「随筆 私本太平記」 [新装版]
吉川英治 (よしかわ えいじ 1892~1962)
株式会社 六興出版 平成2年10月発行・より
小説と史実の関係 これは可なり面倒なことで、最近僕の書いたものでも問題になったから此際一言しておくが、一体史実なんというものは、どこまでが事実か分らない。
仮に何処かに行く途中で、一つの事件を或る三人が見て来るとする。
偖て後で三人が各〃その観察を述べれば、そこにもう喰い違いが出来て来る。
例えば桜田の事変の時でも、井伊掃部頭の駕籠へ一斉に切り込んで行った瞬間、あの事実を随分大勢の人が見ている。
松平出雲守の窓からそこの家臣が見て居たり、それから又往来の者が見ていたり、あの辺にいた葭簀張の親父とか非常に沢山のものが見ているのである。
それを後で幕府が当時目撃したという人間に皆書き上を出さしている。
その写本を僕は持って居るがそれを皆照し合わせて見ても、結局に於て皆違うということになっている。
掃部頭の駕籠に切り掛かる前に、相図に短銃を撃っている。
それを関鉄之助が撃ったんだというものもあるし、森五六郎だというものもある。
誰だ彼だというて同志の中でも四人も違った名前を挙げている。
それで結局に於て後の記録方が色々なものを綜合して、まあ誰々だろうということに決定している。
併し小説を書く場合事実を拾い上げるに、若し事実というものの価値を非常に極端に考え過ぎたらば、所詮いい小説は書けない。
そうかというて事実を軽蔑したら絶対にいけない。
どんな空想にしても、それは正確に事実は事実として究明して、そうしてあらゆるものから推理的に突き進んで行く。
詰まり事実でなければならないという把握がなくちゃならないと思う。
その基準は、要するに小説というものは、読んでいる読者の心理がこれは嘘だということが頭にぴんと来たらその小説は失敗と思う。
だから作者がどんな空想を書いても、読者の頭の中には、どうあってもこれは事実であるという感じを持たすことが、小説というものの一つの使命というてよいと思う。 (昭和十一年)