ふと目に留まった記事があった。それは信仰歴の長そうな人の記事だった。
その記事には、人生の勝利とは何かが書かれていて、お母様は失敗したとあった。お父様に絶対服従できなかったからだと言うのだ。
この表現には信者の人生観とか幸福観が如実に表れている。そこからは人生の勝利とは絶対服従を認められること、或いは自ら達成できたと自覚すること、そういう人生観が読み取れる。
ところで原理によれば全ての存在はまず神の被造物として神の前に対象として存在する。よって、対象としての自覚は主体としての自覚に優先することになる。そして対象としての責任は主体に対する絶対服従なのである。これが屁理屈原理の主張だ。
例を挙げる。復帰摂理歴史は、立てられた中心人物が神に対する対象として神の命に従順屈服できたか否かで摂理の成否が決まったと綴っている。屁理屈復帰原理はそのように説いている。
故に人生においては主体に対して絶えず絶対服従できたか否かを問われるのが信者の宿命なのである。
となると信者の幸福は絶対服従を、主体に評価して貰ったという自覚を得た時となるしかないだろう。
世の中にも恋いこがれた相手に従順となり評価されて幸せを感じるという人はいるだろう。しかし信者全てに恋人のようになれと義務を強要する教えに普遍性があるとは思えない。
しかし、 信者の多くは絶対服従という言葉は知っているがそれを家庭でも実践しなければならないとまでは自覚してないように見える。
ある祝福家庭の夫人にご主人に絶対服従してますかと問うたら、とんでもないという言い方をした。つまり、あんな夫に従えますかとでも言い出しそうな勢いだった。それ原理に反してますよと言ったら、まだ夫は完成してませんからその必要はないといったのだ。 そこで言ってあげた。完成しないで家庭をもったら原理では堕落になると言ってますよと、すると何やら屁理屈を並べて正当化しようとしていた。要するにメシアや組織のアベルには服従すべきという意識はあっても目の前の主人にもそれが適用されるとは思ってないようなのだ。
おそらく家庭を顧みず献金要請に必至で応える生活習慣がそうさせたのかも知れないし、元々組織としても組織に従順で居させることを目的として構築した理論の故、 命令に応えている結果がでてれば理論はどうでもいいわけだから家庭がどうあろうと組織は干渉する必要はないからいちいち夫人達にチェックを入れたりはしないだろ。しかし一旦家庭で夫人が夫に悩みを持つと、夫に服従できない貴方が悪いととたんに原理を持ち出すことを組織は忘れていないようだが。
そういえば、歌があったな。
♪飼い主さんの声に耳を向けてりゃ安心さ、それが幸せ。♪
この幸福観はトップに立つ人間が下にいる者に対してどれだけ配慮が出来るかで、下の人間の幸不幸が決まる。でも、人格の優れた哲人はそうはいない。いたとしても何世代にも渡って哲人を生み出すことは出来そうもない。
おまけに屁理屈原理には哲人を生み出すノウハウが全くない。
さすれば、絶対服従の行き着く世界は人権無視の苦労世界でしかないと思えるのだ。