夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

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絶対服従

西川教

人格完成

個性完成

総序

実体基台

幸福観

不倫

堕落

堕落性本性

救い

祝福

喜び

独裁

信教の自由

霊感商法

意義  等々


尚、記事の古いものと新しいものとでは多少の考え方の違いが出て来るかも知れませんが、遺言書と同じく新しいものを当ブログの考えとします。







統治の方法として四つくらいが今頭に浮かぶ。

一つは力による統治、武力とか権力とか。

一つは決まり 事による統治、掟とか教えとか法律とか言い伝えとか。

もう一つは財力による統治、これは豊かさをもたらす統治と言えなくもないが金で我を通す統治。さらに心情による統治。この中で一番強い統治は心情による統治だと思う。金にもなびかない、力にも屈しない、掟にも動じない。死をも恐れない。そこには強い心情に結ばれた絆がある。今まさに恋してるという人を思い浮かべればいい。経験したことから言えば、そういう人は信仰に篤かった人であってもテコでも動かない。まあ、堕落論を出すまでもなかろうが。当然説得も無理。しかし心情による絆は恋だけではない。恩義もあれば思い出もある。心情に勝るものは心情しかない。

しかし、その心情による統治も永遠は保証されない。永続の為には条件がある。《伝》が上手くいくということ。

伝承、相続、受け継ぎ、相伝 等で表される人から人へ、個から個へ、個から全体へ、この伝わりが円滑にいくかどうかで永続するか否かが決まる。

かつて西川先生が掲げた心情の世界実現は、この心情による統治を憧れさせるものだった。現実は誤解に基づくものだったから破綻がきたが。


心情による統治が出来る為には、まず心情の絆が形成されること、そしてさきに言った伝えが上手くいくこと。この二つ。

その条件を満たすのが幼少期の保育だと思っている。


金と武力があれば取引でどんな相手も思うがままに操れると思っている人間がいる。しかしそれが正に自己の破滅をもたらすものだったと実感する日を迎えようとしている。

別の大国の指導者は武力と粛清で我が意は叶うと思い込んでいる。やがて国が弱体化し世界から見捨てられるのは目に見えている。が、おそらくそんなことはお構いなしに残り少ない自己の命を自覚して今が続けば良いと思っているんではないかな。

これから漁夫の利を得るのは数千年の歴史を持つ国だろう。


国家の今は歴史がもの言う。戦争で国を大きくしてきた国はどこまでも戦争にこだわる。歴史的に 自己中な大国はいつまで経っても自己中な外交をする。国民性がそうだからなかなか変わらないだろう。

常々百年先を見ていると言われた国はしたたかだ。


いずれにせよ今の世界には希望が無い。

ところが日本は希望のない世界に自分達も伍していかねばと焦っているきらいがある。

日本には歴史的に築かれた国民性がある、それを大事にしなきゃ。

基本は幼児保育の充実から。

 為に生きると聞くと、隣人の為とか社会の為とかが想起されるが、果たして教会は隣人や社会の為に活動してきたと言えるだろうか。数々の不法行為と認定された経済活動、挙げ句の果てにはそれを理由に解散命令まで出されてしまった。これじゃとても世に有益な宗教団体だとは言えない。


ただ、一般の人の中には勝共活動という世に有益な活動をしていると評価する人もいる。さらに有益な勝共活動の故に霊感商法は必要悪だとまでいう人もいた。実際、以前、地方の警察の警備課の人がそう言ったのを覚えている。霊感商法は負の活動だが勝共活動はそれを上回る良い活動と言うわけだ。果たしてそうだろうか?


勝共活動は反共の思想を持つ国会議員に取り入り国政選挙の応援を専らとしてきた。その目的はメシアを受け入れさせメシアの証し人、言いかえればメシアの広告塔となってもらうことにある。決して世界から共産主義を無くすところにはない。つまり共産主義はメシアが王の王として認めてもらうまでは存続してもらわなくては困るものであったのだ。

教授アカデミーの教授達もそうだ。 統一運動全般も同様だ。学術的な会合とか名目上の目的はそれぞれにあるが、それらは 一つの目的を果たす為の手段に過ぎない。その目的はメシアの証し人の獲得にある。

原理用語で解説すれば、実体基台を造成してメシアの為の基台を完成するところに勝共活動などの統一運動の目的はある。


統一運動に社会的意義を感じている人もあるが、もう一度言うが、統一運動は目的ではなく手段なのだ。社会的意義はないのだ。メシア的意義しかないのだ。






 
思えば人格完成して理想世界が来ると信じて入信したが、実はそれ、西川先生の間違った原理解釈から始まったもので、本当はメシアによる独裁国家樹立が理想世界の内容だった。人格完成という概念は原理には存在しなかったのだ。原理にある個性完成は神の命令に絶対服従する基準であり、それはメシアに絶対服従と同義語であった。人格完成とは似ても似つかぬものだったのだ。
 
入信した当初、昼は戸別訪問で廃品回収したり花売りをしたりして活動費を稼ぎ、夕方から街頭に立って「統一原理による心情の世界実現」という旗を片手に持って演説したり、或いは道行く人に声かけてアンケートを求めながら伝道したものだ。夜は夕方アンケートに応じてくれた人を住まいに訪問して伝道し、教会に帰って来ては、訪問の成果を報告し合い、また神の前に自分の心をただして反省しあった。その頃は、間違いなく、人格完成者が集う理想世界は来ると信じていた。
 
しかしやがて壺を売るようになり、会場を設けて人を誘い込み、トークと称する、物を売り込むマニュアルができてきた頃から違和感を持つようになった。所謂霊感商法の始まりだ。
違和感は何処から始まったか。それは夜の反省会が神の前に心情をただすという宗教的行為から、経済実績の詰めのみに変わってきたところからだ。
それに霊感商法のトークが原理的におかしいと思えたからでもある。金銭を教会側に捧げることによって先祖が救われるという理屈が原理と違うと思ったからだ。先祖は再臨協助によって救われる、それが原理の主張する所だ。救いは地上人が救われた時、先祖は協助した結果の功績として共に救われる。つまり地上人が原罪を購われた時、協助した先祖も同時に救われる。
それが、お金を捧げれば悪い因縁から逃れられ、そしてそれが救いと説くのは明らかに救いの原理から逸脱している。先祖の祟りから逃れたり悪い因縁を断ち切るとか、それは救いとは言えないし、金を差し出せばその因縁から逃れられるという原理はない。
統一原理は救いについて何といっているか。
 
『神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二六・18)、それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)、救いの摂理をなしていかなければならないのである。病気にかかった人間を救うということは、病気になる以前の状態に復帰するということを意味するし、水に溺れた人を救うということは、すなわち、水に溺れる以前の立場にまで復帰するという意味なのである。罪に陥った者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復帰させるという意味でなくて何であろうかそれゆえに、神の救いの摂理は、すなわち復帰摂理となるのである』
 
第三章 人類歴史の終末論  第二節 救いの摂理  (一)救いの摂理はすなわち復帰摂理である
 
緒論にはこう書いてある。
『堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。』
 
長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生する
とはメシアによる祝福を指している。
 
つまり救いとはメシアによる祝福を受けることであり、救いの完成とはメシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することなのである。
 
死んでいった先祖達は罪を持ったまま救いを求めている。その救いは再臨協助によってのみなされる。
復活論にはこう書いてある。
『ここで善霊というのは、悪の性質よりも善の性質を少しでも多くもっている霊人たちをいうのである。このような善なる霊人たちは、地上の善人たちに再臨して、彼らをして神の復帰摂理の目的を成就せしめるように協助することによって、ついに彼らと同一の恵沢を受けるようになるのである。』
第五章 復活論  第二節 復活摂理  (三)霊人に対する復活摂理  (3) 楽園以外の霊人たちの再臨復活
 
救いの摂理は復帰摂理ということは前述の通り、復帰摂理は要するに祝福を受けてその後の成長期間を全うすることによって成就する。霊人が地上の人に再臨協助して地上人が祝福を受けて成長期間を全うすれば、霊人もまた協助の功績を認められて地上人と同じく救いの恵みにあずかることができると言っているのである。
 
つまり、多額の献金をすることで先祖の恨みが解消するとか、祟りがなくなるとか、、そういうことは救いの摂理とは直接関係がないのである。
 
霊感商法とは人々を救う為の摂理ではなく、ただただ金を集める為になされた経済行為である。
 
何故金が必要だったか。それはまた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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絶対命令を信じる心の奥底には、メシアや上層部のなされることに間違いはないという思いがあると思う。それは神様が間違えるはずは無いという信仰そのものだ。しかし神が自分のした事を後悔していることがいくつもあることを忘れてはならない。

原理講義でも聴いたし、聖書にも書いてある。 


教会は統一原理を教義としてはいない、あくまで教理解説書という位置づけだ。では教理は何か、聖書だとしている。故に聖書からの引用文が統一原理にはやたらと目立つのである。その聖書に、神が後悔したという記述は洪水審判を始めいくつもある。


 

『創世記六章13節に、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」と言われたとおり、洪水審判をされたのを見ると・・・・』

 第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理

この後、神は洪水審判を悔いたという記述が聖書にある。

 

創世記/ 08章 21節

主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

 

 そしてこれ以外にも、神は何度も後悔の言葉を残している。

 

 『神は堕落した人間を見て嘆息された(創六・6)。また、不信仰に陥ったサウル王を見て、サウルを王として選んだことを後悔された(サムエル上一五・11)。』  第一節 み旨に対する予定

 

創世記/ 06章 06節

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、

 

サムエル記上/ 15章 11節

「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。

 

サムエル記上/ 15章 35節

サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた

 
神は誤ることもあれば後悔することもある。まして人間メシアも間違える。むろん教会上層部も間違える。
 
そして教会は誤った。それは末端の事情を考慮しない命令を出しすぎたことだ。生活がままならなくなるほど献金をさせすぎたことだ。他人への配慮がなさ過ぎた。

しかし、その誤りは統一原理からすれば必然の結果だったと言えるだろう。主体は命令を発しそれを対象が絶対服従で受け止めるという教えだからだ。つまり主体と対象の関係を命令と服従と定めた教義が間違いだったのだ。
独裁を是とする思想はこの間違った関係性の定義から始まった。
 
ここで予定論とのかねあいをみてみる。
 
予定論は、神のみ旨に対する予定は絶対だが、み旨成就に対する予定は相対的で、人間が責任分担を果たした時においてのみ成就するというものだ。
 
これは神の戦略は間違いないが戦術は間違えることもあると言うのと同じだ。神は人を選ぶとき、時として間違えたことがあり、その間違った選任を悔いたとの言葉が聖書にある。前述のとおりだ。
つまり予定論の、み旨成就に対する予定は相対的だという見解は、とりもなおさず神は人の選定において選び間違いをすることが 多々あると明言したと同じだ。
 
つまり神は間違える。メシアも間違える。人の選びも戦術も間違える。絶対正しいから従わねばならないと思う勿れ。

絶対服従を教会の絶体律としたことの弊害は、上が間違ったことを諫める正当性がなくなることだ。間違いを上申する方法がない。信者には命令を聞くか離教するかの二者択一の選択しかない。そして末端を顧みない姿勢が途中で修正される事なく組織の隅々まで蔓延する。
その結果家庭を崩壊させてでも献金させることになった。それが不法行為と認定されることにつながった。

故に解散命令は迫害ではない。自業自得なのだ。迫害とは正しいことをしているのに理不尽な仕打ちにあうことだ。




 
 
 
 

 
不法行為を認めた判決の数々について、教会は信者が勝手にしたこととして教会自体の責任とは認めていない。その主張が無理筋だと言うことは信者がよく知っている。上意下達の命令組織であることを1番知っているのが信者だからだ。
献金に関わる全ての不祥事の原因は韓国本部からの献金要請から始まる。その額が多額であることから献金目標は高額なものにならざるを得ない。一般の会社でおきる不祥事も大概は過度の売り上げ目標を掲げたところから始まることが多い。通常の営業努力では達成できない状況に追い込まれた末端の社員は、法律すれすれの営業活動をする羽目になる。それでも目標が達成できないと悟ると一線を越えてしまう。
それが教会でも起きた。まず資産家をリストアップし、その資産家に先祖の因縁を説き献金するよう説き伏せる。いわゆる霊感商法が始まった。そして、その資産家が持ってる財産全てを出させる所まで詰める。
その結果不法行為と断罪されることになってしまった。
 
この献金体制を断ち切るにはどうすべきか、過度な献金目標を立てないようにすることなのだが、世の中の会社ならその点を反省して、売り上げ目標を下げるか無しにすれば改革は始まる。しかし教会ではそれは無理だ。何しろ韓国本部からの高額な献金要請は断る訳にはいかないからだ。教会の上層部から来る命令には末端に配慮する心は微塵もないのが、その体質だ。そしてめいれいには絶対服従という教えがある。復帰原理の教訓は神の命令に人間が背いたことが人類歴史の数々の失敗だったと教えている。
それに絶対服従の絶対という意味は例外なくということだ。末端の事情には関係なく命令は守らなくてはならない。
 
判決文はいみじくも言った。韓国からの献金要請に、断る意志も能力もないと。
 
 

 

 
 
 
【「宗教法人世界平和統一家庭連合補償委員会」による補償や、同年12月9日の田中前会長の辞任会見における謝罪といった対応も、信者らにより不法行為が行われてきた根本的な原因が旧統一教会にあることを認めた上で実施するものではなく、「被害を訴える者が存在することに伴う社会的・道義的責任」を果たすために実施するものにとどまる)、④旧統一教会の幹部が、韓鶴子からの過度な活動資金の拠出の要求を拒絶する意思も能力も有していないことがうかがわれることからすれば、旧統一教会は、今後、再び献金収入の予算額を引き上げ、信者らに対し、社会通念上相当な範囲を逸脱しない方法・態様による勧誘では達成できないような数値目標を定めて献金の勧誘を行うよう求めるおそれがある。】
 
判決文は統一教会は一連の不祥事の責任を認めていないと見抜いた。反省がないということはこれからも繰り返す恐れが十分あると見なされた。
それは政治家が、起きた不祥事の直接の責任は認めないが、起きた騒動に対して迷惑をかけ、これからも迷惑かける恐れがあるから辞任するという姿勢に似ている。責任を認めて辞めるのではなく、騒がせたことによる迷惑を申し訳ないとして辞めるという訳だ。全くよくにている。
統一教会は上からの命令で信者が不法な経済活動をしたのでないと、教会本体いや、韓国本部、ひいてはメシアを守ろうとした。それは有るものを無いと言い張る滑稽を晒した。何しろ上意下達の独裁組織だ。上の指示無くして末端の信者が動くはずはないのだ。それは幾人かの信者を事情聴取すればすぐ分かること。教会は本体を守ろうとして墓穴を掘った。裁判所がそれを見抜いたことが次の一文によく現れている。
【旧統一教会の幹部が、韓鶴子からの過度な活動資金の拠出の要求を拒絶する意思も能力も有していないことがうかがわれる】
韓国からの献金要請を断れる意志も能力も有していないとバッサリ切って捨て、今後も続く可能性があるから、これは解散命令を出すしか無いと判決を下したのだ。
 

統一教会の教義はただ一つ、メシア、或いはメシアの代理としてのアベルの命令に従え、これだけである。それはメシア自身が語った、真の父母様宣布文に書いてあるとおりである。


真の父母様宣布文

 

【 全世界の統一教、霊界、地上界、祝福家庭食口、特にUCI指揮下にいるすべての食口たちに次の事項を指示する!

 まず、全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。】

 引用 真の父母様宣布文実行委員会



教会に通っても人間関係が良くなる為の知恵等を授かることはない。人間関係で指導されるのは「アベルを通したか」、「アベルに報告したか」ということだけであって他の指導はない。夫婦関係の悩みを相談しても「夫に従え」で終わりだ。


伝道に出かけたとしても、相手の経済事情を聞き出すことには長けていても、人間関係の悩みに解決の知恵を授けることはできない。伝道とは霊感商法以降、献金を促すか中心(アベル)に繋げることでしかなかったから。


また信仰生活で人格が磨かれることはない。昔、「信仰と生活」という本が光言社から出ていた。第4集まであった。それには李ヨハネ先生等により、神を中心とした信仰生活のあり方が語られていた。しかし、その本をもとにして集会があったとか指導があったとかは聞いたことがない。あっても極めて稀なケースだ。


つまり教会では献金を生み出す指導や経済活動のノウハウはあっても、一般的な信仰生活の指導はないのである。信仰生活の指導とは「アベルに忠実であれ、献金の額を上げろ」でしかないのだ。


信者とは、要するに経済活動しかできない人達なのだ。これから清算人の監督下で、経済活動をするにしても、今までのように専らという訳には行かないだろう。そこで慌てて、いわゆる信仰生活とは何ぞやと勉強するとしても教義の矛盾に当たって行き詰まるだけだ。


信者とは経済活動の要員であり、

伝道とは経済活動の仲間を増やすこと、


今更まともな信仰生活を送りましようと言われても右往左往するだけ、そして目覚めた人から離れて行くだろう。


これ、反論しようとする人はいるかも知れない。いればその人は教会の中でも異端扱いされてきた人だと思うが、ご忠告する。

統一原理は間違っていると。












もう少し正確なタイトル表現をすれば、日本開拓者の罪は重いとなる。

日本開拓者とは西川先生に他ならない。

では西川先生に何の罪か、多くの信者を惑わした罪だ。

西川先生は「人格完成を通して理想世界実現」と「統一原理による心情の世界実現」というスローガンを掲げて伝道活動を指導した。そして日々の反省会を通じて信者の人格陶冶に怠りが無かった。特に一日の活動の中での、心情の動機が神中心か否かの反省の仕方は大事な反省だった。

その中で培われた先輩信者の人格に触れ、教会を初めて訪れた時、既に天国はここに来ていると思わされたものだ。

地方の教会を担当していた頃、 歴代の前任者達に習って、担当地方にある献身者達の実家を度々訪問したものだが、よく聞いたことは自分の子が結婚する時は 信者の人と結婚して欲しいと言われたものだ。それくらい信者の人格への信頼はあつかった。

一般の人の信者への人格的評価も高かった。ある時、国政選挙の候補者の事務所に信者複数人で手伝いに行った。率先して仕事を効率的にこなすのを見た事務所の人達は感心しきりだった。何しろ信者が、アベルに指示されて行う活動は全てみ旨であり摂理だから手抜きはない、端から見れば熱心この上なく見えて当然だったと言えるだろう。

それらは西川先生の指導の賜物と言える。


しかしそれが悲劇の元だったのだ。世の人はもとより信者が組織の実体を誤認する結果を招く事になったからだ。西川先生が日本を去り、教えと活動がメシア主導に変わってからも人格完成という意識は古参の信者の頭から離れなかった。彼らの言動が新しい信者や外から見る一般の人の組織理解を妨げた。

そうして幾ら不祥事が続いても、そもそも理想は間違いないし、やってる人もいい人達ばかりだからと組織擁護の心が勝ってくるのだった。それが組織延命に手を貸す結果をもたらした。不祥事は原理の欠陥が招く必然的結果だったのにだ。


全ては西川先生の統一原理への間違った解釈に端を発している。


西川先生が掲げた「人格完成を通して理想世界実現」も「統一原理による心情の世界実現」も統一原理からは導き出せないスローガンだ。何しろ統一原理の説く理想世界は神の命令が社会の隅々まで行き渡る世界なのだから。



ブログを書き始める前、ある教会の礼拝で来日していた西川先生の説教だったか講演だったかを聞いた。その時西川先生は、こんな苦労(霊感商法を指していると私は捉えた)を兄弟(信者)達にさせる 為に開拓したのではないとか言っていて、自分の目の黒いうちに兄弟を救うと言った。しかしそういう行動を起こした話は聞いた事がない。


確かヤフーブログに記事を書いていた頃だったと思うが、西川先生の側近の人からコメントを何度かもらった。その中にアメリカまで西川先生に会いに来ませんかという誘いがあった。アメリカまで往復する余裕など無かったから行きはしなかった。


ブログを書き始めた頃の自分は組織の改革に希望を持っていたから、西川先生が旗を上げれば直ぐにはせ参じたい気持ちは持っていた。しかしそういう機会はついぞ訪れては来なかった。


西川先生が原理を誤解した証拠を改めて 引用しておく。


(西川先生の、原理を間違って解釈した思想を西川教と名付け、メシアが提唱した本来の統一原理の思想をメシア教と名付けて使っている。)


西川教が間違った原理解釈だった証拠


別冊宝島461 「救い」の正体 宝島社

最初の伝道師西川勝氏(74歳)が語る、統一協会よ、なぜ変わってしまったのか
高山和雄(ルポライター)
 統一協会はなぜ変わってしまったのか、西川氏は言う
途中略
日本の統一協会から私が去ったあと、韓国の指導者だった文鮮明が日本の統一協会を統率するようになって、協会が変化した最大の理由は何かと言えば、救いというものに対する教えの内容が変わってしまったことなんです。私のときは、人間を完成してから神の国をつくろう--それが救いだったんですが、文鮮明によって『真の父』である彼を信じて血統転換(文鮮明の指名した相手との婚姻による子孫をつくること)しないかぎり信者は救われないというふうに変わったのです。そんなバカなことがありますか。そんなものただの宗教儀式ならともかく、それでは明るい社会をつくる「愛と真理」の社会運動ということにはならない。そこが問題なんだ。現在の協会は私にとっては別物になってしまったのです。


 

メシア教の本質を表す一文


真の父母様宣布文
  全世界の統一教、霊界、地上界、祝福家庭食口、特にUCI指揮下にいるすべての食口たちに次の事項を指示する!
 まず、全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。
以下略
 
http://trueparents.jp/wp-content/uploads/2012/01/0795373000be4a76da7a361396a50416.jpg
 2011.4.23(陽5.25)
真の父母様 文鮮明・韓鶴子






ばけばけに出演の俳優バストウ氏がある体験を話していた。

それは、小泉八雲の役を演じるにあたって、一応許可を得たいとして八雲の墓に参ったおり、蚊に刺されたそうだ。後で八雲の本を読んだところ、墓参りに来た人に蚊になってチクリと刺してみたいと書いてあったという。

それで彼は、役を演じる許可をもらったと思って喜んだそうだ。


AIに聞いて見た。

 

​『骨董』より「蚊」の結びの一節

​【日本語訳】

「……もし私自身の魂が、いつか蚊の形をとらねばならぬ運命にあるならば、私はむしろ、あの仏さまの花立の水のなかの一匹として生まれたいものだ。

​そうして、いつか親しい友だちが、私の墓に香をたき、花を捧げにきてくれたとき、そのひとの手か、顔を、せめて一刺しチクリとやって、生存中のなつかしい思い出を呼びおこしてやりたいものである。」

(平井呈一 訳)

この記述のポイント

​死後の再会: 八雲にとって、蚊に刺されるという行為は「痛み」ではなく、自分がまだ近くにいることを知らせるための**「親愛のサイン」**として描かれています。

​輪廻転生: 彼は、人間が死後に虫などの小さな生き物に生まれ変わるという仏教的な考え方を、非常にロマンチックに解釈していました。

​背景: この文章を書く前、彼は自分が入る予定の墓地(雑司ヶ谷霊園)を散歩し、そこにある花立の水に蚊のボウフラがわいているのを見て、この着想を得たと言われています。

​この一節を知ると、蚊に刺されたときも少しだけ優しい気持ちになれるかもしれませんね。

以上AIの答えの抜粋。

 

 

 

 

 

 ここで共鳴という仮説の観点から、この話を理解してみた。

人間の生前の全ての記録、即ち想念や行動は、 見えない世界に記憶される。いわば宇宙の見えないクラウドハードディスクみたいなものに記憶される。そこに記憶された想念や事象は、地上の事象に共通要素が現れた時、その要素に共鳴して同じ事象若しくは似たような事象を起こす。


つまり、墓参りの人、居合わせた蚊、八雲を想う心、これらの要素などが蓄積されてる八雲の想念に共鳴して、蚊が刺すという現象として現れた。ただこの出来事を八雲の許可と捉えたバストウの理解は勝手な解釈に過ぎない。何故なら八雲の意思は存在しないから。それでもその解釈は自由に許される事だと思う。それで人生が豊かになればそれでいい。

このように解釈してみた。


地上の人が何らかの出来事に遭遇した時、先祖の導きと思うのも同じような事だと解釈できる。

これが霊人体の存在を否定した自分の自分なりの世の風習の理解の仕方。


よって人は子孫への思いを抱いて亡くなれば、必要な時子孫の手助けになる現象は起こせるかもと捉える。例え意識は無いとしてもだ。


生きてる人生は子孫の為にある。

生きてる時に困難にぶつかった時、それを乗り越えれば、将来同じ境遇に子孫が立つような事があれば、子孫がたやすく困難を乗り越えるべく共鳴現象が起きる。そう思えば、そこに人生の一つの意義がある。


共鳴現象とは仮説なのでゆめゆめ信じ込むことなかれ。そのように理解してみると有意義かもという提案に過ぎないので念のため。


 

 

 

 今、思い起こす文章がある。それは神からの言葉と言われる詩だった。ただ当時は全て暗記していたが今は断片的にしか思い出せない。それでも思い出せるまま書いてみる。少し違っているかも知れないが。


(まず、神を捜し求める求道者の声があった。)

あば父よ、呼ぶ我が身の足りなさよ、死をも我をば捨てゆくか、耐え忍ぶ日々の辛さに、身も心、義人の姿に似たる我みる。

(そして、神の返答)

汝の声は聞こゆれど、答える原理いずこにも無し。(これは神の心情を蹂躙して堕落した人間に直接答える道理は無いと言う意味と教えられた。)


答えよう見せようこの身この体、汝が命かけて捜す誠の姿こそ、汝を捜し求めたる我が姿なり。汝の姿こそ我が姿なり。汝の姿我が姿


思い出すのはここまで。この詩をある日の説教で聞いた。毎日神との出会いを求め、日々の蕩減の辛さを忍び、神の心情を捜し尋ねていた身において、涙滂沱の説教だった。「汝の姿我が姿」この一言が心に刺さった。神の心に触れた一瞬だった。


今思えば、それも過ぎ去った過去の記憶。

今は、神はいないと結論づけている。心情の神も、心で会話を交わした神も存在しない幻と消えた。


人は思い込めば、頭の中で如何様にも物語りが生まれて来るものらしいと思うようになった。


ただ蕩減の辛い日々の記憶は消えようにも消えないものらしい。それを懐かしいと思って終わりを迎えるのか、恨みと残して去るのか。まだわからない。

心の整理はついたと何度思ったことか、それは何度も心乱したということだ、何度も整理を付けたと繰り返すことには苦笑しかない。

今は心の落ち着く先をまだ求めている。もしかしてそれがまだ生きているという証なのかも。


この記事1/11 2:35公開