ひろせカウンセリング若手ブログ

ひろせカウンセリング若手ブログ

吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

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どうもこんばんは。

 

昨日は6月教室とその後の期末パーティーがありました。

参加された皆さま、お疲れ様でした。

また、パーティーを企画してくださった幹事の皆様、ありがとうございました。

 

2010年代初めくらいから書いてきたこのブログですが、教室内の各ブログを統合することに伴い、更新を停止することになりました。

今後は、統合した方のブログで書いていくことになります。

最後の投稿として、少し前にネットで見かけた記事を紹介しておきます。

 

数学「感覚養うのが大事」 フィールズ賞の森氏講演

 

フィールズ賞という有名な賞を受賞した数学者の方の講演です。

以下のようなことが書いてあります。

数学について「論理だけでは解けない場面がある。先へ進むには日ごろからさまざまなものを見聞きして、人間としての感覚や感情を養うことが大事だ」と語り掛けた。

教室で使っているテキストに出てくる岡潔もそうですが、優れた研究者はだいたいこれと同じようなことを言っています。

 

何か解決策や解法を見つけようとしたとき、論理によってそこへ到達することは難しく、直感(直観)によって「そこへ飛ぶ」しかありません。

 

私はこの方とはレベルが違いますが、論理的であることが求められる科学の世界でも直感(直観)が決定的に重要である、というのはよく分かります。

 

コンピュータであれば、将棋ソフトのようにしらみつぶしに全パターンを試していくこともできますが、人間だとそれはできない。

 

じゃあどうやって判断しているかというと、直感(直観)なんですね。

 

吃音やその他の問題を解決するためにも、必要なのは直感(直観)です。

 

例えば、「吃音なんて周りの人はそれほど気にしていない」とかよく言われます。

実際にそうだとしても、吃音の当事者からするとどうしてもそうは思えない。

 

理屈(論理)では納得していても、心の部分が納得していないわけです。

 

そこを飛び越えるのはやはり直感(直観)です。

 

いろんなことを決めつけてしまわないで、柔軟に気付くことのできる感性を育てることが大事です。

これを一人でやるのは難しいので、この教室ではグループカウンセリングによってそれをやっている、ということになります。

5月になって元号が変わりました。

 

今日から令和です。

 

令和「元年」って、平成元年以来なので、なんだか懐かしいですね。

 

面白いのは、暦の呼び方が変わってるだけなのに、なにか新しい時代が来るかのような雰囲気に世間がなっていることです。

 

これ日本だとなんかそういう感じになっていますが、外国だとまったく何も変わらない日常のはずです。

 

それが、ただ暦が変わるだけで人々の気分までが変わるとは。

 

これが人間の不思議なところですね。

 

我々の生きている世界というのは、あくまでも自分から見えている世界であって、その見え方によって感じ方もどうとでも変わるのです。

 

デカルトの「我思う、ゆえに我有り」という言葉がありますが、私たちが生きている限りにおいて、世界というのはどこまでも主観的なものです。

 

(ここで例によって吃音に結びつけますが)吃音もまったく同じで、私達がどう感じるかによって、吃音に対する気持ちも変わります。

 

吃音が苦しいと思えば苦しくなるし、たいしたこと無いと思えばたいしたことなくなるし、どこまでも自分の気の持ちようで変えられるもののはずです。

 

もちろん、頭の中にこれ以上ないくらいに刻み込まれているので、意識を変えることはそう容易ではありません。

 

しかし、絶対に変わらないということはない。

 

カウンセリング(やその他の有効な心理療法等)を通じて、それは変わり得るものです。

それを信じて私はカウンセリングに取り組んでいますし、自分自身の吃音も変わり続けていくものだと思っています。

どうもこんばんは。

 

今日は「ものごとは努力によって解決しない」という言葉について取り上げてみたいと思います。

 

今月の教室で、kikiさんにこの言葉を紹介する機会がありました。

以前にブログにも書いていたので、いつ書いたのかと探してみたところ、もう4年前に書いていました。

この記事です。

 

この言葉は誰が言ったのかとか、どういう趣旨なのかは、リンク先に書いてあるとおりなのですが、改めて読んでみると、我ながらじつに完成されていますね。

 

吃音と絡めながら要点を実に簡潔に説明しています。

また、内容も当時32歳の人間が書いたとは思えないほど老成しています。

この時期は仕事でとてつもない責任を負い、ものすごい激務だったのですが、それをまったく感じさせない、気配すらない文章です。

 

自画自賛はこのくらいにしておいて、私の考えはというと、当時から変わってないというか、ますます努力によって解決しないと思うようになりました。

 

世の中のかなりの部分が、実際のところ運やタイミングや環境など、努力以外の要素によって決まっているのではないでしょうか。

 

努力すれば成果がでると思われているものの一つとして「勉強」がありますが、あれだって結局は生まれ持った知能や忍耐力や「努力できる才能」で決まります。

 

私はカウンセリングの勉強をするために、最初の2012年にはおそらく50冊くらい濫読したと思います。

ところが、他の方を眺めていると、驚くほど(私から見ると)勉強しない。実に不思議でした。

ただ、これは他の人が不真面目なのではなくて、人それぞれ勉強の仕方が違うからなんですね。

 

もし仮に、努力して結果が出なかったとしても、それは何ら責められるべきものではないと思います。

 

また、人と比べて「こいつは努力が足りない」とか「私は努力が足りない」とか思う必要もまったく無いと思います。与えられた能力や環境など、与件が違うんですから。

 

このブログを読んでらっしゃる教室の皆さんも、それ以外の吃音の方も、無駄な努力は辞めて、肩の荷を下ろして、自然体になって生きていっていただきたいと思います。

どうもこんばんは。

しばらくブログの更新が途切れていたので、今日は2日連続で書いてみます。

 

今日は復習会だったので、そのことについて書いてみることにします。

 

といっても、カウンセリングではその場その場で話がどんどん展開していくので、まとまったネタを見出しにくい感じがあります。

 

記憶には残っているので、それを掘り起こせば最初からの流れを再現することはできるのですが、私からするとあまり意味がありません。

 

重要なことはあくまでも印象です。

 

それで、今日の印象をなんとなくまとめてみると、今日は「自分からみてどうかが重要なのだ」ということを改めて感じました。

 

吃音は個々の症状がかなり違うので、人と比べることにあまり意味がありません。

 

「こうしたら吃音がよくなった」的な話がよくありますが、あれはあくまでも参考にしかならない。

 

人によって治る速度も違うし、治り方も違います。

それまで足踏みしていた人が急速に変わることもあるし、順調に変わっていた人がある時点で足踏みすることもあります。

身長が人それぞれ違うように、その人に固有のものを持っています。

 

「○○さんはどんどん良くなっていくのに、私はぜんぜん変わらない」とか悩む必要はまったくありません。

 

そうすると、重要なのは自分の主観的な世界なんですね。

自分からみてどう感じるか、見えるかということが決定的に重要です。

 

吃音(だけでなく様々な不適応に陥っている)の人は、自分がどうなっているかとか、自分がどう感じているかということに対して疎い人が多い。

 

「吃ってはいけない」的なべき思考や、「吃ってしまった。駄目だ。」という自罰的な思考は、何かの価値観に基づいて自分を判断するものです。

 

自分の感覚ではなく、なにか外から判断基準となる価値観を持ってきて、それで自分を処断してしまっている。

これでは自分の主観に基づく印象や感覚の入り込む余地がありません。

 

そうではなくて、自分からみてどうなのか、自分はいまどういう感じがしているのか、という自分だけのリアリティに目を向けていくことが大事です。

 

他人からどう思われたとしても、本人が吃音を気にしていなければ、そこに吃音の苦悩はありません。

 

逆に、どんなに流暢に喋っていたとしても、ちょっとしたつまづきを大きく捉えるような思考をしていたら、99%話せているにもかかわらず「吃ってしまった」と落ち込むことになるでしょう。

 

1%の吃りに固執する人は、客観的な吃音の検査法で「あなたの吃音はごく軽いです」とか「吃症状はほとんど認められません」などと診断されても何のプラスにもなりません。何か心の持ちようが変わる出来事が無い限り、、いつまでも悩み続けるでしょう。

 

重要なことは徹頭徹尾、「自分からみた感じ」です。

知識だとか理屈だとかに耽溺していても、何の変容もありません。

カウンセリング的な人格の変容が起きるためには、心の部分を使っていく必要があります。

どうもご無沙汰しております。

しばらくブログを書けていませんでしたが、今日は久しぶりに書きます。

 

最近ふと思うのは、今の自分は吃音なのかということです。

 

私はかなり吃音が治ってしまっていて、普段の生活で吃音が苦になることはありません。

 

自己紹介とか、自分の名前を言うとか、そういう場面ではまだ吃音のことが意識に登ってきますが、だからといってその場面を避けることはありません。

 

その場面で時たま吃ることもありますが、まったく気にしていません。

 

こうなってくると、自分は吃音者であるという意識がどんどん薄れてきて、感覚的にはもはや自分を吃音者とは思ってない、という状態になります。

 

別の見方をすると、そもそも吃音が意識に登ることが殆どないので、吃音者かそうでないかという問題意識自体が無くなった、ともいえると思います。

 

吃音の苦しみは、発話を吃音とそうでないものに分けて、自分の話し方がだめだと思うことから始まります。

吃音者の話にはいろんなバリエーションがありますが、還元すると「自分が吃るのが苦しい」ということに集約されます。

なぜ苦しいかというと、吃りをなにか否定的なものだと捉えているからですね。

だからその捉え方(認知)を変えれば、仮に吃音の症状はそのままでも、吃音の苦しみは無くなります。

 

話が少し脱線しましたが、こんな状態になった今、ふと自分はいったい吃音者なのかと思うときがあります。

 

自分の自覚としては、吃音をもはや苦にしていないし、ほとんど吃らないので、主観的な感覚としては吃音者ではない。

より厳密にいうと、そもそも吃音ということがほぼ意識に登らないので、「私は吃音者ではない」とも思ってません。ただ普通に生きてるだけ。

 

しかし、一方ではまだ吃ることはあるので、そこに着目すれば吃音者である。

 

これは一体どっちなのでしょう。

 

まあどっちでもいいのかもしれませんね。

そもそも、どっちかに分ける、という発想がよくないのかもしれない。

 

今のように、吃音のことをもはや考えない、忘却の彼方に去りつつある、というのが私にとっての吃音の克服であるのかもしれません。

どうもこんばんは。新年あけましておめでとうございます。

 

今年一回目のブログを書こうと思ってエディタを開いたら、去年に書いた文章が下書きのまま残っていたことに気付きました。

 

せっかくなのでそれを最後まで書き終えて、新年一回目のブログとしたいと思います。

 

内容をみるに、去年の6月教室の後に書いたようですね。

 

以下の文章です↓。

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こんばんは。一昨日は期末パーティでした。今回は巣鴨駅近所の中華料理屋さんで開催しました。参加者は20人くらいだったでしょうか。

 

今回も盛り上がっていました。企画してくださったOさん、Hさん、ありがとうございました。

 
今日は読書の効用について書いてみたいと思います。
 
私たちが何かを学ぶときは、いくつかの方法があります。
 
学校の授業を受ける、本を読む、誰かに教わる、自分で体験する、などといったものが主なパターンでしょうか。
 
このうち大きな意味を持つのが「本を読む」です。本を読めるかどうかで、習得できる内容と速度には大きな差がつきます。
 
というのは、私たちが人生を生きていくなかで、様々な悩みや疑問が生じますが、そのほとんど(ほぼすべて)はすでに先人も体験していて、どうすればいいのかが大抵どこかの本に書いてあるからです。
 
例えば仏教の経典などがその好例です。法華経とかいろんなお経がありますが、昔の人そういった経典を読んで学んでいました。
 
お経というのは、日本だと音読するのが一般的で、一般の人はその内容まで読み込むことはあまりありません。
 
しかし、本来はあれは音読することを目的として作られたものではなく、文章で何か伝えるために作られたものであるはずです。
 
もちろん、口伝で伝えられていくなかで、リズムがいいとか韻を踏んでいるとか、音読に適したように変遷していった面もあると思いますが。
 
経典の内容をレクチャーしてくれる人はいなくても、天竺や中国からはるばる渡来した経典を読み込むことで、後年のお坊さんたちはそこから教えを学びとっていきました。
 
西遊記で三蔵法師がはるばるインドまで経典を求めに行くのも、それを読むことでたくさん得ることがあったからです。
 
経典は過去の先人の教えを積み重ねた結晶なので、そこからは多様な含意が引き出されます。
 
これに対して、個人の経験や体験にのみ拠っていると、それはあくまでも一人分でしかないので、一生かけて探求しても到達できるラインには限界があります。
 
外国には「車輪の再発明」という言葉があるそうです。
 
車輪は既に世間で広く知られている発明(もはや誰が発明したかも分かっていません)ですが、過去に学ばないとこれを再発明してしまうという愚に陥ってしまいます。
 
「本を読む」というと、よく「頭でっかち」とか「知識ばかり身につく」とか「机上の空論」とか「象牙の塔」とかネガティブな印象があって、実践的な知が身につきにくいような印象があります。
 
たしかに、普通に読むとそうなります。
 
しかし、ある読み方をすると、まったく違った、生き生きとしたものになります。
 
それはどういう読み方かというと、自他対立的に読まないで、その者(作者)になりきって読むことです。
 
「この文章によって、作者はどのようなこと(感覚、印象)を伝えようとしているのだろうか」という観点から読む。
 
そうすると、文章から得られる感じはまったく変わります。
 
数百年前の(場合によっては千年、二千年前の)文章でも、「ああ、こういうことを言おうとしてるのか」と手に取るように分かる瞬間があります。
 
これが本当の意味での「分かる」ということなんですね。
 
私は幸運にも、読書能力が非常に高かったので、カウンセリングの勉強をし始めてから短期間で、カウンセリングの時間をカウンセリングとして成立させることができるようになりました。それを可能にした大きな要因は読書です。
 
読書への適正は人によってかなり差があるので、万人にお薦めできるものではありませんが、一つの方法としてご紹介しておきます。
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 どうもこんにちは。


 先週の土曜日は11月教室でしたが、私は名古屋で学会があり、残念ながら欠席しました。

 

 今年度から学会などで出張が多くなり、今回はその後に、月曜日から2泊4日でフランスのパリに出張に行ってきました。

 パリでは某国際機関で某会議に出席しました。

 出席といっても、今回はメインテーブルではなくその後ろに座って聞いていただけですが。

 

 行ってみて多少驚いたのは、会場にいる男性の8割くらいがネクタイをしていたことです。

 Tシャツにジーンズという強者も一人いましたが、ほぼ全員がちゃんとしたスーツにネクタイです。

 日本人の現地職員や官庁からの出向者の方々は当然みんなネクタイをしています。

 外国の人はあまりネクタイしてない印象だったのですが、さすがに国際機関ともなると変わるのかと…。

 私はいつものようにジャケパンにノーネクタイだったので、若干気恥ずかしい思いをしました。

 

 あと、現地に行って困ったこととして、空港とか観光客が多いところを除いて、普通のお店や飲食店ではフランス語しかない、というのがありました。

 当たり前といえば当たり前なのですが、フランス語がまったく理解できない私は飲食店で注文することすらできず、手も足も出ないという状態になりました。

 仕方ないので、すべて同行の方と同じものをお願いしてやり過ごしました。

 

 吃音に関しては特段何もありませんでした。

 ただ、グローバルエリートとでも言えばいいのか、国際機関で働くようなレベルの人たちを見て多少思うことはありました。

 彼らは、母国語に加えて英語やフランス語ができて、さらに自分の専門分野を持っています。

 そこに至るためには、若い頃からかなりの勉強をして、それに加えていろんな体験、経験を積み重ねていく必要があります。

 

 これは吃音に悩んでいる人には難しいことですね。

 吃音で悩んでいるとそれに時間がとられてしまうので、トップを走っているような人たちと比べると二歩も三歩も遅れることになります。

 私も彼らからすると2周くらい周回遅れという感じです。

 

 しかし、私などはかなりましな方なんですよね。

 引きこもりやニートになってしまって、スタートすらできない方も多くいると思います。

 これは経済的にも自己実現という観点からも大変な損失ですね。

 

 悩むことに終始して時間を潰していくより、その時間を使って何か有意義なことをしたほうがいい、と改めて思いました。

 もちろん、吃音に悩んでいるときは、それに囚われているので、気にしないということ自体が難しいのですが…。

 限りある人生ですから、時間は有効に使いたいものです。

どうもこんばんは。4ヶ月半ぶりの投稿になってしまいました。

 

7月末までが大学の前期の授業だったのですが、授業準備があまりにも大変で、さながら生きるか死ぬかの状況でしたので、更新が途絶えてしまいました。

今日はちょうど10月教室があったので久しぶりに更新します。

 

前期がなんとか終わった後、8月から夏休みになり、9月末から後期が始まりました。

夏休みも、海外へ学会出張、国内へ学会出張を2回、ゼミ合宿と忙しくて、結局あまり落ち着きませんでした。

たくさん行ってみて分かったのですが、出発前と帰着後に色んな書類を作成・提出しないといけないのが結構手間なんですよね。

 

吃音の方はどうでしょうか。

 

オープンキャンパスで模擬授業をしたり、政府の某会議に審議協力者として出席したりしていたので、この間にもそれなりに大変そうな場面はありました。

 

ただ、もはや私には吃音が問題ではなくなってるので、普通に経過しました。

吃った場面もあったかもしれませんが、その場でそうなっただけで、特に記憶にも残らず。

 

面白いのは、数百人の前で喋るとか、すごく重要な場面で喋るときよりも、電話口で自分の名前を言うとか以前から吃る場面の方が相変わらず吃ることが多いことです。

 

政府の会議で色んな大学の先生や省庁の幹部を前に話しているのに吃らないのが、コンビニでアルバイトの若い人相手に自分の名前を言う時は吃る、というのが実に不思議というか面白いというか…。

 

吃音は特定の場面とか人とか物にくっ付いているのだな、ということを改めて感じました。

以前のブログにも書いたのですが、昨年度から転職して大学教員をしています。

 

大学教員なので、当然ながら授業もします。いまは本務校6コマ+非常勤2コマで計8コマ担当しています。

 

このうち6コマは普通の講義形式の授業なので、ずっと喋りっぱなしです。実際には途中で練習問題を解いたりする時間があるので、90分全部喋っている訳ではありませんが、おそらく70分くらいは話しています。

 

ここで吃音だとやはり吃らないかということが気になるかと思いますが、今では98%くらい吃らずに話しています。一コマあたり数回程度突っかかるときがありますが、それ以外はスムーズです。

 

こんなふうに、いったん治るサイクルに入ると、最初は多少吃ることがあったとしても、そのうち喋られるようになります。

そのうち治ることが分かっているので、吃ってもべつに気にならないし、「悪化するのではないか」と心配することもありません。

 

江戸時代の武術の道歌で、「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」という言葉がありますが、それは吃音にも当てはまるように思います。

とはいえ、とにかく突っ込めば解決するということではない(たまに勘違いされる方がいますが)ので、そこは慎重にやる必要がありますが。。

 

コツとしては、自分にとって何が刺激だったのかとか、どんな症状があったのかに、(良い悪いの価値判断を置かずに)意識を向けることですね。

「くやしい」「苦しい」「辛い」「悲しい」とか、「しまった」「まずい」「やばい」「どうしよう」といった情緒的に湧き上がってくる感情は、それに振り回されるのではなく、「自分はいまくやしいと思っているのだな」と自覚します。

 

これができるようになると、その場に不相応な(過剰な)不安・緊張・恐怖や、それによって引き起こされる吃音の症状は、不合理なものとしてやがて消えていきます。

 

ただ、これは実際にやってみると結構難しい。「気にするな」といっても気になる感情は抑えられないからです。

この場合は、「気にしないほうがいいことを知りながらも気にせずにはいられない」状態に自分があることを自覚します。

無理に抑え込んだり、増幅させたりする必要はありません。そのままにしていればいい。

 

吃音にせよその他の神経症にせよ、不適応の状態にある人は一つの考え方に凝り固まっていることが多いので、その中で試行錯誤するよりも、むしろ凝り固まっていることを知ることが突破口になり得ます。

こんばんは。しばらくぶりの投稿です。

 
先日の4月教室で、途中の休憩時間にジェンドリンのフォーカシングについて紹介しました。
 
フォーカシングはすごく参考になるので、このブログでも簡単に紹介しておきます。
 
フォーカシングを創始したジェンドリンは、カール・ロジャーズの共同研究者でした。共同研究者といっても年齢がかなり低いので、最初のほうは弟子のような感じで、その後徐々に肩を並べていったのかもしれません。
 
ジェンドリンは、成功したカウンセリングとそうでないカウンセリングの記録を調べて、成功したカウンセリングにはある共通点があることに気づきました。
 
それは、クライアントが言葉になるかならないかの微妙な感覚について、なんとか言葉にしようとしていたことです。
 
これに対して、一見すると会話が弾んでいるように聞こえるカウンセリングでも、クライアントが感覚的な領域に触れないまま話しているだけでは、変容はみられませんでした。
 
そこからジェンドリンは、セラピーが効果のあるものになるためには、クライアントが体験している微妙な感覚に焦点をあてて、それを感じ取っていくことが大事なのではないかと考えました。
 
こうして生まれたのがフォーカシングです。フォーカシングでは、私たちが経験しつつあるもののまだ明確に気付いていない感覚をフェルトセンスと名付け、これを感じ取ることに取り組みます。
 
これは教室でのカウンセリングでもまったく同じで、順序立てて整理された言葉にはそれほど価値がありません。また、何か起こったことに対して、明確に言葉を与えることもあまり意味がありません。実際の感覚は、もっと不鮮明で不透明で曖昧で流動的なものだからです。
 
人間の思考はコンピュータのように順序立てた整然なものではなく、発想が飛躍したり順番が前後したりすることが珍しくありません。というか、むしろそれが人間らしさであり、人間はそもそもそういうものであることを前提として考える必要があります。
 
人によって感じ方や表現の仕方は異なると思いますが、もやもやとした、ふわふわとした、断続的であるが常に動いている思考の流れの中で、その瞬間に浮かんできたことを、整理したり概念化(例えばもやもやした感覚に「不安」という言葉を与えること)したりしないで、そのまま言葉にすることが、カウンセリングにおいては重要です。
 
(注)フォーカシングについての記述は記憶だけで書いているので、後ほど事実関係を修正するかもしれません。