切腹の始まりは・・・  | 人差し指のブログ

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「 半日の客・一夜の友 」

丸谷才一 ( まるや・さいいち 1925~2012 )

山崎正和 ( やまざき・まさかず 1934~2020 )

株式会社文藝春秋 平成7年12月発行・より

 

 

 

 

丸谷 その例として非常に変な例を、僕は挙げたいんです。

    切腹の話です。

 

 

    これは、学問的にはまったく根拠のないことですから、あまり責任は

    とりたくないけれども (笑)。

 

 

    でもこの問題を責任のある立場で論じた学者はいないような気が

    する。

 

 

    それに乗じて、僕の考え方をちょっと展開します。

 

 

     切腹というものは、日本古代にないんですよ。

    『古事記』 『日本書紀』 にはない。 それ以後もずっと書いてない。

 

 

    最初に出てくるのは、 『保元物語』 における為朝の切腹らしい。

    それをちょっと頭のすみに置いてください。

 

 

保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。

保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を和漢混淆文で描く。  ~ wikipedia

 

 

     ところが、金関丈夫先生の随筆に、日本の武勇伝はみな中国に

    元があるという話がある。

 

 

    たとえば、村上義光が護良親王の身代わりになって戦い、切腹して

    腸を取り出して敵に投げつける。

 

    あれは、中国にあるんですって。

 

 

    それから、『寺子屋』、子どもを身代わりにして何とかする、これも

    中国にある。

 

 

菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。 ~ wikipedia

 

 

    それから安宅の関の弁慶、あれも中国にあるらしい(笑)。

 

 

源義経武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名~wikipedia

 

 

    ということを金関先生は書いた後で、『五代新説』 という本の中に       五代というのは唐の滅亡から宋の統一に至るまでの十年間

   の五つの王朝     、 こういう話がある。

 

 

    ある豪傑が敵陣に深入りして傷つく。傷口から腸が出て、いくら引っ

    張り出して整理しようとしてもきりがない。それで面倒なので出ただ

    けの腸を刀で切って、それで再び戦場に行って戦った。

 

    (略)

 

丸谷 宋、元の頃の通俗小説には、こういう話がいっぱいあったろうと思わ

    れるわけですね。

 

 

    それが、宋、元との貿易によって、日本にかなり入ってきただろう。

 

 

    すると、『保元物語』 の成立は鎌倉時代になってからですからね、

    そういうものをたくさん読んでいた作者たちが、それを使って為朝に

    切腹させたんだと僕は思うんです。

 

 

山崎 なるほど。

 

 

丸谷 そういうわけで 『平家物語』 では源三位頼政が切腹します。

 

 

    それもふくめて、源平の武将たちは、歴史作者たちによってみんな

    切腹させられたんじゃないか。

 

 

    それを読んで、後世の戦国時代の武将たちは、それを実際に真似 

    たんじゃないかなと思う (笑)。

 

 

山崎 何によらず、作法というものは、おそらくそういう経緯でできてくるん

    でしょうね。

 

 

丸谷 これは、僕の想像力による推定だから何ともいいようがないけれど

    も、でも切腹は平安時代に始まったと 『国史大事典』 には書いて

    あって、その証拠として挙げられるのは、戦記物語ばかりなわけで

    すよ。

 

 

    そうすれば、鎌倉時代における戦記物語作者たちの作為であると

    考える余地は、かなりあると思うんです。

 

 

    文学的にいって、この推論はかなり成立するのではないかな。

 

 

 

 

                              1月6日の奈良公園