我が意を得たりの放送だった。〈さきの記事の続き〉祝福受けても堕落性がなくならない理由判明 | 夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

先日テレビのある予告編の感想を記事にしたが、その本放送を見て自分の考えが間違っていなかったことを確信した。

 

幼少期のアタッチメントの形成如何が大人になってからの人間関係に影響を与えるということを言っていたのだ。

 

放送画面から引用する。

「幼少期にどんなアタッチメントを築いたかによって、その後の人生における人との関わり方に違いが表れると科学的に証明されている」この科学的に証明されてるという箇所に感じ入ったのだ。

 

アタッチメントの説明について同じ番組の中でも、ある欲求だとか様々な言い方があるので、引用に迷うところなのだが、しっくり来た説明を掲げておく。「怖くて不安な時、感情が崩れたときに、特定の人にくっついて
もう大丈夫なんだ、安心感に浸ることそれをアタッチメント」

人はアタッチメントによって安心感に包まれると、その人から離れて自由に行動する。不安になるとまた親などの安心の基地としてのアタッチメント対象の元に帰る。安心するとまた自由行動に移る。それを探索というのだそうだ。人は探索と安心の基地に戻る、これを繰り返して次第に自立して行くようになる。人は生涯にわたって安心の基地としてのアタッチメントの対象は必要で、大人になればそのアタッチメント対象が友人、先生、同僚、恋人など様々な人に広がっていく。そしてアタッチメントは物理的な接触から精神的ふれあいへと変化する。

 

ここで自分の考えをまとめてみる。安心の基地が得られないと、そのいらだちは人への思いやりを欠く行動に出る。それがエゴとなり犯罪にもつながる。

これは原罪の考えの克服となる。原罪とは人は生まれながらに罪を 犯す傾向を持つという考えだが、それは間違いであることがハッキリした。幼少期どれだけ安心感の中で育ったか否かとしっかりワガママにならない しつけを受けたか否かで、他人を害する行為をするようになるかならないかが決まる。これ間違いないと思うのだ。つまり寂しさが諸悪の根源といえる。堕落論も堕落の動機としての愛の減少感を想定したまではよかったが、結論ありきの理論では真理にたどり着けなかったということだろう。

 

堕落論の代案として成長未熟論を提唱しておきたい。幼少期に十分な安心基地を得られなかったことが道徳的罪を犯しやすい傾向を持つようになり人間関係の軋轢を生む原因となったのであると。

 

堕落性本性などと言う概念は全くの荒唐無稽の妄想に過ぎなかったのだ。その本性が人類始祖の犯した原罪に由来するなどとするから、原罪の清算の必要性としてのメシアが存在することになったが、堕落性と称された人間の心の傾向が幼いころの安心感の濃淡によるものだとすれば、メシアなどという存在は無用の存在だし、もとより架空の妄想である原罪や堕落性本性故にその解決方法も妄想上の解決策だから、メシアによって祝福をうけようと堕落性はなくなるはずはないのである。妄想を妄想で解決しようとすれば得られる結果も妄想でしかないのである。

 

 

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