秀吉の大茶会はなぜ一日でやめたのか   | 人差し指のブログ

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「 学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康 天下統一の謎 」

井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)

株式会社PHPエディターズ・グループ 2017年11月発行・より

 

 

 

 権力者が一般庶民の参加を許した初めてのイベント。

それが 「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」 と呼ばれるものです。

 

 

 当時の大名はみなお茶をたしなみ、素晴らしい茶道具を誇ったりしています。

 

 

秀吉の金の茶室は有名ですが、秀吉もお茶は大好きでした。

 

 

そこで催したのが北野大茶湯です。

 

 

 この茶会では、まず秀吉が自慢の茶道具を展示して見せ、その後、秀吉が自らが茶を点(た)て振る舞うのですが、なんと彼はそれを茶の心得がある者なら誰でも参加できる、としたのです。

 

 

 庶民は、お茶の心得があったとしても、大名が所有するような 「名器・名物」 と言われるような茶道具を目にする機会など、一生かけても巡って

こないような時代です。

 

 

それを近くで見ることができる上、天下人が点てる茶を飲むことができる

かも知れないというのですから、まさに前代未聞の大イベントです。

 

 

実際この茶会では、身分の低い町人で秀吉に点ててもらったお茶を飲んだ人がいたそうです。

 

 

北野大茶湯は、天正15年10月1日1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催した大規模な茶会のこと。

この年の7月に九州平定を終えた秀吉は、京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と併行して大規模な催事を企てた。同月末より、諸大名・公家や京都・大坂茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出し、続いて7月28日に京都・五条などに以下のような触書を出した。

  • 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
  • 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
  • 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
  • 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
  • 遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。
  • こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない。
  • 茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること。

また秀吉は博多の豪商神屋宗湛にも参加を促す書状を送った 

                                   ~wikipedia

 

 

 ちなみに、このイベントは十日間行われる予定でしたが、実際にはわずか一日で中止になっています。

 

 

なぜ中止になったのでしょう。

 

これまでの通説では、肥後国(熊本県)で一揆が起こったので、それに対応するために中止になったと言われていたのですが、私は、秀吉の性格を考えると、一揆が原因であれば、むしろ中止にしなかったのではないかと思っています。

 

 

 遠くの肥後国で一揆が起こったくらいでイベントを中止したのでは、豊臣家のメンツにかかわるというのが秀吉の感覚だと思うからです。

 

 

 ではなぜ一日で中止してしまったのでしょう。

 

 

 これについては、千利休の伝記を書いた学者・芳賀幸四郎氏が面白いことを言っています。

 

 

秀吉は、どうも最初は本気で殺到する庶民にお茶を点てていたらしいのです。

 

 ところがあまりにも多くの人数が押しかけたために、疲れて嫌になってしまったのではないか、というのです。

 

 

 笑い話にような話ですが、私は案外これが真相に近いのではないかと思っています。

 

 

 というのも、このようなイベントを開くのはこれが初めてですから、実際にどれぐらいの人が来るのか、次々と押し寄せる人にお茶を点てて振る舞うのがどれほど大変なことなのか、秀吉自身はみちろん、周囲の人々もわかっていなかったと思われるからです。

 

 

 で、実際にやってみたら、あまりにも大変で、「とても何日もこんなことをやっていられない」 というので、一日で中止にしてしまった、というのは充分あり得ることです。

 

 

                                                                                     

 

 

 

「 真説・豊臣秀吉 」

池波正太郎 他

中央公論社 1996年4月発行・より

 

 

秀吉の茶の湯政道の怪   熱田公(あつた・いさお 1931~2002 

                       歴史学者 大手前女子大学教授)

 

 

 

 

 

北野大茶湯は当初十日間の予定のところをわずか一日で打ち切られてしまった。

 

 

肥後国の国人一揆蜂起の報が伝えられ、政情緊迫のため、とみるのが通説だが、それは 「ウソか」 とする当時の観測もあり、当初から一日しか予定していなかったのではないか、ともみられる記録もあって、真相ははっきりしない。

 

 

ただし一日で終わったことについて、秀吉はさほど不機嫌ではなかった。

 

 

九州からは神谷宗湛ただひとり参加したが、到着がおくれ、十月八日になって宗湛は聚楽第へ伺候した。

 

 小学館 大辞泉 より  かみや‐そうたん【神谷宗湛】

[1553~1635]安土桃山から江戸初期にかけての豪商。博多の人。    豊臣秀吉の保護を受け、中国・朝鮮・南方諸国と交易。千利休と交わり、 茶人としても有名。  茶会記録に「宗湛日記」がある。  紙屋宗旦。

 

秀吉は 「カワイヤ、ヲソク上リタルヨナ、ヤガテ茶ヲノマセウ」 と手もとらんばかりであった。

 

 

九州平定が終わったあと、博多商人は秀吉にとって格別の意味をもちはじめていたが、この応接から判断すれば、北野大茶湯は、秀吉自身不満足ではなかったように思われる。

 

 

当初から十日間を予定していたものなら、突然の中止は、専制者秀吉の気まぐれである可能性が高い。

 

 

そんな秀吉だからこそ、この大茶会が開かれたのである。

           ~ 初出 『歴史と人物』 昭和五十六年一月号 ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            興福寺付近  12月2日