豊臣秀吉、初めて象を見る  | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

「 南蛮人 戦国見聞記 」

~ 編者・訳注者 ~

M・クーパー (1930~)

会田雄次 (あいだ・ゆうじ 1916~1979 )

泰山哲之 ( 1923~)

株式会社人物往来社 昭和42年7月発行・より

 

 

 

 

 

聖人殉教事件のあった1597年の8月、マニラ王国の提督 フランシスコ・テリヨの使者 ドン・ルイス・ナバレテ・フハルドウ は、大坂から四十五

マイルの距離にある肥前平戸に到着した。

 

 

聖人殉教事件 ~  日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日慶長元年12月19日豊臣秀吉の命令によって長崎の刑に処された26人のカトリック信者。

日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。  ~ wikipedia

 

 

 彼は万一、道中で倒れることがあってはと、ディエゴ・デ・サウサを伴って来たが、彼の懸念は、後年事実となって現れた。

 

 

 さて平戸には僅か滞在(ママ)して出港し、秀吉が堺にいたとき大坂に着いた。

 

 

報せを聞いた秀吉は大坂に引き返し、城(大坂城)につくとただちに使節団を招いたが、彼に会見を申し込んで、すぐさま謁見されることは、まったく異例なことであったので、世人は大いに驚いた。

 

 

  使節団は秀吉への贈り物として、象一頭のほか、総督の肖像画など

貴重な献上品を携えていったが、まず最初に象が路上に降ろされた。

 

 

この動物は何年か前にカンボディアの国王が、豊後の殿様のドン・フランシスコ(大友宗麟)に送ったことがあるが、すぐに死んでしまったので、豊後の国の一部の人々が見物した以外、日本ではまったく見られたことがなかった。

 

 

そのため、象をひと目見ようと大勢の見物人が殺到したので、秀吉の家臣たちは、棍棒をもって警備に当る百人の男(足軽)たちを使って、群衆を整理しようとしたが、押えきれず、ついに数人の死者を出す始末であった。

 

 

 使節団の一行が城門に到着すると、治部少輔(石田治部少輔三成)、

玄以法印(前田治部輔法印玄以)を初め、その他の貴族(大名)たちが、赤痢に罹って衰弱していた ドン・ルイス を迎えるためにやって来た。

 

 

 城に入って一室に通されると、秀吉が当時六歳になる息子秀頼の手を引いて見物にでて来た。

 

 

 ドン・ルイスとディエゴ・デ・サウサ、それに四人の従者たちは、秀吉の前に進み出て、われわれの挨拶の仕方で、立ったまま三度頭を下げた。

 

 

 秀吉は鄭重なな言葉で、使節の労をねぎらい、通訳のロレンソに 「サウサは何処にいるのか」 と訊ねて、彼に 「ようこそ」 と会釈をした。

 

 

 秀吉が象の傍に近寄ると、象は象使いの命令で跪(ひざまず)いて鼻を頭上に持ち上げ、大きく咆哮したので、彼は驚嘆して 「あれは一体、何ということか」 とロレンソに訊ねた。

 

 

彼は秀吉の質問に答えて、「象はすでに殿下(秀吉)を知っているので、

ご挨拶したのでございます」 といった。

 

 

秀吉は大変感激して 「名前はついているのか」 と訊ねた。

 

 

 ロレンソがドン・ペドロという名前だ、と答えると、秀吉はさらに象に近よって 「ドン・ペドロ、ドン・ペドロ」 と二度ばかり呼びかけた。

 

 

すると、象は再び同じように挨拶したので、秀吉は非常に満足して、

「さて、さて、さて・・・」 といって、何度も拍手した。

 

 

この席には、朝鮮に遠征している以外の大名がことごとく列席していて、

全員頭を垂れて畏(かしこ)まっていた。

 

 

 秀吉は 「象は何を食うのか」 と訊ねたので、与えるものは何でも食べる、というと、間もなく。まくわ瓜と桃を盛った二つの皿が運ばれてきて、秀吉はそのひと皿を手にとって象に与えた。

 

 

象はそれを鼻でつかみ、頭の上にさし上げた後、口に入れたが、人から貰った物を、一度頭上におし戴くという作法は、日本人の礼儀作法とまったく同じである。

 

 

それから残りの果物を前に置いてやると、象は種子も出さずにぺろりと

食べてしまった。

 

 

秀吉は長い間、象を眺めたり、この不格好な動物が、素晴らしい知恵を

持っているということなどを聞いて、興味を覚えた様子であった。

 

 

 最後に秀吉は、使節や従者たちを次の間に案内して、日本料理や果物、熱い酒などを出して歓待した。

 

 

そして彼は、使節の呈出した書簡は都(京都)で読むから、まずは十分

休息してくれと親しく話してから部屋を出ていった。

 

 

 その後、使節団の一行は宿舎に帰ったが、他日、再び城中に招かれて、秀吉自からの案内で、この有名な城(大坂城)を見物し楽しんだ。

                                                       ( Bernardino de Avila girón )

 

 

 

 

 《 注 》 マニラ総督の使節ナバレテは、1596年(慶長元年)四国の

土佐沖で遭難したサン・フェリベ号の積荷の返還と、名護屋で秀吉に謁見した前項の記述者ベドロ、バチスタ神父が、生命を落とした長崎の殉教事件に抗議するため、フィリピンから派遣された使者である。

(略)

 

 使節ナバレテが秀吉に象を贈ったことは事実だが、見物人のことを述べた箇所は、アヴィラが人の噂をたよりに書いたもので、正しいかどうか分からない。

(略)

 

秀吉は1587年(天正15年)薩摩の島津氏を降して九州を平定後、博多の箱崎の陣営で、突如、切支丹の信仰を禁じた。

 

 

しかし、前項で述べたようにフィリピンと友好的交渉を持つようになり、フランシスコ派の宣教師ペドロ・バウチスタらに対して、畿内に居住し、布教することを許して、秀吉の布教令は有名無実になった。

 

 

 ところが1596年(慶長元年)マニラからメキシコに向ったスペイン船、

サン・フェリッペ号が暴風のために、土佐の瀬戸湾に漂着した。

 

 

秀吉は増田長盛を派遣して、130万ペソにのぼる積荷いっさいと、船員の所持金の全部を没収した。

 

 

このとき船長は増田長盛の取調べに対して、スペインの領土拡張の常套手段は、まず、宣教師を派遣して切支丹を布教した後、軍隊を送り、信者の協力のもとにその国を占領する、と答えたという。

 

 

しかし、これは日本側の史料にはなく、事実は不明だが、とにかく、これが原因で、京阪地方にいた宣教師や信者たちは大量検挙された。

 

 

フランシスコ派の宣教師バウチスタを初め、同派の宣教師六人、日本人耶蘇(ヤソ)会員三人、その他日本人信者十七人、計二十六人にのぼり、畿内から長崎に送られて翌年12月19日、西坂で処刑された。

 

いわゆる二十六聖人殉教事件である。

 

 

 この報告をきいたフィリピン総督は、ナバレテ使節を送って、殉教宣教師の遺物の引渡しと、フェリッペ号の返還を要求したが、秀吉は宣教師の遺物の引渡しだけを認めて、あとは拒絶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    道路の右側が興福寺  12月2日撮影