『 鉄砲と日本人 「鉄砲神話」 が隠してきたこと 』
鈴木眞哉 (すずき・まさや 1936~)
株式会社 洋泉社 1997年9月発行・より
織田信長と鉄砲の関係については、大分誤解されているところがある。
端的にいえば実態以上に買いかぶられている場合が多い。
(略)
信長が早くから鉄砲に着目していたことについて、よく引かれるのは彼が十六,七,八のころから鉄砲の稽古をしていたという 『信長公記(しんちょうこうき)』 の記事である。
これが事実として仮に十六歳から鉄砲の訓練を受けたとすれば天文十八年のことになる。
ヨーロッパ系の銃が実戦に用いられたとみられる確証が出てくるのがこの前後だから、たしかに早かったには違いないが、同じころ紀州の雑賀衆などは小学生くらいの子供にまで鉄砲訓練を施していた。
信長の着眼が天才的だというなら、紀州人はそれ以上だったことになる。
天文二十四年(1555)一月、尾張の村木砦の攻撃に鉄砲を用いたこともよく引例されている。
たしかに鉄砲を実戦に使用した実例としてはかなり早い方だが、このころには各所で用いられているから、信長ばかりを褒めそやすのは いかがなものだろうか。
信長が大量の鉄砲を集めたという点についても色々と誤解がある。
よく いわれるのは天文二十三年(1554)四月、舅(しゅうと)の斎藤道三と会見したときに鉄砲五百挺を携えていったという話である。
しかし、根拠となっている 『信長公記』 の記事は 「弓鉄砲五百挺」 であって、そのうちに鉄砲が何挺あったのかは明らかでない。
この点はすでに一部の史家によって指摘されている。
後年になっても、織田軍はさしたる数の鉄砲を揃えていなかった ようである。
元亀元年(1570)九月、摂津野田・福島の三好党と戦ったとき応援にやってきた紀州勢が鉄砲を三千挺持ってきたと 『信長公記』 の著者太田牛一(ぎゅういち)は驚きを隠していない。
当時の信長が何千挺もの鉄砲を持っていたものなら、そんなにびっくりすることもないだろう。
野田・福島両城に押し寄せて 「御敵味方の鉄砲誠に白夜天地も響くばかり」 と、またまた牛一を驚嘆させたのはこれら応援の鉄砲隊であって、織田家の鉄砲隊が出ていった形跡はない。
惜しんで出さなかった というより、もともと それほど無かったからだと思われる。
長篠合戦の時点でも、主戦場に出した鉄砲は通説とは違って千挺ほどでしかなく、それも麾下の諸将から少しずつ提供させた寄せ集めだった。
信長が早くから大量の鉄砲をあつめていたという話が事実とかけ離れて
いることは明らかである。
(略)
武田信玄と鉄砲の関係についても大分誤解がある。
それも信長の場合とは反対で、ひどく過小評価されているのである。
信玄晩年の元亀三年(1572)十二月の遠江三方原(みかたがはら)の戦いの時点でも武田勢は鉄砲を持っていなかったと断言したものまで見たことがあるが、これは暴論を通りこして妄論である。
この戦いで武田勢が鉄砲を撃ちかけてきたこと、それにより徳川方の先手(さきて)が動揺したことは徳川側の史料も認めている。
ここまで極論はしないまでも、織田信長が早くから鉄砲に着目していたのに対して、武田氏はこの新鋭の武器に鈍感だったために信玄の死後長篠の敗戦を招き、それが滅亡につながったというのは、歴史家の間では 「公論」 のようになっている。
しかし、信玄が早くから鉄砲に目をつけていたことは、天文二十四年(1555) 夏、信州川中島近くの拠点旭山城に多数の鉄砲を送り込んだという事実によっても知れる。
史料を素直に読めば、信玄の鉄砲に対する関心の深さはその後の軍役の状況などからもうかがえることであって、史家の中にもそれを指摘している人はいるが、大勢はいまだに武田勢はろくに鉄砲を持たなかったとか、鉄砲の威力を知らなかったとか言っている。
長篠で戦うに当っても武田勢が多数の鉄砲を用意していたことは、彼らに包囲された長篠城の建物が激しい銃撃で壁土をふるい落とされて(籠(かご)のようになり、戸板は撃ち抜かれて障子(しょうじ)のようになっていたという戦後の目撃証言からも明らかである。
証言者は徳川家康その人なのだから、このくらい確かな話もない。
武田勢が鉄砲の威力を知らなかったという 「俗説」 も、この時代鉄砲防ぎに用いられた竹束が武田家で開発されたものだ とあっては維持しようがあるまい。
5月26日の猿沢池、右に興福寺五重塔