インドの宗教家にクリシュナムルティという人がいます。
この人の有名な言葉で「ものごとは努力によって解決しない」というのがあります。
この言葉は、臨床心理学者の河合隼雄が『心の処方箋』という本で取り上げているのが、よく知られています。
廣瀬先生は、河合隼雄に対してはどうもあまり評価していなかったようですが(直接確認したわけではないですが)、この言葉は吃音に関しても当てはまっているのではないかと感じることがあります。
廣瀬カウンセリングでは、吃音の症状を抑えるための様々なテクニック(言い換え、タイミングのずらし、随伴運動等)は行わないというスタンスをとっています。
吃音をうまくごまかせば、吃らずに喋ることも可能な場合がありますが、そういったごまかしはせず、吃りそうなときはそのまま吃って、その時にどういう感じがするか見ていくことで吃音に変化が起きていくのだ、という考え方です。
ところが、これをちょっと違った意味にとらえて、吃音を改善するためにはごまかすことを辞めることが必要なのだとか、吃音をごまかすことを辞めればだんだん治っていくのではないか、というふうに受け止められる場合があります。
微妙なところなのですが、これはちょっと違っていて、吃りを隠すのを辞めたとしても、自分の吃音をよく見るということができないと、吃症状は変化していきません(教室のテキストでいうと「内臓感覚的刺激とその反応の自覚」、ロジャーズの原典でいうと「内臓的感覚」ということになります)。
このような受け止め方のズレが発生する背景には、世間では何か問題や目標がある場合に、努力をすることによってこれを解決できるとか、解決するためには努力が必要であるという考え方が非常に浸透していることがあります。
努力で解決するという考え方が強い人は、吃音という問題に対しても、どうしても訓練するとか練習するといった、頑張る方向に向かっていきます。
言友会の『吃音者宣言』でも治す努力の否定というのが謳われていますが、ああいう声明が出たのは、まず「治すためには努力が必要である」という意識が当時の人々に前提条件としてあって、それを踏まえて実際に努力をしてみたが一向に改善しないので、「(努力すれば治るはずなのに)努力しても治らなかった吃音は、治すことが不可能なものなのだ」という結論に至ったようなことが、おそらく背景にはあったのではないかと思います。
吃音を改善なり克服なりしていくためには、この「努力の神話」を崩していく必要があると感じています。
自分の吃音を見るとか感じるといったことは、努力とは違います。だから、その人の吃音を改善するためには、これまでやっていたような根性論的な、耐える類の努力は辞めてもらわないといけない。「努力をやめる「努力」」みたいなことをする必要があるんですね。
これは努力の世界に生きてきた人にはそう簡単なことではないのですが、吃音を改善・克服したり、人生の有意義に送っていくためには大変重要なことだと思っています。