夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

もう少し正確なタイトル表現をすれば、日本開拓者の罪は重いとなる。

日本開拓者とは西川先生に他ならない。

では西川先生に何の罪か、多くの信者を惑わした罪だ。

西川先生は「人格完成を通して理想世界実現」と「統一原理による心情の世界実現」というスローガンを掲げて伝道活動を指導した。そして日々の反省会を通じて信者の人格陶冶に怠りが無かった。特に一日の活動の中での、心情の動機が神中心か否かの反省の仕方は大事な反省だった。

その中で培われた先輩信者の人格に触れ、教会を初めて訪れた時、既に天国はここに来ていると思わされたものだ。

地方の教会を担当していた頃、 歴代の前任者達に習って、担当地方にある献身者達の実家を度々訪問したものだが、よく聞いたことは自分の子が結婚する時は 信者の人と結婚して欲しいと言われたものだ。それくらい信者の人格への信頼はあつかった。

一般の人の信者への人格的評価も高かった。ある時、国政選挙の候補者の事務所に信者複数人で手伝いに行った。率先して仕事を効率的にこなすのを見た事務所の人達は感心しきりだった。何しろ信者が、アベルに指示されて行う活動は全てみ旨であり摂理だから手抜きはない、端から見れば熱心この上なく見えて当然だったと言えるだろう。

それらは西川先生の指導の賜物と言える。


しかしそれが悲劇の元だったのだ。世の人はもとより信者が組織の実体を誤認する結果を招く事になったからだ。西川先生が日本を去り、教えと活動がメシア主導に変わってからも人格完成という意識は古参の信者の頭から離れなかった。彼らの言動が新しい信者や外から見る一般の人の組織理解を妨げた。

そうして幾ら不祥事が続いても、そもそも理想は間違いないし、やってる人もいい人達ばかりだからと組織擁護の心が勝ってくるのだった。それが組織延命に手を貸す結果をもたらした。不祥事は原理の欠陥が招く必然的結果だったのにだ。


全ては西川先生の統一原理への間違った解釈に端を発している。


西川先生が掲げた「人格完成を通して理想世界実現」も「統一原理による心情の世界実現」も統一原理からは導き出せないスローガンだ。何しろ統一原理の説く理想世界は神の命令が社会の隅々まで行き渡る世界なのだから。



ブログを書き始める前、ある教会の礼拝で来日していた西川先生の説教だったか講演だったかを聞いた。その時西川先生は、こんな苦労(霊感商法を指していると私は捉えた)を兄弟(信者)達にさせる 為に開拓したのではないとか言っていて、自分の目の黒いうちに兄弟を救うと言った。しかしそういう行動を起こした話は聞いた事がない。


確かヤフーブログに記事を書いていた頃だったと思うが、西川先生の側近の人からコメントを何度かもらった。その中にアメリカまで西川先生に会いに来ませんかという誘いがあった。アメリカまで往復する余裕など無かったから行きはしなかった。


ブログを書き始めた頃の自分は組織の改革に希望を持っていたから、西川先生が旗を上げれば直ぐにはせ参じたい気持ちは持っていた。しかしそういう機会はついぞ訪れては来なかった。


西川先生が原理を誤解した証拠を改めて 引用しておく。


(西川先生の、原理を間違って解釈した思想を西川教と名付け、メシアが提唱した本来の統一原理の思想をメシア教と名付けて使っている。)


西川教が間違った原理解釈だった証拠


別冊宝島461 「救い」の正体 宝島社

最初の伝道師西川勝氏(74歳)が語る、統一協会よ、なぜ変わってしまったのか
高山和雄(ルポライター)
 統一協会はなぜ変わってしまったのか、西川氏は言う
途中略
日本の統一協会から私が去ったあと、韓国の指導者だった文鮮明が日本の統一協会を統率するようになって、協会が変化した最大の理由は何かと言えば、救いというものに対する教えの内容が変わってしまったことなんです。私のときは、人間を完成してから神の国をつくろう--それが救いだったんですが、文鮮明によって『真の父』である彼を信じて血統転換(文鮮明の指名した相手との婚姻による子孫をつくること)しないかぎり信者は救われないというふうに変わったのです。そんなバカなことがありますか。そんなものただの宗教儀式ならともかく、それでは明るい社会をつくる「愛と真理」の社会運動ということにはならない。そこが問題なんだ。現在の協会は私にとっては別物になってしまったのです。


 

メシア教の本質を表す一文


真の父母様宣布文
  全世界の統一教、霊界、地上界、祝福家庭食口、特にUCI指揮下にいるすべての食口たちに次の事項を指示する!
 まず、全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。
以下略
 
http://trueparents.jp/wp-content/uploads/2012/01/0795373000be4a76da7a361396a50416.jpg
 2011.4.23(陽5.25)
真の父母様 文鮮明・韓鶴子






ばけばけに出演の俳優バストウ氏がある体験を話していた。

それは、小泉八雲の役を演じるにあたって、一応許可を得たいとして八雲の墓に参ったおり、蚊に刺されたそうだ。後で八雲の本を読んだところ、墓参りに来た人に蚊になってチクリと刺してみたいと書いてあったという。

それで彼は、役を演じる許可をもらったと思って喜んだそうだ。


AIに聞いて見た。

 

​『骨董』より「蚊」の結びの一節

​【日本語訳】

「……もし私自身の魂が、いつか蚊の形をとらねばならぬ運命にあるならば、私はむしろ、あの仏さまの花立の水のなかの一匹として生まれたいものだ。

​そうして、いつか親しい友だちが、私の墓に香をたき、花を捧げにきてくれたとき、そのひとの手か、顔を、せめて一刺しチクリとやって、生存中のなつかしい思い出を呼びおこしてやりたいものである。」

(平井呈一 訳)

この記述のポイント

​死後の再会: 八雲にとって、蚊に刺されるという行為は「痛み」ではなく、自分がまだ近くにいることを知らせるための**「親愛のサイン」**として描かれています。

​輪廻転生: 彼は、人間が死後に虫などの小さな生き物に生まれ変わるという仏教的な考え方を、非常にロマンチックに解釈していました。

​背景: この文章を書く前、彼は自分が入る予定の墓地(雑司ヶ谷霊園)を散歩し、そこにある花立の水に蚊のボウフラがわいているのを見て、この着想を得たと言われています。

​この一節を知ると、蚊に刺されたときも少しだけ優しい気持ちになれるかもしれませんね。

以上AIの答えの抜粋。

 

 

 

 

 

 ここで共鳴という仮説の観点から、この話を理解してみた。

人間の生前の全ての記録、即ち想念や行動は、 見えない世界に記憶される。いわば宇宙の見えないクラウドハードディスクみたいなものに記憶される。そこに記憶された想念や事象は、地上の事象に共通要素が現れた時、その要素に共鳴して同じ事象若しくは似たような事象を起こす。


つまり、墓参りの人、居合わせた蚊、八雲を想う心、これらの要素などが蓄積されてる八雲の想念に共鳴して、蚊が刺すという現象として現れた。ただこの出来事を八雲の許可と捉えたバストウの理解は勝手な解釈に過ぎない。何故なら八雲の意思は存在しないから。それでもその解釈は自由に許される事だと思う。それで人生が豊かになればそれでいい。

このように解釈してみた。


地上の人が何らかの出来事に遭遇した時、先祖の導きと思うのも同じような事だと解釈できる。

これが霊人体の存在を否定した自分の自分なりの世の風習の理解の仕方。


よって人は子孫への思いを抱いて亡くなれば、必要な時子孫の手助けになる現象は起こせるかもと捉える。例え意識は無いとしてもだ。


生きてる人生は子孫の為にある。

生きてる時に困難にぶつかった時、それを乗り越えれば、将来同じ境遇に子孫が立つような事があれば、子孫がたやすく困難を乗り越えるべく共鳴現象が起きる。そう思えば、そこに人生の一つの意義がある。


共鳴現象とは仮説なのでゆめゆめ信じ込むことなかれ。そのように理解してみると有意義かもという提案に過ぎないので念のため。


 

 

 

 今、思い起こす文章がある。それは神からの言葉と言われる詩だった。ただ当時は全て暗記していたが今は断片的にしか思い出せない。それでも思い出せるまま書いてみる。少し違っているかも知れないが。


(まず、神を捜し求める求道者の声があった。)

あば父よ、呼ぶ我が身の足りなさよ、死をも我をば捨てゆくか、耐え忍ぶ日々の辛さに、身も心、義人の姿に似たる我みる。

(そして、神の返答)

汝の声は聞こゆれど、答える原理いずこにも無し。(これは神の心情を蹂躙して堕落した人間に直接答える道理は無いと言う意味と教えられた。)


答えよう見せようこの身この体、汝が命かけて捜す誠の姿こそ、汝を捜し求めたる我が姿なり。汝の姿こそ我が姿なり。汝の姿我が姿


思い出すのはここまで。この詩をある日の説教で聞いた。毎日神との出会いを求め、日々の蕩減の辛さを忍び、神の心情を捜し尋ねていた身において、涙滂沱の説教だった。「汝の姿我が姿」この一言が心に刺さった。神の心に触れた一瞬だった。


今思えば、それも過ぎ去った過去の記憶。

今は、神はいないと結論づけている。心情の神も、心で会話を交わした神も存在しない幻と消えた。


人は思い込めば、頭の中で如何様にも物語りが生まれて来るものらしいと思うようになった。


ただ蕩減の辛い日々の記憶は消えようにも消えないものらしい。それを懐かしいと思って終わりを迎えるのか、恨みと残して去るのか。まだわからない。

心の整理はついたと何度思ったことか、それは何度も心乱したということだ、何度も整理を付けたと繰り返すことには苦笑しかない。

今は心の落ち着く先をまだ求めている。もしかしてそれがまだ生きているという証なのかも。


この記事1/11 2:35公開



今年は統一原理から卒業したい。


統一原理が目指した独裁主権の世界が人類に幸福をもたらさないことはハッキリした。毎日のニュースを見れば、独裁主権者がいかに社会を不幸に落とし入れてるかがよくわかる。

しかもそれは制度の問題ではないことはハッキリしてきた。独裁主権者が権力をふるっている国は、たいてい民主主義国家だ。一方的に他国を侵略した国も形は民主主義国家だ。しかし一方、形は一党独裁の体裁をとっていてもベトナムのように他国と協調し市場経済に近い国もある。

要は社会の幸不幸はその政治体制が問題なのではなく、指導者達が問題だという倫理の課題であるという結論になる。

アメリカの指導者もロシアの指導者も他国の主権を侵害し武力で侵略するという事実において全く変わりはない。どちらも民主主義国家だ。


ここにおいて、幸福な未来社会を考える時、指導者達の倫理観の確立が望まれる。急がば回れ、その為には人々に受け入れられる最大公約数的な倫理観で子供を育てることがよき指導者を生み出す近道だと思うのだ。

今日、いい移住というテレビ番組を見た。首都圏から越前に移住した人の活躍ドキュメントが放送されていた。

海から海水をポンプで汲み上げ塩を精製し販売し、養鶏、稲作などを生業とし、夏は海に潜って鮑を取ったり、夫人は夫人で畑を耕し100種類の野菜栽培。 子供達は手伝いを遊びとしながら、好きなタコなどは海辺に網を仕掛けて食べていた。


多岐にわたる仕事も一緒に作業してくれる仲間が増え、稲刈りなどは器械で手伝ってくれる農家さんもいて、人を巻き込んでの自給自足人生。憧れるなー、と思ったら自分は何をしてきたかと自問。

それと同時に、長年に及んだ統一原理批判をそろそろ止める時だと思えてきた。長きに渡った批判の理由は教会への未練があったからだと思うが、その未練もテレビを見終わってハッキリもうやめ時とおもえた。。

組織からの卒業はとっくにしているが、未練からの卒業はまだだったと気づいた。


自分は脱会という言葉は使わない。脱会という言葉は反対派が作った造語みたいなものだからだ。


左翼が使う自己批判という言葉がある。あれは自主的な批判ではない。たいてい自己批判されられるのだ。

脱会も自主的なものではない。脱会させられるのだ。つまり強制改修に 屈した、いくじなしが使う言葉が脱会という言葉だ。故に脱会という言葉は使わない。

だから脱会ではなく卒業なのだ。

これからブログを最終的にまとめて、解散命令が確定する頃には未練からもスッキリ卒業したい。


統一原理が示す子どもの教育は、目的がメシアに忠実な子を育てることにあるから、勢いまず親の言うことをよく聞く子どもに育てようとする。それを赤子の時から実践しようとすると、どだい無理な訳だから親は苦労する。

テレビの番組で赤ちゃんを効率的に泣き止ませる方法というのを教えていた。泣き叫ぶ赤ちゃんを泣き止ませるにはだっこしてしばらく歩くと良いのだそうだ。いやーそれ知らなかったな、というのが感想。自分は経験から泣き叫ぶ赤子をだっこして部屋の中をよく走ったものだ。するとよく泣き止んだんだが。そうか走らなくても歩けば良かったんだと苦笑した次第。

教会では子どもの育て方を指導する部署はなかった。子育てはみんな手探りでしていたものだ。何しろメシアに忠誠を尽くす子を育てるという目標がただあるだけで、年齢に応じた子育ての仕方など誰も分からなかったものだ。

教会ではまともな子育てはできない。韓国では子どものことは神が責任を持つとばかりに、子どもをおいて親がみ旨に励んだ結果言葉の発達が遅れてしまったという悲劇もおきた。

人権に配慮するような施策をとれない独裁組織では子どもは寂しく育つしか無い。

統一原理では子育ての細かなノウハウはでてきようがない。

 

 

 

 

 先日メシアには自己の存在位置を離れるという堕落性があったと記事に書いた。その後から気がついたことなのだが、組織を西川先生が指導した頃とメシアが指導するようになってからとでは大きな違いがあったことに気づくようになった。


西川 先生が指導していた頃の教えを西川教、メシアが指導するようになってからの教えをメシア教と称することにしていたが、 西川教では統一原理による心情の世界実現、人格完成を通して理想世界実現、父母の心情しもべの体で人につくす、などが教えの中心だった。文字通り宗教色の強いものだった。それが 西川先生が日本を去りメシアの指導が露骨になってからは信者の活動は献金最優先となった。

信仰生活から金集め活動に大転換したのだ。統一運動の為という大義名分はあったが末端の信者においては直接 統一運動に関わることは殆どなく、ただ金集めに奔走する生活におわれた。

この組織の大転換について、西川先生も教義が変わったと驚いたことを語った言葉がある。

(最下段の引用記事の中に掲載)


今、この西川教からメシア教への転換における教えの違いについて最近気づいたことを書く。


西川教の時代、 入教したての新参者にはメシアは居るともいないとも教えられていなかった。 メシアは来ているんですかと質問すると、先輩は黙って怖い顔をするだけだった。

ああ、これは聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと 思ったものだ。もしかしてまだ来てないのかな、それとも死んでしまったのかなと思い巡らした。

それ位信仰生活のなかには全くメシアの影は無かった。だから祈る時は神に直接祈った。故に神は近かった。その習慣からメシアを証されてもメシアに馴染め無かったものだ。メシアを慕うように言われても違和感すらあった。


違和感が薄れていくきっかけはメシアが来日して全国を回り、直接姿を見るようになってからだ。


そして目の前の組織の中心者から下されるメシアの指導に従うことが信仰生活の中心になっていった。


つまり西川教では神に繋がり、メシア教ではメシアに繋がる。

ここが大きな違いだったと思えてきたのだ。







独裁が結果として理想的世界をもたらす場合はその独裁者が理想的人間である場合に限る。つまり哲人政治の場合にのみ独裁が理想をもたらすことができると考えられる。問題はどうやって哲人を生み出すかと考えた場合、統一原理には哲人を生み出す教育システムがない。『取って食べてはならない』という戒めに象徴されるように、その教育はただ親、若しくは親に代わる組織上層部の指示に従えという教育しかない。これでは命令を守る事と命令する事の二つしか学べない。一番大事なエゴの克服は出来ないのだ。さらに命令の内容は命令者の恣意に委ねられているだけだ。創造目的には神の喜びを実現する為に命令を守れとはあるがその内容は書いてない。つまり恣意的に発せられるものを守ることになるが、実はこの神の命令とはメシアの命令であることがハッキリした。それがメシアの宣言文で明らかになった。

『全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!』


とどのつまりメシアの恣意のままに発せられた命令を守ることが理想世界となるのだ。


 ここで統一原理の言い分を聞いてみよう。

①メシアは堕落人間の原罪を清算する為に来た原罪のないメシアである。


②原罪のないメシアが造る家庭には原罪のない子女が誕生し代々それは続く


つまりメシアは哲人であり、メシアの家庭からは代々哲人が生まれるという論理だ。

これが本当なら理想世界はメシアによって造られそれは代々続くはずだった。しかし現実はメシア 家庭の不倫、婚外子の誕生など目も当てられない。

それはメシアによる原罪の清算が為されていないことを表し、メシアに原罪があることの証明であり、それはメシアに原罪清算能力がないことを明らかにした。つまりメシア(救世主)ではない。そもそも原罪の概念が妄想に過ぎなかったのだ。


統一原理の間違いを悟る方法は、ただ一つメシア家庭のスキャダルをみるだけで十分なのだ。


また、メシア家庭には哲人を生み出す教育はない。





メシアは淫行の問題を解決するのは自分しかいないと豪語したが、結局その淫行の問題を解決出来ないで自滅してしまった。

隆盛を誇った組織もやがては滅ぶ。

諸行無常


親は子供を育てながら育ててもらうという考えがある。子供に育ててもらって親らしくなる。弱者に対する思いやりや他人への気配り等、社会生活に必要な他者への配慮は子育て中に身につけさせられる。

人格の訓練とは子育てを通していやが上にもさせられるもの。上から押しつけようとすると時に軋轢が生まれる。


ところがその自分の成長の為の重要な期間を自ら放棄するひとがいる。子供を強制して思い通りに動かそうとする人だ。殴って強育(教育ではない)する人、虐待する人。皆自分の成長を自ら放棄する人達だ。

思えば明治民法以来ついこの間まで民法に明文化されていた懲戒権は親が親らしくなる道を阻む悪法だったと言えるだろう。子供を虐待して捕まった親が躾の積もりだったというセリフ に何よりそれはよく現れている。


ところでメシアは子供を殴って強育した。結果長男は殴って他人に言う事を聞かせることを覚えた。

それが世界の伝統となって理想世界が来るだろうか。いや、原理からすれば来るのだ。何しろ神の創造目的は神の命令が社会の隅々まで行きわたる世界を造ることだから。

絶対服従の世界を造るのが目的なので、メシアは当然に必要なことをしていたのだ。先ずは家庭からその伝統を造っていたのだ。

このメシアが宣言した絶対服従せよという文言が世にさらされるようになった時、ある二世の幹部がこれは表に出るべきではなかったと自身のブログで言った。この人は原理を分かっていない。メシア自身が皆に伝えよと大っぴらに宣言しているのに密かにしておこうとは無理解はなはだしい。

そもそも宣言とは大っぴらに伝えるものだ。この二世幹部は都合の悪い言葉と思ったのだろう。多分理想世界は人格完成した人達が住む所と誤解して捉えていたからなのだろう。それは西川先生の早とちりで原理の間違い解釈だったことを知らないのだ。


虐めの芽は家庭にある。家庭から虐めを無くす事が社会から虐めを無くす第一歩だ。セクハラや不同意性交の根絶も家庭で親がキチンと子育てをする伝統を造ることから始まる。

親が慈しみを持って子育てすれば、その子が人の親になって子育てをする時、こんなにも親に なるって大変なんだ。そうして親に感謝しながら葛藤する子育ての困難を乗り越える。それを虐待して子供に接すれば子供は教えられたように他人はもとより自身の子にも虐待するようになるだろう。

 社会や政府が子育て援助と称してただ金を配るのは、無いよりはましかも知れないが第一にする事では無い。子育ての伝統がほぼ崩壊しつつあるこんにち、世の親達を心で支えてストレスを解消させながら思いやりを持って子育て出来るように社会体制を造ることだ。そちらに 先ずは金を使うべきだ。

子育てを考える時先ずは親育てを考えることだ。



共鳴について

現実におきる全ての事象は、見えない天界に記録されている過去から現在に至るまでの森羅万象の記憶に共鳴して起きる。


つまり、共鳴は前例踏襲の現象として起きる。共鳴の基本は真似をするということだ。言い換えれば宇宙の根本法則は真似をするということになる。

人間が成長したり成功したりするためには、まず先達の真似をするところから始まる。それは宇宙の原則に則っていると言える。


天界の成り立ちはコンピュータと比較して考える。コンピュータはCPU とメモリ 、演算処理機能と記憶機能から成り立っている。天界も同様と考える。天界とは目に見えない巨大なクラウド装置なのだ。

従ってAIのすることは天界の模倣と言える。AIが出現する前から天界は存在していたから。


天界という巨大な記憶を抱えたクラウドAIはどのように働きかけてくるか。

地上で過去の出来事と似たような出来事と同じ条件が整ってくると、過去の似たような多くの出来事を抽出して新しい今後のパターンを幾つか準備する。シミュレーションだ。共鳴させる瞬間がくると地上の条件に合わせて幾つかの準備したパターン即ちシミュレーションの中から一つを選んで共鳴させる。


この現象は運命の働きと理解出来る。人間を含む全ての事象は運命に操られていると言える。共鳴とは運命の現象。

ここで天界を運命そのものと言い換えることにする。


あらためて共鳴を説明する。

現実におきる全ての事象は、見えない天界に記録されている過去から現在に至るまでの森羅万象の記憶に共鳴して起きる。天界とは運命そのものであり、それは演算能力と記憶装置を兼ね備えたクラウドハードディスクと言える。



では人は運命を避けたり掴んだり引き寄せたりはどのようにしたらできるのか。共鳴論に従って考える。


続く・・・・・・・

尚、共鳴論は仮説なので念の為

自分にとっては生き方の指南書