●怖かったマレーシアの思い出。

 

 


私はアメリカ在学中、一度だけ友達の車を運転させてもらった事があった。

 

 

それは丁度雪だった日で、雪の中での運転はどんなものか体験したかったのだ。

 

 

しかし、思ったよりも雪道は大変だった。

 

 

なにしろ、ちょっとでも坂になっている路面があると、

 

 

車が自然に滑って落ちていくのである。

 

 

幸い、私が練習したのは、車が来ない道を選んでやったので、大事には至らなかったが、

 

 

現地の友人いわく、坂道ではブレーキはなるべくせずに、車を止めず、

 

 

ゆっくり常に車を動かせろとの事だった。

 

 

彼に交代すると、何事も無い様に簡単に運転する。

 

 

さすが雪がよく降る現地の人だと思った。

 

 

 

実は私が自動車免許を取ったのは、アメリカに留学する半年前だった。

 

 

つまり、私が高校3年だった時で、まだマレーシアに居る時に取ったのだ。

 

 

マレーシアで運転免許を取った私が言うのもなんだが、免許は日本で取った方が良い。

 

 

マレーシアで免許を取ると、安く取得できると聞いていたので、

 

 

私はアメリカに行く前に、車の免許を取っておこうと思った。

 

 


まずは、運転免許教習所だな。と思って電話帳をめくり、

 

 

それらしい運転教習所に電話した。

 

 

すると、もう翌日から習えるという。しかも送り迎えもしてくれるらしい。

 

 

さっそく申し込むと、先生が車で家にやって来た。

 

 

先生は現地のマレー人だった。

 

 

マレーシアでもタクシーは沢山走っているが、

 

 

運転手はマレー人かインド人が多かった。中国人の運転者は少ない印象だ。

 

 

私の家の運転手も現地のマレー人だった。 とにかく運転手は現地のマレー人が多い。

 

 

これには理由がある。

 

 

もし、日本で交通事故を起こしたら、まず警察が来て、その後裁判だろう。

 

 

しかし、ここマレーシアで交通事故を起こして、現地の人でも轢いたら大変だ。

 

 

警察が来る前に、怒った住民からなぶり殺しにされてしまうかもしれない。

 

 

私も父から、運転を習うのはいいが、もし万が一、人を轢いたら、

 

 

そこに止まらずに逃げろ。と言われていた。

 

 

つまり、まずはその場を逃げて、その足で警察に行けというのだ。

 

 

海外で車を運転する時は、そんな心得が必要な時がある様だ。 特に日本の戦地だった場所は。

 

 


そんなマレー人の先生が、私に運転を教えに家にやって来たのである。

 

 

先生は、オンボロ車でやって来た。

 

 

「なんだ、こんなオンボロ車で運転の練習をするのかぁ」と思っていると、

 

 

先生は、「では、さっそく練習に行きましょう。」とウチの車を指差した。

 

 


なんと、練習する車は、親父の車だと言うのだ。

 

 

親父に電話すると、仕方ないと思ったのか許してくれた。

 

 

オンボロ車よりも、事故に遭った時、ウチの車の方が頑丈だから安全だと父は言った。

 

 

当時ウチは、世界一頑丈な車で追突した時に安全だと言われていたボルボの次に、

 

 

丈夫だという車に乗っていたのだ。(メーカーは忘れたが、やや大きめで幅広の車だった)

 

 

今でも世界一安全な車メーカーはボルボらしい。

 

 

 

なにしろ崖から落ちても大丈夫だという頑丈さ。

 

 

下はバスと正面衝突したボルボ。 ボルボの形はまだ残っている。

 

 

 

それにしても、ウチの車を練習車にするとは、なんと賢いというか、ずる賢い。

 

 

ウチの車を使えば保険はいらないし、事故っても心配ない。それにガソリン代も節約できる。

 

 

まあいいか、オンボロ車を運転するよりも安全だし、この車を運転出来れば普段利用できる。

 

 

そう思って、私と先生は出発した。

 

 

教習所までは、先生が運転した。(当然だが。)

 

 


10分ほど運転すると、やや広い空き地に着いた。

 

 

「じゃあ、さっそく練習を始めよう、降りて、運転席に来なさい。」

 


「ちょっと待てよ、ここでやるのか?」と私。

 

 

「そうだよ。」と先生。

 

 

「えっ、教習所はどこ?」

 

 

「Here!(ここだよ。)」

 


なんと、教習所は、この空き地だというのだ。

 

 

もっと言えば、きっとこの空き地だって、お前の土地じゃねぇだろ。

 

 


しかし、言い合ってもラチがあかない。

 

 

と言うよりも、言い合える程、私の英語もうまく無かったので従う事にした。

 

 


1時間ほど、空き地をぐるぐる回ったり、加速したり、バックしたりした。

 

 

何も無い空き地を、ただ走る。

 

 

なんと味気の無い教習所だろう。ホコリがたって前が見えなくなる事も・・・・

 

 


そんな所で、約1時間やみくもに走り回った後だった。

 

 

先生が、「そろそろ路上に出て運転してみよう。」と言う。

 

 

 


「ちょっと待てや、仮免(かりめん)はどうした?」

 

 

「仮免?」

 

 

「そうや、路上を運転するなら仮免が必要だろう?」と私。

 

 

「仮免なんて、マレーシアには無い。」と先生。

 

 

「Really?(ホントに?) まじか!!」と私。

 

 


こうして、私は初めて車の運転席に座って1時間後には、街を運転し始めたのである。

 

 

怖いのなんのって、私は震えながらハンドルを握っていた。

 

 

対向車が来るたびに、恐怖だった。

 

 

ぶつけたらどうしよう。親父の車に傷つけたらどうしよう。

 

 

ただただ恐怖で震えながら運転していた。

 

 


先生は、「大丈夫、ボクがついているから。」と言うのだが、

 

 

しかし、私は心の中で思っていた。

 

 

「あんた、座ってるだけだよね。それにウチの車だから、

 

 あんた、補助ブレーキ無いよね。

 

 ボクがついてるから大丈夫なんて、ってよく言うよなぁ。」

 

 

よっぽど言いたかったが、補助ブレーキという単語が出てこない。不覚!

 

 


それでも30分位、街中を走ったかな。

 

 

それから、そんなに広く無い山道を走ったのだが、そこでミスった。

 

 

前から大きなトラックが来たのだ。

 

 

トラックは大きくてこっちのレーンにまではみ出して走っているの見て、

 

 

私は怖くてハンドルを切りそこねて、やぶの中に突っ込んだ。

 

 

大きな木に当たった訳では無かったので、車は前方の擦り傷だけですんだ。

 

 


しかし、教習所は1日で解約だ!!

 

 

これなら、ウチの運転手に教えてもらった方がよっぽどいいわ。

 

 

現在では、マレーシアにもちゃんとした良い教習所があるらしいが、当時は無かった。

 

 

 


その後、私は運転手に教わりながら、運転免許の試験を受ける事になった。

 

 

当時、私の親友でニュージーランドからの留学生だったグローリィと一緒に試験を受けに行った。

 

 

試験は、実技と筆記の2つだが、実技は問題無かった。

 

 

たぶんどんな下手くそでも実技は突破できるだろう。その位簡単なものだった。

 

 

今でもそう聞く。

 

 

問題は筆記テストだった。なにしろ、英語じゃなくマレー語のテストだ。

 

 

しかし、やぶれかぶれで選択した答えが、まぐれ当りしたのか一発合格した。

 

 

後から聞いた所によると、どうやら合格点数は現地人の為に低いらしい。

 

 

日本の筆記試験なら、100点満点中、90点以上取らないと不合格になるので、

 

 

筆記試験で何回も不合格になってしまう人がいるのだが、マレーシアは低かった様だ。

 

 

一緒に行ったグローリィは、どうだったのか聞くと、

 

 

実技試験の時に、失敗して、赤信号を突っ切ってしまったと言う。

 

 

そうか残念だったな。と言うと、彼も合格したと言う。

 

 

そんなバカな! 日本なら赤信号無視なら、一発不合格だ。

 

 

聞くと、面接官にその場でお金を渡して、無かった事にしてもらったという。

 

 

つまり、賄賂(ワイロ)だ。

 

 

そんな手があったのか。 てか、ダメだろう。それ。

 

 


ここまで読んだ方は、それはさすがにそれは作り話だろうと、思われるかもしれないが、

 

 

これが当時のマレーシアの現実であり、現在もワイロは続いていた。

 

 

2018年9月13日、つまり今から約1ヵ月前の事だ。

 

 

マレーシアの運輸省のローク大臣が、外国の免許をマレーシアの免許に書きかえる事を禁止した。

 

 

大臣いわく、今まで、

 

 

■正規の運転試験を受けずに、賄賂を払ってマレーシアの運転免許を取得した者が多すぎる。

 

■外国の免許をマレーシアの免許に書きかえる時に、賄賂を払って取得している。

 

そんな違法な運転免許が少なくとも1万4千件以上確認された。(その多くは中国人)

 

つまり、先月までマレーシアの運転免許はワイロでどうにでもなっていたと暴露したのだ。

 


この大臣の免許書き換え禁止発令によって、日本の商社マンたちが困っているという。

 

 

なにしろ、マレーシアで日本人が運転するとなると、2つ方法しかなくなる。

 

 

■1つは、国際免許を日本で取得して、それでマレーシアで運転する。

 

しかし、これには1つ問題がある。

 

実は国際運転免許証は、有効期限がたった1年なのだ。

 

しかも、更新する時は、日本に一旦帰国して初めから申請して発行手数料を払わないと貰えない。

 

 

■もしくは、マレーシアで運転免許を取り直すかである。

 

ただし、試験は原則マレー語だ。私は受かったが、今の合格点は上がっているかもしれない。

 

 

 

私にとっては懐かしい思い出だったが、賄賂が今まで続いていたとは、

 

 

なんとも笑えない先月のニュースだった。

 

 

 

 

その後、私は帰国すると、日本で運転免許を取り直したのは言うまでもない。

 

END

 

ボルボの画像:出典:https://twitter.com/policehour/status/772463204156997632

 

●泥棒の店。

 

 

 

霊能者と云えども間違う時があります。

 

 

今日は、そんな「間違い」をテーマに書いてみました。

 

 

 


ある日、霊能者の所に、お母さんと小学生の息子さんがやって来と時があったそうです。

 

 

息子さんは学校で水泳クラブに入りたいとお母さんに頼み込んでいましたが、

 

 

息子さんは小さい頃心臓が悪かったので、お母さんとしては心配でした。

 

 

医者は大丈夫だろう。と言ってはくれてたものの、それでも絶対では無いと聞いていたので、

 

 

お母さんとしては、止めさせたかったのです。

 

 

それでも息子さんは、友達もしているし、自転車を買ってそれで通うので、

 

 

ママには送り迎えしなくてもいいから。迷惑かけないから。とお願いしていました。

 

 

 

そこで霊能者に、息子が水泳をしても本当に大丈夫か霊視して欲しかったのでした。

 

 

 

 


さっそく霊視が始まりました。

 

 

 


すると、彼女のお祖父さんの霊と、ひとりのお婆さんの霊が現れたのです。

 

 

そこで、霊能者の方が相談者のお母さんに聞きました。

 

 

「お婆さんの霊が来ていますが、心当たりはありますか?」

 

 

 


しかし、相談に来たお母さんは、首をひねって、

 

 

「いいえ、私の母も、夫のお義母さんも生きていますから。」と言う。

 

 

そこで、霊能者がもっと詳しい情報を得て、

 

 

「お婆さんの霊は、アンという名前だといいます。」と言いました。

 

 

しかし、お母さんは「アン」という名前を聞いても、まったく心当たりが無いと言いました。

 

 


更に、詳しい情報を、現れたお婆さんの霊から聞き出そうとする霊能者。

 

 

「アンという方は、自転車で怪我してから亡くなったそうです。

 

 だれか、ご先祖で自転車で怪我して亡くなった女性はいませんか?」と聞きました。

 

 


それでも、お母さんは、「自転車で亡くなった女性なんて、聞いた事無いです。」と答えた。

 

 


ここまでハッキリ否定されると、

 

 

霊能者の方も間違った人が現れてしまったんだと思ったそうです。

 

 

こういう事は、たまにあると霊能者は言います。

 

 

例えば、次の相談者の方の霊が、その前の相談者の時に現われたり、

 

 

翌日の相談者の母親の霊が、前日に現われて来て「よろしくお願いします。」言ってきたり。

 

 


だから、きっとこのお婆さんの霊・アンも、間違って現われたのだと思い、

 

 

霊能者はお母さんに謝って、アンの霊の事は無視して続ける事にしました。

 

 


そこで、アンと一緒に現われた奥さんのお祖父さんの霊と話をしました。

 

 

 

 

すると、お祖父さんの霊は、意外な事を言ったのです。

 

 

「孫には、水泳をやらせてあげなさい。

 

 問題無いから。


 でも、

 

 自転車は絶対ダメだ。」と。

 


なんと、問題は水泳では無く、自転車だと言うのです。

 

 

 


その後、お祖父さんの霊に、詳しく聞いてみると、

 

 

自転車を買うと、孫は必ず誰かを轢いてしまう事故を起こすと予言するのです。

 

 

だから、絶対孫が中学生になるまでは、自転車を買ってはならない。と強く言うのでした。

 

 


そして、アンというまったく関係の無い霊が現れた理由も分かったのです。

 

 

実は、アンと言うお婆さんの霊は、自転車に轢かれて亡くなった女性で、

 

 

こういう良い人も、自転車に轢かれて死んでしまったのだよ。と、

 

 

娘であるお母さんと孫に、教えたくて連れて来たというのです。

 

 


霊能者の方にとっても、犠牲者の霊を連れて来たなんて初めてだったそうです。

 

 

 

その後、息子が中学になるまでは自転車買わず、

 

 

お母さんが送り迎えをする事になったのは言うまでも無いでしょう。

 

 


ちなみに、小学生の自転車だからと軽く考えていけません。

 

 

日本では、自転車の事故は無いだろうと考えて余り心配しない方が多いのですが、

 

 

実は、事故がいざ起きると、自転車も車なみに怖いのです。

 

 

平成20年9月22日午後6時50分頃、

 

 

神戸市北区の住宅街で、当時小学5年生だった少年(15歳)が、

 

 

自転車を走らせていて、歩行者の女性(67)と衝突事故を起こしました。

 

 

その後、損害賠償で裁判となり、神戸地裁は、少年の母親(40)に、

 

 

約9500万円の高額の賠償を命じる判決を下したのです。

 

 

そのニュースを聞いた他の弁護士や専門家たちは、その高額賠償を聞いて、

 

 

「妥当な金額」だと評価したのでした。

 

 

自転車は車と違って、保険の加入義務が無いので、ほとんどの人が無保険で乗っています。

 

 

しかし、1つの子供の事故で、家も財産も無くなるかもしれませんよ。

 

 

私は自転車に乗らないし、子供もいませんが、

 

 

もし、子供がいて自転車をよく乗るようなら、

 

 

きっと必ず月々360円の自転車保険に入るでしょう。(約3億円まで補償)

 

 

 

 

 

 

 

最後に、

 

 

「間違い」で人生が救われた人がいます。

 

 

今日はそんな実話を紹介して終わりに致しましょう。

 

 

 

 

 

 

1949年、岐阜県の大垣市に1人の男の子(隆夫)が生れます。

 

 

しかし、子供の頃、隆夫はある事故で左目の視力を失ってしまいました。

 

 

それ以来、みんなと一緒に行動したり集まったりする事を避け始めます。

 

 

中学生になった時、何かを感じたのかもしれません。

 

 

母親にこう言いました。「俺は波乱万丈な生き方をしたい。」

 

 

工業高校の教師だった父親は、それを聞いて、こう言って心配したといいます。

 

 

「俺は、石橋を叩いても考え込むタイプなのに、

 

 あいつは、崩れかけた石橋でも渡ってしまう。」

 

 

隆夫は、地方に居たんじゃダメと思い、上京する為に勉強します。

 

 

そして、東京にある大学に入学しました。

 

 

しかし、これといって特に目標がある訳でも無く、何となく上京したので、

 

 

大学に入学したものの、授業をさぼって雀荘に通うありさま。

 

 

そんな時、テレビで活躍していたボクサーに憧れ、

 

 

自分もプロボクサーになりたい。とボクサーを志しジムに入会してトレーニングに明け暮れます。

 

 

しかし、彼の夢は無残にも散ってしまいます。

 

 

不自由な左目が指摘され、プロテストさえ受けさせてもらえなかったのです。

 

 

こうして、最初の夢は、自分の不自由な体の為に断念せざる負えませんでした。

 

 

しょうがない。彼はなんとか大学を卒業すると、

 

 

普通の人と同じ平凡な道を歩もうと、中堅の不動産会社に就職し真面目に働き始めました。

 

 

ところが、その不動産会社がなんとオイルショックで2年後に倒産。

 

 

先輩に泣きついた隆夫は、先輩と一緒に分譲別荘地のセールスを初めます。

 

 

しかし人と馴れ親しくするのが苦手で愛想も無い彼がセールスなど出来る訳がありませんでした。

 

 

4ヶ月で挫折して会社を辞める事になりました。

 

 

それ以降は、フリーターでのその日暮らし。

 

 

腐った彼は、麻雀に明け暮れるという生活に陥ります。

 

 

徹夜麻雀をして、部屋には朝帰り。

 

 

夕方まで寝ていて、起きたらまた麻雀屋に行くという自堕落な生活。

 

 

 


ある日負けが込んで、気が付いた時には、所持金が5円という事態に。

 

 

さすがの彼も焦りました。今日の晩飯を買うお金も無いじゃないか!!

 

 

このままでは、部屋代も払えない。 路上生活者になってしまう。

 

 

焦った彼は、近くのゴミ箱を漁ります。

 

 

そして、誰が捨てたか分からない汚れた新聞紙を拾うと、

 

 

新聞の求人欄を見て、なんとか日雇いの仕事を始めました。

 

 

そして、なんとか新聞の勧誘員としての日雇いの仕事を見つけ難を逃れます。

 

 

ある時は、湾岸労働者として働きました。

 

 

しかし、彼は焦りました。大きな事言って実家を飛び出したのに、このありさまです。

 

 

麻雀に明け暮れた20代も、もう終わりに近づいていました。

 

 

何かしなければ、何かしなければ・・・・このままの人生ではまずい。

 

 

しかし、彼には何もありませんでした。

 

 

料理が出来る訳でも無く、手が器用な訳でも無く、

 

 

人脈がある訳でも無く、そして、目が人よりも不自由な自分。

 

 

でも、何かしなければ・・・

 

 

やっと彼が思いついたのが、バッタ屋でした。

 

 

バッタ屋というのは、倒産しそうな店から商品を買い叩いて、それを安く売るという店です。

 

 

他にも処分品や、サンプル品の余りなどを安く買って来て売るというものです。

 

 

彼はその為にお金を貯めて、やっとの事で、西荻窪に20坪の空き倉庫を借ります。

 

 

20坪というと、牛丼屋さん位の面積で、品物を売る店としては小さいものでした。

 

 

この時、隆夫はもう29歳になっていました。

 

 

 


問題は店の名前を、何にするかでした。

 

 

色々と理想の名前はあったのですが、店舗の狭さから

 

 

たった4文字しか店の名前が書けないという制限がありました。

 

 

彼は悩んだあげく「泥棒市場」と付けたのでした。

 

 

後に、この奇抜なネーミングが彼の人生を救う事になります。

 

 

 

 

 

しかし、商売はそんな甘いものではありませんでした。

 

 

隆夫の店に並んでいる物は、確かに安い物ばかりでした。

 

 

でも、それは倒産しそうな店や、在庫が多くて困っている物を買い叩いてきた物でした。

 

 

つまり、簡単に言えば、普通では売れなかった商品ばかりだったのです。

 

 

店を出したものの、まったく売れません。

 

 

というよりも、店は倉庫を安く借りた場所なので、綺麗では無く、

 

 

しかもバッタ屋というのは、安く叩いて買う代わりに、

 

 

買う時は箱買いで大量に買わないといけませんでした。

 

 

だから、彼の店の商品はちゃんと綺麗に並べる事が出来ず、

 

 

箱のまま置いたり積んだりしていて、雑なものでした。

 

 

そんな店はまず女性は敬遠して来ません。子供も来ない。

 

 

食料品じゃないので、人々にとって絶対必要な物でも無いのです。

 

 

ただボールペンなど、日用品などが安いだけでした。

 

 

店は開店休業状態。人が入ってくれなければ、どんなに安くても売れません。

 

 

1ヵ月経っても、2ヵ月経っても、人が来ません。

 

 

3ヶ月が過ぎた時、彼はもうダメだと思いました。

 

 

仕入れにお金を使っていて、このままだと店の賃料も払えなくなる。

 

 

もう夜逃げしか無い。

 

 

そう思っていた、ある日。

 

 

その日も、売上が無く、落ち込んでいました。

 

 

店を閉めた後の夜、なんとか店の外からでも中の事がわからないかと、

 

 

商品のポップを店の中で、箱に張り付けていた時でした。

 

 

深夜なのに、誰かが入って来たのです。

 

 

なんと、空いていた店のドアからお客が間違えて入って来たのです

 

 

多分、店の電気が点いていたので、営業中だと勘違いして入ってきたのでしょう。

 

 

しかし、追い返す事はしませんでした。

 

 

その男性は、特に何か買うでもなく、時間をかけて店の中を歩いているだけでしたが、

 

 

それでも隆夫にとって、たった一人でも来てくれた事が嬉しかったのです。

 

 

すると、不思議な事が・・・

 

 

 

なんと、もう1人、誰かが入って来たのです。

 

 

店に二人もお客が居るなんて、嬉しい。

 

 

すると、また一人。

 

 

 


当時、夜間に店を開けているという所は、

 

 

セブンイレブンの夜11時くらいでした。

 

 

だから、他の店が夜空いているなんて、無かったのです。

 

 

 


彼は、その様子を見て、ヒラメキます。

 

 

深夜の時間帯は、意外と買い物の需要がある!!」

 

 

彼はそれからというもの、出来る限り深夜営業を始めたのです。

 


すると、次第に口コミが広がります。

 

 

「泥棒市場なら、深夜でも空いてるぞ、暇だから行って見るか。」

 

 

「あそこは、盗んできた物を、こっそり夜中にさばいているから安いんだって。」

 

 

泥棒が盗んだ品を売ってるらしいぞ、行って店主の顔をみてやるか!」

 

 

 


泥棒というネーミングと、夜中にやっているという時間帯が、

 

 

世間の怪しさを助長し、次から次へと口コミが広がったのです。

 

 

その他にも、彼は、来るお客は物を買うというよりも、

 

 

何があるのか見るのが楽しみに来ているという事に気が付きます。

 

 

そこで、店を迷路の様にして、まるで宝探し感覚の配置にしたり、

 

 

すぐに物が分かるだけでなく、その効用とか、使い道とかを、

 

 

手書きのPOPに書いて、大きく張り出して商品を分かりやすくしました。

 

 


気が付くと、夜逃げまで考えていた店が、年商2億円までの店になったのです。

 

 

人がやりたくない所に、成功に鍵があったのです。

 

 

 


その後彼は、もっと大きな店舗を借り、

 

 

好きだったスペインの文豪セルバンテスの名作にちなんで

 

 

その作品の主人公である既成の常識や権威に屈しない

 

 

ドン・キホーテが店舗名にふさわしい名前だと命名したのです。

 


ドンキホーテ創業者・安田隆夫氏は言う。

 


私は、小学校4年生のときに目をケガしまして、今もう左目がまったく見えないんです。

 

 

まさに独眼竜。そのころはどうしようもないガキ大将で、

 

 

本なんかまったく読まなかったんですが、

 

 

何回か入院をしまして、病院でじっとしていなきゃいけなくて、これが辛くてですね(笑)。

 

 

で、しょうがなく本を読み始めたんです。そうしたら、はまりましたね。

 

 

『十五少年漂流記』とか、夢中になって読みました。

 

 

ですからもう、私は本に救われましたね。

 

 

ケガをしたから良かった。

 

 

何が幸いするかわかりません。


END

 

 

 


参考:リーダーたちの名言集 名言DBhttps://systemincome.com/68726
HOTNEWS https://hotnews8.net/human/never-give-up
企業家大百科 https://kigyoka-shacho.com/2018/04/29/yasudatakao-keireki-wife/
cocoa https://www.youtube.com/watch?v=SqNpUNMTPFc

baseraさんの画像 https://matome.naver.jp/odai/2149716963901528301

 

 

 

 

 

 

 

●三度目の母

 


みなさんは、世界一の音楽大学はどこだかご存知でしょうか?

 

 

そう、それはアメリカのニューヨークにあるジュリアード音楽院です。

 

 

XJAPANのYOSHIKIさんが手術した後、このジュリアード音楽院の

 

 

教授に就任するしれないというニュースが今年流れましたね。

 

 

どうなるかまだ分からないと言う事ですが、

 

 

そんな世界最高峰の音楽大学・ジュリアード音楽院が、初めて海外に分校を設立する。

 

 

それが中国の天津で、2018年、つまり今年の末に完成予定で、

 

 

2019年秋の開校を予定しているという。

 

 

今まで、日本人の方も多数卒業されていて、

 

 

中村紘子さん(ピアニスト)、五嶋みどりさん(バイオリニスト)や、

 

 

諏訪内晶子さん(バイオリニスト)など、活躍されている方が沢山います。

 

 

ただ、日本人がこのジュリアード音楽院に行くには、今まで3つ壁がありました。

 

 

■まずはその試験の厳しさです。合格率は約6%である。

 

ただ、他の大学と違って、特に重視されるのが才能と面接だという事。

 

■学費が年間約6万ドル(670万)かかる。(授業料42000ドル+寮費と食事)

 

■ニューヨークの物価と家賃が高い。

 

 

天津にジュリアード音楽院の分校が出来れば、少なくとも1の合格率と3の家賃の点で、

 

 

だいぶ日本人にとって、入りやすくなるでしょう。

 

 

 

 

 


そんなジュリアード音楽院に通う大学生の方が、霊能者の所に相談に来られた時がありました。

 

 

彼女は2歳の時に、産みの母親を亡くしていました。

 

 

当時、お父さんは産みの母親が亡くなってから僅か半年で再婚しました。

 

 

再婚した新しいお母さんは、彼女を大切に育ててくれたといいます。

 

 

彼女は中学生までは、本当の母親だと思って暮らしてきましたし、

 

 

告白された後も、本当の母親と変わらず生活してきたといいます。

 

 

育ての母も、子供は彼女ひとりだったので、本当の自分の子供として育てたのです。

 

 

だから、傍から見ても二人は本当の親子でした。

 

 

お義母さんは、自分の事よりも彼女の事を優先し、彼女がこのコンサートに行きたいと言えば、

 

 

どんなに遠くの場所でも連れて行ってくれたと言います。

 

 

 

 

そんな育ての母親が、彼女が高校生の時に亡くなったのです。

 

 

 


ここまでは、よくある話かもしれません。

 

 

ただ、彼女が許せなかったのは、父親の事でした。

 

 

父は、母(育ての)が亡くなった僅か2ヶ月後に再再婚したのです。

 

 

私がまだ母の死を悼み、泣き腫らしている時に、もう他の女性と交際していたのです。

 

 

別に再再婚した新しい母親には、何の怨みもありませんでしたし、

 

 

そんなに悪い人でも無さそうな女性でしたが、私は素直になれませんでした。

 

 

自分の子でも無い私を大切に育ててくれた母を、そんなに簡単に忘れる事なんて出来ません。

 

 

それなのに父は、まるで母が居なかったかの様に、家の中の母の写真を全部外し、

 

 

母が使っていたキッチン用具も全部買いかえたのです。

 

 

それはまるで、父の記憶から母を消しゴムで消すかの様に、昔の事は話さなくなりました。

 

 

母の写真は、私の部屋だけに飾られ、私は孤立しました。

 

 

考えてみれば、産みの母が亡くなった時も、父は僅か半年後に再婚しています。

 

 

きっと父は亡くなったらすぐ忘れる薄情な人なのです。

 

 

その時から私は、よりいっそう音楽だけに身を置くようになったのです。

 

 

そして、高校卒業と同時に家を出て、ニューヨークのジュリアード音楽院に行ったのでした。

 

 

 


そんな彼女が夏休みに久しぶりに故郷の父の所に戻ったのですが、

 

 

その時に、父が母の写真を家中から外しただけで無く、その後捨てていて、

 

 

しかも、母との思い出が詰まったこの家を売って、引っ越すという事を知ったのです。

 

 

なんか悲しくて、情けなくて、そんな父を亡き母はどう思っているのか、

 

 

気になって霊能者の所に、足が向いてしまったという。

 

 

 

 

 


さっそく霊視が始まりました。

 

 

 


すると、霊能者の方が、彼女に意外な事を言ったのです。

 

 

「貴方のお母さん達、お父さんの再再婚、

 

 喜んでいるわよ。」

 

 


それを聞いて、まず彼女が驚いたのは、この「お母さん達」という言葉でした。

 

 

霊能者いわく、

 

 

霊視すると、亡くなった育ての母と一緒に、亡くなった産みの母も現れたという。

 

 

亡くなった育ての母と産みの母親は、とても仲良くなっていて、

 

 

向こうでは、一緒に居るという。

 

 

霊能者が言うには、未亡人達が一緒に仲良く出てくる事は大変多く、

 

 

生前はお互いに、面識が無いのに、亡くなってから、

 

 

夫の妻だったという共通の立場から友人になって、霊視すると、

 

 

決まって一緒に現われて来る事が多いのだという。

 

 

そして、その後の夫の再婚を許し、今も変わらず愛しているのだと言う。

 

 

 


父親の早すぎる再婚に、落胆していた彼女に、霊能者はこう優しく語った。

 

 

「確かに、お母さんが亡くなって2ヶ月後には再婚って、早すぎるわよね。

 

 でもね。

 

 お母さんを捨てて、他の女性と結婚するのとは違うのよ。

 

 貴方のお母さん達が言うの。

 

 あの人は、ひとりじゃ生きていけない人なのって。

 

 仕事しか出来ない人なのって。

 

 だから、貴方のお母さん達、喜んでいるの。

 

 ただ、こんな事も言ってる。

 

 ただし、パイを焼くのは私の方が上手いけどね。って。」

 

 

 

霊能者の方は、こうも言った。

 

 

「良く考えてみて、

 

 貴方が高校時代、音楽に打ち込めて、家を出てジュリアード音楽院に行こうと決心したのも、

 

 今もお父さんが元気に働いて、授業料を払ってくれているのも、

 

 実は、みんな運命が貴方に味方しているからなのよ。」

 

 

 

 

 

その後、彼女は父と三番目の母とも仲良くなり、

 

 

2人の母親に見守られながら、音楽家の道を歩んでいる。


END