右手の指が六本あった豊臣秀吉 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

「英傑の日本史 信長・秀吉・家康編」

井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)

株式会社 角川学芸出版 平成18年8月発行・より

 

 

 

秀吉の右手の親指は二本、すなわち右手の指は六本あったのである。

 

これはまったくの事実だ。

 

 

 まず、当時布教のために来日し、実際に秀吉と何度も会っている宣教師

ルイス・フロイスの本国への報告書に 「秀吉は右手の指が六本ある」 と書かれている。

 

 

秀吉はキリスト教を弾圧したから、これだけなら根も葉もない悪口と考えられないこともないが、実は秀吉の盟友でもあった前田利家の回想録にも、

同じことが書かれているのだ。

 

 

『国祖遺言』 と名付けられたその記録は、京都大学や金沢市図書館にあるが、現代誤訳すれば次のようなことが書かれてある

 

 

「太閤(たいこう)秀吉様の右手の親指は六本あった。ある時、聚楽第(じゅらくてい) (秀吉が京都に築いた御殿) の小部屋で、利家様は蒲生氏郷(がもううじさと)、前田利家、金森長近の三人と余人を交えず夜中まで話されたそうだ。

 

その時、『太閤様ほどの御方なら若い時に六番目の指を切り捨てた方がよかったのに、とうとうそうはしなかった』 ということが語られた。

このことは信長様が太閤様のことを 『六つ』 などと呼んでいたことがさまざまな物語で語られているので、確かなことである」

 

 

実は、秀吉の指について証言している史料は今はこれだけで、「さまざまな物語」 は一つも残っていない。

秀吉が抹殺したのだろう。

(略)

 

念のために申し添えるが、この 「秀吉多指症説」 は、私が言い出したことではなく、古くは 『フロイス日本史』(中央公論社)の全訳者として有名な安土桃山時代史の第一人者松田毅一(きいち)博士が既に著書に書いていることだ。

 

 

最近でも作家で医師の篠田達明氏も雑誌(「藝術新潮」一九九八年八月号)で取り上げている。

 

 

それなのに、なぜもっと大っぴらに語られないのか、篠田氏は 「たえず目の前にぶらさがった六本目の親指が、かれの人生与えた影響は決して小さくなかったであろう」 と言っている。

 

 

この言葉を否定することは誰もできないのではないか。

 

 

事実は事実なのだから、それを下手にタブー視せず、積極的に教える姿勢が必要なのではないか。

 

                                       

 

 

「フロイスの見た戦国日本」

川崎桃太(かわさき ももた1915~)

中央公論新社 2006年2月発行・より

 

 

フロイスの秀吉を見る目は冷めている。

信長とは対照的に、領主としての気品と武将らしい威厳に欠けていたためか、この人物には厳しい評価を与えている。

 

  

  彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、

  片手には六本の指があった。

 

  眼が飛び出しており、シナ人のように髭が少なかった。

  男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき作略家であった。

 

  彼は自からの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、

  それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。

 

 

  家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、

  嫌われ者でもあり、

  彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。

 

 

4月14日 樹林公園(埼玉・和光市)にて撮影