【8】自己憎悪社会 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

 


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HNK取材班『生活保護 3兆円の衝撃』は、「維新」推進のプロパガンダ本かも!?


後期近代の眩暈には、
社会的地位と経済的立場の不安定さ
という二つの原因がある。
・・・とりわけそれは、
中間管理職から熟練労働者まで皆がみな中産階級だとされる、
アメリカ的な意味合いでの中産階級に顕著である。
眩暈をおぼえるのは〕
社会的地位が経済的立場と密接に結びついている人びと…
〔であり、〕
ライフスタイルのあり方が生活水準に大きく左右される人々である。
・・・転落の恐れは、すべてを完全に失うことへの恐れとなる
つまり、
人生には自らの選択したキャリア、結婚、コミュニティにおける個人の上昇が含まれるという近代的な感覚と物語失われかねないのである。
〔経済のグローバル化やオートメーション化、新自由主義政策によって、
経済的立場と社会的地位とを脅かされる、広範な中産階級は〕
かれらの仕事は脅かされ
〔貧困層など〕アンダークラスは文化的な社会から離脱しているくせに
われわれの税金で生活し、求められる日々の犠牲を払っていない
と考えて、
〔アンダークラスに対して〕ルサンチマンを覚える
のである。”
(ジョック・ヤング【著】/木下ちがや&中村好孝&丸山真央【訳】
『後期近代の眩暈』 青土社、2019年、34-35頁)

――――――――――――

自らの仕事と足元を脅かされて
立場が不安定な、
正規雇用等の中流階級層による
アンダークラスに対する《ルサンチマン》を、
ジョック・ヤングは
その著作『後期近代の眩暈』で指摘した。

 仕事を脅かされて不安定な正規雇用等の、
中流階級層によるアンダークラスに対する
《ルサンチマン》の背景には、
グローバル化、テクノロジー化/技術革新、
新自由主義政策
があるようである。

このページでは、
正規雇用の中流階級による
アンダークラスに対する《ルサンチマン》現象
と、
その背景構造についてを見ていく。

――【黄金時代/フォーディズム時代から、
        後期近代時代への変容】――

まず、フォーディズム経済から
フォーディズム経済が成り立たなくなり
ポスト・フォーディズム/後期近代》に
変容した様子、その様子の比較を見ていく。



“『排除型社会』では、
一九五〇年代から六〇年代にかけての戦後の包摂型の世界を、
その後の二〇世紀の残り三分の一
それ以降の後期近代におけるより排除的な社会秩序と対比させて論じた。
エリック・ホブズボウムのいう、就業率が高く、雇用が保障され、
婚姻関係よコミュニティが安定した「黄金期」は、
その後のより不安定で分断された社会対照的である。
黄金期には、
社会的埋め込み、個人と社会の物語【ナラティヴ】の高い確実性、
逸脱者や移民やよそ者のどうかを指向することが当然視されていた

それに対して後期近代は、
経済的不安と存在論的不安の両方を生みだし、

個人と社会の物語を切断し、逸脱者を排除しようとする傾向がある。

 前著では、
後期近代社会の社会的排除のなかで
最も目に見えるかたちで顕在化したものから議論を始めた。
そこでは後期近代の社会的排除を、
労働市場、市民社会、国家という三つの段階に分類した。
労働市場でとくに注目したのは、
正規労働市場の衰退と、不安定、短期契約
多様なキャリア形成を特徴とする非正規労働市場の拡大
および周辺部のさらに周辺、
つまり構造的失業下に置かれ、仕事のない状態にあるか
さもなくば最低賃金で働かされているアンダークラスの拡大である。

 こうした労働市場からの排除は、
市民社会からの排除対応していた
アンダークラスは、
インナーシティでも郊外でも
住宅不動産を購入する資金に窮したまま放置されていた
また無学である、
家族が機能不全に陥っている
あるいは全般的に解体状態にあるという理由で、
市民の一員であること【シティズンシップ】から排除された
空間的にみれば、
かれらは常に秩序をかき乱す危険な存在とみなされ
堅気の市民たちの世界からスティグマ〔汚名などの「負の烙印」〕を付与された。
福祉「ゴロ」、移民、麻薬常習者、薬物中毒患者

つまりは近代社会の諸悪の根源というわけだ。”
(ジョック・ヤング【著】/木下ちがや&中村好孝&丸山真央【訳】
『後期近代の眩暈』 青土社、2019年、41-42頁)


フォーディズム経済が崩壊して以降
ヤングの言う《後期近代》では、
次のような3つの階層が出来上がってしまった。



“これまで、
後期近代の社会的環境の全体像
描きだすことを試みてきた。
先進国の製造業の衰退
多くの仕事のオートメーション化
それ以外の多くの仕事のアウトソーシング
これらは階級構造全体を震撼させてきた

頂点に立つセレブリティと金持ちのエリート、
また微増した専門職階級は、
この世界では物質的にも存在論的にも安定した存在
である。
しかしその真下には、
銀行員や投資コンサルタント、また航空技師や会計士といった、
不安定で流動的な中流階級が膨大に存在しているのだ。
かれらは以前よりは裕福になったが、
それがいつまで続くのかはっきしないので、
時にはそのライフスタイルと人生設計を
仕切りなおさなければならない

さらにその真下には、
製造業の職を失い、

組合攻撃の大攻勢を受け、
日々明白な転落の恐れを感じている
労働者階層がいる

そしてその下には
ーーこれについてはもちろん数多くの議論がある。
(中略)
・・・私〔ジョック・ヤング〕は、
下級階級は、
サービスや家事、安全を他の人びとに提供する

使用人階級に自らつくりかえてきたと主張したい。
下級階級は
機能不全の存在などでは決してなく、
労働力を再生産し
商店やレストランで消費財の費用を安く維持するためには
不可欠な存在
である。
まさにそれは、
全体構造の下層領域として社会的に欠かせない役割を果たしている。”
(ヤング、邦訳、193-194頁)


ーーー【加速装置付き資本主義】ーーー

ヤングは、
エドワード・ルトワクによる1995年の記事
加速装置付き資本主義とその帰結」や
1999年に出版するその著作を取り上げて、
経済のグローバル化および新自由主意政策
また株主資本主義化した中で、
企業の役員や経営者や株主は、
その利益を手に出来る
が、
現場の従業員の場合は雇用が融解していき、
職や生計が不安定化していく

という二極化する模様を紹介する。


グローバル化やアウトソーシング化
市場の規制緩和

単純労働のコンピュータ化により、
従業員の人員削減が可能になることで、
企業の株式利益は目覚ましく増進したが、
その利益の増進の格好は、
労働者の職は不安定化すると同時に
株式利益は70%も上がるのであった。

【関連記事】
44】②乗数の《穴》と《ポスト工業社会》と《不動産バブル》と《負債経済》

“ルトワクは、
われわれになり代わって
これら三つの数字を関連づけてくれている。
まずはグローバル化の進展である。
市場の規制緩和は、
ボーイングの航空機販売を世界中に広げ、
それと同時に、機体の一部の生産を
労賃が安いところへ地球上どこにでもアウトソーシングさせている

これが、単純労働の多くのコンピュータ化と結びつくと、
従業員の人員削減がなされ利益がめざましく増進する

職員はかつてのように不況時にのみ解雇されるではなく、
もっと贅肉のとれた有能な中核労働者を得るために、
好況時にこそ解雇される

・・・ボーイングの従業員が自分たちの仕事が不安定だと感じるのは
そのとおりである。
中核労働市場でそれなりの職に就きにくくなっている一方、
周辺的な低賃金のサービス部門の職が増え
失業者に対する公式、非公式の支援が衰退しているという現実が、
かれらの不安をいっそうかきたてる

(中略)

「加速装置付き資本主義」は、
産業全体の盛衰全体が以前よりもはるかに速いために、
人員削減が急速に進行するので、
大部分の中産階級を不安定で心配な状態に追いやるが、
それだけにとどまらない。
経済的に無用だとみなされるアンダークラスを生みだし
次に犯罪率が高まり
アメリカのありとあらゆる大都市に無法地帯をつくりだした
のである。

 「広範な中流階級を不安定にすることの代償は、
どんな社会でも大きい」と彼は警告している。
(中略)

彼は、
犯罪と刑罰の両方の変化の基礎に経済を据え、
経済の変化の基礎をグローバル化の諸力に置いている

彼は犯罪と刑罰の両方を扱い、
アメリカの刑務所の拡大を不寛容な文化全般のなかに位置づけた。”
(ヤング、邦訳、36-38頁)

――――――――――――

ますますフレキシブル化する労働力需要は、
オートメーションの飛躍的な進展
コンピュータソフトウェアの高度化と結びつくことで、
雇用全体の不安定化に大きな影響を及ぼしてきた。
余剰人員の整理、短期契約、多様なキャリア構造は、
今や当たり前になっている

さらに、
ジョセフ・ラウントリー財団の報告書『仕事の不安定化と労働強化』が
明らかにしようとしたように、
余剰人員の削減によって、慢性的な仕事の不安定化が生じるだけでなく、
残った労働者は より長時間労働を強いられ、
穴の開いた持ち場をカバーするために技能を向上させなければならなくなっている

仕事に就いている人の労働日数は増えている


雇用不安のなかで雇用主が一層の長時間労働を要求するのは、
以前に比べて たやすくなっているのはいうまでもない。
弾力性のないところでは市場競争は生じない。
そこでは時間の弾力化が目をつけられてい無防備なところが狙われる

また、以前は一人の稼ぎ手が家族を十分養えたが、
今では二人が労働市場に身に浸みて働かなければならないことが当たり前になった
経済の領域で不安定化と不確実性が広がる
家庭の領域にも不確実性が広がる
離婚、離散、片親化が地域により さまざまな形で現れている。
労働の圧力後期近代家族をひたすら不安定化するのである。”
(ヤング、邦訳、53頁)

――――【シングルマザー】――――

経済のグローバル化や新自由主義政策、
技術革新による人員削減により、
雇用の領域において
不安定化が拡大する
ことに相関して
家庭の領域においても
不確実性や不安定化が拡大した

《ポスト・フォーディズム化経済》が降りかかった、
《家庭や世帯における不安定化》は、
離婚、離散、ひとり親化”の増大
という形で、
現われている。
《後期近代》は、家族をひたすら不安定化している。
たとえば、
“シングル・マザー”化世帯の増加という格好でも。



“アンダークラスに関する近代の著作には、
ある奇妙な一致がみられる。
(中略)

インナーシティ全域は
かつて製造業の必要性により形成されたが、
資本がより有利な条件を求めて
国内外の他のところへ移動すること

見捨てられ放置されている
中流階級や上層労働者階級は郊外に逃げだすが、
非熟練工は、
仕事と、労働規律や時間厳守、
信頼性といった価値観を示す役割モデル
奪われたまま、そこにとり残されている
そして次に、
仕事なくなること
家族を養える賃金を稼げる「結婚できる男」不足し

ゲットーでのシングルマザーの増加つながっている
さらにそこでは、
職が失われるのと並行して、家族の役割モデルもまた衰えている
。”
(ヤング、邦訳、53-54頁)

--------------------------

自由・平等・友愛とリベラルであることを呪文のように唱える社会は、
労働市場で、街頭で、外の世界との日雇い契約で、

構造的に排除を行なっている
かくして、
世界が「勝ち組」と「負け組」から成り立っていると信じこまされた人びと
「負け組」のらく印が押されるのである。”
(ヤング、邦訳、56頁)

以上に見てきたように、
経済的基盤を、
今日のグローバル化やアウトソーシング
テクノロジーや機械による人員削減、
新自由主義政策によって
脅かされている中流階級層にとっては、
雇用を奪われる事と
人生設計や家庭、社会的地位を失うこととが
密接に直結しており、
雇用を失っていなくても
そうした外的影響によって
ますます職場における自己犠牲を強いられている。
そうした中流階級層にとっては、
仮に正規雇用であっても、
また高収入であったとしても、
その心理的根底に、
プライベートな時間を《奪われる事からくる憎悪》
仕事上、《自己犠牲を強いられることへの憎悪》

その底部にあり、それとリンクしている
《競争による脅威やカオスへの怯え》、
経済的基盤が脆いことの《恐怖感》や《無力感》などの“怯え”に苛まれながら、日々を暮らしているのではないか。

年収に関係なく、
経済的基盤が不安定な中流階級による
アンダークラスに対する《ルサンチマン》
は、
じつは、
経済的に社会的に不安定な構造上で
何とか生きざるを得ない状況にある、
《状況や無力に対する憎悪》の裏返しなのではないか?


ヤング『後期近代の眩暈』からは、
上のような読解の仕方までは出来ないはずなのに、
そんなことを書いてしまう念頭には、

】でも引用した、
テッサ=モーリス・スズキによる、
或る現代社会解剖観があるからである。

もちろん、
地域や状況による違いはあるだろうが、
どの地域でも想像はできる現象について、
グローバル化や新自由主義政策などによって
荒廃化と殺伐化や閉塞感が深刻化する、
共通した先進国社会の状況を、
モーリス・スズキの叙述の角度からと
ジョック・ヤングの叙述の角度からと、
それぞれ見ているように思える。
ーー私は、この記事では
憎悪」という視点で
叙述展開を構成した。
ひとが《孤独》を克服する術は
「愛」しか無い
と思っている。
《孤独》と、それぞれの孤独を結ぶ《憎悪》とが
社会に蔓延すれば、
それを《ファシズム》や《全体主義》が養分とし、
新たな悲劇が繰り返される
のではないか?
今のところは、そう思っているーー。

いま一度、モーリス・スズキの叙述を
以下に引用する。



“ この極端な原理主義は、
個々人は
自らのことのみに関心を持つべきであり、
従って、
なにごとも社会に要求せず、
国家に「迷惑」を及ぼすことを禁ずる

ポピュリズムによるヒステリーの助けを借りた、
政府及び企業市場が強調する個人主義である。
すなわち、自己責任の教義は、
ここで全体主義的個人主義(totalitarian individualism)に変質する

(中略)
 おそらく全体主義的個人主義は、
その言葉が示すほどには
矛盾を孕むイデオロギーではあるまい。
極端な自己責任のイデオロギー
共同体的憎悪の高まりの間には
直接的な連関がある

とジグムント・バウマンは指摘した。
(中略)
現代社会では、個々人は
ますます自己責任を負うように迫られ

労働組合、宗教、地域社会といった、
かつて人々に帰属意識や生きる意味を提供してきた社会組織はその結合力
失っている

まさにこの文脈によって、
憎悪の共有だけが、人々に
他者とともに帰属と連帯感を、素早く強力にしかも心地よく提供する唯一の道
となってしまった。


こうして人々は、
バウマンがいうところの
「プライバシーの刑務所(the Prison of privacy)」からの
つかの間の安らぎを享受することができるのである。

 普段は見つけることができない
政治的なはけ口
恐怖フラストレーション
を、
人々は憎悪によって代替し、表現できる。
それゆえ
憎悪の共有と高揚
ますます増大するのだろう

とバウマンは述べた。
この意味において、
憎悪およびヒステリーの政治学は、
私が本書で論じた政治的無力感
深く結合したもの
である。
自由を謳歌せよ、自己責任を負え、
と いかに教化されようとも、
多くの人々は、
自分たちが理解も管理もできない力の支配下にあること
を知っていた

 同じく、多くの人々は、
不公正で欠陥に満ちた社会に生きていること
自覚している
が、
その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。
何もすることができないまま
不公正な社会を生きる
には、
その対応として、
次の二つの選択肢を採用する。
一方は、
世界を変えることのできない
自分自身の無力さを嫌悪すること
であり、
他方は、
外部に標的を定めて感情を表出することである。
そして、
不公正の原因が特定できない時
この怒りの破壊的な力は、
壊しやすいものに向くことになる。
すなわち弱者や少数者や異物が
標的と定められる

デッカ・アイケンヘッドが報道した
憎悪および日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、
換言すれば、
自身をとりまく世界に
有意義な関与できないことに対する
個々人の大きなフラストレーション
から発した
行き場のない憎悪

出口を発見したといえる。
現在世界は、
はけ口を探す絶望的なフラストレーション
さまよい歩く恐怖で、満杯となった容器
のようだ」
とバウマンは述べた。

 現代社会が孕むフラストレーションの具体的な痕跡
「2ちゃんねる」のようなインターネットの掲示板
見ることができる。
その掲示板の書き込みを読んで驚くのは、
(おそらく)教育水準もそれほど低くない若者たち
毒々しい憎悪をあからさまに表現している
というだけでなく、
それが執拗に繰り返されている点だ。
その悪意に満ちた言葉は、
まるで出口を求め制限された空間の中を飛び回るハエの羽音のようだ。
掲示板に書き込まれるレトリックは
同じものの繰り返しにすぎないが、
しかしその標的は目まぐるしく変化する。
ある時は憎悪の行き先が
北朝鮮や「中国人犯罪」だったかと思うと、
次に
イラクで拘束された3人のような特定の個人や集団へと変化する

標的を求めて「彷徨する」憎悪である。
まさにそれゆえ、
この憎悪は深刻に受けとめねばならない
イラク人質に対する憎悪の嵐が
たとえ過ぎ去ろうとも、
新しい危機はまた訪れ、
その際には
より大きい共同の憎悪の標的が
必ず新たにデッチ上げられるのだから
。”
(テッサ=モーリス・スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』P.205-208)


そういえば、
YouTube上で、
「インフルエンサー」が供給し、
かき立てているのは
《生への嘲笑》《破壊》《憎悪》
ではないのか?

《生への嘲笑》《他者の真剣を壊すこと》は
《自己憎悪≒他者憎悪》の裏返し
かもしれない。


――――――――――――――――――

話を、
ヤングの《ルサンチマン(怨念)》に戻すと、
ヤングは、
現代の先進国社会に見受けられる
《ルサンチマン(怨念)》を、
次のように説明する。



“ルサンチマンとは、
誰かが業績に不相応な報酬を得た際に生じる
単なる不公平感ではない。
ルサンチマンは、
誰かが
市場一般の努力と報酬の関係
抜け道したとき
に、
また まさにかれらが望むものを
―—より正確にいえば
あなたが望んでいて、
多大な労力を費やして

はじめて手に入れられるものを——
まったく努力することなく手に入れた

と認識されたときに生じる
。”
(ヤング、邦訳、92頁)


【4】において、
フロムによる暴力の類型整理の1つで、
《反動的暴力》という形態を見たが、
その暴力と重なる点がある。
旧約聖書の物語で、
兄カインの弟アベル殺害の譬えをもって
説明した、あの暴力
「欲求不満による敵意」
「羨望と嫉妬から生じる敵意」
)。

ヤングは、
《ルサンチマン》の社会的背景には、
経済的な立場と社会的地位との
構造的な不安定さ
がある、と指摘する。
次の引用に見られるように、
アメリカ社会のルサンチマンには
・〈見上げる者〉のルサンチマンと、
・〈見下げる者〉のルサンチマンとがある、という。
このブログでは、
〈見下げる人〉によるルサンチマンだけを拾う。



経済的な立場と社会的地位の不安定さが、
その双方の領域での剝奪間とあいまって、
どのようにして階級構造を見上げる人にも見下げる人にも
ルサンチマンの感情を広範に生じさせる
のかを
述べてきた。
このような不安定さは、
眩暈の感覚として経験される。
満ち足りた少数の人びとの幸運な世界の外では、
怒りと嫌悪に染まった不確実性が存在する。
さらにこのプロセスは、
社会全体と幅広い共振関係にあり、
現代の生活の多くの不安と強迫感の背後に座っている


 眩暈は
後期近代がもたらす不安感と不快感である。
それは、
空虚さと不確実性という不安定感、
カオスの気配と転落の恐れ
を意味する。

(ヤング、邦訳、31頁)

アンダークラスに対する、
〈見下げる者(中流階級)〉による
〈下向きのルサンチマン〉は、
メディアによるステレオタイプ像に
かき立てられて、
見下げる者=中流階級は、
“嫉妬と羨望からくる敵意”を、
アンダークラスにぶつける。


下向きの相対的剥奪感が広く蔓延している。
それは、ほとんど、あるいはまったく働かない人びとが、
やすやすとわれわれの尻馬に乗り税負担を強いているという感覚
である。
だから一方で「満ち足りた」中産階級は
アンダークラスに同情を寄せ、
その社会的地位に随伴する「相対的満足感」は
慈善の想いに変換されることもある
だろうが、
大多数を占める人びとは
「福祉から労働へ」のプログラムを要求し、
失業給付の「詐取者」を責め苛む
傾向にある。
・・・〔そうした反応は〕…怠惰と思われるものを矯正しようとするだけではなく、
それを超えて、怠業を処罰し、貶め、中傷しようとする
のである…。

 このようなルサンチマンを特徴づけるのは、
不均衡さ、スケープゴート化、ステレオタイプ化
である。
つまり特定の社会集団、
たとえば十代の母親、物乞い、移民、薬物中毒者は、
かれらが実際に社会にもたらす効果に比べても
きわめて過度に社会問題を助長しているとみなされる

さらに社会問題を引き起こす中心存在としてスケープゴート化され
そのように描きだされるのだ。
かれらの描写には、
実体とはほぼ無縁なただならぬステレオタイプ化が施される。
このような後期近代における「奴らの」物語描写は、
「シングルマザー」や「麻薬中毒」などに及ぶかなり共通した語りになっている
と思われる。

 スベント・ラヌルフは
その画期的著書『道徳的憤激と中産階級の心理学』で、
直に被害を受けたわけではないのにその加害者を処罰したいという
人間の欲望に関心を寄せた。
彼いわく、
このような「道徳的憤激」は
「人に罰を加えるという冷淡な性向の背後にある感情であり、
ある種の偽装された嫉妬心」…である。
彼は
最初にニーチェがキリスト教的倫理の道徳的基礎に攻撃を加える際に用い、
次にマックス・シェラーが著書『愛憎の現象学』…のなかで発展させた
「ルサンチマン」という概念を用いてこの感情に検討を加えている。
マートンが述べるように、
ルサンチマンはその裡に
「内心欲しがっているものを非難する」衝動をもっている
…。
ラヌルフは
これをさらに進めて、
ルサンチマンを社会学的に定位し
妬みの原因自制自己規律に結びつけた


《人に罰を加えることに冷淡な性向は、
下層中流階級、
すなわち、かなり厳しい制約を強いられる自然な欲求を挫かれる条件下にある社会階級に際立つ特徴である。…》


 アンダークラスのステレオタイプ、
つまり、その怠惰、依存、快楽主義、慣例化した無責任、
薬物使用、十代の妊婦、無気力さ、
これらすべてが、
立派な市民がそのライフスタイルを守るためには
抑えなければならない習性
の典型
である。
こんなことは偶然ではありえない。
(中略)
かかる社会的反応は、
道徳的な懸念というよりもむしろ道徳的憤激である。
(中略)

 後期近代の苦難は、
限られた階級の紐帯をはるかに超えて、
このような自制心と不安感を広げる。
大部分の人びとが
相対的剥奪感存在論的不安に苛まれている

そして社会の頂点でうまくやるには
プレッシャー抑制必要とされる
ため、
これはさらに募っている。
後期近代の世界を生き延びるためには、
相当な努力、自己統制、抑制
が必要である。
雇用不安薄給はもちろん、長時間の労働
――残業
献身と責任を示すうえで期待される――、
長い通勤時間のおかげで、
子どもたちと会えない
こともしばしばである。
〈人は、「ほんの少ししか時間がない」ことを
「充実した時間」などと婉曲的に語る〉。
週末は短く、楽しみは酒をたっぷりあおることで
何とか得られるのがせいぜいせいぜいである。
共働きの家族がいよいよ当たり前になり、
それとともに両親と子どもたちの時間をやりくりすることが必要になっている


 要するに自制とは以下のようなものである。

・労働時間を増やす
・労働時間を強化する
・通勤時間が増える
・共働き家族になる



 自制と犠牲の経験こそが、
素朴な不満(不公平だという感覚)を
復讐心転化させる

そのうえ、
厳しい労働環境と雇用不安の風潮は
階級構造全体を覆っている

それは、ラヌルフが指摘したような、
ファシズムの台頭とその社会的基盤について
関心を寄せる現代的考察…の多くと
重なるような下層中産階級に限らない
さらにこの自制の風潮は、
雇用の安定と報酬の公正性という問題、
またアイデンティティ危機の頂点に位置づいている。
このようにかかるプロセスには以下のような三つの層があり、
それぞれの層がアンダークラスの悪魔化のプロセスを助長している。

1.経済的不公正
不当にもアンダークラスは われわれの税金を糧にし、
われわれに敵対して、略奪を目的とする犯罪を行なっている という感覚

アンダークラスへの嫌悪と恐怖をかき立てる。

2.アイデンティティの危機
 「かれらとわれら」という二項対立をかき立てることで、
アンダークラスは容易にアイデンティティが確立する拠点になる

そこではわれら」とは、
正常で、勤勉で、きちんとした存在であり、
「かれら」はこうした本質的資質欠如した存在
である。
 このような本質主義こそが
アンダークラスを

同質的でわかりやすく、機能不全な実態として構成し、
それを悪魔化する


3.自制をとりまく状況
悪魔化中身には、
自制をとりまくあらゆる問題群が投影されている

十代の妊婦、シングルマザー、薬物乱用、犯罪文化、また高度な人種/民族問題化(例を挙げると、移民や亡命希望者に焦点をあてること)といったアンダークラスの生活の諸相とされるさまざまなことがこれにあたる。

 もちろん、このようなプロセスは
単なる嫉妬から生じるわけではない

法律家は麻薬中毒にはなりたくはないし、
キャリアウーマンはもちろん十代の母親にはなりたくなかった。
銀行の経営者であれば街頭のホームレスのような外見をとれないであろうし、
(イギリス郊外の)クロイドン出身の保守的なカップルがニューウェーブの旅行者の生活に憧れることはそうそすないのである。
現実のうえでも想像のうえでも、
汚名を負ったこのような「他者」の生活が
貧困で悲惨であることは、たしかにそうなのである。
誰もかれらと立場を入れ替えたいとは思わない
だろう。
だが、かれらの存在そのものが、
またかれらが道徳的に折りあいのつかない存在であることが、
どこかわれわれの社会的地位装いの弱い箇所を衝くのである。
二項対立で分けられるうちの
優位な側にいる「包摂された」市民の一日を仮定してみよう。

通勤時には渋滞し、
仕事日の労働時間は徐々に増え、
住宅費と住宅ローンの返済は
果てしなく続いて足枷となり、
家族を養うには共働きが必要で、
女性がキャリアを積みあげると出産が遅れ、
妊娠可能期間と不妊に怖れを抱き、
毎日混雑した街を横断して子どもを学校へ見送り、
地域とコミュニティは崩壊し、
二人のキャリアと子どもたちの一日の時間をやりくりし
(携帯電話よありがとう!)、
子どもと過ごす時間は足りず、
子どもは知らないうちに成長し、
それを見過ごすことを心配し、
過酷な労働の合間に
アル中の快楽に浸ること
心惹かれつつも脅える


 アンダークラス
少なくともステレオタイプ化されたそれは、
若くして無責任に子どもを産み、
大家族で一日中ごろごろしていて、
ほぼ無料入居した公共住宅に住み、
失業手当で暮らし、
遅くまで起きて酒を飲み、
非合法の薬物を摂取し、
挙句の果てには
良識ある市民に対する無作法な行為や略奪行為に
手を染めると考えられる

かれらなぜ敵なのかを理解するのは実にたやすい。
まさにかれらは恐怖と欲求のツボを衝いている
のだ。

〈転落への怖れ〉

  こうしたことの一切には、
下方移動、アンダークラスへの転落
自己管理能力の喪失
尊厳が失われる可能性が絶えずつきまとっており
このプロセス
オートメーション化アウトソーシング脅威
ますます多くの人びとを包み込むほど
なおいっそう現実味を帯びる
のである。”
(ヤング、邦訳、88-91頁)




ヤングが定義した《ルサンチマン》とは、
自分が望んでいて、
多大な労力を費やして
はじめて手に入れられるものを、
誰かが
まったく努力することなく手に入れた、
と自分が認識した時に生じるもの

であった。

そして中流階級の《ルサンチマン》には、
嫉妬や羨望だけでなく、
自己抑制自己犠牲》も要素として
含まれている点を見た。

そこで、
そうした《ルサンチマン》や《敵意》を
日本社会に引き寄せて考えてみると
たとえば、
・(賃金水準の底を下げる)〈生活保護バッシング
・〈公務員バッシング〉、
また、もしかしたら、
・〈神戸金史宛てのハガキ〉の投函者にも、
嫉妬や自己抑制などがあったかもしれない。

さらに、私にとって新鮮だったのは、
〈見下げる者(中流階級)による、
アンダークラスへの“下向き”のルサンチマン〉

というヤングの指摘であった。

ヤングによる《ルサンチマン》の指摘から
冨田宏治氏による〈維新支持層〉考察を連想して、
日本社会(大阪圏)に引き寄せて考える事ができる。

西谷文和 路上のラジオ 第96回
冨田宏治先生「参議院選挙結果を分析する」


論文】維新政治の本質―その支持層についての一考察―

維新政治の本質とは、
大阪に広がる貧困と格差を「分断」へと転化させ、
中堅サラリーマン層の弱者への憎悪の感情を組織化し、
その「分断」を固定化したもの
だったのではないでしょうか。

「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!
無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」

維新政治の本質について考察する本稿の冒頭に、
長谷川豊氏のこのおぞましくも衝撃的な発言を掲げることにしましょう。


維新支持層のメンタリティー

最初に、冒頭に掲げた長谷川豊氏の発言を手掛かりに、
こうした発言に喝采を送り、
こうした人物を公認して憚らない「維新の会」を支持する維新支持層とは、
いかなる人びとなのか
について考えてみたいと思います。

維新支持層については、
橋下徹氏が自ら語った「ふわっとした民意」といったイメージや、
ある種の都市伝説と化した「格差に喘ぐ若年貧困層」の支持という幻想が、
いまだ払拭されきれていないように思います。
しかし冒頭の長谷川発言からは、
こうした発言に共感し、喝采を送る維新支持層の現実の姿が
浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そこに浮かび上がってくる
のは、
「格差に喘ぐ若年貧困層」などでは決してなく、
税や社会保険などの公的負担への負担感を重く感じつつ、
それに見合う公的サービスの恩恵を受けられない不満と、
自分たちとは逆に公的負担を負うことなく
もっぱら福祉、医療などの公的サービスの恩恵を受けている「貧乏人」や「年寄り」や「病人」への激しい怨嗟や憎悪に身を焦がす「勝ち組」・中堅サラリーマン層の姿
にほかなりません。

彼らの思いを理念型的に描き出してみましょう。

彼らは、
大阪都心のタワーマンションか郊外の戸建て住宅に暮らし、
かなりの額の税金、社会保険料、介護保険料、年金などを負担しながら

医療、子育て、福祉などの公的サービスの恩恵を受ける機会は
必ずしも多くありません。
彼らは日頃からジョギング、アスレチック・ジムなどで体を鍛え、
有機野菜や減塩レシピなど健康に留意した食生活を送っており、
医療機関にお世話にならないよう自己管理を怠りません

ですから、飲酒や健康によくない食生活など自堕落な生活の果てに
自己責任で病気になった「自業自得の人工透析患者」たちが、
もっぱら自分たちの負担している健康保険によって保険診療を受け、
実費負担を免れていることに
強い不満と敵意、さらには怨嗟や憎悪すら抱いています。”


 しかも、維新政治も、
安倍政治と同じく、
“市場原理主義”どころか、
《お友達政治/ネポティズム》の化けの皮が剥がれた今日、
《お友達政治》は、
むしろ《競争による転落への恐怖》の裏返しとも言えるかもしれない。

彼らの政治は
《恐怖》や《ルサンチマン》、
《憎悪》を土台や養分とし、
生産的能動性の《破壊による代用》の政治

まるで売り物にしているかのように見える。
彼らの政治に”ファシズム”的潜在性を感じるのは、
以上の側面からくる。

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小学生の将来の夢の第1位が「YouTuber」になった。
娯楽や日常に占めるYouTubeの大きさ

示すと同時に、
後期近代/ポスト・フォーディズム化による
社会的荒廃や貧困の一般化をも
物語っているかもしれない。
また、《仕事や労働の不安定化》
反映しているのかもしれない。

先ほどの
《インフルエンサー》や「YouTuber」の
影響力が大きくなっている今日の傾向
をうけて、
『後期近代の眩暈』において、
ヤングが【セレブリティの台頭】という項目を設けて、
今日における《セレブリティの台頭》という現象の成立を連想する。

日本社会における
《インフルエンサー》や「YouTuber」の台頭は、
機会の格差”や“機会的困窮化”の反映
なのではないか。



貧困が非難される一方で、成功は賞賛【セレブレイト】される
セレブレティの台頭
それが階級概念と伝統的な権威概念にとって代わる程度こそ、
後期近代の転換要素
である。
ローレンス・フリードマンは、
その秀逸な著書『水平型社会』…で
セレブリティの顕著な特徴を指摘している。
セレブリティが有名であることはいうまでもないが、
しかしかれらは普通の、身近な人びとでもあるということだ。
人びとは、自分たちがかれらを知っていて、
かれらに直接語りかけることができると感じている。
(中略)
〔同じゲットー内や街区の近所の、あの子が、
ハリウッドスターやラップスターなどのスターとなる。
自分たちのゲットーから生まれたあの子は、
難解でエリート的な言葉を使わず、
自分たちと同じ述語をつかって話す「普通の人間」という意味で、
小さい子にとっては、自分たちの地域から生まれたスターと同じように、
「自分にもなれる」夢を持てる、という意味でも「普通の人間」であった。〕

 さらにフリードマンは、
セレブリティの背後にあると思われる偶発性と運命の意味を重視する。
誰でもセレブリティになりうる。
「安定は消滅した。常に思いがけない幸運が訪れうる。
どんなことでも起こりうる。どんなことでも」。
セレブリティはわれわれに似ていて
、才能があり、しかも幸運であり、
われわれに押しつけられたのではなく、われわれに選ばれた存在である。
(中略)

 貧困層が
セレブリティを賞賛している
のは ほとんど疑いないと思われる。
ゲットーにおける顕示的消費、マスメディアへの没入、
幸運と興奮の価値観、
そしてかれらのうちのほんの一握りが、
音楽やスポーツや芸能のスターになって脱出するという事実

このすべてが親密感に溢れた魅力をつくりあげることに貢献する。
セレブリティはいわば特定の社会集団の代表者になるのだ。
彼あるいは彼女は、
脚光を浴びる【ライムライト】かれらのの代表者
である。
だから
かくも多くの黒人たちが、
証拠がどれだけ不十分であろうとO・J・シンプソンを支持するのだ。
裁判にかけられていたのは、
シンプソンというよりも黒人たちの代表者だった
のである。

 社会全体を見渡した場合には懸念はさらに大きい。
日常的な自制の必要、能力主義的な業績の重視、消費が
力説されることにより借金が当たり前になるにもかかわらず
勤勉が重要視されること

いまやこれら一切は、
濃密な情熱というよりも両義性をいくらか助長している

これをよそに古い階級政治と再分配をめぐる議論に優先して、
地位とアイデンティティポリティックスと、
階層の頂点としてのセレブリティが台頭する
というのが
一般的現象である。
これはいくつかの点で弊害をもたらす。
大金持ちが一方におり、
他方で労働力を売りわたす、
あるいは
それもかなわぬ人びとがいるという社会の大規模な分裂を
覆い隠してしまうのだ。
・・・・まさに富とセレブリティが丁合されることで、
ほんの一握りの人間に圧倒的な財と地位の特権が集中する
ということが自然なことであるかのような様相を呈する
のである。

 セレブリティについての
ローレンス・フリードマンの辛辣な一文でこの節を締めくくろう。


古い階級基盤の怒りのなかで残されたものは
ほんのわずかしかないようだ。
世界が財を分配する残酷で不公正なやり方に対する怒りは、
燃え尽きつつあるほんのわずかな燃えかすを除いて消え去った。
自分たちの苦しみや欠乏、飢えや切望と、
かれらが周囲で目にする富とを結びつけて考える人は
あまりいないように思われる。
反対に、
金持ちの金は
かれら〔貧困者〕にとってもうまそうなにおいがする。
マルクス主義者にとって資本家の富とは、
人の血を流して得た金、
飢えた労働者の汗と力から搾り取られた金、
貧困と病と死の毒が塗られた金である。
金とは貪欲であり搾取であった。
それは人間による人間の抑圧だったのだ。
いまや金は根本的に異なるものになった
まるで魔法のようにこうした悪しき連想は一掃されたのだ。
金は喜びと、スポーツや芸能と結びつけて考えられるのが一般化した。
新たな(魅力的な)金持ちは
映画スター、ロックミュージシャン、野球やサッカーの選手、
テレビのコメディーのヒーロー
である。
たしかにかれらはもっとも目につく金持ちであるが、
ルサンチマンを被らない。…

 こうしたことすべてが、
政策のみならず政治そのものにも深刻な影響を与える。
1990年代になぜ低率税、均等税、あるいは税の撤廃すらもが
一世を風靡したのだろうか

累進所得税は抜本的に均等化された、
相続税はカットあるいは(カリフォルニアのように)廃止された。
ところが、
かつかつの生活で、心配しなければならない財産はもちろんこと、
安定した職もない一般大衆は、
選挙で金持ちと金持ちの代表者に投票し続ける
のだ。
かれらは
悪い奴らに面食わせることからも、
監獄を襲撃することからも顔を背けた。
むしろ
こうした一般大衆は
その敵意や反感を、
ずうずうしい金持ちにではなく、
もっぱら自分たちよりも
もっとも困窮している人びと、
つまり
貧しい人びと、人種的マイノリティ、移民、
セレブリティとは正反対のあらゆる人に向ける
のである。
金持ちや有名人のライフスタイル
大衆のアヘン
である。

(ヤング、邦訳、99-103頁)



【9】へ続く。