「幕府」という言葉は使わなかった   | 人差し指のブログ

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「 日本人の敵 」

渡部昇一 (わたなべ しょういち 1930~2017)

テリー伊藤 (てりー・いとう 1949~)

PHP研究所 1999年4月発行・より

 

 

 

 

[ 渡部昇一 ]   徳川幕府もタブーでした。

 

            だいたい幕府自体も、「幕府」 という言葉も、あまり

            めでたく ないんです。

 

 

なんとなれば源氏の鎌倉幕府は三代で潰れたし、北条幕府も北条高時の代に一族全滅で潰れたし、足利幕府も十五代目は織田信長に追われ、

どこへ消えたか分からなくなった。

 

 

徳川政権は明らかに幕府なのですが、徳川時代には、幕府なんて言えなかったんですね。

 

 

 みんな遠慮して 「公儀(こうぎ)」 と言った。

 

 

敬って 「御(おん)公儀」 あるいは 「大(おお)公儀」、将軍のことは 「公方(くぼう)様」 と言ってね。

 

 

「桜田門外の変」 で首が落ちてから、幕府、幕府と言い出したんです。

 

 

そして幕府とは倒れるもの。  どの幕府もずっと倒れてきました。

 

 

そこから 「倒幕」 という概念が出てくるんですね。

 

 

 

 

 ところが、「桜田門外の変」 というのは、幕府を倒すための運動ではなかった。

 

 

井伊大老がけしからん、うちの殿様を蟄居(ちっきょ)せしめたと、水戸の藩士を中心とした十八人くらいに薩摩の浪士が一人加わった だけの連中が桜田門外で待ち伏せ、井伊大老の首を取ったんです。

 

 

それ自体は何ともなさそうだが、シンボルが倒れたら大きいですね。

 

 

ガタガタッと徳川幕府は崩れてしまい、七年後には明治天皇が桜田門内の宮城に入ったわけです。

 

 

                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                           12月10日の猿沢池付近