夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

大河ドラマ光る君への感想

今ドラマでは越前編が描かれている。前回25回の冒頭近くで、租税の扱いについて話が展開していた。

 

越前守であるまひろの父は、いつものように納められたという租税としての紙が決められた数よりも多いことに気づく。まひろはこれまでの国守は決められた租税を都に収めた後、残りは売って儲けていたのではないかと父に述べる。

 

実はこの、国守のうまみを生み出す手法は当時の国守の役得として広く黙認されていたらしいのだ。

租税は朝廷が定めた量よりも多めに徴収、徴収と都への納入のその差額は国守が自分の懐に。こういう話、最近どこかで聞いた気がする。

そう、ある政党の裏金捻出方法と酷似している。党本部から割り当てられたパーティー券の数を超えて販売出来た分は販売した議員の懐に入るというシステムそっくりだ。

かつて王政復古を叫んで新体制を作った薩長の連中のした事は平安貴族の優雅な金作りの手法を復活させる事だったのかと妙な納得をした。それにしても明治から一世紀はたっているのに都合のいい伝統は脈々と受け継がれているのかと嘆息した次第。

もっともパーティー券の販売が明治からあったわけではないが、その古の貴族に憧れた薩長の連中の精神が政党政治を通して連綿と受け継がれているのかと思った次第。


子供というのは2、3歳の頃が一番かわいい。k 君にある時ダイソーで車のオモチャを一つ買ってやった。一つだけ選んでいいよと言ってK君に選ばせた。社会的訓練と思ってK君自身に お金とオモチャを持たせてレジに行かせた。K君はレジのお姉さんにオモチャとお金を渡して支払いを無事終えた。

その後、K君のお母さんが車を買って貰ったのとK君に話しかけた。K君は僕が買ったと言った。お母さんは違うでしょとたしなめようとした。自分も一瞬そう思ったが考えてみるとK君の認識は正しい。大人は誰が金を出したかで買った人を決める。K君は誰が直接レジでお金を渡したかで判断した。だからK君は間違ってない。そうかK君がお金を渡したからK君が買ったんだよねとK君を肯定してあげて、K君のお母さんに事情を説明して二人で笑いあった。

不遇な事故を如何にしたら回避できるか、何とか避ける方法はないものかと思索を巡らして来た。共鳴論という仮説を立てて森羅万象の営みの仕組みまで考え運命とは何ぞやまで検討してきたが、結局ありふれた結論にたどり着くことになった。


森羅万象は過去に起きたあらゆる事象の似たパターンの踏襲として起きる。事故も然り。されば事故の回避を図るなら、事故の原因を徹底的に解明し、事故の原因を悉く排除した行動なり環境整備などを施して同じパターンを繰り返すことのないように努めるしかない。

但し、人間の努力で過去の事故のパターンを全て知ることは不可能に近いから、把握できなかったパターンで事故は起きる可能性はある。それでも人智で知りうる数の事故のパターンを踏まえて同じ轍を踏まない努力をすることが事故になるべく遭わないでいられる道だとの結論に達した。


 これで、人生の課題の一つがまた一つ解決した。人生の目的も解決したし、江戸幕府は滅ぼす必要は無かったのでは無いかとの疑問もその通りだったとして解決した。

また、人生は幼児期の愛され方で決まるのではないかとの推察もその通りと結論を得た。まあ、全ては我流の推論が多いのだが、学術論文じゃないから自分で得心すればそれで十分。後。残る課題は理想の村を如何に造るかだけだが、これは生きてるうちはできないだろう。青写真位は作ろうともがいた時期もあったが、その情熱は何処かに失せてしまった。年取ると体力の限界を始めできない事が増えて来るから、一つ一つ諦める事が積み重なってくる。ドラマの台詞の如くもういいでしょうというところかな。

しかしただ死を待つだけの空しい日々は送りたくないから、未完の夢を追い続けながら穏やかにその日を迎えるのが有終というところなのではないかな、と思う。


追記、人生予感を磨く事が大切。これ共鳴論からの教訓。

朝ドラの金曜日終わりの場面、主人公の知人の裁判官の死が伝えられた。それはどうやら実際のある判事の死をモデルにしたものらしい。


法を犯した者を裁く身として自ら法を守ることで餓死に近い死に方をした人のことらしい。

この人の人生の選択は間違っていると思う。何故なら人間は他の生物と同じく種の保存が生きる意味だと思うからだ。まず自分が生きながらえて家族を守り子孫を残し文化を伝えていくべきだと思う。法はその為の手段として存在する。法は目的ではない。法の為に殉ずるのは本末転倒。裁判官として法を破れなければ辞めればいい。それができなかったのはおそらく生い立ちがそうさせなかったのではないかと思う。


厳しく育てられた人は、決まりを曲げることができないたちに育つだろう。卑怯者になるなと言われて育てば苦境を逃れることは頭に浮かばないかも知れない。


私は例外 を許さぬ厳しいしつけはしない方が良いと思っている。しつけは必要だが、時に見て見ぬふりも大切だと思う。

特に正義感は強すぎないようにと思う。こういう事件があった。あるコンビニ店長が万引き犯を追いかけて追いついた所で犯人に刺されて亡くなった。自分で解決するのではなく、司法に任せる合理性が欲しかった。思う、この人はどういう育ち方をしたのだろうと。






最初は記事、次にニュースで知ったことだが、新築マンションを引き渡し直前になって破壊する事になったという。その理由が漠然として分からなかった。その後ネットをあちこち見ていたら、そのニュースに関連する写真に遭遇した。そこでなるほどと合点。

その写真には、とある駅を背にした真っ直ぐ伸びる直線の通りがあり、その通りの先に富士山が見える。そして富士の頂きから対称軸を降ろして右半分を板で遮ったようなシルエットが富士を見えなくしている。

そのシルエットこそくだんのマンションだった。

マンションが日照権を侵害すると言うのなら、周りの人に限る苦情だが、駅に降り立った人が目にする富士の景観が台無しになると言うのでは、沢山の人の苦情が末代まで続くだろう。


せっかく建てたマンションを壊さざるをえなかった理由に納得はしたが、はて、景観を損なうことは、設計の段階で分かっていただろうに何故に完成するまで作り続けたのだろう。組織の中の誰か、これはまずいですよと上に忠告する人はいなかったのか、或いは周りから起きてる苦情の詳細を上に伝え無かったのか、上の人間がいつもの苦情としてよきに計らえくらいのことだったのか。今の段階では何故にほぼ完成まで建築が進んで取り壊すことになったかは不明だ。

いずれにせよ大事の決断ははやいほどいい。

未来の大事を予測する能力、大事を悟ったら早期に決断する能力、人生においても大切なことだと思った次第。











禍福はあざなえる縄のごとしを考察する。運不運を分ける線引きについて、人の生きる目的はあらゆる生きとし生けるものと同じく種の保存にある。そのために日々生を維持しなくてはならない。従って好運とは、その目的に適う結果になった運の導きを指すと判断できる。

以前こういう番組があった。アジアの国から船舶の技術を習得する為に友人と日本に来ていた人がいた。ある時指を切断する重傷を負った。その為技術習得の為の航海に参加することができなかった。友人はその航海に参加した。しかし、その友人は海運事故で亡くなった。参加しなかった彼ももし健康体であったら当然参加して亡くなっていた。彼はその後国に帰り、日本語学校の教師になった。船舶の技術を習得するという夢は叶わなかったが、生きて故国で教職につくことができた。彼自身は幸福であったかどうかは分からないが、端からみて、彼が生きながらえたことによって、指の事故は好運だったと言えるのではないかと思う。それは命の維持につながった事故だったから。

運不運は出来事が起きたその時点でとにかく命が長らえることができていたら、好運だと思えば良いのではないかと思う。命あっての物種、命あっての運。


従って生きてる限りは幸運なのだと思えばいいのではないだろうか。



0303

関心のある物は近づき、関心が薄れた物は離れて行く。これ共鳴論から理解するようになった。人も然り、彼はどうしてるだろうとおもいを寄せれば、風の便りを聞くようになったり

偶然に遭遇したりする。これ共鳴論に立てば遭遇という偶然は必然に代わる。ただ現実に実現する頻度が高いか低いかの差は共鳴する要素の濃淡による。では共鳴する要素とは何か、当然おもいの強弱が第一の要素になることもあれば、それはさほどでもなく、他の要素が強く働く場合もあろう。つまり、ちょっと思っただけなのに 実現するという場合もあれば、かなり強く思っているのにさっぱり効果無しという場合もあることになる。然らばその場合何が強く働く共鳴要素となったのか、考えられるのは人間関係、時間空間の共通性、状況などの類似性などがあるかもと思うのだ。


共鳴論に立って人の運を考えてきたが、その思考に立てば、人の行動はすべからく運に左右されている訳だから、ある人が関心を寄せた「もの」は共鳴した運に動かされた別のある人の行動によって 持ち運ばれ近づき或いは遠ざかる。或いはまた、自分が運に左右されて自ら近づき或いは遠ざかり、自分の心に 共鳴した他者が近づき或いは遠ざかる。


これらのことは、探し物がふとしたことから見つかったことから思いを巡らし頭に浮かんだ事どもだ。


何はともあれ、関心を持てば、また思いを寄せれば、それは現実となり、あるいは実現する可能性があると思うのだ。

これ共鳴論という仮説に基づく話。ゆめゆめ信じこむこと勿れ。



                                                                       0215




ふと目に留まった記事があった。それは信仰歴の長そうな人の記事だった。


その記事には、人生の勝利とは何かが書かれていて、お母様は失敗したとあった。お父様に絶対服従できなかったからだと言うのだ。

この表現には信者の人生観とか幸福観が如実に表れている。そこからは人生の勝利とは絶対服従を認められること、或いは自ら達成できたと自覚すること、そういう人生観が読み取れる。


ところで原理によれば全ての存在はまず神の被造物として神の前に対象として存在する。よって、対象としての自覚は主体としての自覚に優先することになる。そして対象としての責任は主体に対する絶対服従なのである。これが屁理屈原理の主張だ。

例を挙げる。復帰摂理歴史は、立てられた中心人物が神に対する対象として神の命に従順屈服できたか否かで摂理の成否が決まったと綴っている。屁理屈復帰原理はそのように説いている。


故に人生においては主体に対して絶えず絶対服従できたか否かを問われるのが信者の宿命なのである。

となると信者の幸福は絶対服従を、主体に評価して貰ったという自覚を得た時となるしかないだろう。


世の中にも恋いこがれた相手に従順となり評価されて幸せを感じるという人はいるだろう。しかし信者全てに恋人のようになれと義務を強要する教えに普遍性があるとは思えない。


しかし、 信者の多くは絶対服従という言葉は知っているがそれを家庭でも実践しなければならないとまでは自覚してないように見える。

ある祝福家庭の夫人にご主人に絶対服従してますかと問うたら、とんでもないという言い方をした。つまり、あんな夫に従えますかとでも言い出しそうな勢いだった。それ原理に反してますよと言ったら、まだ夫は完成してませんからその必要はないといったのだ。 そこで言ってあげた。完成しないで家庭をもったら原理では堕落になると言ってますよと、すると何やら屁理屈を並べて正当化しようとしていた。要するにメシアや組織のアベルには服従すべきという意識はあっても目の前の主人にもそれが適用されるとは思ってないようなのだ。


おそらく家庭を顧みず献金要請に必至で応える生活習慣がそうさせたのかも知れないし、元々組織としても組織に従順で居させることを目的として構築した理論の故、 命令に応えている結果がでてれば理論はどうでもいいわけだから家庭がどうあろうと組織は干渉する必要はないからいちいち夫人達にチェックを入れたりはしないだろ。しかし一旦家庭で夫人が夫に悩みを持つと、夫に服従できない貴方が悪いととたんに原理を持ち出すことを組織は忘れていないようだが。


そういえば、歌があったな。

♪飼い主さんの声に耳を向けてりゃ安心さ、それが幸せ。♪


この幸福観はトップに立つ人間が下にいる者に対してどれだけ配慮が出来るかで、下の人間の幸不幸が決まる。でも、人格の優れた哲人はそうはいない。いたとしても何世代にも渡って哲人を生み出すことは出来そうもない。

おまけに屁理屈原理には哲人を生み出すノウハウが全くない。

さすれば、絶対服従の行き着く世界は人権無視の苦労世界でしかないと思えるのだ。


テレビ番組の影響について。

つい思いだして笑ってしまった。今朝家庭内で額に貼る冷却シートが話題に上った。その冷却シート について思いだし、関連でオメガ3商品も思いだしてつい笑ってしまった。


かなり前のことだが、ネットのコメントで運転中の眠りを防ぐには冷却シートを額に貼ると効果抜群だということが書いてあった。

それで長距離ドライブした時にくだんのシートを額に貼って運転していた。高速でSA のトイレに入った。するとというか何と、そのトイレに額に冷却シートを貼った人が入って来たのだ。思わず笑いがこみ上げてきた。必至に顔に出るのをこらえた。同じコメントを見たかどうかは知らないが、同じことをする人がいるんだとおもったものだ。ただこのシート自分にとっては眠気防止にはいささか役には立たなかったが。


それから関連で思いだしたことがある。

ためしてガッテンで北極圏に住むひとはアザラシの肉を食べていて心臓血管系の病気になりにくいと放送していた。それはアザラシの肉に含まれるオメガ3という油の効用だと言うのだ。

アザラシの肉を日常的に買うのは難しいがその成分の油オメガ3は売っているという。アマニ油とかエゴマ油に含まれているというのだ。そこで番組を見終わるとすぐ近所のスーパーに出かけた。何処にあるのかなと捜して、それらを販売している棚にたどり着いた。商品に手を伸ばして今にも手に取ろうとした時、棚の前に急いで来てたちどまったた人がいた。思わず顔を見合わせて、どちらから言うともなく、テレビを見て来てしまったことを確認しあってお互い笑い転げた。それだけで終わらない。通路を段ボール箱を抱えてやって来る従業員がいた。これも何と、我々の前の棚にオメガ3の商品を補充し始めたのだ。

ほーそうか、スーパーのお店の人は健康番組はチェックしているんだ。売れると見込んですぐ補充するとは商魂たくましいと思ったし、テレビ番組の影響は大きいと思ったものだ。


これ書き終わって、あれ、もしかしたら前に書いたかもと思ったが、またでも書いておこう。



以前同じ内容で記事を書いたがアタッチメントについての新しい情報をえてあらためて書いておく。さきに書いた時は反発した人もあったので、手短に要点のみ書くことにする。

人が大人になって、自立して社会生活を軋轢なく送れるようになるには幼い時に心満たされた生活を送る必要がある。然るに統一原理にもとづく教育ではただ親の言うこと、メシアの言うことに素直に従う事のみが求められる。それはただ組織に忠実なロボットとしての人間性が求められるということ。そこには子供の心に配慮するという考えは微塵もない。勿論アタッチメントの重要さなど一顧だにない。


何度もブログで書いた事だが、親が幼い子供を家におきざりにしてみ旨に励んだ結果子供の言語能力が劣ってしまったという問題がかつて浮上したことがある。これなどアタッチメントの欠如そのものと言える。


また、マスコミがよく取り上げる二世が恋愛禁止されて悩んでいる例。恋愛禁止は親の言うことひいてはメシアの言うことに従順であるか否かのバロメーターだ。これに譲歩したら原理根幹が崩れる。まあ、組織としては何れ禁止措置は緩和するだろうけど。というのは教団にとって原理というのは絶対に守らなければならない真理ではないからだ。メシアに心を向けさせ組織の中心に忠誠を促す手段でしかない。都合によっていくらでも改変できる屁理屈だから。

神のひとり子ということばは聖書にもあるが神のひとり娘等と言う言葉は聞いたら事がない。独生女と言ったかな、そんな概念原理の何処にも存在しないが、原理を改ざんしてでも作り出す。このように教義にたいしてはご都合主義的解釈がいつでも可能な姿勢をもっているから、恋愛は親の事後承認でも構わないとか言うかも知れないし、ほかの妥協を図るかもしれない、兎に角組織に対する忠誠の形を残せばいいと譲歩するかも知れない。


話を元に戻す。アタッチメントの重要さを認識できない原理の教育姿勢からは子供に十分な教育はできない。

原理で子供は育たない。