夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

立てばタチカン、座ればトーカー、歩く姿はニンジン売り

ある人達の生き様を表現してみた。

 むろん、これはパロディ。もとの言葉は、やまとなでしこを花に例えた表現。


この中で忘れられないのは重たい商品を入れたバッグを肩に担いで戸別訪問をした人、その人の両親を家庭に訪問したことがあった。 年老いた父親が語った。娘は重たい荷物を毎日担いだことで片足が変形してしまっていると。それでも我々が訪問すると快く迎えてくれていた。心優しい父兄には他にも何人か出会った。


真剣に生きた人、それを 支えた人、願わくは終わりは佳き日であって欲しい。

独生女について、どんな理屈で正当化しようとしているのかを見てみようと思ったが、どうにも理解できない。私には独生女の理屈を理解する能力がないようだ。

普通、例え間違っていると思える理論でも、その理屈の筋道は理解出来るものだ。しかし独生女の理屈は、理論の筋道を辿ろうとしても筋が辿れない。なるほどそういう理屈か、とはならないのだ。


イエスは神のひとり子で再臨のメシアは文字通り再臨主だからひとり子になるという理屈は再臨主はイエスの生まれ代わりとすれば理屈は分かる。しかし独生女の説明は、どうして独生女となるのかの理屈自体が分からない。

独生女とは要するに神のひとり子という意味なのだろうと思うが、ひとり子は二人いてはひとり子にはならない。とすると独生女とはひとり子という意味ではないのかなと思ってしまう。まさかイエスはひとり子ではないという論理なのかな?


どうやらひとり子というのは、原理では無原罪の子をひとり子というようだ。従ってひとり子は複数可能となりそうだ。

『 真のお父様が語っておられるように、2000年前、ザカリヤを中心に聖母マリヤとエリサベツが一体化することによって、イエス様という無原罪のアダム、すなわち神の独り子(独生子)が誕生されました


ところで、原罪は淫行という不倫な性的関係を結ぶ事で生じた血統的な罪ということだった。不倫というのは霊的堕落では天使と人間という許されざる関係、肉的堕落ではアダムとエバは何れ夫婦となるべき間柄ではあったが、未完成という時が満たされない段階での夫婦関係を結んだということが咎となった。

何れにせよ霊的堕落も肉的堕落もつまり原罪は血統的な罪であった。


その血統的罪 のしがらみの中から無原罪の子を生むのに エリサベツとマリアの一体化で可能、つまり 心の一体化で出来るとは、血統的罪を精神的一体化で清算可能とは理解に苦しむ。

と、一旦判断してみた所で更に 深読みしてみる。

原理ではイエスはマリアとザカリアの間から生まれた。これをザカリアの妻エリサベツは黙認したということでエリサベツとマリアの一体化ができたことになってる。つまり 不倫の清算を不倫で行うという仰天屁理屈なのだ。

不倫を不倫でやり返して先の不倫を無かったことにする。これは復習の理論だ。

不倫の罪を不倫でやり返して償いとする。


とても理解できないへ理屈だ。

こういう屁理屈の上に成り立つ独生女とは。


まあ、信じるのは自由だけどね。





ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。

ルカによる福音書/ 01章 05節 


エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、

ルカによる福音書/ 01章 41節


マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。

ルカによる福音書/ 01章 56節 



NHKお別れホスピタル(2)から

癌と闘病し腹膜炎を患って病院に入院する

余命幾ばくもない夫を看病する老夫人の言葉を取り上げる。

夫は亭主関白、夫の気持を先に先にと探りながら夫の満足の為に長年世話してきた夫人。その夫、夫人が傍にいないと夫人の名を呼びながらベッドの上で暴れ まわることしょっちゅう。痛みに耐えかねて叫び暴れるのだが、夫人が世話すると直ぐに治まる

痛みを和らげてやりたいという家族特に娘の申し出で鎮静剤を処方することになった。それは意識が遠のいて行くものでそのまま息絶えることもあるという薬剤だった。

その話あいの中で夫人は夫との関係を語った。

「主人は命令ばっかりで、こっちのことを思いやるなんてことは全然ない。

そもそも、妻が別人格だなんていう感覚はないの。
自分が快適であることが妻の幸せだって本気で思ってる。バカみたい。
私はあの人の手足じゃないのに。」

はいて捨てるように語る夫人には悔しさがにじみ出ていた。

そして痛みに暴れる夫を鎮める為にくだんの薬剤が注入された。

夫人は夫の耳元で囁いた。

「これでもういいでしょ。」

そして更に小さくつぶやいた。
「早く逝ってください」

 ただひたすら夫の為に人生を捧げてきた老婦人は担当だった看護師に語った。

「『君じゃないとダメなんだって。』あの言葉は呪いだったのかも。52年間、愛してたんだか憎んでたんだか。わからない。」


ここで思い出すのが家庭完成という原理用語。



ハッキリさせておく。原理の言うところの幸せな家庭とは、妻が夫の言いなりになっている家庭のことで、家庭の幸せとは夫の幸せを意味し、妻は夫の喜ぶ姿を見て幸せに思えというものだ。妻独自に追求する幸せはない。

ここで大切なことは、原理用語は一般的な意味あいで解釈してはならないということだ。

個性完成

人格的に優れた人物になることでもなく、才能を確立することでもない。

ひたすら神(メシアやアベル)の命令に絶対服従できる基準に達すること。


家庭完成

笑いの絶えない、和気あいあいとした幸せな家庭を意味しない。

夫人や子供が夫(或いは父)の命令に絶対服従する家庭


原理でいう人間の幸せとはアベルの幸せであってカインの立場の幸せは考慮されてない。


命令と服従で成り立つ世界が原理の説く理想世界なのだ。つまりアベルにとっての理想世界なのだ。

家庭では亭主関白の家庭

会社ではワンマン社長のいる会社

カインは顧みられることのない社会



 


統一教会は、かつて人格完成を掲げて心情の世界実現を目指したことがある。その理想世界は正に心のただ中に築くものだった。それは西川先生が原理を曲解して描いた理想の姿だった。

今解散命令を受けて体質を変えなければ新たな教団は作れない状況下にあって、今こそ初期の教会時代に帰る時ではないかと思う。


まず変革すべきは、解散命令を受けた教会体質との決別。

第一に、韓国からの指示命令からの決別

次いで、個性完成ではなく人格完成を人生の目的とする。

そして、堕落論を廃すること。堕落論は信者に負債感を与えて上層部の思いのままに操る為に作られた妄想論だから無用の長物。

それから、統一運動は実体基台実現のための方便活動であって人々が願う理想世界実現の為ではないので関わらない。

さらに人格完成を実現する為に幼児教育に力を注ぐこと。

統一思想では、人間関係は上下、前後、左右の関係があり、それらを円滑に結ぶことが重要というようなことが書いてあったように記憶している。

人格完成して理想世界を造ろうという教会初期のスローガンに戻ることを提唱する。


 某国本部との決別

個性完成から人格完成へ

堕落論の廃止

統一運動からの離脱

幼児教育の充実


そして信者団体として新たな任意団体を造る。西川先生の誤解からはじまった理想世界への憧れを再び取り戻す。

私は講壇上の西川先生しか知らないが、初期の時代を共に生きた人はまだいるはずだから、そういう人に聞けばイメージは湧くだろうと思う。













教会に解散命令が出されて遂に法人格が剥奪された。新しい任意団体を創るようだが、看板だけ新しいものを作っても中身が旧態依然のものだったら、結局は同じ道を辿るしかないだろうと思う。

改革して出直すという雰囲気は出せても、改革は無理。何故なら、解散命令となった一番の元凶は、某国本部からの高額な献金要請にあった。その期待に応える為に無理な献金を末端に強いらなければならなかった。つまり改革してその実を挙げる為には、某国本部からの高額な献金要請を断る姿勢を確立しなければならない。しかしそれは無理だ。理由はその教義にある。その教義とは、『絶対服従せよ』である。

絶対服従は統一原理の目指す理想世界を実現する為には必要不可欠な掟となっている。原理の目指す理想世界は一般の人が描く理想世界とは全くことなる。原理の目指す理想世界は神の命令が世界の隅々に行き渡る世界なのだ。その世界を築くためには絶対服従は必要不可欠な条件なのだ。


独裁が如何に世の中を悲惨に陥れるか、ロシアと米国の他国への武力侵略を見れば明らかだ。独裁の行き着く先は力による統治だ。









真の父母様宣布文にあるように統一原理の絶対律は『絶対服従せよ』である。

この掟に統一原理の間違いが凝縮している。つまり統一原理の間違いを一言で言い表すと『絶対服従せよ』という教えが間違っているのだ。





統治の方法として四つくらいが今頭に浮かぶ。

一つは力による統治、武力とか権力とか。

一つは決まり 事による統治、掟とか教えとか法律とか言い伝えとか。

もう一つは財力による統治、これは豊かさをもたらす統治と言えなくもないが金で我を通す統治。さらに心情による統治。この中で一番強い統治は心情による統治だと思う。金にもなびかない、力にも屈しない、掟にも動じない。死をも恐れない。そこには強い心情に結ばれた絆がある。今まさに恋してるという人を思い浮かべればいい。経験したことから言えば、そういう人は信仰に篤かった人であってもテコでも動かない。まあ、堕落論を出すまでもなかろうが。当然説得も無理。しかし心情による絆は恋だけではない。恩義もあれば思い出もある。心情に勝るものは心情しかない。

しかし、その心情による統治も永遠は保証されない。永続の為には条件がある。《伝》が上手くいくということ。

伝承、相続、受け継ぎ、相伝 等で表される人から人へ、個から個へ、個から全体へ、この伝わりが円滑にいくかどうかで永続するか否かが決まる。

かつて西川先生が掲げた心情の世界実現は、この心情による統治を憧れさせるものだった。現実は誤解に基づくものだったから破綻がきたが。


心情による統治が出来る為には、まず心情の絆が形成されること、そしてさきに言った伝えが上手くいくこと。この二つ。

その条件を満たすのが幼少期の保育だと思っている。


金と武力があれば取引でどんな相手も思うがままに操れると思っている人間がいる。しかしそれが正に自己の破滅をもたらすものだったと実感する日を迎えようとしている。

別の大国の指導者は武力と粛清で我が意は叶うと思い込んでいる。やがて国が弱体化し世界から見捨てられるのは目に見えている。が、おそらくそんなことはお構いなしに残り少ない自己の命を自覚して今が続けば良いと思っているんではないかな。

これから漁夫の利を得るのは数千年の歴史を持つ国だろう。


国家の今は歴史がもの言う。戦争で国を大きくしてきた国はどこまでも戦争にこだわる。歴史的に 自己中な大国はいつまで経っても自己中な外交をする。国民性がそうだからなかなか変わらないだろう。

常々百年先を見ていると言われた国はしたたかだ。


いずれにせよ今の世界には希望が無い。

ところが日本は希望のない世界に自分達も伍していかねばと焦っているきらいがある。

日本には歴史的に築かれた国民性がある、それを大事にしなきゃ。

基本は幼児保育の充実から。

 為に生きると聞くと、隣人の為とか社会の為とかが想起されるが、果たして教会は隣人や社会の為に活動してきたと言えるだろうか。数々の不法行為と認定された経済活動、挙げ句の果てにはそれを理由に解散命令まで出されてしまった。これじゃとても世に有益な宗教団体だとは言えない。


ただ、一般の人の中には勝共活動という世に有益な活動をしていると評価する人もいる。さらに有益な勝共活動の故に霊感商法は必要悪だとまでいう人もいた。実際、以前、地方の警察の警備課の人がそう言ったのを覚えている。霊感商法は負の活動だが勝共活動はそれを上回る良い活動と言うわけだ。果たしてそうだろうか?


勝共活動は反共の思想を持つ国会議員に取り入り国政選挙の応援を専らとしてきた。その目的はメシアを受け入れさせメシアの証し人、言いかえればメシアの広告塔となってもらうことにある。決して世界から共産主義を無くすところにはない。つまり共産主義はメシアが王の王として認めてもらうまでは存続してもらわなくては困るものであったのだ。

教授アカデミーの教授達もそうだ。 統一運動全般も同様だ。学術的な会合とか名目上の目的はそれぞれにあるが、それらは 一つの目的を果たす為の手段に過ぎない。その目的はメシアの証し人の獲得にある。

原理用語で解説すれば、実体基台を造成してメシアの為の基台を完成するところに勝共活動などの統一運動の目的はある。


統一運動に社会的意義を感じている人もあるが、もう一度言うが、統一運動は目的ではなく手段なのだ。社会的意義はないのだ。メシア的意義しかないのだ。






 
思えば人格完成して理想世界が来ると信じて入信したが、実はそれ、西川先生の間違った原理解釈から始まったもので、本当はメシアによる独裁国家樹立が理想世界の内容だった。人格完成という概念は原理には存在しなかったのだ。原理にある個性完成は神の命令に絶対服従する基準であり、それはメシアに絶対服従と同義語であった。人格完成とは似ても似つかぬものだったのだ。
 
入信した当初、昼は戸別訪問で廃品回収したり花売りをしたりして活動費を稼ぎ、夕方から街頭に立って「統一原理による心情の世界実現」という旗を片手に持って演説したり、或いは道行く人に声かけてアンケートを求めながら伝道したものだ。夜は夕方アンケートに応じてくれた人を住まいに訪問して伝道し、教会に帰って来ては、訪問の成果を報告し合い、また神の前に自分の心をただして反省しあった。その頃は、間違いなく、人格完成者が集う理想世界は来ると信じていた。
 
しかしやがて壺を売るようになり、会場を設けて人を誘い込み、トークと称する、物を売り込むマニュアルができてきた頃から違和感を持つようになった。所謂霊感商法の始まりだ。
違和感は何処から始まったか。それは夜の反省会が神の前に心情をただすという宗教的行為から、経済実績の詰めのみに変わってきたところからだ。
それに霊感商法のトークが原理的におかしいと思えたからでもある。金銭を教会側に捧げることによって先祖が救われるという理屈が原理と違うと思ったからだ。先祖は再臨協助によって救われる、それが原理の主張する所だ。救いは地上人が救われた時、先祖は協助した結果の功績として共に救われる。つまり地上人が原罪を購われた時、協助した先祖も同時に救われる。
それが、お金を捧げれば悪い因縁から逃れられ、そしてそれが救いと説くのは明らかに救いの原理から逸脱している。先祖の祟りから逃れたり悪い因縁を断ち切るとか、それは救いとは言えないし、金を差し出せばその因縁から逃れられるという原理はない。
統一原理は救いについて何といっているか。
 
『神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二六・18)、それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)、救いの摂理をなしていかなければならないのである。病気にかかった人間を救うということは、病気になる以前の状態に復帰するということを意味するし、水に溺れた人を救うということは、すなわち、水に溺れる以前の立場にまで復帰するという意味なのである。罪に陥った者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復帰させるという意味でなくて何であろうかそれゆえに、神の救いの摂理は、すなわち復帰摂理となるのである』
 
第三章 人類歴史の終末論  第二節 救いの摂理  (一)救いの摂理はすなわち復帰摂理である
 
緒論にはこう書いてある。
『堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。』
 
長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生する
とはメシアによる祝福を指している。
 
つまり救いとはメシアによる祝福を受けることであり、救いの完成とはメシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することなのである。
 
死んでいった先祖達は罪を持ったまま救いを求めている。その救いは再臨協助によってのみなされる。
復活論にはこう書いてある。
『ここで善霊というのは、悪の性質よりも善の性質を少しでも多くもっている霊人たちをいうのである。このような善なる霊人たちは、地上の善人たちに再臨して、彼らをして神の復帰摂理の目的を成就せしめるように協助することによって、ついに彼らと同一の恵沢を受けるようになるのである。』
第五章 復活論  第二節 復活摂理  (三)霊人に対する復活摂理  (3) 楽園以外の霊人たちの再臨復活
 
救いの摂理は復帰摂理ということは前述の通り、復帰摂理は要するに祝福を受けてその後の成長期間を全うすることによって成就する。霊人が地上の人に再臨協助して地上人が祝福を受けて成長期間を全うすれば、霊人もまた協助の功績を認められて地上人と同じく救いの恵みにあずかることができると言っているのである。
 
つまり、多額の献金をすることで先祖の恨みが解消するとか、祟りがなくなるとか、、そういうことは救いの摂理とは直接関係がないのである。
 
霊感商法とは人々を救う為の摂理ではなく、ただただ金を集める為になされた経済行為である。
 
何故金が必要だったか。それはまた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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絶対命令を信じる心の奥底には、メシアや上層部のなされることに間違いはないという思いがあると思う。それは神様が間違えるはずは無いという信仰そのものだ。しかし神が自分のした事を後悔していることがいくつもあることを忘れてはならない。

原理講義でも聴いたし、聖書にも書いてある。 


教会は統一原理を教義としてはいない、あくまで教理解説書という位置づけだ。では教理は何か、聖書だとしている。故に聖書からの引用文が統一原理にはやたらと目立つのである。その聖書に、神が後悔したという記述は洪水審判を始めいくつもある。


 

『創世記六章13節に、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」と言われたとおり、洪水審判をされたのを見ると・・・・』

 第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理

この後、神は洪水審判を悔いたという記述が聖書にある。

 

創世記/ 08章 21節

主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

 

 そしてこれ以外にも、神は何度も後悔の言葉を残している。

 

 『神は堕落した人間を見て嘆息された(創六・6)。また、不信仰に陥ったサウル王を見て、サウルを王として選んだことを後悔された(サムエル上一五・11)。』  第一節 み旨に対する予定

 

創世記/ 06章 06節

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、

 

サムエル記上/ 15章 11節

「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。

 

サムエル記上/ 15章 35節

サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた

 
神は誤ることもあれば後悔することもある。まして人間メシアも間違える。むろん教会上層部も間違える。
 
そして教会は誤った。それは末端の事情を考慮しない命令を出しすぎたことだ。生活がままならなくなるほど献金をさせすぎたことだ。他人への配慮がなさ過ぎた。

しかし、その誤りは統一原理からすれば必然の結果だったと言えるだろう。主体は命令を発しそれを対象が絶対服従で受け止めるという教えだからだ。つまり主体と対象の関係を命令と服従と定めた教義が間違いだったのだ。
独裁を是とする思想はこの間違った関係性の定義から始まった。
 
ここで予定論とのかねあいをみてみる。
 
予定論は、神のみ旨に対する予定は絶対だが、み旨成就に対する予定は相対的で、人間が責任分担を果たした時においてのみ成就するというものだ。
 
これは神の戦略は間違いないが戦術は間違えることもあると言うのと同じだ。神は人を選ぶとき、時として間違えたことがあり、その間違った選任を悔いたとの言葉が聖書にある。前述のとおりだ。
つまり予定論の、み旨成就に対する予定は相対的だという見解は、とりもなおさず神は人の選定において選び間違いをすることが 多々あると明言したと同じだ。
 
つまり神は間違える。メシアも間違える。人の選びも戦術も間違える。絶対正しいから従わねばならないと思う勿れ。

絶対服従を教会の絶体律としたことの弊害は、上が間違ったことを諫める正当性がなくなることだ。間違いを上申する方法がない。信者には命令を聞くか離教するかの二者択一の選択しかない。そして末端を顧みない姿勢が途中で修正される事なく組織の隅々まで蔓延する。
その結果家庭を崩壊させてでも献金させることになった。それが不法行為と認定されることにつながった。

故に解散命令は迫害ではない。自業自得なのだ。迫害とは正しいことをしているのに理不尽な仕打ちにあうことだ。




 
 
 
 

 

統一教会の教義はただ一つ、メシア、或いはメシアの代理としてのアベルの命令に従え、これだけである。それはメシア自身が語った、真の父母様宣布文に書いてあるとおりである。


真の父母様宣布文

 

【 全世界の統一教、霊界、地上界、祝福家庭食口、特にUCI指揮下にいるすべての食口たちに次の事項を指示する!

 まず、全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。】

 引用 真の父母様宣布文実行委員会



教会に通っても人間関係が良くなる為の知恵等を授かることはない。人間関係で指導されるのは「アベルを通したか」、「アベルに報告したか」ということだけであって他の指導はない。夫婦関係の悩みを相談しても「夫に従え」で終わりだ。


伝道に出かけたとしても、相手の経済事情を聞き出すことには長けていても、人間関係の悩みに解決の知恵を授けることはできない。伝道とは霊感商法以降、献金を促すか中心(アベル)に繋げることでしかなかったから。


また信仰生活で人格が磨かれることはない。昔、「信仰と生活」という本が光言社から出ていた。第4集まであった。それには李ヨハネ先生等により、神を中心とした信仰生活のあり方が語られていた。しかし、その本をもとにして集会があったとか指導があったとかは聞いたことがない。あっても極めて稀なケースだ。


つまり教会では献金を生み出す指導や経済活動のノウハウはあっても、一般的な信仰生活の指導はないのである。信仰生活の指導とは「アベルに忠実であれ、献金の額を上げろ」でしかないのだ。


信者とは、要するに経済活動しかできない人達なのだ。これから清算人の監督下で、経済活動をするにしても、今までのように専らという訳には行かないだろう。そこで慌てて、いわゆる信仰生活とは何ぞやと勉強するとしても教義の矛盾に当たって行き詰まるだけだ。


信者とは経済活動の要員であり、

伝道とは経済活動の仲間を増やすこと、


今更まともな信仰生活を送りましようと言われても右往左往するだけ、そして目覚めた人から離れて行くだろう。


これ、反論しようとする人はいるかも知れない。いればその人は教会の中でも異端扱いされてきた人だと思うが、ご忠告する。

統一原理は間違っていると。