黒船のペリーが日本に贈った「白旗」 | 人差し指のブログ

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「 ものぐさ社会論 岸田秀対談集 」

岸田秀 (きしだ・しゅう 心理学者 1933~) ほか

青土社 2002年9月発行・より

 

 

 

~ 見れども見えず、という病理 ~

          松本健一 (まつもと・けんいち 評論家 1946~2014)

 

 

 

 

 

松本 幕末の1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが四隻の

    黒船を率いてやってきた。

 

 

    この時、開国と通商を求めるフィルモア大統領の国書と共に、二本

    の白旗を送りつけたのです。

 

 

    開国に応じないなら戦争を始める。

    和睦を乞うなら白旗を立てよ、と迫った。

    砲艦外交ですね。

 

 

    ただ、後段の白旗の一件は長く隠蔽されていました。

 

 

    私はこの経緯も含め、日本の近代化について 『白旗伝説』(1995

    年刊、現在は講談社学術文庫)として世に問いました。

 

 

     ところが最近、この事実に異を唱える方々が現れた。

 

 

    それも私の著作にではなく、「新しい歴史教科書をつくる会」 が

    執筆に加わった中学の歴史教科書の記述に対して批判をした。

 

 

新しい歴史教科書をつくる会とは、1996年に結成された日本の社会運動団体。従来の歴史教科書が「自虐史観」の影響を強く受けているとして、従来の「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観」ないし「コミンテルン史観」にも与しない立場から新たな歴史教科書をつくる運動を進めるとしている。~wikipedia

 

 

    「歴史学研究会」 など二十一の学会が、「~つくる会」 の教科書の

    なかに五十六ヶ所の誤りがあると指摘したんですが、その代表例と

    して 「白旗」 の一件が槍玉に挙げられた。

 

 

    記者会見で東大史料編纂所教授・宮地正人氏が、ペリーの白旗

    を 「偽文書に基づく」 と批判しました。

 

 

宮地 正人(みやち まさと、1944年1月17日 - )は、日本歴史家

東京大学名誉教授。前国立歴史民俗博物館館長。

左派系歴史学者として知られ、歴史学研究会編集長、歴史科学協議会代表委員、日本歴史学協会学問思想の自由・建国記念の日問題特別委員長などを務めた。

国旗国歌法新しい歴史教科書をつくる会の教科書、沖縄戦集団自決の教科書記述削除などに反対するアピールや要望書に名を連ねてきた。

                                  ~Wikipediaより

 

 

     私の 『白旗伝説』 は発表当時、多くの方が評価してくださった。

     鶴見俊輔氏や高階修爾氏、それに岸田さんも褒めてくださった

     (笑)。

 

 

岸田 いや、あれはとても説得力があって面白かった。

    歴史の盲点をつく新発見です。

 

 

松本 そもそも、この原史料は東大の史料編纂所に所蔵されていて、

    研究者の間では知られていたものです。

 

 

    にもかかわらず、ペリーの 「砲艦外交」 とセットで論じられることが

    なかった。

 

 

岸田 それ自体、おかしな事ですね。

 

 

松本 まさに問題はそこだと思うのです。

 

 

    『白旗伝説』 が出たときも、歴史学会の研究者からは何の反応も

    ありませんでした。

 

 

    アカデミズム特有の閉鎖性からくるのか、それとも戦後占領期の

    閉ざされた精神空間のまま現在まで続いてきているせいなのか。

 

    (略)

 

岸田 ところで、『白旗伝説』 によれば、ペリーの信書は江戸城の火災で

    焼失したそうですが、現物が残っていれば文句をつけられる余地は

    なかったのに、残念ですね。

 

 

松本 ええ、安政六年(1859年)の火事で江戸城の本丸が焼失しました

    が、この寺時?)に外国奉行所所蔵の外交文書も燃えてしまった。

 

 

    しかし、当時は重要文書は必ず写本を作りますので、町奉行の

    もの、御小姓の久留氏が日記に書き残したものを高麗環という下級

    役人が写しとったものが、現在残っています。

 

 

    『大日本古文書』 のなかの 『幕末外国関係文書』 に文献として

    取り上げられている。

 

 

    これらの文書には、ペリーが 「白旗二旈」 を日本に贈ったという

    記述がある。

 

 

    写本だから信憑性がないという向きもあるでしょうが、高麗環も能吏

    として歴史上定着している人物です。

 

 

     しかも、ペリー来航の三週間後には、時の老中阿部正弘から諮問

    された前水戸藩主の徳川斉昭が外交建白書 『外交愚存』 を書く

    のですが、ここに  白旗を持参して和睦を強要するような国とは

    和平を講じる必要なし  とあります。

 

    焼失よりもずっと前です

 

                  ~ ( 『諸君!』 2001年10月 ) ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    2月25日の奈良・興福寺北円堂