信長とフロイスの会見の詳細  | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

ルイス・フロイス(、1532年 - 1597年慶長2年))は、ポルトガルカトリック司祭宣教師イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。   ~wikipedia

 

 

 

 

「 南蛮人 戦国見聞記 」

~ 編者・訳注者 ~

M・クーパー (1930~)

会田雄次 (あいだ・ゆうじ 1916~1979 )

泰山哲之 ( 1923~)

株式会社人物往来社 昭和42年7月発行・より

 

 

 

 

 信長は二条城の作業場にいたが、私(フロイス)たちがやって来るというので、堀にかかっている橋の上に立って、私たちが来るのを待っていた。

 

 

信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。

二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。

前住者の二条晴良昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じた。

翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。 ~ wikipedia

 

 

 彼の周囲には、およそ六,七千人の人々が働いていたが、私は遠くから信長に挨拶すると、彼はすぐさま私に来るようにと命じた。

 

 

われわれが橋の上の板に腰を下すと、彼は陽光が強いから被物(かぶりもの)をかぶれと言って、これから私たちと二時間ばかり話しあったのである。

 

 

 彼はさっそく質問を始めた。

 

年齢(とし)はいくつになるのか、ポルトガルやインドからは日本に来るのに、どれだけの距離を航海したのか、ポルトガルにいる家族の者は、汝に会いたがっているのか、南蛮(ヨーロッパ)から毎年手紙をうけとるのか、日本に滞在しないのか、というような一般的なことを訊ねた後、もし日本で”神(デウス)の教え”が広まらなかったらインドに帰るのか、ときいた。

 

 

私は、たとえ信者が一人しかいなくとも、どの宣教師(パードレ)もこの地に

とどまり、その一人のために生涯を捧げるであろう、と答えた。

 

 

 ついで彼は、なぜ都には私たちの会の家(教会)がないのか、と訊ねたので、私に同行したローレンソ修道士が答えた。

 

 

        良い種も膨(ふく)らみすぎると、芽を出す前に駄目になるが、それと動揺に、仏教の僧侶(ボンズ)たちは、だれか貴人に切支丹に改宗したということを知ると、ただちに伴天連に圧迫を加えて、布教活動の邪魔をしようとする。

 

 

日本には切支丹教徒になりたい者は多いが、こういう妨害を見てためらっている。

 

 

 ローレンソ修道士が、そう説明したので、信長はそれの返事のかわりに、僧侶たちの悪い習慣と、腐敗堕落した生活について詳しく語り、彼らは富を持ち、楽をしようということが目的である、と罵った。

 

 

すかさずこの機会に、われわれが日本にやってきた理由を、さらに信長に理解してもらおうと、私とローレンソはこもごも語った。

 

 

 私たちは名誉とか、富や名声を得るために、はるばる日本に来たのではない。

われわれの唯一の願いは、世界の創造主であり、人類の救い主である神の教えを説いて、布教することだけが望みで、このほかにいかなる利益や野心も考えていない。

 

 

そこで、いまや日本の最高権力者である閣下(信長)にお願いがある。

 

 

 其れは日本の宗派と私たちの説く宗教とを比較していただきたいということで、おそらく閣下にも興味のあることと思う。

 

 

どうか比叡山の大学(延暦寺)や紫野の禅寺(紫野大徳寺)の著名な学者(僧侶)を初め、足利の学院(足利学校)で学んだ学僧たちを召集して下さい。

 

 

私は閣下の前で彼らと宗論をたたかわせるから、公平に審判していただきたい。

 

 

もし私が負ければ、彼らは私どもを無価値なものとして、都から追放する理由を得ることになり、反対に彼らが負けたとお思召されたら、彼らに神(デウス)の教えを聞かせ、それを信奉させるようにしていただきたい。

 

 

さもなければ、私たちは常に迫害され、われわれの論理に根拠があるということも、また彼らの教理に反論することもできない、といった。

 

 

 これを聞くと信長は哄笑して、側近の者たちに 「さすが大国には、大いなる才能と鞏固(きょうこ)な精神が生まれるものである」 といい、私たちの方へ向いて、「はたして、日本の学者(僧侶)が宗論の挑戦を受けるかどうかわからぬが、多分、いつか一度はやることになるであろう」 と答えた。

 

 

 信長はそれから 「和田殿」 を呼んで、公方様(将軍足利義昭)のために彼が建てている二条城を、私たちに見物させるようにと命じた。

 

 

私は靴を脱いで 《 この国には貴族の前を通るとき、草履を脱ぐ習慣がある 》 信長のそばを通って橋を渡ろうとすると、信長は高い声で二,三度私たちを呼び止めて、遠慮しないで靴を履くようにと言った。

 

 

 私たちが和田殿の案内で、城内をあちこち見物して廻っていると、信長の使いの者が急いでやってきて、城を隈なく見物させるように、という信長の伝言を言ってきた。

 

 

私たちは城の観覧を終えて、別れの挨拶をするために、彼のもとへ戻ると、信長は別れを惜しんで、私にまた合って話しあおうと言った。

( Luis Frois,S,J )

 

《 注 》 「和田殿」 とは、フロイスに大変好意をよせ、いろいろと彼を助けた和田惟政のことである。

 

 

 

 

 

                 5月26日の猿沢池と興福寺五重塔