ペリーの来航と沖縄の対応 | 人差し指のブログ

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「国家と人生 寛容と多元主義が世界を変える

竹村健一(たけむら けんいち)・佐藤優(さとう まさる)

株式会社太陽企画出版 2007年12月発行・より

 
 
 
<竹村>     そもそも、沖縄は琉球王国という独立国で、それとは別の久米島という独立国があったわけね。
 
 
<佐藤>     16世紀の初めまでは、そうです。琉球王国は独立国だからアメリカと単独で条約まで結んでいる。
 
 
1885年に日本に来航した帰途、ペリーは沖縄に立ち寄って 「琉球和親条約」 を結んだのです。
 
 
面白いのは、そのときペリーはひどく怒っていたことです。
「琉球王国の連中は嘘ばかりつく」 というのです。
 
 
これは岩波書店から出ている 『日本近代思想体系』 の第一巻 「開国」 に記述されています。
 
 
当時、琉球の人は西洋人をすべて 「ウランダ」 と呼んでいた。
オランダが語源なのですが、そのウランダがやってきたときの対外応答要領、想定問答をつくっているのです。
 
 
「砂糖がどれくらい取れるのか?」  「さあ、たいして取れません」
「日本との関係は・・・・。従属しているのか?」
「さあ、どうなっているのかわかりません」
 
 
こんな形で、「できるだけ頭が悪いようにふるまえ」 という趣旨です。
 
 
要するに、何の資源も価値もない島だと思わせて、アメリカが占領意欲を失うように仕向けろというわけです。
 
 
「何も取れない。せいぜい中国や日本から物品が流れてくるだけの価値のない島。だから中国や日本に行ったほうがいいですよ」 と誘導するような問答集をつくっていたのです。
 
 
<竹村>     こんな島、占領したら、大きな負担になるだけだからやめなさいというわけですか・・・・・・。
 
 
<佐藤>     ペリーもそうなのかと思っていたのですが、やがて違うことに気づきます。そこで 「琉球王国の連中はとんでもない嘘つきだ」 と怒るんです。しかし、いくら押し問答してもきりがないので、あきらめて帰途につく際に、ペリーは沖縄を測量していくのです。
 
 
いざというときを想定したんでしょうね。これが後に役立った。
 
 
1945年4月、沖縄戦で米軍がすんなりと嘉手納湾に上陸できたのは、ペリーが測量した地図が残されていたからです。
 
 
<竹村>     ペリーの測量は、それほど正確だったのですか。
 
 
<佐藤>     技術的には高度でした。もし日本との間に 「日米和親条約」 が結べなければ、アメリカはボニン諸島、つまり小笠原、もしくは琉球を占領するという計画を持っていました。
 
 
おそらく琉球王朝府はアメリカが沖縄を占領するというシナリオがあると気づいていたのでしょう。
 
 
なんとしても日本と和親条約を結ばせ、琉球に眼を向けさせないようにする、そんな計画を立て、問答集まで準備してペリーの関心を日本に向けるよう誘導したわけではないかと、私は史料をちょっと深読みしているのです。
琉球の人は、なかなか知恵がある。
 
 
 
 
5月18日 光が丘 四季の香ローズガーデン(東京・練馬)にて撮影