運、不運は命の有無で考える。 | 夢追い人一里のブログ

夢追い人一里のブログ

統一教会とはなんぞや
人生とはなんぞや
より良い社会は如何に
このブログは日本ブログ村に登録しています。
カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

禍福はあざなえる縄のごとしを考察する。運不運を分ける線引きについて、人の生きる目的はあらゆる生きとし生けるものと同じく種の保存にある。そのために日々生を維持しなくてはならない。従って好運とは、その目的に適う結果になった運の導きを指すと判断できる。

以前こういう番組があった。アジアの国から船舶の技術を習得する為に友人と日本に来ていた人がいた。ある時指を切断する重傷を負った。その為技術習得の為の航海に参加することができなかった。友人はその航海に参加した。しかし、その友人は海運事故で亡くなった。参加しなかった彼ももし健康体であったら当然参加して亡くなっていた。彼はその後国に帰り、日本語学校の教師になった。船舶の技術を習得するという夢は叶わなかったが、生きて故国で教職につくことができた。彼自身は幸福であったかどうかは分からないが、端からみて、彼が生きながらえたことによって、指の事故は好運だったと言えるのではないかと思う。それは命の維持につながった事故だったから。

運不運は出来事が起きたその時点でとにかく命が長らえることができていたら、好運だと思えば良いのではないかと思う。命あっての物種、命あっての運。


従って生きてる限りは幸運なのだと思えばいいのではないだろうか。



0303