばいいと譲歩するかも知れない。


話を元に戻す。アタッチメントの重要さを認識できない原理の教育姿勢からは子供に十分な教育はできない。

原理で子供は育たない。



朝の連続テレビ小説を見ていて、戦前の法律がいかに女性蔑視であったかがよくわかる。家庭において妻の立場は法的に無能力者と定められていたよし。

 

虎に翼第三回 

妻たる者は夫の許可なくして自由に行動できず。

財産の利用、負債、訴訟行為、贈与、相続、身体に羈絆を浮くべき契約(例、家庭外で働くこと)

これらは夫の許容範囲でしか行動できない。従って無能力者なのだという。

 

思い出すのは統一原理の次の一文。

『家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という』 

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間 (二) 被造物の成長期間 (3) 直接主管圏

 

『被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない』

(一) 無形実体世界と有形実体世界

 

心と体の関係は秘蔵世界すべての存在の基本となる関係だと原理は言っている。

 

『あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、我々は知るようになった。

 それでは、性相と形状とは、お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。・・・・・・・・・・・これに対する例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。』

(一) 神の二性性相

 

二性性相とは性相と形状および陽と陰、その関係は、『内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつ』

 

二性性相の代表例は常に心と体である。その関係はいろいろ言っているが直接表現すれば命令と服従の関係なのである。

 

夫と妻は二世性相の関係である。従ってその関係は命令と服従の関係でなのである。日頃妻が自由に行動していても、それは夫の暗黙の了解の上というのが前提である。よって、ひとたびことある時は無条件で夫に従わねばならない。このあたり、まさしく妻は無能力者という表現にぴったりである。

 

UCが時の政権にぴったり選挙を通じて寄り添おうとしているのは、創造原理と戦前の法律が酷似しているからである。よって保守にすりよっていく。家庭の夫婦の関係は為政者と国民の関係を象徴している。

 

原理は次のように言っている。

『天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることができる。人間において、その心の命令が中枢神経を通じて、その四肢五体に伝達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じ静ずるように、天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。』

 

 

特別支援学校の給食で起きた、窒息事故に関する裁判のニュースを見て思ったこと。

事故に遭った子は食事の際、口にいっぱいほおばる癖があり、給食の時間、誰かがついていて絶えず見守らなければならない状況だった。担任が数分間目を離した隙に窒息事故はおきた。二度と同じような事故が起きないようにと親は裁判を起こした。

 

このニュースの中で心に刺さった言葉があった。

この裁判に関して親に向けられたネットでの誹謗中傷の言葉だ。

「こういう事故が嫌なら学校に行かせないことですね」

「重度知的障害者を完璧に守らなきゃいけないの?」

「工場は不良品を出荷すると非難されるが

人間は同情を買おうとするうえに他人に押しつける」

などという心ない言葉がネットに投稿された。

 

障害者は他人に世話をかけることでやっかい者扱いされがちだが、障害者を排斥する社会は優しさにかける社会であってそれは息苦しい社会でしかなくなるだろうと思う。ただ、かく言う自分の心の中に障害者に嫌な思いをさせられた苦い経験がある。障害者の中には謙虚な人もいれば、権利を主張して世話されて当然だと親切を迫ってくる人もある。心で葛藤した事がある。

が、頭の中ではこう考えることにしている。障害者の姿は未来の自分の姿だと。最近まさにそれを老いの中に実感している。若い時にはできたことが老いてできないことが増えてきた。また入院を何度か経験したことも、思うように動かない我が身に歯がゆさを感じると同時に人様の世話にならなければならない自分を自覚させられたものだ。

 

食べ物をのどに詰まらせて窒息する老人はあまたいる。また誤嚥性肺炎で亡くなる老人も結構いる。それを防ぐには周りの人の注意が必要だ。老人に餅は要注意だし、寝た状態で水を飲めば気管支に入る恐れがある。周りの人の見守りが必要だ。つまり年取れば周りの人に世話をかけるようになる。だから老いる前、障害者を見たら明日は我が身と思い親切心をもって見つめることが望まれる。

 

それに、社会には一定数みんなと違う人がいて初めてあるべき社会となるものだ。決して障害者のいない世界を期待すべきでない。人は能力によって差別されるべきでない。他者への思いやりは未来の自分への応援になる。

また、世話される人は独りでも世話する人は独りはよくない、心の負担が強すぎる。複数で世話する体制が必要だ。みんなで世話すりゃ辛くない。

この記事5/3 一部加筆して日付訂正して公開

 

 

先日テレビのある予告編の感想を記事にしたが、その本放送を見て自分の考えが間違っていなかったことを確信した。

 

幼少期のアタッチメントの形成如何が大人になってからの人間関係に影響を与えるということを言っていたのだ。

 

放送画面から引用する。

「幼少期にどんなアタッチメントを築いたかによって、その後の人生における人との関わり方に違いが表れると科学的に証明されている」この科学的に証明されてるという箇所に感じ入ったのだ。

 

アタッチメントの説明について同じ番組の中でも、ある欲求だとか様々な言い方があるので、引用に迷うところなのだが、しっくり来た説明を掲げておく。「怖くて不安な時、感情が崩れたときに、特定の人にくっついて
もう大丈夫なんだ、安心感に浸ることそれをアタッチメント」

人はアタッチメントによって安心感に包まれると、その人から離れて自由に行動する。不安になるとまた親などの安心の基地としてのアタッチメント対象の元に帰る。安心するとまた自由行動に移る。それを探索というのだそうだ。人は探索と安心の基地に戻る、これを繰り返して次第に自立して行くようになる。人は生涯にわたって安心の基地としてのアタッチメントの対象は必要で、大人になればそのアタッチメント対象が友人、先生、同僚、恋人など様々な人に広がっていく。そしてアタッチメントは物理的な接触から精神的ふれあいへと変化する。

 

ここで自分の考えをまとめてみる。安心の基地が得られないと、そのいらだちは人への思いやりを欠く行動に出る。それがエゴとなり犯罪にもつながる。

これは原罪の考えの克服となる。原罪とは人は生まれながらに罪を 犯す傾向を持つという考えだが、それは間違いであることがハッキリした。幼少期どれだけ安心感の中で育ったか否かとしっかりワガママにならない しつけを受けたか否かで、他人を害する行為をするようになるかならないかが決まる。これ間違いないと思うのだ。つまり寂しさが諸悪の根源といえる。堕落論も堕落の動機としての愛の減少感を想定したまではよかったが、結論ありきの理論では真理にたどり着けなかったということだろう。

 

堕落論の代案として成長未熟論を提唱しておきたい。幼少期に十分な安心基地を得られなかったことが道徳的罪を犯しやすい傾向を持つようになり人間関係の軋轢を生む原因となったのであると。

 

堕落性本性などと言う概念は全くの荒唐無稽の妄想に過ぎなかったのだ。その本性が人類始祖の犯した原罪に由来するなどとするから、原罪の清算の必要性としてのメシアが存在することになったが、堕落性と称された人間の心の傾向が幼いころの安心感の濃淡によるものだとすれば、メシアなどという存在は無用の存在だし、もとより架空の妄想である原罪や堕落性本性故にその解決方法も妄想上の解決策だから、メシアによって祝福をうけようと堕落性はなくなるはずはないのである。妄想を妄想で解決しようとすれば得られる結果も妄想でしかないのである。

 

 

アタッチメント “生きづらさ”に悩むあなたへ - 

 

ずっと考えて来た事がある。それは入信して組織の中で信者と面接する事が多くなって思索してきた推論だったのだが、人の将来は幼児期にどう育ったかで決まるんじゃないかということ。組織の中で信者はアベルという、会社なら上司に当たる存在と面接する時は、心の中を素直に明らかにする。それは神の前に告白する心地であったからだ。入信間もない頃の人と信仰歴古くなって妄信深まった人は特にその傾向があった。

そうして吐露された赤裸々な人の悩みを沢山聞く中で、幼い頃どれだけ心満たされずに育つと長じて人との間に軋轢が生じるものなのかを知らされた。


ただその頃は統一原理をかたく信じていた頃だったから原理と矛盾するなどとは思うはずはなかった。しかし今、堕落論は間違いと結論づけた立場で考えると、人間関係の諸問題の根源は幼少期心満たされずに育った事に間違いなく起因すると結論にたどり着くことができたのだ。

それはある言葉に接したからだ。それは原罪という架空の概念に代わる科学的概念だ。


続きはまた。



今朝のNHKニュースでのサイカル研究室。日本で発明された世界最強のネオジム磁石について研究発表があった。

ネオジム磁石1グラムで3キログラムの鉄を引きつけ持ち上げることができる実験を見せていた。

その磁石を発明した科学者の弁、大学や大学院では磁石については全く学んだことはなく、会社に入ってテーマとして磁石が与えられたが誰も教えてくれる人はなかった。それ故自由に考え研究することができた。その結果、世界最強の磁石をつくることができたと。

 

注目したのは上からの指示や干渉がなくただテーマを与えられ、自由に研究することで成果をあげることができたという点だ。

まさにその通りだと思う。1から10まで干渉されるような独裁下では研究の成果はあがるまい。

統一原理に基づく独裁組織では何から何まで干渉されて自由がないから、どんな研究もいい成果はあがらないだろうと思われる。

統一原理の間違いの最たるものは独裁を美化し正当化している点にある。独裁という人権も自由もない世界には発展はない。

独裁の中に理想とか幸福とか夢を描いている人がいるとすれば、理解に苦しむところだ。

 

NHKニュース おはよう日本 太陽フレア影響 日本でも“オーロラ” - 総合 5/12(日) - NHKプラス

 

 

世界最強のネオジム磁石は日本人が発明し、いまやEVやスマートフォンなど現代社会を影で支える存在だ | NHK | WEB特集 | EV(電気自動車)

日頃から関心のあるテーマについての予告動画が放送されていた。本編は本日4日夜に放送らしいが、予告編を見て本編に対する関心が高まったので書いてみた。

Nスペ5min. アタッチメント“生きづらさ”に悩むあなたへ - NHKプラス

4/29(月) 午前6:48-午前6:53

 

これまで聞いてきた表現ではアタッチメントとは「愛着」と訳されていて、愛着の形成などという言い方がなされていた。今回NHKで放送された番組ではアタッチメントは「不安を和らげて安心したいという本能的欲求」という紹介だった。そして番組の中では、「幼少期に周囲の大人にどんな風に不安を和らげてもらったかがその人の人間関係の癖をつくる」とも語られていた。

 

さらに番組ではアタッチメントに関する実験をしていた。

よちよち歩きの幼児に心電計で不安やストレスを計測。父親と一緒の空間で一人遊びを始める。やがて密かに父親は部屋を出て行く。気づいた幼児は部屋の隅から泣きながら父親を追いかけてドアのところによちよちかけていく。心拍数は上がっている。開かないドアの前で激しく泣き始める。するとドアが開き父親が抱きかかえる。すぐ泣き止んだ幼児は下ろされるとまた再び一人遊びを始める。心電図は心拍数の下がったことを記録している。番組は「保護されているという安心感があるとき初めて人は外の世界に出て行ける」と説く、さらに人には「安心の基地」が必要だと結ぶ。

 

思うに幼少期における愛着の形成、これがあって初めて大人になって、よき人間関係が築ける。それがないと心の寂しさからいじめや人との不和という現象が起きる。

 

しかるにUCではこの愛着の形成という考えは全くない。あるのは将来メシアへの絶対的忠誠への訓練として、親のいうことを聞く習慣の形成、これしかUCには子供への教育はない。それは統一原理という教義に基づくものだから、その教義からはみ出した愛着の形成などという発想はでてきようがない。

できあがる価値観はメシアへの絶対的忠誠、人への思いやりは養われない。信者たちは日頃アベルカインの法則で縛られ、大善の前の小善は廃すべきとして教育されてきた。大善とはメシアへの忠誠、小善とは人への思いやり、憐憫の情。

統一原理が目指す世界は上意下達の命令と絶対服従で成り立つ世界、それを理想世界とあえていうのであれば、上に立つ者の理想世界であって下々の人間にとっては屈従と不自由の世界だ。しかし、下々の人間にその不幸な感覚を持たせないために、宗教として理論を位置づけ、これは神の意志であるとして感謝して服従できるように仕向けている。

 

ものごとは目的からその是非を判断すべきと思う。人は人を惹きつけるために耳障りのよい手段を主張する。しかしそれは手段であるから実現されるべき目的ではない。他人には見えない真の目的が達成された時には、その手段は実現されていないか、されていても崩壊する。

たとえば選挙に勝つためだけのスローガン、当選してしまえばそんなの言ったけ、となる。

前任者の汚職を糾弾して当選した首長がやがて汚職にまみれるのもそのたぐい。

人や団体が耳障りのよい素晴らし理想を説いても、その真の目的は何かを知らなければ善し悪しの判断はできない。

 

さて、今日放送の本編は下記の通り

 

NHKスペシャル アタッチメント “生きづらさ”に悩むあなたへ - NHKプラス

5/4(土) 午後10:00-午後10:50

 

 

 

 

 

 

く人と人が会話をするとき、言葉の意味を理解する事で会話が成立しているように見えるが、実は心と心で会話をしているというのが実際ではないかと思うことがある。しかも相手の次の発言を絶えず予測しながら会話は進むようにも思う。

だから言い間違えて発言しても相手には正しい言葉を発した如くちゃんと伝わることがある。


会話が成立しない人とは、心が通ってないことを意味する。互いの心が伝わらない。どんなに言葉を発しても空回り。

一方たった一言発したたけで万感の思いが伝わる事もある。

長い間疑問に思った事がある。言葉の意味がどのようにして幼子に伝わるのかということ。

物の名前は指指して発語すれば伝わるはず。机を指して「つくえ」と発音すれば、幼子はこれはつくえと言うんだと理解できるだろう。しかし、思いやりとか、明日とかはどのようにして理解するのだろうかと考えたものだ。

だが、幼子はたいていは人の会話の流れを聞く中で自然と悟っているように見える。心で心を理解していると言えるようなのだ。


これぞ乳幼児期のスキンシップの成せる技ではないかと思う。おんぶに抱っこ等で生じるオキシトシンという信頼のホルモンが心と心の理解を深めてくれるのではないかと思う。

人の心の読めない人は幼い時期のオキシトシンの不足ではないかと思っている。

なお、この記事の見解はある種の仮説なので念のため。

 

最近、プラネットアースIIIというTV番組を見た。その中で飼育野鳥を自然に戻すオーストリアでのプロジェクトを紹介していた。

その鳥は既に野生では400年前に絶滅しているオオアカトキという鳥だという。思った。絶滅しているものをどうやって飼育できると。すると動物園で飼っていたものを移して繁殖させるのだとナレーションはいう。なーんだ動物園にはいたのか、そういえば確かに野生ではと断っていた。

このプロジェクトで最も肝心なのは、生まれたばかりの雛に飼育員を親と認識させる作業なのだそうだ。

生まれたばかりの雛を親鳥から離し、飼育員二人が親鳥に代わって餌を与える。飼育員二人以外他の人間は一切姿を見せない。そうすると餌をくれて世話をしてくれる人間を雛たちは親と

錯覚するのだそうだ。

この飼育員を親と錯覚させることができるか否かがこの飼育鳥の野鳥化に成功するかどうかの鍵があるようだ。

繁殖に成功して数が増えてきたところで、飼育ゲージから出て野原で親なる飼育員と一緒に飛ぶ訓練をさせる。飼育員はパラシュートの付いたエンジンで推進する二人乗り簡易プロペラ機で、空を飛んでトキを導く。パイロットの後ろに座った飼育員は拡声器で親鳥の鳴き声を真似たりしながら若鳥達を誘導する。

何故それをするかと言うと、このトキは渡り鳥なのだそうだ。成長した若鳥はアルプスのやまなみを越えてイタリアで過ごし数年を経て繁殖期になるとアルプスを越えてオーストリアに来るという。

そういう渡り鳥の習性を習得させなければトキの野生化には成功できないということだ。

そして、アルプス越えの時が来た。親鳥の役割を担った二人の飼育員は二機のエンジンつきパラグライダーに分乗して若鳥達に声をかけながら3000メートル級のアルプスを越える旅にでる。番組では無事にイタリア中部の公園に辿り着いた。


すりこみを最初の教育と 捉えれば、人間においてもどんな教育を受けるかということは極めて重要だ。その意味で乳幼児教育は最も大事だが、社会に出て行く最初にどんな思想に触れるかはさらに重要だと思う。



 UC の教義はただ一つ、メシアの語ったあの一文に尽きる。信者は絶対服従せよと語った宣布文のことだ。それしかないのだ。従って信仰を続けるか続けないかの判断は、それを受け入れるかどうかで分かれる。

独裁を受け入れた方が心が安まるし、メリットがあるという人は甘んじて、或いは積極的に受け入れるのかもしれない。独裁には自由もないし人権も尊重されないと思う人は信仰は続けないだろう。個人においてはこれで解決。しかし社会的には、活動が及ぼす迷惑の度合い、社会が被る害悪の程度、抵触する法の有無。これらによって社会にとっていいのか悪いのかを判断して自身が信仰を続けるべきか否かを決める時が来るだろう。


まあ、それでも信仰というのは社会の評価がどうあろうと、法律がどうあろうと委細かまわないというところがある。


最後に判断すべき物差しは、信仰を続ける事が子孫に対してどうかではないかと思う。子孫がどうあろうとかまわないという場合は、・・・・・・・